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2010年9月 7日 (火)

爽快なスリルとともに「遠州天竜下り」/「広報はままつ」の表紙より

Kouhou  『広報はままつ』(9月5日号全市版)の表紙写真は「遠州天竜下り」―「JR雄大な天竜川に浮かぶ伝統の遠州天竜下り」。

 岩場には四季折々の花、水面には羽根を休める水鳥が旅人を歓迎してくれます。見上げればサイクリングの人たちもこちらに笑顔で手を振っています。舟の上では、竿や櫓を巧みに操りながら軽快なおしゃべりと歌を披露してくれる船頭さんが旅の思い出をいっそう印象深くしてくれます。

Funekudari  もう何年も天竜川を下った心和ませるこの歌声は、今年も11月まで山間の天竜川に響きます。

 船明ダム下流の「みな沢乗船場」から「飛竜大橋」まで、約6キロを約50分かけて下る船旅。天竜川の水運の歴史を今に伝えるのが「天竜下り」―天竜浜名湖鉄道「天竜二俣」駅舎内が受付(053-926-2111)です。

2010年8月19日 (木)

ふるさと春野の伝説「諏訪湖に通じる池」より

Singuike1  すわ湖の湖の水がせきを切って流れくだる大天竜川にそって南信をくだりますと、まず伊那郡の深見の池の伝えが、その最初の問題をあたえてくれます。―――その池の底がすわ湖に通じていて、明神が遠州の桜が池においでになる第一の休所であるというそのことです。―――そうした流れをくんで静岡県にはいって磐田郡の水窪町の池の平は第二の休所で、この池の平は海抜七〇〇米の山頂のくぼ地で常には水もありませんが、七年ごとにわきだして七日間水が満々とたたえられたという奇ずいを伝えています。この奇ずいはすわ明神がその間あそばれるからだとも伝えられています。―――春野町和泉平(いずみだいら)の新宮池もすわ湖に通じているといわれ、熊切筏戸(いかんど)の山の上のにいけ田ももとは池で二匹の大じゃがすんでいたが後に新宮池(家山の池)に行ったとも人々は伝えています。

Singuike0  そのほか榛原郡の家山の池もすわ湖に通じているといわれます。くだって天竜市二俣にもすわ湖に通ずる洞穴があり、今でも清水がこんこんとわいています。明神の通われる桜が池は今さらいうまでもなくすわ湖と深い関係があると伝えられています。いずれも皆大じゃの伝説を持っていることもみのがせませんね。水神の祖出雲の神々の系統をひくすわ湖の信仰がいつの時代か天竜川にそって遠州に伸びてきたものではないかと思います。

 「池の平」、「新宮」、「にいけ」(あるいは三池)等皆山頂にあり、すわ湖の水に通ずるという奇ずいを説きやすい条件もあるわけですし一層信仰を深めるものにもなったのでしょう。新宮の祭も一種の船祭で、すわの御船祭と強いていえば共通点がないとはいえません。(「ふるさと春野の伝説」より一部引用)

  ◆       ◆       ◆       ◆

Sakuragaike8  私たちは、伝説や言い伝えが、ある地域に限定された特別のものではないことを知っています。これは、交通の便や情報の伝達が現在ほどスムーズではない時代ではあっても、地域が決して文化的には孤立してはいなかったことの証拠です。

 「浜松市の最北端」と思っていた水窪が、実は長い長い「塩の道」の中継点であることに気づかされます。むしろ、山の文化と海の文化の交差点として、バラエティーに富んだ文化が集積した地であったのです。

 「池の平」の伝説を調べて行くうちに、私たちの考え方が、いかに都市中心的で片寄ったものであったかが反省されます。地域に「端」はあっても、人々の文化や暮らしには「端」などないのです。12年ぶりに「池の平」に湧いた水が、私にそのことを教えてくれました。

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2010年8月15日 (日)

「太平洋戰爭戰歿者之碑」―佐久間町峯

Ireihi4  数年前までは「峯・花の舞」が催されていた佐久間町峯の八坂神社の境内に、「太平洋戰爭戰歿者之碑」が建てられていました。「昭和二十八年十一月十五日建之」と彫られ、昭和28年(1953)に建立されたことが分かります。

 別段、変わったようにも見えない忠魂碑ですが、「太平洋戦争」という言葉を、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると…

 「太平洋戦争」という名称は、連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で当時の日本側の正式な呼称であった「大東亜戦争」を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせる検閲によって定着した名称である。名称は、主戦場が太平洋地域であったことにちなむ。

 …と解説されています。

 「忠魂碑」が建てられ始めたのは、明治以降。日清・日露戦争での戦死者の供養のために各地に建立されるようになり、学校の敷地内に建てられたものも見ることがありますが、「第二次世界大戦」敗戦後は、GHQの指示で撤去されることもあったとのこと。おそらく、山間の集落に、この碑を建てる時、その碑文を「太平洋戰爭戰歿者之碑」にする時には、さまざまな意見が出たことでしょう。

 今日(8月15日)は、「終戦の日」。先の悲惨な戦争と大切な平和について、私たちも考えてみませんか?

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2010年8月13日 (金)

「平八地蔵」に翻る五色の「五如来旗」

Gonyurai  以前にも紹介したことがある「五如来旗」のことを覚えていますか?8月の盆を迎え、北遠で再び5人の仏の名前が書かれた五色の幡(ばん=短冊のようなもの)と出会うことができました。

 「五如来旗」が奉納されていたのは、相津(そうず)の「平八地蔵」。幡は上から「南無多寶如来(なむたほうにょらい)」「南無離怖畏如来(なむりふいにょらい)」「南無廣博身如来(なむこうはくしんにょらい)」「南無甘露王如来(なむかんろおうにょらい)」と続き、「南無妙色身如来(なむみょうしきしんにょらい)」は見当たりませんでした。

 ただし、祀られている石仏は、「如来」ではなく「聖観音」。餓鬼道に苦しんでいる餓鬼を救うための「施餓鬼」として、「盂蘭盆」に向けて奉納されたのでしょう。

 今年も、月遅れのお盆がやって来ました。

 【関連記事】畑の害虫除け―「五如来旗」

いつか復活させたい!伝統の「峯・花の舞」

Yasakajinja7  飯田線「峯トンネル」の真上の集落「峯(みね)」に行くには、佐久間からホウジ峠に向かう県道の山道を通り、「下平(しもったいら)」の集落から脇道にそれ、急な山道をさらに2キロほど登ります。一度寄ってみたいと思いながらも、なかなか訪ねる機会がありませんでした。

 峯の八坂神社では、数年前までは11月の第2土曜日に「花の舞」が奉納されていました。演目は「地固め」「鬼の舞い」など数種でしたが、最後の「釜洗い」の舞いは1時間にも及ぶ激しい舞いだったそうです。それが…

Kama0  「最後にやったのは、3年前くらいだったかな…?集落の数が減ったし、喪中だったりすると舞えない決まりだし…。子どもたちは佐久間を出てしまって、祭りに帰って来ても、すぐには舞えない。だから、続けていけなくなってしまったんだよ」。やはり、過疎の進む北遠の集落で、伝統を守るのは難しいようです。

 八坂神社は、山の斜面にへばり付くような集落の中でもさらに天辺に近いところに祀られています。赤い鳥居をくぐり境内に入ると、決して立派とは言えない社が建っています。ここで、伝統の神事が行なわれ、川合、今田と並ぶ峯の「花の舞」が奉納されていたのでしょう。

 どこかに、「花の舞」を思い出させるものはないのかと、グルリと見回してみました。すると、狭い境内の長屋に、湯立てに使われたと思われる大きな釜が見つかりました。きっと、この釜でグラグラと煮え立った湯が、五穀豊穣に感謝し来る年の無病息災を祈る人々を見守っていたのでしょう。

 「山に仕事さえあれば、息子たちも街に出なくてもいいのにな。いつかきっと復活させたい!」。煤けた大釜は、再び湯を沸かす日を夢見ているようでした。「いつか復活したい!」。

 ●「花の舞」は、愛知県奥三河地方に残る「花祭り」と同じ系統のもので…
 
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 ●三遠南信の農村、山村には、現在でも古代・中世からの信仰を反映した祭りが…
 ●「花の舞」が舞われる「舞処(まいど)」の中央には…
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2010年8月12日 (木)

御前崎「お櫃納め」 英文書籍に伝説の一端見つかる

Sakuragaike  毎年秋に御前崎市の桜ケ池で営まれる奇祭「お櫃(ひつ)納め」。その由来となっている龍神伝説の一端が記された英文書籍を、佛教大学(京都市)のオーストラリア人研究生アンドリュー・チェンさん(61)が見つけ、この夏、ほとりにある池宮神社に持ち寄った。同神社は「お櫃納めに関連した英文記述は珍しい」とし、併設する資料館に写しを展示した。

 お櫃納めは平安末期、比叡山の高僧、皇円阿闍梨(あじゃり)が龍神となって桜ケ池に入ったのが始まりと伝えられている。この逸話は皇円の高弟、法然の生涯を追った「法然上人行状絵図」などの中に描かれている。

 今回、アンドリューさんが京都市内の古本屋で探し当てたのは、行状絵図を英訳した全5巻の書籍「HONEN THE BUDDHIST SAINT」。第3巻に「Sakura‐ga‐ike」などの表記が確認できる。大正時代に翻訳・出版され、戦後にも再版されたが、アンドリューさんは「今では手に入れるのが困難。一般的にも知られていない本だと思う」と話す。

 4年前に来日し、幼いころからの念願だった仏教研究に取り組むアンドリューさん。この書籍に目を通して、桜ケ池やお櫃納めに関心を持つようになった。初めて目の当たりにした桜ケ池に「とても美しく、神秘的」との印象を抱いたという。

 同神社は、既に資料館に保管してあった行状絵図の原文と写しを並べ、両者を見比べられるように配慮した。アンドリューさんは「とてもうれしい。外国人にも伝説を知ってもらうきっかけになれば」と喜んでいる。

 【桜ケ池のお櫃納め】 秋の彼岸の中日に行われる県指定無形民俗文化財。池にすむとされる龍神に供えるため、若衆が赤飯などの入った櫃を持って伝統泳法で中央に進み、沈める。櫃は3日から1週間で浮かび、空になっていると願いが届くと伝えられている。(「静岡新聞」より)

 私が「桜ヶ池」を訪ねたのは、水窪の山に湧いた「池の平」取材の延長。昭和57年の静岡新聞の記事を紹介した当日に「幻の池」の記事が出て、今回は、「桜ヶ池」を紹介した日にこの記事と出会いました。まさに神秘的な偶然です。

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「おひつ納め」と「皇円阿闍梨」―桜ヶ池の龍神

Sakuragaike9  なに、なに…?水窪に湧いた幻の池「池の平」は、7年に1度、御前崎市にある桜ヶ池の龍神が、諏訪湖に向かう時に休憩するために湧くんだって…?ということは、今、桜ヶ池の龍神は不在ってことになる…?

 北遠の情報を書くはずの「出かけよう!北遠へ」で、桜ヶ池の話題はおかしく思われるかも知れませんが、まあ、そんな理由で桜ヶ池を訪ねてみました。

 池は、記憶よりもはるかに広く、池の畔には、池宮神社と数枚の看板が立ち、「遠州七不思議」の1つ「桜ヶ池のお櫃納め」を紹介しています。

 皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)は肥後の国(熊本県)に生まれ、幼くして比叡山で学問・仏法を修行され、後に歴史書「扶桑略記」三十巻を記した。

 皇円上人は悟りの境地を得るために天台の「止観」という方法に基づき、さまざまな難行・苦行を重ねられた。しかしながら、仏法の極め難きを知り、五十六憶七千万年後に出現すると伝えられる弥勒菩薩に会うことを発願された。

 そして、その弥勒菩薩の教えにより人々を悩みから救うことが出来ると考え、嘉応元年(一一六九年)六月十三日(九十六才の時)身を龍と化し、この桜ケ池に入定された。

 おひつ納めは、後に皇円上人の高弟、法然上人(浄土宗開祖)が桜ヶ池を訪れ、師である皇円龍神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを神社に一個、桜ケ池に一個納めたことに由来する。

 以後、親鸞上人(浄土真宗開祖)、熊谷蓮生坊直実が継承し、以来八百数十年続いている奇祭である。

 また、この桜ケ池は信州(長野県)諏訪湖と底が続いているとも言い伝えられている。それはすべての命をはぐくむ水の神様を共に崇め、感謝するという古代人から現在の我々に至るまで心の底が通じていることを象徴している。

 御参拝の皆様も、慈悲深い皇円上人、そして大自然の恵に合掌して感謝いたしましょう。

 あれ?「皇円阿闍梨」ってお坊さんじゃあなかったの?諏訪神社も池宮神社も、神様を祀っているのですから、仏教じゃあないはず…?でも、まあ、いいか。

 調べてみると、池宮神社の祭神は「瀬織津姫」。「瀬織津姫」は、天竜川流域や伊勢地方に多く分布している天白神社の祭神と同じ。「瀬織津姫」は水と機織の神、すなわち七夕伝説の織姫星のことだそうです。

 この「桜ヶ池」に沈めたお櫃は、諏訪湖に浮かび上がったこともあったとか。古代の人々の交流の証が、こんなところにも残されているようです。

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2010年8月11日 (水)

「天竜歴史街道 ロマンと歴史を刻む天竜区の街道」

Rekishikaido  冊子「天竜歴史街道 ロマンと歴史を刻む天竜区の街道」が出来ていたのは知っていました。制作に携わった人から、私たちのブログ「だいすき!北遠」を参考にしたとのメールも受取ってはいました。でも、手にとってジックリと眺めたのは、これが初めて。天竜区役所のパンフレット立て見つけました。

 冊子はA4版18ページ。「交易の道―縄文の時代から続く、塩を運ぶ道」「戦国の道―戦国武将たちの戦みち」「信仰の道―信仰を集めた秋葉山へ通じる街道」に分かれ、天竜区を縦断している「塩の道」沿いに見られる、石仏や常夜灯、民俗芸能や建造物などを、ふんだんな写真と解説で紹介しています。

 そして、裏表紙に…

 参考文献 ブログ「だいすき!北遠」 (http://yama-machi.beblog.jp

 …って書いてあるではないですか!そう言えば、そんな話も聞いていました。お役に立てれば嬉しい話。もっと早く紹介すれば良かった。

 浜松市内の区役所(区振興課)、地域自治センター(地域振興課)、公民館、図書館で配布しているようです。もちろん、無料!

2010年8月 6日 (金)

内藤亀文著「ふどき」9.峠と谷(1)池の平

Fudoki441_2 水窪から信州への道は、青崩、兵越のほかにもお一本、大津峠を越して門谷(かどたに)部落へ下り、信州平岡村へ抜ける道がある。

 大津峠は標高八百米、水窪からの登りは可なり急峻だから、部落の人が水窪へ通う以外に、あまり利用されていない。峠でチチブドウダンの群生を見かけるが、水窪では外には見ない。この峠を二、三百米、向こう側に下ると山の凹地があって、平常は一面にススキで覆われている。池の平というのが此処で、佐倉ヶ池の竜神が休息するため、数年に一回、どこからか水が湧き出て、満々たる大池になり、数日してまた何処ともなく水が引いて、後はもとの茅原になる。とは以前にも記した。いずれ地下に水みちがあって、山のしぼれ水がたまることに相違なかろうが、その水が非常に清澄である上に、龍神の伝説もあって、水窪近辺の人は、この水が湧くと、お祭りさわぎで水汲みに行く。この水は胃腸の妙薬になるそうだ。

 とにかく山の頂という地形的に不可解な点や、数年に一回という回数や、そしてこれは誰も統計をとった上の結論ではないが、日照り続きの夏の日に限るという条件などがあって、池の平の神秘現象は北遠地方にはよく知られており、人によってはこれを遠州七不思議の一つにあげている。(内藤亀文著「ふどき」9.峠と谷(1)池の平より)

  ◆       ◆       ◆       ◆

 残念ながら、アクセス道路が通行止めとなり、今回の「池の平」はこれまでのようには話題になりませんでした。水が湧いている間は、池の中心辺りから気泡が上がり、上からの流れ込みではなく底からの湧出であることが確認されているそうです。梅雨時に雨量が多かったから湧くわけでもなさそうです。

 じゃあ、どんなメカニズムが考えられるのか?中央構造線や赤石裂線との関連は?この現象の報告は、いつ頃まで遡ることができるのか?次に水が湧くのはいつなのか?

 科学的な調査が行なわれたことがあるのかどうかは知りませんが、私たちは私たちの頭の中で、あれやこれや思いを巡らすことにしましょう。次の7年後の湧出を信じて…。

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2010年8月 5日 (木)

内藤亀文著「ふどき」3.遠信古道

Sakuragaike0  水窪に池の平と言って、山頂の窪地に、数年に一度、地下水がわき出て大きな池ができる所がある。山の峠という位置から見て、この水がどこから湧き出るのか理解できない、のみならず数日を経るとこの水が自然と引いて跡かたもとどめないし、それが何処へもれるのかも分からない。伝説によるとこの池ができるのは、佐倉の池の龍神が時々信州諏訪湖へ遊びに出かけるが、その時途中の休息所にするためだと言っている。佐倉の池は相良の近くにある底なしの大池で、天台宗の阿闍梨皇円が、龍華三会の暁を待んと言って龍体となり、この池に入定したという有名な伝説の池である。皇円は今から千年くらい前の人で、扶桑略記の著者だ。彼岸の中日にこの池で行なわれる御櫃納めも有名な祭りだが、この時浮き上がらない御櫃は、諏訪湖まで運ばれてあそこで浮き上がると言うことだ。伝説とはおかしなもので、かくかくの説話があって、それが原因でこれこれの現象が生じたと説きながら、実はこれこれの既定現象があって、その現象の裏付けをするように、後から伝説が作られることが多い。皇円が龍体となて佐倉の池に棲んでいるかどうかは知らない。しかし皇円よりずっと以前に、諏訪湖と佐倉の池、即ち信州と遠州との間に人の通行があったということ、そして水窪がその中継所であったということを、この伝説は物語ってはいないだろうか。(内藤亀文著「ふどき」3.遠信古道より)

  ◆       ◆       ◆       ◆

 12年ぶりに水の湧いた「池の平」―もはや、水は引いてしまったとは思いますが、この「池の平」については、まだまだ知りたいことがあります。

 まさか、竜が本当に「桜ヶ池」から「諏訪湖」までを行ったり来たりするなどと信じる人はいないはず。春野の「新宮池」やスーパー林道の「賽の河原」「相月諏訪神社」などにも、諏訪神社に関係する竜蛇の話が残されています。

 内藤亀文氏が水窪について書いた『ふどき』の中にも、当然のことながら「池の平」が紹介されています。もっと知っていただきたいと思いましたので、「池の平」に関する記述を一気に紹介させていただくことにしました。

 「池の平」に数年おきに水が湧く科学的な理由は、いずれ解明されるとは思いますが、それまでは、池のミステリーを楽しんでいたいと思います。

 写真は、「池の平」ではなくて「桜ヶ池」です。お間違えのないように…。

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2010年7月31日 (土)

大正15年の「二本杉峠新道碑」

Nihonsugia7  原田久吉翁の寄付金によって大正15年(1926)に完成した県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線―二本杉峠には、馬頭観音像と並んで原田翁直筆の「二本杉峠新道碑」の文字を刻んだ石碑が建てられています。

 この記念碑については、何度も写真を紹介しましたが、それはもちろん現在のもの。今回紹介するのは、大正15年当時の写真です。

 写真の提供者は、羽ヶ庄出身で千葉県にお住まいの夏目さん。写真には、こんな文章が添えられていました。

Nihonsugi7  二本杉峠新道碑は、羽ヶ庄分校に通う時、佐久間中学校に通う時、いつも安全を見守ってくれたように思います。通学路として、生活道路として、今のように便利になったのは原田久吉翁のおかげです。私財を投じて道を作ってくださったことを喜び、記念して建立された石塔だったことが裏に刻まれています。

 残念ながら、裏に廻って見てはいませんでした。地元の人たちの感謝の気持ちの一端を、次回はぜひとも覗いてみようと思います。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
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 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
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2010年7月27日 (火)

「広報はままつ」(天竜区版)歴史探訪―若子城跡

Wakakojo  「広報はままつ」(天竜区版7月20日号)の「歴史探訪」に、「未来へつながる歴史の今にふれる」として佐久間町相月の「若子城跡」が紹介されました。

 大岩を巧みに使った若子城は、戦国期に天野氏とともに北遠を代表する領主であった奥山氏一族の城で、奥山定吉によって築かれたといわれています。定吉は永禄12年(1569年)頃に兄の定茂に攻められて城を追われ、若子城は落城しました。その後奥山氏は武田方に属しましたが、長篠の戦いで武田氏が敗退すると奥山氏も衰退。武田氏の没落とともに廃城になりました。現在は遺構として曲輪、土塁、堀切、土橋が残っています。

 つい先日も、「若子城跡」を訪ねました。城の奥の「隠し田」と言われているところで、地元の人が草刈り。「お米は作らなくても、草刈りだけはやらないとね」と汗をぬぐっていました。

 ●以前、「向皆外(むかがいと)」の地名について、次のように…
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 ●「城ブーム」の中、気軽に近づける「若子城」の人気が…
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2010年7月23日 (金)

遠州七不思議「池の平」―幻の池“こぼればなし”

Ike  「幻の池・12年ぶりに出現」―地元・水窪の町は“からっぽ”かと思っていましたが、意外なほど平静。最大の原因は、「池の平」に登る林道が、国道152号から別れて少し奥に入った箇所での崩落のため、通行止めになっているからと思われます。

 そこで、「幻の池」にまつわる幾つかの“こぼればなし”を拾ってみました。

 ①池には「ヘソ」があるという噂。池の端近くのどこかに湧水が噴き出す口があり、一気に池になっていくのだそうです。この噂を、池を知る多くの人が知っていることにもビックリ!

 ②水窪川を挟んで「池の平」の対岸にある上村地区の古老から聞いた話。上村に住んでいた「重さ」は「池の平」をよく知る人で、「幻の池」が出現する時には「この上村まで、ドーンドーンという音が聴こえて来る」と会う人ごとに話をされたそうです。身振り手振りで、面白おかしく話をする人で、地元では有名な人だったそうです。

 でも、「重さ」以外には、その音を聴いた人はおりません。

 ③青崩峠を越えた南信州にも「幻の池」があるそうで、「池の平」と時を同じくして満水になると伝えられているそうです。

 ご存知の通り「池の平」は中央構造線上にあり、構造線は諏訪湖で糸魚川静岡構造線とぶつかり合い、1本となって糸魚川に出ます。

 この巨大断層がぶつかり合った所に諏訪湖がありますが、この湖には底がないと言われています。もし底がなければ、竜神が地底の道を通って行き来できるはず。

 桜ヶ池や「池の平」、春野町の「新宮池」、南信州の「幻の池」など、近在に伝えられる竜神や大蛇の伝説は、諏訪湖につながる話がほとんどです。もしかしたら、この「池の平」の地下にも、私たちの知らない水の道(深い大断層)があるのかも知れません。(by 久保田)

 *写真は、2010年7月21日に加藤氏が撮影した「池の平」です。

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2010年7月15日 (木)

赤子を抱いた「子安地蔵」―竜戸地区

Koyasu0  明治30年生「19才で結婚し、20才で第1子、8人産んだ。男子6人のうち、若くして5人亡くした・戦死3人、病死2人。いずれもつわりがひどかった」

 明治33年生「17才で結婚。18才で第1子。恥ずかしくて親にも言えなかった。産む前日、山の上の方に草刈りに行き、帰ってきて下の方の集落へ米を受取りに行った。予定日もわからないから家の人も平気で言いつけたらしい。その夜お腹が痛くなったが陣痛とは知らず、明け方まであまり痛いので姑に言ったら『産まれそうかえ?』と言われたが、どうなれば産まれるのかわからないので『ううん』と言っていた。あまりお腹が痛いので屋外の便所に行って座っていた。こうしていてもどうしようもないよ外に出たら、土間に産み落とした。家の人が出て来て、あわてて取り上げ婆さんを呼びに行った」

 明治42年生「16才で結婚し、11人産んだが、はじめの4人は産まれてすぐに亡くなった。6人目ではじめて産婆にかかった。それから6人は育っている。昔は、産んだ後の始末は自分でした。へその緒も一束(小指―親指)で切れと言われて切った。村に医者が来て、最後の子ははじめて掻爬した」

 私たちNPO法人「天竜川・杣人の会」会員・今村純子さんが、「遠州の常民文化 第2号」(遠州常民文化談話会編)に発表した「天竜川流域お産の習俗」の一部です。いずれも、取材地域は「北遠」。

 女性が子を産み育てる日々の中で不安を解消してくれる、各地の「子安地蔵」や「子安観音」を頼ってお参りし、お地蔵さんに赤い帽子やよだれ掛けをし、臨月になるとお燈明をあげて安産を願う。そうして自然の目に見えない力を頼って女の大仕事を成せるための日々の努力は、いつの世もだれもが何かのカタチで願わずにはいられない事である。

 写真は、水窪町の竜戸地区で祀られている「子安地蔵」です。この赤子を抱いた地蔵菩薩は、これまでにどれほどの願いを聞き叶えてきたのでしょう?地蔵には、底の抜けた竹柄杓と、木を紡錘形に削ったものが供えられていました。

 とかく男性には、「無事に産まれて当たり前」のような誤解がありますが、現在でも分娩には多くのリスクが伴います。ましてや少し前までは、胎児期や幼児期に死亡する例が多く、「水子」に対する供養の意味もあっての「子安地蔵」だと思います。

 底の抜けた竹柄杓については、秋葉山表参道で見たものと同じ由来と思われますが、木を削ったものは分かりません。どなたか、ご存知の人がいらっしゃれば、ぜひともご教授願いたいと思います。

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 ●柳田国男の民俗学を政治思想史的にとらえる常民大学運動の合同研究会が…
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 ●秋葉山表参道の山道に立つ、穴の開いた柄杓を供える「子安地蔵尊」…
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2010年7月13日 (火)

「敷嶋の二級酒がうまい」―川上出身・太田さんからの思い出メール

Kawakami6  佐久間町川上で見つけた「酒はシキシマ」「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」のホーロー看板の記事を見た太田さんから「それは、私の生家の看板です」との驚きのメールが届きました。

 太田さんは昭和30年生まれ。川上には小学1年生まで住んでいましたが、その後新居町に引越したとのことで、写真は間違いなく太田さんの生まれ育った家。太田さんは、中学2年の時に横浜へ移住、現在、材木を扱う会社を経営しています。そんな太田さんの思い出によれば…

 山仕事が盛んな昭和30年代、生家は「よろずや」をしながら、山から帰ってきた近所のおじさんたちに、酒を売っていました。小学校に入る前に、おふくろに言われてお酒を配達したことも覚えています。一升瓶を配達袋に入れて、山の中腹の集落まで持って行ったのですが、それが体を鍛えさせてくれたんではないかとも思っています。 

 夕方、過酷な山仕事から帰ってきたおじさんたちが、コップ酒を2杯か3杯か飲んで、ほろ酔い程度で帰って行くのですが、そんな山仕事のおじさんたちの間で「敷嶋の二級酒がうまい」と評判でした。

 今でも懐かしく思い出されるのは、この川上地区で過ごした幼少時代のこと。横浜に出て来るまでは、夏休みはいつも、親戚が住み変わった生家に行って、幼友だちと遊んでいました。そんなこともあり、墓は今でも川上に残しています。「いつかは、生まれたところに戻りたい」。横浜にいるのも、一時の夢だと思っています。

 「よろずや」も時代とともに寂れて来たし、前の城山も間伐されず、昔、斜面をそりで滑って遊んだ場所も、杉が塞いで面影もありません。今の仕事で、杉を使うことを提唱してるのも、再び山に昔のような活気が戻って来てほしいと思うからです。

 川上で見つけ、勝手に紹介したホーロー看板が、太田さんの思い出を引き出し、こんなにステキな思い出メールとなって、私の手元に届きました。これを紹介せずにはいられません。太田さんの了解をとって、このメールを公開させていただきました。

 「もっと知りたい」。読者の皆さんにも、「もっと知ってほしい」。そして、「再び山に昔のような活気が戻って来てほしい」と、心から願っています。そのためにも、「出かけよう!北遠へ」。皆さんの力添えをお願いいたします。

 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…

2010年7月11日 (日)

80年前の水窪⑦―鈴木保彦著「大正琴―こんばんは」より

 町はずれの小畑(おばた)から水窪川の本流に沿って北へさかのぼって行くと、河内(かうち)、竜戸(りゅうと)、押沢(おしざわ)の部落が続き、又少し離れて竹の島の一軒家があり、東岸の稜線近くには、畑梨の数戸が点在している。そこまでは、なんと言ってもまだ町へ近い、それから先、川巾がいよいよせばまって谷川となり、山女(やまめ)や岩魚(いわな)の棲む郷(さと)、大野、大沢、両久頭(もろくず)、時原、幡磨野のあたりは、奥山のまた奥山の集落である。

 戸中と白倉の二つの谷川が合流する二瀬から、胸突き八丁の急坂を登ると、山道のなだらかな斜面に、大地(おおち)の十数戸が、それぞれ南面して居を構えている。何等かの縁につながる一族の村である。八坂神社というここの氏神は、どういういわれがあるのか、老杉のこんもりとした中に、沈むように鎮座している。社殿はそう古くはない。明治になって建て替えたものであろうが、ここだけ特別な杉のたたずまいは、この地が、ここに人の住みついてからこのかた、幾百年の間、氏神の場所であったことを示している。

 根(ね)はゆるやかな峠を中にして大地と背中合せに位置し、そこに、近在一の山持「根(ね)の大(だい)さ」の住居がある。国文(*主人公の名)は、まだ根(ね)まで行ったことはないので、大さんの家がどんな様子か分からないけれども、その人の風貌から、梁、柱、桁(けた)あくまでも太く、くどは大きく蟠踞(ばんきょ)し、屋根は逞しく峙(そばだ)っていると思う。(鈴木保彦著「大正琴」より)

 今回の引用で、「80年前の水窪」シリーズの最終回とします。水窪で起きたことは、日本のどこを切り取っても似たようなもの。私たちの世代にとっては、決して特別なことではなく、見てきたこと、体験したこと、聞かされたことのはず。その経験を、更に次の世代に伝えて行くことが必要だと感じています。例え、忘れかけていたとしても…。(by 久保田)

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2010年7月10日 (土)

「遠州の古地図」③=龍頭→竜頭→竜戸

Ryuto16_2  竜戸(りゅうと)集落の地名の由来となる不思議な伝説「竜戸由来」が残される水窪町奥領家竜戸。古地図の中に「竜戸」の文字を見つけました。

 「明治六年(1873)十二月廿日官許」の「遠江國全圖」の中には「竜戸」と表記されています。ただし、「嘉永五年(1852)壬子歳中元日」の「遠江小圖」の中では「竜頭」と表記。地名の表記に変遷があるのは、特殊な事例ではありません。さらに古い地図の中では「龍頭」とも。

Ryuto7 「竜頭」の表記で思い出されるのは、「遠州富士」とも呼ばれ「秋葉山」の奥の院があったとされる「竜頭山」です。実は、お隣の愛知県新城市にも「竜頭(りゅうず)山」があり、掛川城は「龍頭山」、岡崎城は「龍燈山」に築かれています。「龍燈」と言えば「龍神の灯す火」の意味で、秋葉山の常夜灯を木製の鞘堂で覆ったものを「龍燈」とも呼んでいます。

Kochizu10 羅列しただけの情報の中に、「竜戸」の由来が含まれているのか、いないのか…?集落の住民にとっては、「要らんこと」ですね。「竜戸由来」の元となっている「竜の玉が落ちた岩」は、確かに残っていましたので…。

 データとさせていただいた古地図は、いずれも磐田市の佐口行正氏からお借りしたものです。

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 ●水窪の竜戸(りゅうと)集落の祠の中、他の石仏たちと並び、庚申の本尊「青面金剛」石像が2基祀られていました…
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2010年7月 9日 (金)

80年前の水窪⑥―鈴木保彦著「大正琴―大正琴」より

Nihonsugi7  この町の子女の多くは、小学校の六年を卒えると、遠州貴布祢(きぶね)の紡績へ、豊橋や信州岡谷の製糸工場へ、女工となって出かけて行く。貴布祢へ行くものは、四里の山道を歩いて久根銅山の下手(しもて)の西渡に出、そこから天竜川の川舟に乗せられて、終日流されていく。豊橋の工場へ行くものは、二本杉峠を、岡谷の組は青崩峠を越えて、それぞれに、桜の花の散る頃に、この山道を去って行く。藁草履を足にむすびつけ、代りの草履を腰に吊しての山旅である。

 盆にその娘達が帰ってくる時、迎えに出向き、バスケットや信玄袋を振り分けにして、うれしそうな親達と、一団となって、娘達はあでやかに夕暮れ時の町へ着く。故里の土を踏んだ安堵の気持で、どの顔も上気し、気もそぞろ、足もふらつくばかりである。知り合いの家へ、うわずった声で挨拶し、ぼたんの花片が風に散るように、己達の家へ向かって足早に去っていく。盆前後の数日は、どこの家にもそうした出稼ぎ帰りの娘達がちらついて、ふだんの沈滞を破り、はなやかな色彩が浮かび、笑い声がにぎやかである。それも数日、長くて十日、十六日の送り盆を境に、その人達は早立ちでもとの工場へ帰っていく。娘の持って来るまとまった金が、滞(とどこお)っていた借金への頼みの綱であり、娘を喰いものにする親達のやるせない気持のみが、娘達の去った秋の山辺に残っている。桑畑へ出て桑を摘む娘達の、気の抜けたような話し声は、風に吹き消されそうである。はちきれそうに元気に故里へ帰った娘達は、持金のすべてを生家に残してすっからかんとなり、人目につかない早立ちで再び町を去って行き、もう他国の空の下で糸をとっている筈である。

 それが、大正から昭和にかけて、この町の大部分の娘達の生きる道であった。そうして、その中の多くのものが、肺を病んで時ならず帰郷し、生家の一室で、寝たり起きたりの長い煩(わずら)いに入り、やがては、乙女の夢の見果てぬままに、「孝行娘だった」という讃辞だけで、貧困のうちに消えて逝った。(鈴木保彦著「大正琴」より)

 以前、「北条峠と二本杉峠は北遠の『野麦峠』」の中で紹介させていただいた一節を含む文章です。ここに、かつての貧しい日本が描き出されています。しかも、そんなに昔の話でもありません。北遠の山里・水窪で起きていた現実は、日本の到る所で見られた現実。私たちが、忘れてはならない庶民の歴史です。

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2010年7月 8日 (木)

伝説の地「竜戸」を訪ねる②―庚申の本尊「青面金剛」

Koushin8  水窪の竜戸(りゅうと)集落の祠の中、他の石仏たちと並び、庚申の本尊「青面金剛」石像が2基祀られていました。

 「青面金剛」とは、私たち日本人の感覚からすれば、病を流行らせる悪鬼であり、死神とも言える「青鬼」です。その「青面金剛」を本尊とする「庚申信仰」が室町時代に盛んとなり、江戸時代に爆発的に流行した背景には、一体何があったのでしょう?

 「青面金剛」像に彫られている「日輪」や「月輪」は、「庚申信仰」が「月待ち」「日待ち」などの習俗とも混淆し、次第に「庚申待ち」という念仏講的色彩の強いものとなって行ったことを物語っています。

 同じく「猿」と「鶏」の姿は、「庚申(かのえさる)」の夜から、次ぎの日、すなわち酉(とり)の日の朝まで籠るからだとか、朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだとも言われています。

 そんなことを考えながら、あらためて竜戸の「青面金剛」像を見てみると、ともに六臂の立像です。向かって左の石像が掲げる円盤には、「日輪」と「月輪」とが彩色で描き分けられていたと思われます。

 右の「青面金剛」は、弓矢やショケラを持っているようです。足元に鶏が、台座には三猿が彫られています。よく見ると、同じ水窪町の「上村(うえむら)庚申像」のように彩色されていたと思われる朱色も残っています。

 道祖神のように路傍に立つ野仏となれば彩色はすぐに剥げてしまったことでしょう。彩色が残っているということは、祠に祀られたということ。水窪の山里では、「青面金剛」はその名の通り、青い顔をして立っていたのかも知れません。

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 ●「庚申(こうしん)塔」と呼ばれる石塔が見られます。ここに彫られている像は…
 ●「庚申(かのえさる)」は、十干十二支に基づき60日ごとに…
 ●十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん=かのえさる)の夜に…
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2010年7月 7日 (水)

Yasakajinja7  飯田線「峯トンネル」の真上の集落「峯(みね)」に行くには、佐久間からホウジ峠に向かう県道の山道を通り、「下平(しもったいら)」の集落から脇道にそれ、急な山道をさらに2キロほど登ります。一度寄ってみたいと思いながらも、なかなか訪ねる機会がありませんでした。

 峯の八坂神社では、数年前までは11月の第2土曜日に「花の舞」が奉納されていました。演目は「地固め」「鬼の舞い」など数種でしたが、最後の「釜洗い」の舞いは1時間にも及ぶ激しい舞いだったそうです。それが…

Kama0  「最後にやったのは、3年前くらいだったかな…?集落の数が減ったし、喪中だったりすると舞えない決まりだし…。子どもたちは佐久間を出てしまって、祭りに帰って来ても、すぐには舞えない。だから、続けていけなくなってしまったんだよ」。やはり、過疎の進む北遠の集落で、伝統を守るのは難しいようです。

 八坂神社は、山の斜面にへばり付くような集落の中でもさらに天辺に近いところに祀られています。赤い鳥居をくぐり境内に入ると、決して立派とは言えない社が建っています。ここで、伝統の神事が行なわれ、川合、今田と並ぶ峯の「花の舞」が奉納されていたのでしょう。

 どこかに、「花の舞」を思い出させるものはないのかと、グルリと見回してみました。すると、狭い境内の長屋に、湯立てに使われたと思われる大きな釜が見つかりました。きっと、この釜でグラグラと煮え立った湯が、五穀豊穣に感謝し来る年の無病息災を祈る人々を見守っていたのでしょう。

 「山に仕事さえあれば、息子たちも街に出なくてもいいのにな。いつかきっと復活させたい!」。煤けた大釜は、再び湯を沸かす日を夢見ているようでした。「いつか復活したい!」。

2010年7月 6日 (火)

80年前の水窪⑤―鈴木保彦著「大正琴―池の平」より

Ikenodaira434  「池の平に水が溜(たま)った」というしらせが、まるでその水が、山肌へしみとおるように、一夜にして山の町の戸毎に伝わっていった。「池の平」附近の出材人夫達が、陽の傾く頃それを見つけ、帰り支度をはじめる頃には、もうあたり一面湖水と化し、まわり道をして下山したというのである。出始めの時、源泉となったあたりに、水の吹き出る鳴動もしたという。

 「池の平」は海抜千メートル、水窪から、天竜端(ばた)の白神(しらがみ)へ抜ける山道を登りつめて、峠を越えたすぐ西側にある。そのあたりはやや平坦(へいたん)地をなし、茅萱(ちがや)の原と杉林になっている。山頂を西に下ったところといっても、ほとんど山頂に近いのだから、こんなところに水が湧き出ることなど、どう考えてみても理屈に合わない。その平坦(へいたん)地が、天竜川東岸の果てであり、山塊は、そこから切り立ったような絶壁をなして天竜の河谷へと落ち込んでいる。はるかなる足下をその大河が蛇行(だこう)し、白神の知久氏のお屋敷が小さく見える。(中略)

 「池の平」に水が溜るのは、七年目毎と言われているが、規則正しくそれを繰りかえすわかではない。溜る前に雨の多い時もあり、そうでない時もある。諏訪湖から発した天竜川は、流域五十里をうるおして、遠州灘(なだ)へそそいでいる。丁度その中ほどに、鳴瀬の淵があり、この深淵に潜(ひそ)む蛇(じゃ)が、七年目毎に諏訪へ渡り、途中「池の平」で一泊するので、その前後七日間だけ、天竜の水をこの山頂へ呼び集める。「池の平」が不時の湖水と化するのはそのため、と国文(*主人公の名)達は聞いている。ふだんは杉の美林の「元池(もといけ)」といわれるあたり千坪と、まだ杉の若い「新池」数千坪が、共に水を張る年もある。

 「水が溜った」としらせがあった翌日、日頃は一日に一人通るか通らない白神道を、近在の人々が、ひきもきらず登りはじめ、山の町の人口の何分の一かは、山上に移ってしまう。山道を登っている間は、行楽の気分で冗談もとばし、諏訪明神や鳴瀬の蛇(じゃ)を、軽口の材料としても、一度山頂の不思議な湖水を目撃してからは、たちどころに畏怖(いふ)のおもいに打たれ、誰れも、あまりしゃべろうとはしない。百年に近い杉の、下枝のあたりまでが水に漬かっているから、この俄(にわか)な湖の深さは、二丈をはるかに越えている。透きとおった清水で、目をこらすと、薄暗い水底の夏草が見え、灌木(かんぼく)のみどりの枝も見える。時折、水の湧出(ゆうしゅつ)があって湖心に大きい水の輪がひろがっていく。(鈴木保彦著「大正琴―池の平」より)

 手元に、「幻の“お池”が現れた!」(昭和57年8月12日付「静岡新聞」)の切り抜きがあります。昭和57年とは、西暦1982年。今から28年前のこと。平成元年(1989)9月、同10年(1998)10月にも出現したようです。その後、水が湧いたとの報告はありませんが、7年周期となれば、そろそろ周期の年。出現の可能性があります。

 さて、今年の夏に「池の平」の湧出はあるのでしょうか?

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2010年7月 3日 (土)

80年前の水窪④―鈴木保彦著「大正琴―自動車」より

 里の桜が散って山桜が満開となり、辛夷(こぶし)が白い幕のように山腹に咲く頃、夕方、国文(*主人公の名)の町へ、はじめての自動車がやって来た。車体は青の、幌型のフオード中古車である。

 天竜川下流の鹿島の河原で分解し、川舟へ乗せて西渡まで遡(さかのぼ)り、そこから八町坂をかつぎ上げ、三里の山道を切開(きいなま)まで越えて来たという。ここで、旧道から幅員四米の県道へおろして組立て、水窪まで走って来たのである。新道は、南は切開、北は大原迄で行きづまり、四周を二千メートルから千メートルの連山に取り囲まれた擂鉢(すりばち)の底のような山の町だからである。

 明るいうちに風呂に入っていると、遊びに出ていた芳人(*弟の名)が、「自動車が来た」と興奮して飛び込んで来た。

 「今どこを走ってる?」
 「もう走っていない」
 「じゃあどうしてるの?」
 「もう和泉屋の土間に入っちゃった」
 「なぜ知らせてくれん」
 「だって早いもん。来る暇なかったもん」

 ということである。自動車が、半島(はんじま)の曲り角に現われて新町に入り、本町へと走ってくる姿を見んものと、ここ数日待ちのぞんでいた千載一遇の好機を、風呂へ入っていたために見落としてしまった不運が、無性に腹立たしく、その辺のガラス戸をみな叩き割りたいような、胃がむかつき吐気をもよおしそうな不快感がある。身体もよう拭(ふ)ききらず、和泉屋へ向かって駈け出していく。

 夕飯(めし)前なのに、和泉屋の前は黒山の人だかりで、その人達をかき分けて前へ進み、自動車に近づくことは、とても出来そうもないので、はやる心を抑えながら、しばらくの間、人々の散るのを待っていた。跳び上がると、自動車の幌の全貌(ぜんぼう)が見え、ちらちらと青い胴体も見える。幌は鳥打帽子に似ていると思う。何か大きい動物、象か犀(さい)の類(たぐい)が、慣れない巣へ入って、じっと呼吸をひそめているような趣である。待ちきれず大人の間をくぐって前へ進み出ると、前列の子供達は胴体に手をふれて離れようとしない。自動車は、あまり大勢の人が寄ってきたので、すねて知らん顔をした癇の強い乗り馬の如くに、頭を奥に向け、尻を道路側にしてコンクリートの土間に納まっている。(鈴木保彦著「大正琴」より)

 トヨタが、日本初の生産型乗用車「トヨダ・AA型乗用車」の生産を開始したのは、昭和11年(1936)でしたが、まだ、国産車が一般的でなかった時代の話です。

 もしかしたら、エンジンの始動も現在のようなセル・スタートではなく、クランク棒を回す構造の車輌だったかも知れません。思い出してみれば、我が家のオート三輪はキック・スタート。オートバイに乗るように跨って運転。もちろん、ハンドルは棒型。「自家用」の文字の書かれた乗用車には、確かにクランク棒を積んでいました。

 『大正琴』に書かれている時代の道路は未整備のため、この自動車で峠を越すことはできませんでした。(by 久保田)

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2010年6月30日 (水)

80年前の水窪③―鈴木保彦著「大正琴―田遊」より

Yakusido  旧の正月頃は、赤石颪(おろし)が吹き荒れて、一年のうちで一番寒い。山かげになった新道の崖の、いつも水のしたたるあたりは、一面に氷柱(つらら)がさがり氷壁となってしまう。終日川すじを吹き抜ける北風が、杉林にごうごうと鳴り続けている。

 その十八日は、西浦(にしうれ)の田楽祭りということである。町場(まちば)から北方一里の谷間の所能(しょのう)観音堂で、この夜、夜半から翌早朝にかけて、昔のままの田楽能が舞いあかされ、大かがり火が夜の空をこがす、と年毎に聞いている。だからその夜は、見通しのきく丘の上へ登って西浦の方向を眺めるのだが、闇の中の重畳(ちょうじょう)の山々がおぼろに見えるのみか、あるいは、その北の彼方は、一切吹雪にかきくれているばかりで、ほのとしたあかりも見えはしない。あの闇に包まれて、ともかく神秘な行事がくりひろげられているのだと思うばかりである。「木の根まつり」とも「木の芽まつり」ともいう。寒の最中(さなか)にあっても、木の芽がわずかながらも萠え出し、春のおとずれを告げるのだという話である。別当は高木家、能衆のどの役はどの家と、幾百年にも亘ってその役柄は固定し、まつりの旬日前より、能衆一同精進潔斎に入るというそのものものしい気構えと、そのことをものものしく語る人々に対して、国文(*主人公の名)は、おおげさなことだとなじめない想いを抱いていたが、峡の夜をもえ明かすという雄大などんどこ火は、眺めてみたいとしきりに思う。

 その夜、神原(かんばら)の薬師堂でも、小畑の観音堂でも、田遊のまつりがある。昔は、西浦の観音様と同じ木で彫ったという神原の薬師様のために、その衣装も能面も逸散して、今日がその日ということを、わずかに、年毎にもやす紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)にとどめているばかりである。

 このまつりは、薬師様と並んで立つ八幡様の秋祭りのように、二日に亘る大祭ではない。人々は祭りのよそおいに着替えるのでもなく、仕事の終った夕方、ただ無病息災と、正月の注連飾(しめかざり)や古いお札(ふだ)を納めるだけが目的で、薬師の堂庭へ上がり、それが終れば早々に帰ってくる。門前(もんぜん)の屋台店もほんの二三軒で、おでんと燗酒(かんざけ)を売っていたり、それでも祭りらしく風船笛やおめんを並べているが、気勢は上がらない。燗酒を売る中年の男が、商売はどうでもいいように、景気づけの蕃声をはり上げていても、店へ近づく人は少なく、掛け声は空転するばかりである。(鈴木保彦著「大正琴」より)

 『田遊び祭りの概念』の中で、折口信夫は…

 春の初めに、其年の一年中の田の出来栄えを見せて置く。此が、此行事の起りである。其出来栄えは、誰が見せたか。神――遠来の神――であつたとも、其神の命令に従ふ土地の神であつたとも、或は、さうした遠来の神の命令があるので、為方なしに土地の精霊が、誓約のしるしに、此を行うて見せたのだとも考へられる。あちこちの地方で行はれて居るものを見ると、此が殆、混同して行はれて居る。しかし、大体に於いて、かういふ風にしろと見せて行くのと、私の方では、かういふ風に致しますとして見せるのと、此二つの様である。勿論、さう論理に合ふ様には、どこでだつて行うて居ない。

 とにかく、この行事は、神或は神の資格を有するものによつて行はれる。その神は、尉と姥との形をして来るのが普通であるが、ところによつては、違うた形のものもある。東北地方では、妖怪の姿に変つて居る。大黒・夷の出る地方などもある。神楽では、この尉と姥とが、猿田彦と鈿女とに変つて居るが、この二人に変つたのには、訣がある。それは、此二人が擁き合ふところがあるからだ。此二人の役の主たるところは、其点にある。昔の人は、其を見て、ほがらかな喜びを感じたのだと思ふ。

 と述べています。そんな意味合いであったかなかったか、とにかく、水窪の地では、80年前と同じ祭りが現在でも継承されています。(by 久保田)

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2010年6月28日 (月)

80年前の水窪②―鈴木保彦著「山峡のうた―花火」より

Senkohanabi  祇園のまつりは、山と山に囲まれた谷間の町のあたり一面にただよっているようである。山住の祭りには、山住神社があり、八幡様の祭りには八幡宮があり、その他、市神様(いちがみさま)、庚申堂(こうしんどう)のひそとしたまつりにも、それぞれの本拠がある。祇園のまつりは、暦にあらわれるだけでそれをまつるお宮はない。軒並に献灯をつるし、子供たちは、糊のきいた浴衣に新しい下駄をはいて、夕暮の門辺に遊び、ふだんとまったく違ったあたりの空気でありながら、ここぞといった中心のないまつりである。とはいっても、そよ風に乗って開けはなたれた部屋の隅々まで、目に見えないまつりの気分が行きわたり、中心のないままに、かえって、みずみずしい夏のまつりのおもいをかりたてるし、日毎に暦がめくられて今日はその日というよろこびは、季感をしみじみと実感させもする。

 日の暮れるのが待ち遠しくて、玄関前の縁台に出て、やがてこれからはなやかにくりひろげられてゆく花火の美しさをあれこれと頭に描く。「松葉ぼたん」「鼠花火」「電気花火」「線香花火」「流星」「電車花火」これはこんなの、あれはあんなのと、近所の子供たちと想像し、「電車花火」の走る木綿糸を、桜の木から榎の間、いやもっと遠い方がいい、藤棚の下まで引こうなどと準備をしながら暮れるのを待つ。待ち切れず、電気花火の一つをためしてみると、もうすでに花火の時間になっている。まだ明るい明るいと思っていても、電気花火は燦(さん)然と花火の美しさを見せる。白熱に光るその閃光のまばゆさを一度眼に浸みこませてあたりを眺めると、山はすでに暮れ、残光も淡く、献灯のあかりが色を増している。縁台に座をしめ直し、さあこれから本格的に花火を遊ぼうと期待に胸をはずませる。(鈴木保彦著「山峡のうた」より)

 水窪や佐久間の一部では、花火遊びが許されるのは、6月14日、15日の2日間だけ。これは、鈴木保彦氏の幼少期も現在も同じです。具体的な描写から、夏を待つ子どもたちの気持ちの高まりが伝わって来ます。(by 久保田)

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2010年6月27日 (日)

80年前の水窪①―鈴木保彦著「山峡のうた―序」より

Hon7  信州街道は、里へ出れば白い砂ぼこりの、山にかかれば杉木立ちに覆われた一条の道で、天竜川の東岸を伊那谷から遠州へ抜けている。信州人は秋葉街道と呼び、農閑期の日和つづきに、秋葉参りの伊那の人々が、紺の脚絆(きゃはん)、草鞋(わらじ)、振り分け荷物で通って行く。

 これは、鈴木保彦著『山峡(やまかい)のうた』(昭和47年・緑地社発行)の序文。大正8年に水窪に生まれ、水窪で育った著者が見た、水窪の風景、風物、風俗が、少年の目を通して語られています。

 青崩峠を北とすれば遠山領の和田、満島(みつしま)、峠の南麓が遠州の西浦(にしうれ)、さらに南に下がって、水窪(みさくぼ)、城西(しろにし)、銅山の久根、天竜川の川舟のもよう西渡(にしど)、瀬尻など、あの土場に、この谷間に、五十戸、百戸の村落が点在している。

 そうした街道筋の集落をはなれ、西の峠、東の峠を越えて、あるいは、谷川沿いに山奥に踏み入れると、父祖以来山仕事に明け暮れる十戸、二十戸が、わずかな空地に粟を植え、稗(ひえ)をそだてて住みついている。背負子に炭を積み、一里二里の山道を街道に出て来て、衣類、玩具、日用品など、都会の匂いのするいろいろなものを買い込んで、また山へ帰って行く人たちの棲家(すみか)である。水窪付近一帯は、古くは奥山郷といわれ、吉野朝ゆかりの土地であり、今にその名残りが、大津峠、大原、京塚(経塚)、大里(内裏)などの地名となって伝わっている。建武乱世に、戦いに破れた落人たちが、安住の地を求めて、古くからこの街道沿いに迷い込んだのか、あるいは、遠江伊井谷(いいのや)の拠点から信州大河原への通路の要点として、この地に拠っていたのであろう。

 街道の家並みはただ一通りで、西は山手、東は川手となり、赤石山系の水を集めて水窪川が流れている。川手の家は崖造(がけづく)りとなっていて、下倉(したぐら)と呼ばれる半地階を持っている。道から見た一階家は二階に、二階の家は、実際は三階になっている。道路から二階に入る構造である。

 著者の鈴木保彦氏は、浜松一中を経て、青山学院英文科へ進み、南方軍に従軍。昭和27年、北大文学部を卒業し、浜松北高、静岡大学、静岡女子短大で教鞭を執っていましたので、「ああ、あの先生か!」とお気づきの人も多いと思います。

 『山峡のうた』と、同氏著『大正琴―少年の日のしらべ』(昭和54年・ひくまの出版発行)の2冊の随筆集は、約80年前の水窪を知る大変良い資料。水窪の町、生活、風景、風物などの描写に限り、数回に分けて引用させていただくことをお許しください。(by 久保田)

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2010年6月24日 (木)

伝説の地「竜戸」を訪ねる①―地名由来

Ryuto6  不思議な伝説「竜戸由来」の元とされる「竜の玉が落ちた岩」を一目見ようと、水窪町の竜戸集落を訪れました。

 運転に自信のない私ですから、自動車を集落入口となる道路脇に停め、そこからは急な坂道を歩いて登ることにしました。しかも、その岩がどこにあるのかの予備知識もありません。無謀と言えば無謀なのですが、探して分からなければ、聞けば良いのですから…。

 1歩1歩坂道を登って行くと、家々の点在する集落に達し、何やら祠のようなものが建っています。「あった!」。その祠の脇に、お目当ての「竜の玉の落ちた岩」が鎮座していました。

Ryuto3  「ずい分古くからここにあるから、最近になってどこかから持って来たもんじゃあ絶対にない」とのことでしたが、どうやら岩は石灰岩。一目見て、長年の雨水や湧水による風化で穴が開いたものと思われましたが、「落ちた玉もちゃんとあるらしい」とのことですので、本物かも知れません。

 そういえば、集落の入口に写真のような「がけ崩れ注意」の看板が立っていました。「がけ崩れが発生する恐れがありますので、大雨の時などは十分注意して下さい。」の警告文と崩落のイラスト。何と、そのイラストと、「竜戸」の地形がそっくりではありませんか?

Kumanojinja 「竜」が付く地名と洪水や崩落災害との間には、深い関係があると言われています。それは、祖先から子孫へと申し送る注意喚起のメッセージのはず。これが本当の「竜戸」の地名由来?

 じゃあ、「竜の玉の落ちた岩」の言い伝えって嘘なの?いやいや、伝説や言い伝えに嘘なんてありません。集落の「熊野神社」には、毎年11月に伝統の「神楽舞」が奉納されています。

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 ●水窪の竜戸(りゅうと)集落の祠の中、他の石仏たちと並び、庚申の本尊「青面金剛」石像が2基祀られていました…
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2010年6月23日 (水)

白いカラス?もしかしたら、あの時の…?

Karasu  浜松市で最近羽根が白いカラスが飛ぶ姿が見られ、近所で評判になっています。

 羽根が白いカラスがいるのは浜松市北区の浜名湖の湖岸付近です。最近巣立ちしたばかりの子どものカラスとみられ、時々屋根にとまって親とみられるカラスに近づこうとしますが、親離れを促しているのでしょうか?親の方は白いカラスと距離をとる姿が見られました。

 「日本野鳥の会静岡」代表の三宅隆さんは「全身が白いわけでなく羽根の部分が白いので部分白化ではないか」としています。また、「突然変異で色素が抜けるこうしたアルビノは一般的に生態的にも弱く、天敵に襲われる恐れも高いので、生き延びるのはかなり厳しいのでは」と話しています。 (「SBS動画ニュース」より)

Karasu_2 こんなニュースを見つけて思い出しました。2枚目の写真は、私が2年前の7月に「浜松城公園」で撮影したもの。

 今回のニュースで紹介されたカラスの姿が、大変よく似ています。もしかしたら、あの時の…?

2010年6月20日 (日)

男の子は地図が好き―「観光の二俣と天龍下り」

Kotizu7  「男の子は地図が好き」―特に私は、眺めて楽しいイラストマップが大好きです。磐田の佐口行正氏氏からお借りした「二俣町観光協會」発行の「観光の二俣と天龍下り」の裏表紙にイラストマップ「天竜川沿岸の案内圖」がありました。

 その一部を拡大してみると…

 以前、古い写真で紹介した旧「大輪橋」と旧「大井橋」が描かれています。船下りの名所「戸口滝」や「豆こぼし」の文字も見られ、「久根鉱山」はイラスト入り。「佐久間ダム」建設以前の地図ですので、飯田線は旧線のままです。

 中を開いてみると…

 天龍下り…二俣町→國鉄バス二時間→西渡→船下り三時間半→二俣町 ◎西渡―二俣間船賃(貸切一艘定員丗五人)六千円

 船下りの様子も描かれているし「一度乗ってみたかった!」などと想像を膨らませることができるのが、イラストマップの楽しみです。

2010年6月12日 (土)

ちょっと一休み―背負子と荷棒(にんぼう)

Syoiko8  佐久間の「二本杉峠」で出会った月花さん。「こんにちは~。二本杉っ、て、どの辺にあったんですか?」。仕事中に声をかけ、手を休めてもらいました。「1本は、今の道の向こう、もう1本は道のこっちのこの辺。それは、それは大きな杉の木で…」。

 ふと、そこに見つけたのは、使い込まれた背負子(しょいこ)と荷棒(にんぼう)。荷棒とは、背負子(しょいこ)の底に当てて、重い荷物を支える杖のような棒のことです。「写真を撮らせてもらっていいですか?」とお願いしたところ、「じゃあ、ちょっと待って…」と荷棒で背負子を支えてくれました。

Nihonsugi2  つまり、これが「1本立てる」ということ。現在でも登山家の間で「1本立てる」と言えば、「一休み」の意味だとか。

 「ありがとうございました」「今日は、どこに行くの?この前は、早川さんに会えた?」「会えましたよ。大工を入れていたんで…。おばあちゃんにも」「ええ?来てたの?会いたかったな~」。

 もし、あなたも「二本杉峠」で地元の人に会えたとすれば、それは月花さん。「前には、3軒住んでいたんだけど…」、今はもう、1軒だけしか残っていませんから。

2010年6月 4日 (金)

「遠州の古地図」②=若身平→泉平→大時→春野山

Map8_2  以前にも紹介した磐田市の佐口行正氏のコレクションの「遠州の古地図」(遠江小圖 嘉永五壬子歳中元日 渡邊謙堂)―気になる箇所を拡大して見てみましょう。

 東の端に「春野山」があります。「大時」辺りに源を発して流れるのが、現在は「不動川」と呼んでいる「砂川」ですが、「イサ」とルビが振ってあります。「若身平」→「中谷」→「原山」→「葛沢」→「徳嶺」→「白倉」→「大時」と続き、「中谷」の北に「泉平」が表示されています。「砂川」を挟んで南側には「坊山」と「胡桃平」。

Map08_2  「砂川」の北に流れるのが「熊切川」で、「田河内」「花島」「牧野」「越木平」「筏戸」「田黒」…。「長蔵寺」の地名も見えます。

 気になるのは、現在、当たり前のように「春埜山」「和泉平」と表記している2つの地名は、「春野山」「泉平」とされ、「砂川」が地名ではなく、川の名とされていること。もう1枚別の地図(遠江小圖 安政四丁己年冬 抱寉堂誌)の中でも、表記は同じ。明治、大正頃までは、この表記が一般的だったのでしょうか?

 地名表記の変遷―「古地図」は、写真をクリックすると拡大して文字を読むことができるようになります。

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2010年5月29日 (土)

「燈ともさぬ…」―釈超空(折口信夫)の歌碑

Kahi8  NPO法人「天竜川・杣人の会」の仲間たちと楽しく出かけた「水窪行き」。水窪町西浦の観音堂前の歌碑の前に立ちました。「何て書いてある?」「燈ともさぬ…」「村を行きたり…」「月あるらしも…」。

 「燈と毛左ぬ 村をゆ幾たり 山かげの道能 あ可りは 月あるらしも 釋超空」

 変体仮名交じりの歌を、現代仮名遣いに直すと…

 「燈ともさぬ 村を行きたり 山かげの道のあかりは 月あるらしも」

Kahi6_3  釈超空(しゃくちょうくう)とは、西浦田楽の存在を全国に知らしめた民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ=1887~1953)の歌人としての名。水窪には、この他にも釈超空の歌碑が2基建てられています。

 水窪中学校の校庭には…

 「ほがらなる こゝろの人に あひにけり うやうやしさの 息をつきたり」

Kahi3  そして、山住峠には…

 「青々と 山のこずえの まだ昏れず 遠きこだまは 岩たたくらし」

 折口信夫は、大正9年(1920)、「西浦田楽」や春野の「京丸」を研究するため、北遠の山里を訪れています。春野にも3基の歌碑があり、折口と民俗芸能の宝庫・北遠との関係の深さが伝わって来ます。

 ●人も馬も道行きつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどのかそけさ…
 【関連記事】春野中に建つ「折口信夫歌碑」

2010年5月22日 (土)

「広報はままつ」に春野町の栗崎香代子さんが登場

Kurisaki  『広報はままつ』(天竜区版2010年5月20日号)の「天竜区 創造人(The creative person in TENRYU WARD)」に、春野町宮川の栗崎香代子さんが登場しました。

お茶は、つらいときも幸せなときも眺める「月」のような存在です

○初めて触れたお茶の魅力

 近年、健康効果や味わい、癒しの効果などが見直されている日本茶。その専門的な知識や技術を持ち、消費者などに指導を行う「日本茶インストラクター」という認定資格があります。この資格を持つ春野町の栗崎香代子さんを訪ねました。

 栗崎さんのお宅は、代々続く茶農家です。「嫁いだころは、お茶の知識は全くありませんでした。でも、日常生活や家業を手伝う中で、その奥深さや、味の違いなどが分かってきました」その後、蒸した葉が手に吸い付くような感触に魅せられ、手もみ茶に関心を持ち始めた栗崎さん。ご主人の祖父の弟子であった方から手もみの指導を受け、小国神社の献茶祭や、農協主催の煎茶道教室などにも参加したそうです。

○お茶のことをもっと知るために

 「いろいろ参加してきたものの、ただ楽しむだけではいけないと思い、お茶の知識や技術を本格的に身につけるために日本茶インストラクター資格を取得する決意をしました」試験のために、いままでの人生でいちばん勉強したと言って笑う栗崎さんですが、それが今、仕事にとても役立っているそうです。

 「自分にとっては今も勉強中。覚えたことをいかに身につけていくかが大切だと思っています」現在は家業に従事する傍ら、手もみ保存会に所属して手もみ茶の勉強を続けているほか、日本茶インストラクターとして、小学生を対象にしたお茶のいれ方教室やお茶摘み体験を行ったり、農業振興会のメンバーとともに産業まつりでお茶を出したりといった活動を行っています。

○大切なお茶の存在

 「お茶のいれ方教室は毎年続けていきたい。老人ホームで子どもとの交流を交えたお茶会などもできたらいいねと夫と話しているんです」と栗崎さん。お茶を使って人の集まる機会を作り、他の農家の人たちとも協力して、地域に眠る特産品などの情報を表に出していく橋渡しの役ができればとも考えているそうです。

 「お茶は、常に近くにある。わたしにとって、つらいときも幸せなときも眺める『月』のような存在なんです」かつては無縁だったお茶が、今はとても大切な存在。そんな気持ちが、笑顔で話す栗崎さんから伝わってきました。

Profile
 1970年(昭和45年)南区白羽町生まれ。平成7年に結婚し、春野町での生活をスタート。家業である茶業を通じ、お茶に携わり始める。家業や日本茶インストラクターとしての活動のほか、農協主催の煎茶道教室や「北遠カフェ」「手もみ保存会周智支部」、食育グループ「春野町健康づくり やしお会」などに参加。中学2年の男の子と小学6年の女の子の母親であり、娘さんとのお菓子作りや、ピアノ演奏が趣味。春野町宮川在住。39歳。

 栗崎さんの淹れてくれたお茶をいただいたことがあります。本当に美味しいんです。きっと、栗崎さんの人柄が出ていたのでしょうね?

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2010年5月18日 (火)

『空飛ぶ座布団』ムササビとの出会い―JA遠州中央「ときめき」より

Hyoshi 我が家の届いたJA遠州中央の広報誌「ときめき」5月号、「この人に聞く」の内容に興味が湧きましたので紹介します。

 内容は、佐久間町相月に住む森屋勝さんとムササビとの暮らしを記したもの。以下に冒頭の一部を紹介します。

 ムササビは日本固有の動物で、本州や四国、九州地方に生息し、日本国外には生息していません。夜行性で、主に樹上で生活しています。一番の特徴は、樹から樹へ飛膜(ひまく)を広げ滑空しグライダーのように飛び移ることができることです。生まれたばかりのムササビを保護し、育て一緒に暮らす浜松市天竜区佐久間町の森谷さんをご紹介します。

 私は、浜松市天竜区佐久間町相月に生まれました。自然豊かな地元相月の我が家の回りには木々が生い茂り、民家も少なく、さまざま動物たちが野生で暮らしています。鳥や鹿、サルなど当たり前のように見ることができます。もともと我が家では、家族みんなが動物好きで、さまざまな生き物を飼っていました。そんな我が家に嫁に来た妻や、子どもたちも、生き物が大好きで野ウサギやフクロウなどを飼ったりしていました。

 今から15年ほど前、私が朝、職場の佐久間森林組合に出勤しようと家から車で出かけたところ、家の横を流れる不動沢の橋の上で、小さな生き物を見つけ、拾って家に持ち帰りました。よく見ると前足と後足の間に飛膜があり「これはムササビだ」とわかりました。不動沢の横には大きな栃の木がありそこをねぐらとしていて落ちてしまったムササビで、5~6cm の大きさでした。まだ、目の開いていない赤ちゃんでしたので、このまま見捨てるわけにはいかないと思い育てることに決めました。赤ちゃんですから、人間と同じで3時間おきにミルクを与えます。妻がダンボール箱に入れて職場で世話をすることになりました。ミルクは牛乳を少し薄めて代用しました。

 この後、ムササビを「ぼーちゃん」と名付けたこととその死。3年後に同じ場所で、2代目となるムササビとの運命の再会を果たしたこと。現在、2代目「ぼーちゃん」との暮らしを楽しんでいる様子が伝えられています。

 記事は、「ムササビとの暮らし『空飛ぶ座布団』ムササビとの出会い」として、ネットでも公開されています。この心温まるレポートを、ぜひ読んでみてください。

2010年5月17日 (月)

秋葉山の「纏リス」―どうして、リスなの?

Matoirisu8  秋葉神社上社からの帰り道、「あっ、リスがいる!」と、「そまびとキッズ」が指差したのは、あの「たばこの 投げすて! 火事のもと 静岡県」のホーロー看板。秋葉山の山登りの時には気づかなかったのですが…。

 「リスが持っているのは何?」「あれは、纏(まとい)と言ってね…」。火防の山で火災防止を呼びかける「纏リス」。纏って、何に使うもの?

 「纏って、昔の消防隊の目印の旗みたいなもの」「昔も消防ってあったの?」「火消しっていう人たちがいたんだよ」「消防車はなかったんでしょう?」「うん、だから水をかけて火を消すというより、家を壊して火事が燃え広がるのを防いだんだ。昔の家は、ほとんどが木の家だったから、どこかの家から火が出ると、あっと言う間に広がったんだろうね」。

 「どうして、リスなの?」「…」「尻尾で火を消したとか?」「…」。どうして、リスなんでしょう?

 答えられないまま秋葉山を下り、ネットで調べてみました。どうやら、林野庁で企画し全国農村映画協会で制作した『リスのまとい』というビデオにヒントがありそうです。その内容説明には…

 殿様の大事にしている山の山火事を出したと疑われ捕えられたきこりの孫兵衛とその仲間。その孫兵衛に命を救われたリスが真犯人を探し出し、そのほうびとしてマトイをもらう。

 …と書かれています。リスは、山火事を消したんではなくて、犯人を見つけたというのが答えのようです。

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 ●「山火事予防のシンボルマーク」の「纏(まとい)リス」…
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2010年5月 9日 (日)

岩嶽山への山登りは十分気をつけて!

Keikoku8  「立入禁止 この先は、未整備ですので歩道への進入を禁止します。歩道内で起きた事故等について、一切の責任は負いません。浜松市」

 「登山者のみなさんへ 周智郡春野町で整備された登山道が一部当分の間通行することが出来ません。つきましては、国有林内に作業用としての歩道がありますが、あくまでも作業用歩道ですので事故等が発生しても、一切の責任は負いません。宜しかったらご利用下さい。天竜森林管理署長」

Umanose8   「岩岳山登山コースは、手前作業道の大崩落により通行できません。現在、歩道の復旧は計画されておりません。春野地域自治センター 天竜森林管理署」

Houraku4_2 岩嶽山の登山道には、こんな警告看板が複数立っています。これは、脅しではなく、写真のように馬の背のような道や崩落箇所がありました。現状としては、かなり危険な山です。私が登った以上、「登るな!」とは言えませんが、絶対に山登りの経験のある人の同行が欠かせません。

 途中で浜松消防署に所属する人たちともすれ違いました。実際に遭難も発生した山です。十分に気をつけて、決して無理はしないでください!

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2010年5月 3日 (月)

太陽が笠をかぶると雨?

Kasa7  つい先ほどのことです。太陽が大きな笠をかぶっていました。これって、雨の兆候?

 気象予報士・南利幸さんのHP「あしたは晴れ!」によれば…

 笠をかぶるとは、月や太陽の周りに輪ができることです。この輪は巻層雲(氷の粒)に光が反射屈折してできるのです。巻層雲は低気圧の前面に良く見られるので、この輪ができると雨が近いことになります。

 「浜松まつり」が始まったばかりなのに、天気予報は雨?でも、ネット上の予報では、5日までは晴れが続き、崩れるのは6日とのこと。さて、どちらの予報が当たるのでしょうか?

 笠の真ん中の直線は、飛行機が作った「空の道」です。

2010年4月24日 (土)

「遠州の古地図」①=中部→作間→峯→羽加庄→芋掘

Map5  「第9回見付宿たのしい文化展」(4月17、18日)、当ブログに古い絵葉書をお貸しいただいている磐田市の佐口行正氏が「遠州の古地図」の展示をしていました。

 珍しいコレクションですが、中でも興味深々だったのが、北遠を表した地図(遠江小圖 安政四丁己年冬 抱寉堂誌)。了承をいただきましたので、写真で複写した地図の一部を拡大してお目にかけます。文字が読めるでしょうか?

 方向は上が北で下が南ですので、現在と同じ。文字は、右から左へと書かれ、西の端に近いところに「中部」の文字が見えます。その東には「作間(佐久間)」→「峯」→「羽加庄(羽ヶ庄)」→「沼田(野田)」→「芋掘(芋堀)」と結ぶ、現在の県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線が赤い線で描かれています。

 南からは「西(西渡)」→「瀬戸」→「間庄」→「松嶋」→「芋掘」で、先の「羽加庄」越えの道と出会い、「水窪」へと向かうことができます。今は佐久間湖に沈んでいる「山室」や、「半場」の地名も見えます。

 地図は、版画で刷られたものらしく、明治時代のものと思われます。どうですか?興味が湧いてきましたか?「峯」と「羽加庄」との間に2本の杉が描かれているのが分かりますか?ここが「二本杉峠」です。

 とりあえず、「遠州の古地図①」として紹介します。

 *「古地図」は、写真をクリックすると拡大して文字を読むことができるようになります。

 【関連記事】「遠州の古地図」②=若身平→泉平→大時→春野山
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2010年2月17日 (水)

観音堂に奉納された「ハイカラ」男の奉納額

Ema11  「奉納」「明治二十三年」「周智郡奥山村字西浦」「閏正月十八日」「願主卯歳男」

 水窪町西浦(にしうれ)の観音堂の奉納額の中に、こんな「ハイカラ」な絵を見つけました。

 山高帽+半纏+着物+ステッキ+革靴=「ハイカラ」と言う言葉は高襟(high collar=ハイカラー)から来ているということですので、厳密に言えば「ハイカラ」とは言えないのでしょうけど、他に形容する言葉を知りません。

 額が奉納された明治23年(1890)と言えば、今からちょうど120年前。干支は、今年と同じ「庚寅」。暦で言うと「大還暦」、2巡前ということになります。この額を奉納した「卯歳男」とは、「卯年生まれの男性」の意味。では、なぜ「卯年生まれ」が額を奉納したかと言うと…

 ここからは、推測です。

 実は私も「卯年生まれ」。男性の「還暦」の前年は「前厄」。初詣に出掛けた「小国神社」で知りました。つまり、この額は「厄払い」。「前厄」を迎えた男性が「田楽」の日に「厄払い」の願いを込めて奉納したのだろうと思います。

 平成22年の「田楽」は、3月3日の夜から4日の朝まで(旧暦の1月18日~19日)です。今年も「卯年生まれの男性」が「厄払い」の額を奉納するのでしょうか?

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2010年2月 1日 (月)

これが「超」急カーブの路面表示

Cho4  浜松市天竜区山東の国道362号に、「超急カーブ」と書かれた路面標示が登場し、効果を上げている。

  …という記事でしたので、車を停めて「超」の字を撮って来ました。

 天竜署によると、同所では車が曲がり切れずにガードレールに衝突する事故が絶えず、視覚に訴えようと採用された。

 路面表示はカーブの内側だけ。つまり、春野方面から二俣方面に向かう車線で、「超」が付くほどの急カーブとも思えないのですが…。

 「急カーブ」の上をいく「超急カーブ」の表示は県内初。「全国でも聞いたことがない」と同署。

 …とのことでしたが、東京都檜原(ひのはら)村の「超急カーブ」が、2008年6月11日放送のテレビ朝日『ナニコレ珍百景』で紹介済みのようです。

 …と言うことは、「二番煎じ」?まっ、十分気をつけて通行してください!

 【関連記事】全国初? 道路に『超急カーブ』の標示登場

2010年1月30日 (土)

「水窪森林鉄道」の廃レール?向市場の半鐘台

Hansyodai  春野、水窪の山を繋いでいた森林鉄道―その廃レールが半鐘台に組まれて甦っている姿は、何度か紹介させていただきました。そして、また新たに水窪町向市場(むかいちば)で見つけました。

 レール2本を組み上げた梯子に支えのレール1本の三脚鉄塔に鋳物の半鐘を吊るし、赤錆びた「消防信号」の表示板が立て掛けられています。これは、「水窪森林鉄道」の遺産でしょうか?

 この半鐘台が、水窪で見つけた廃レール再利用タイプの4基目。もしかしたら、もっとあるっかも知れません。探してみよ~っと!

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 ●昭和42年(1967)に廃止された「水窪森林鉄道」の廃レールは、ここ水窪でも半鐘台となって再利用…
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 ●「気田森林鉄道」は廃止されたのは、昭和34年(1959)…
 ●この日の目的は、春野に残された森林鉄道のレールで造られた半鐘台探し…
 ●昭和34年(1959)まで、春野の山里を走っていた「森林鉄道」…
 ●春野町領家和田之谷の半鐘台は2脚…
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2010年1月26日 (火)

「乾燥注意報」発令中―2枚のホーロー看板

西部 遠州北 1月26日 6時02分発表
乾燥
履歴
遠州南 1月26日 6時02分発表
強風 波浪 乾燥
履歴

Yamakajityuui  静岡県西部には、現在「乾燥注意報」が発令中。「実効湿度50パーセント 最小湿度25パーセント」が予想され、空気の乾燥によって、火災の危険が大きいとされています。

 北遠の道で2枚のホーロー看板を見つけましたので紹介します。1枚は「山火事注意 佐久間町」―「自然はみんなのもの 自然を守りましょう」と書かれている合併以前の旧町時代のもの。

Hinoyojin  もう1枚は、水窪で見つけたのですが「心用の火」と右から左へと書かれ、手書き文字の雰囲気があり、何だか古いもののようです。「材製□龍天」とあり、「□」の中には「天」の文字が。「天龍製材」という名の会社か組合が作ったもののようです。

 まっ、とにかく…。火の扱いには十分注意をしましょう!

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トンネルで約1.1キロ短縮した「相月バイパス」

Aiduki  JR飯田線「相月(あいづき)駅」は、第一と第二の2つの「相月トンネル」の間。そして、国道152号を進めばもう3つ目の「相月トンネル」が…。

 「相月トンネル」は全長479メートル。2000年4月に掘削が開始され、2003年9月に開通。それまでのR152は水窪川に沿って大きく迂回していましたが、このトンネルにより「相月バイパス」が完成し、相月~城西間を約1.1キロ短縮することができました。

 1月24日(日)午前9時30分―大輪橋を過ぎた地点で「2℃」だった電光板が、「相月トンネル」西口では「-3℃」を表示。「凍結注意」の文字も点滅し、佐久間の中でもこの辺りは、相当冷え込む地域のようです。

 今朝の佐久間町中部(なかべ)のアメダス。相月は何℃かな?

時間 気温
(℃)

降水量
(mm)

風向
(16方位)
風速
(m/s)
日照時間
(分)
積雪深
(cm)
26日
(火)
5時 -1.0 0.0 静穏 0 0 ---
4時 -0.1 0.0 静穏 0 0 ---

2010年1月21日 (木)

「水窪だけ?」―紙垂を付けた松の枝を供える

Matsu1  昨年の正月明けに訪れた佐久間では、「小正月」に門松の根方や門口に立てかけておく割り木「にゅうぎ」が、野仏に供えられているのを見ることができました。そして今年の正月明けは水窪です。同じく路傍の野仏に供えられた松の枝が…。

 常緑の松は、「神を待つ(マツ)」の意味も含んで正月に備えられる木の代表。「門松」は、「年神様」が来臨する時の目印として正月の門先に立てる風習があります。

 しかし、こんな風に、野仏に供えられているのは初めて見ました。松の枝そのままだったり、紙垂(しで)を付けたりして、立て掛けたり寝かしたりして供えられていました。

 榊(さかき)でもなく、樒(しきみ)でもなく、松の枝と言うところが、いかにも正月らしい光景。これは、北遠、あるいは水窪特有の風習でしょうか?別に珍しいとも思わずに写真を撮って来ましたが、初めて見るような気がして紹介することにしました。これって、水窪だけ?

 知っている方がいらっしゃれば、ぜひ、教えてください!お願いします!

2010年1月 2日 (土)

「優等清酒 登録商標 日本勢」のホーロー看板

Nihonsakari2  龍山町で見つけたお酒の看板―建物2階の外壁に「日本勢」の大きなホーロー看板がありました。

 「優等清酒 登録商標 日本勢」

 「日本勢」?「日本盛」じゃあないの?ニホンイキオイ?

 「賜栄誉賞首位 天竜の酒株式会社」?それって何?

Nihonsakari  店の前面にある縦長の看板を見ると、どうやら「天竜の酒 樹里」で知られた「中部醸造株式会社」の看板のようです。その後は「天竜の酒株式会社」へと社名を変え、「日本勢」は「樹里」へと名前を変えました。その時、CMに登場したのは、あの「ジュリー」こと沢田研二。残念ながら、現在は廃業となっています。

 「KIRIN BEER 麒麟麥酒株式會社」の看板も、なかなかレトロですね~?

 お酒が飲めない私ですが、正月くらいはお酒の話題です。

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 ●「電球はナショナル」のホーロー看板で思い出されるのは…
 ●天竜区熊で見つけた、赤地に白文字「蛇の目ミシン」のホーロー看板です…
 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…
 ●「自動模様編機の開発メーカー アルス編機 編物教室」のホーロー看板…
 ●「一ばん良い ナショナル電球」の横長ホーロー看板は、水窪町での撮影です…
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2009年12月31日 (木)

「だいすき!水窪」UPしました。

 水窪の情報を伝える「だいすき!水窪」がUPされています。

 知っている人も、あまり知らなかった人も、ぜひ、水窪の魅力に触れてみてください!お願いします!

2009年12月27日 (日)

穴の開いた石を供える信仰―足神?耳神?石神?

Ishi4  春野町の犬居橋を渡ったところに建つ「足神様」。地元では「弁天さん」と伝えられているようですが、靴や草履が供えてあるところを見ると、どうやら「足神様」らしいと紹介しました。

 ところが、先日訪れた時に、奇妙なものを見つけました。それは、穴の開いた石に針金を通したものです。さて、これは何でしょう?

Ishi3 大きさはさほど大きくはないのですが、自然に開いたようでもあり、人工的に開けた穴のようでもあり…。その形状から考えれば、耳の病の治癒を願って、あるいは治癒のお礼に供えたものかも知れません。

Ishi5  しかし、この穴の開いた石を「石神様」に供える風習もあるようです。「石神(いしがみ=しゃくじん)」と言えば「御左口神」「御社宮神」「御社宮司」「三社口神」「社宮司(シャグジ)」「社御司(シャゴジ)」などとも呼ばれる諏訪神社ゆかりの農業神。あるいは、安産・良縁・治療・子育てなどに霊験があるとも言われている地域もあります。そのほかに、百日咳の神、疣取り神とする地方も多いそうです。

 …となると、この祠は、単なる「弁財天」や「足神様」ではなかったのでしょうか?石に神霊が宿ると解釈する石に対する信仰の形―これも以前紹介した、丸石信仰にも似た素朴な信仰の形態が、ここ気田川の畔に残されているのかも知れません。

 ●佐久間の「羽ヶ庄(はがしょう)」集落で「常陸足尾大権現」と刻まれた石碑を
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2009年12月25日 (金)

春野町大時って、もともとは「オトギ」?

 「春埜山大光寺」に向かう道「サルゴダ大時線」の終点にある集落―砂川(いさがわ)と「花島(はなじま)」との間にある集落「大時(おおとき)」の地名の意味が気になっていました。「オオトキ」とは一体どんな意味でしょう?「オオトキ=大きな時」って何?

 ところが、ふとしたことで地元の人が「オオトキ」ではなく「オトギ」と発音しているのを聞きました。「今、オトギって言いませんでしたか?」と聞き直すと、「いや、オオトキです」とは言うのですが、話の流れの中では相変わらず「オトギ」と発音しています。もしかしたら、子どもの頃から聞き慣れて言い慣れた地名は「オトギ」ではなかったのでしょうか?

 では、「オオトキ」ではなく「オトギ」だとしたら、どんな意味なのでしょうか?

 実は、奈良県には「オトギ」という地名がたくさん残っています。「乙木」と書かれることもあるようですが、「小峠」の表記が多いようです。「オトギ」が「小峠」であるなら、地名の由来が見えて来るような気がします。「小」を文字通り「小さい」と考えれば「小さな峠」となり、「小」を美称とすれば「美しい峠」となります。

 この説に従えば、「砂川→花島」「胡桃平→牧野」の時に越す「峠」―それが「小峠=オトギ=大時」ということになります。

 そして、もう一つの仮説は、「愛宕」からの転。「アタゴ→オタギ→オトギ→オオトキ」と転訛した可能性です。「愛宕」は「秋葉」と並ぶ火防の神。修験者が徘徊したこの界隈―焼き畑農業による穀物生産の地であるなら、この「愛宕→オタギ→オトギ→大時」説にも説得力があります。

 ちょっと待って!まだ、「大時ってオトギだったんだ」って決めちゃわないでください。これは、あくまでも一つの可能性。ただ、私の耳には「オトギ」と発音しているように聞こえたのですが…。

2009年12月20日 (日)

「COP15」って何?英語のお勉強

 「COP15」って何?よくある質問ですよね?

 「COP」とは「締約国会議(Conference of Parties)」の略。ですから、このところ毎日のようにニュースに登場している「COP」以外にも「COP」はあるわけです。

 で、「COP15」と呼ばれている会議は、国連気候変動枠組条約(UNFCC)を受けて設置されたもので、年に一度、各国の環境に関わる省庁の大臣らが集まり話し合うことになっていて、今回が15回目。だから、コペンハーゲンで開かれた会議が「COP15」になり、来年は「COP16」はメキシコで開かれる予定です。

 ついでですから、こんな言葉も覚えておいてください。

 「地球温暖化」は「global warming」、「気候変動」は「climate change」、「温室効果ガス排出」は「greenhouse-gas emissions」です。どうですか?勉強になりましたか?

「第一證券」のホーロー看板から思い出す「金融ビッグバン」

Daiichisyouken  マニアの間では金融系に分類される「第一證券」のホーロー看板は、春野町若身で見つけました。

 旧日本長期信用銀行系だった「第一證券」は平成12年(2000)、「ユニバーサル証券」「太平洋証券」「東和証券」と合併し「つばさ証券」となり、同14年(2002)「UFJキャピタルマーケッツ証券」と合併して「UFJ証券」となり、同17年(2005)「三菱証券」と合併して現在の「三菱UFJ証券」となりました。

 「証券貯蓄はご家庭の幸福 天竜営業所 天竜市第一通り」と書かれていましたが、現在、天竜営業所はありません。「金融ビッグバン」と言われた再編成の歴史が、1枚のレトロな看板から思い出されました。

 ちなみに「証券」ではなくて「證券」です。

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 ●「ホーロー看板」って、ご存知ですよね?…
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 ●写真のホーロー看板は、佐久間町西渡の「舟戸(ふなと)商店街」で…
 ●またまた、佐久間で見つけたレトロなホーロー看板の紹介…
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2009年12月16日 (水)

「龍頭山戒光院」にあった龍の手水口

Kaikouin  神社やお寺の鳥居や山門をくぐった辺り―私たちを迎えるのが「手水舎(テミズヤ・チョウズヤ)」。「手水」は、テミヅ→テウヅ→チョウズと変化し、一般的には「チョウズ」と呼ばれています。

 この「手水」の作法について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば…

 1.まず柄杓を右手で持って水をすくい、その水を左手に3回かけて清める。
 2.同様に柄杓を左手に持ち替え、右手を3回洗い清める。
 3.柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。終わったら再度左手に水をかけて洗う。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。
 4.これらが終わった後、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。
 5.洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチなどでぬぐう。

Chozu6  …と、この通りしてますか?「手水」には「禊(みそぎ)」の意味合いがあります。

 下の写真は、先日全焼してしまった「龍頭山戒光院」の手水舎。青銅製の「龍の手水口」が、「戒光院」の山号「龍頭山」と、かつての隆盛を彷彿させる見事な造りでしたが…。皆さんの思い出の中に残り続ける「戒光院」(2009年2月21日撮影)の写真を上に掲載しておきます。いつまでも心に残りますように…。

2009年12月 6日 (日)

天竜川に架かる静岡県最北の橋「鷹巣橋」と古い絵葉書の「原田橋」

Takasubashi4  天竜川は長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で一級河川。流路延長は213キロメートル(日本全国9位)、流域面積は5,090平方キロメートル(日本全国12位)。水源となる諏訪湖を発し太平洋に注ぐまでの長旅の間には、たくさんの橋が架けられています。

 長野県から静岡県(浜松市天竜区水窪町)に入り最初の橋となるのが「鷹巣橋(たかすばし)」。飯田線「大嵐(おおぞれ)駅」から愛知県北設楽郡豊根村富山へと渡る橋。銀色に輝く吊り橋です。

 「佐久間ダム」からは約17キロ上流ですが、ここはまだ「佐久間湖」。橋の上から見る「佐久間湖」は満々たる水を湛え、堆砂を浚渫する船の往来も臨めます。次に天竜川を渡るのは「佐久間ダム」堤体の上の県道1号飯田富山佐久間線。その間、天竜川を渡る橋は架けられていません。

Haradabashi384  その下流に架かる「飛龍橋」ですが、私たちがいつでも渡ることができる橋ではありません。で、そのまた下流に架かるのが「原田橋」。すでに、何度も紹介したように、この橋の架橋に私財を投じた原田久吉翁の名に由来する橋です。

 大正4年(1915)に架けられた初代「原田橋」の写真を、古い絵葉書の中から紹介します。「(天龍川沿岸)雄大ナル南天龍峡ニ架セル原田橋」と題し、和服姿の女性が6人。日傘を差した人もいますので、まさに観光写真。文字は右から左へと書かれていますので、大正か昭和の初期のものと思われます。磐田市の佐口行正氏からお借りした絵葉書。この「原田橋」の写真を見て、懐かしいと思われる人も少なくなってしまったのでしょうか?

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
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 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
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2009年11月26日 (木)

北遠の「纏リス」―「春埜山」に到る山道は森町を通る

Matoi2  例の北遠の「纏(まとい)リス」ですが、纏を持ったニホンリス(ホンドリス)が「火気に注意」と呼びかけています。「静岡県天竜地域林野火災防止協」と書かれ、これはすでに紹介したものと同じデザインですが、その下には、「纏リス」のいないバージョンの看板があり、こちらには「森町森林組合 森町消防団」と書かれていました。

 では、この看板がどこに立っていたかと言うと、春野町花島の「春埜山」に向かう山道の脇。つまり、ここは絶対に春野町だと信じていたところだったのです。

 「春埜山」と言えば「春野町」の地名の由来ともなった山。ところが、その山頂、つまり三角点の置かれた地は森町になるのです。もちろん、標高883メートル山頂だけが「春埜山」ではありませんから、「春埜山」全部が森町にあるとは言いませんが、少し意外な感じがしませんか?

 しかも、大光寺に到る道の途中では、明らかに森町地内を経過しなくては行けないようです。私たち浜松市民が「春埜杉」を訪ねる時には、春野町側から「町道サルゴダ大時線」を通り大時(おおとき)からは広域林道春埜山線を通る人が多いと思いますが、その途中で一旦森町を通り過ぎるらしいのです。

 だから、「火気に注意」のホーロー看板は「森町森林組合 森町消防団」のもの。「静岡県天竜地域林野火災防止協」の「纏リス」と仲良く上下に並んで山林火災に睨みを利かせているのです。

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2009年11月21日 (土)

以前紹介の写真は「満島駅」と「万古川橋梁」に訂正します。

Michishima390  以前、三信鉄道「中部天竜駅」開業と門谷川橋梁ではないか、とレポートさせていただいた写真の答えが『三信鉄道全通 記念寫真帖』(非賣品 昭和12年8月 熊谷組發行)の中にありました。

 「中部天竜駅」とお伝えしたのは「昭和11年4月於満島驛」、「門谷川橋梁」とお伝えしたのは「萬古川橋梁全景」(橋桁ハ三菱工業所神戸造船所製作)の写真と同じ場所のようです。「満島驛」は「みつしま」と読み、現在の下伊那郡天龍村平岡の「平岡駅」のこと。「萬古川橋梁」とは「万古川(まんごがわ)橋梁」と読み、「平岡駅」の近くに架けられています。

 この答えを知りたくて知りたくて数ヵ月が過ぎましたが、世の中、不思議なことが起きるものです。私の書いたブログを読んだ千葉県の夏目さんが、「同級生の父親が三信鉄道に関わっていた人。もしかしたら、答えを知っているかもしれない」と案内をかって出てくれました。千葉県からやって来た夏目さんと、飯田線「野田城(のだじょう)駅」で合流。すぐ近くの山口さん宅にたどり着きました。

Monkogawa388  「これが、親父の残したアルバムです」と、山口さんが示してくれた2冊の中には、「三信鉄道」全通に到るまでの工事の写真がびっしり。はやる気持ちを抑え、1枚、また1枚とページをめくり、貴重な資料の中で先の写真を見つけました。

 既に私の記事の間違いに気づいていた人もいらっしゃったかも知れませんが、今度は間違いありません。まだ数時間前に確認したばかりですが、早速公開します。

 2冊のアルバムの中の資料写真については、今後、数回に分けて紹介していきます。

 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道博物館…
 ●トロッコファミリー号について調べてみました…
 ●初代新幹線「0系」や「湘南カラー」と呼ばれるオレンジと深緑の列車など…
 ●「渡らずの鉄橋」とは、もちろん通称。正式には「第6水窪川橋梁」と言います…
 ●出馬 - 上市場 - 浦川 - 早瀬 - 下川合 - 中部天竜 - 佐久間 - 相月 - 城西…
 ●2006年、惜しまれながら営業運転を終了したトロッコ列車「ファミリー号」の…
 ●以前、「JR飯田線『中部天竜』駅の変遷」の項で…
 ●飯田線の「渡らずの鉄橋」は、「城西」~「向市場」間に架けられた…
 ●「峯トンネル」は飯田線で2番目に長いトンネル…
 【関連記事】三信鉄道の測量を指揮―アイヌの測量技師「カネト」
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 【関連記事】車両番号「クハ118-5002」
 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道車両博物館で…
 【関連記事】勇気があれば歩いて渡れます―「天竜川橋りょう」
 ●「三信鉄道建設工事殉職碑」は、佐久間小学校の奥…
 【関連記事】昭和9年11月11日「浦川駅」「佐久間駅」開業
 【関連記事】「奥山川」を跨ぐ三信鉄道「奥山川橋梁」
 ●「第貮大千瀬川千参径間六十呎桁送出シ図」と裏書された写真…
 ●「第四相川橋梁 六十呎鉄桁送出作業」と書かれた3枚の写真…
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 【関連記事】「小和田」~「大嵐」間に架かる「門谷川橋梁」
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 ●飯田線「大嵐駅」―水窪町奥領家にあり難読駅名として有名…
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 ●「水窪駅」と「大嵐駅」との間にある「大原トンネル」は、飯田線最長のトンネル…
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2009年11月17日 (火)

古い絵葉書に見る「錦橋(きんばし)」

Kinbashi374  絵葉書には多くの橋の写真が使われています。

 このブログの中でもしばしば取り上げさせていただいた「錦橋(Kinbashi)」。橋の名前は、佐久間町浦川の小田敷(こだしき)に住んでいた「四ツ門きん(よつかどきん)」媼の名に由来することはすでに紹介した通りです。

 四ツ門媼(1842~1906)は明治36年(1903)、大千瀬川の渡船の不便さを訴えて当時の郡長に吊り橋架設の願いを提出。翌37年(1904)、私財を投じて橋を完成させました。橋は「錦橋」と名付けられたのですが、地元では親しみと尊敬の意味を込め、今でも「おきん橋」と呼んでいます。

Kinbashi342 現在の「錦橋」は3代目。初代の「錦橋」の画像は古い絵葉書の中に残されていますが、すでに紹介したものとは違う1枚が、磐田の佐口行正氏から届きました。前回紹介した横位置のものとは違い、今回の絵葉書は縦位置。「(北遠浦川風景)きん橋(伊勢屋發行)」と右から左へと書かれています。参考までに、前回紹介済みののものと2枚並べてみることにしました。

 それにしても、私たちはどうしこんなに橋が好きなのでしょう?古い絵葉書の中では、実に多くの橋が地域の歴史を語り伝えています。

 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
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2009年10月29日 (木)

ドングリ図鑑⑪―外国からの友だち「コルクガシ」

Korukugashi1  日本では、ちょっと珍しいドングリ。さあ、何のドングリだと思いますか?

 実は、あのイベリコ豚の食糧として知られるコナラ属「コルクガシ」のドングリがこれ。「はままつフラワーパーク」で見つけました。

 この木の樹皮の軟らかい組織を剥がして加工したものが「コルク」と呼ばれる素材。そのまま打ち抜いてワイン栓にしたり、圧縮整形して用いたり。「カシ=樫」と言えば「堅い木」の代名詞ですが、この「コルクガシ」の樹皮の温かみを感じさせる軟らかさは、私たちのよく知る通りです。

 スペインやポルトガルなどの暖地に自生する「コルクガシ」は成長が早く、樹皮を剥がしても10年ほどで復元します。木を伐採しなくても利用できますので、とてもエコロジーな資源と言えますね。

 ドングリの形や殻斗(かくと)の模様は「ミズナラ」や「ナラガシワ」に似ています。外国産のドングリくんも、「ドングリの背比べ」の仲間に入れてあげてください。

 【関連記事】イベリコ豚が食べている「コルクガシ」のドングリ

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2009年10月26日 (月)

「戸口橋」下に残された旧橋の主塔

Tenryugawa  橋を架け替える時、仮橋を架けない限りは、位置がずれるのが当たり前。現在の「戸口橋」は昭和45年(1970)に架け替えられたもの。古い写真によれば、それ以前の橋は吊り橋でした。

 最初の橋が架けられたのは、確か大正14年(1925)。「渡り初め」の写真がありましたので、間違いないと思います。次の橋が架けられたのは昭和36年(1961)。『広報 佐久間』の記事中で集中豪雨による被害が報告されていました。そして、現在の赤い「戸口橋」。現在の「戸口橋」は、3代目ということになります。

 「戸口橋」を歩いて渡ってみることにしました。私の吊り橋嫌いは、すでに皆さんご存知かも知れませんが、実は吊り橋のように揺れなくても、高いところというだけで足が震えます。この日の天竜川は、ご覧のような青さ。遥かかなたに見える白い建物は、中部電力「西渡発電所」です。つまり、「戸口橋」の真中辺りから上流を眺めたのが、この写真。そして、下流を眺めると…。

Toguchibashi8  あれ?あそこに見えるのは何でしょうか?青い水に倒れたままのコンクリート建造物。途中で折れていますが、あれをあれの上に乗せたとしたら…。もしかしたら、あれが旧「戸口橋」を吊っていた主塔?

 そう言えば、地元のお年寄りに聞いたことがありました。「昔の戸口橋って、どの辺りに架けられていたんですか?」と。「ああ、吊り橋?ちょっと下だったな」。

 想像していた位置ともピタリと合います。十中八九間違いありません。

 私の想像では、初代の「戸口橋」は木造だったのだろうと思います。2代目の吊り橋は鉄製だったのでしょう。そして、3代目は現在のトラス橋。それが、私が歩いて渡った橋。

 旧橋の主塔があれだとすると、ずい分低い位置に架けられていたことになります。「大井橋」と同じく道路の位置をグンと高くし、旧橋よりも少し上流に架け替えられたのでしょう。

  何も考えずに渡っていれば、いつもの橋も、ちょっとだけ好奇心を持てば、そこにも山里の歴史が見えて来ます。昭和45年、「戸口橋」が竣工した年に、久根鉱山は採掘を放棄。239年に渡る長い歴史にピリオドを打ちました。

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 ●昭和45年(1970)竣工の「戸口橋」以前は、大正14年(1925)に竣工となった旧「戸口橋」…
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 ●国道152号を北上、大輪橋を渡り天竜川左岸を行くと戸口の放水口。すぐ隣りを流れ落ちる滝を知らない人はいないと思いますが…

2009年10月25日 (日)

列車の窓から見た「門谷川橋りょう」

Kadotanigawakyoryo  以前、工事中と工事完成直後の鉄橋の写真を掲載し、もしかしたら「門谷川橋梁」ではないか、と紹介したことがあります。ようやく、「大嵐(おおぞれ)」~「小和田(こわだ)」間に架かる「門谷川橋りょう」の写真を撮ることができました。

 撮影は10月12日(月)の「体育の日」。この鉄橋を見たくて、飯田線の列車に乗り込みました。乗車したのは「水窪」駅。途中「大嵐」駅で途中下車、次の列車で「小和田」に向かいました。「大嵐」を出発して、すぐにトンネル。そして2つ、すぐに3つ目。3つ目のトンネルを出る瞬間、緑色の鉄橋が目に飛び込んで来ました。そして「門谷川橋りょう」の白い文字。コレだ!カシャ!

Kadotani351 どうでしょうか?古い写真に写る鉄橋は、この鉄橋でしょうか?列車はすぐに次のトンネルに入りましたので、ゆっくり眺めている時間はありませんでした。撮った写真も1コマだけ。これで、真偽が判定できるほどのものではありませんが、旧「三信鉄道」の鉄橋で、この形のトラス橋が他にはなさそう。今日の段階では、古い写真の鉄橋は、この「門谷川橋りょう」の可能性が高いとしておくことにします。

 *古い写真は「万古川橋梁」のものと判明しました。

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2009年10月24日 (土)

「町道サルゴダ大時線」の「サルゴダ」ってナニ?

Sarugoda  春野町の「新宮池」や「春埜杉」に向かう時に通る山道。国道362号を右折、県道58号袋井春野線を東に進み「新不動橋」手前を左折し山道に入ります。

 この山道が「町道サルゴダ大時線」。「サルゴダ」?それってナニ?

 不思議なカタカナです。町道の名前ですから、地名だと思うのですが、それが何処なのか分かりません。「サルゴダ」とネットで検索すると、パキスタンの「サルゴダ(Sarghoda)」がヒットしますが、まさか春野とパキスタンとが町道によって繋がっているなんて話は聞いたことがありませんよね?

 困った時には、地元に聞くのが一番。和泉平の「春野陶房」吉田克秀氏にメールして尋ねてみました。そして、その答えが届きました。「サルゴダとは…」。
 
 私も4年前移住した当初、「サルゴダってどういう意味?」と聞きまくりました。ほとんどの人が知りませんでしたが、ある人がこんなことを話していました。

 かつて、平地が貴重な春野では、狭い平地でも田んぼにして稲を育てていたそうです。江戸時代後期、「新宮池」半分を田んぼにしようと挑戦した話も聞きました。ということで、新不動橋周辺を「サルゴダ」と言い、昔、その川沿いの平の場所は田んぼだったそうです。そこにたくさんの猿の子供がいた、と言う話です。だから、敢えて漢字を当てれば「猿子田」です。

 「聞いた話ですが…」とのことですが、大変興味深い回答。残念ながら、手元にある「静岡県地名大辞典」(角川書店)には、この字名は掲載されていませんでしたので、どこまで本当かは確かではありませんが、あり得る話だと思います。

 でも、カタカナの地名「サルゴダ」もなかなか良いですね?写真の標識は、砂川(いさがわ)の湧水のところに立っていました。

2009年10月23日 (金)

「佐久間線」遺構―「山王隧道」

Sanouzuido  立ち寄ってみました。未成線「佐久間線」の遺構、「山王隧道」の山王側の写真です。

 「佐久間線」とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば…

 佐久間線は長野県伊那地方と静岡県遠州地方を結ぶ路線として計画された鉄道路線である。

Sanno  旧国鉄二俣線・遠江二俣駅(現天竜二俣駅)から飯田線・中部天竜駅までの約35kmの路線(橋20ヵ所、トンネル14ヵ所)として開通する予定で、昭和42年(1967)7月12日に総工費81億円の予定で建設を開始したが、同55年(1980)約13kmの区間で工事が進められ約50%完成したところで、国鉄再建法により工事が凍結、工事そのものが中止された。遠江二俣~遠江横山には、築堤やトンネル・橋などが、現在も所々残っている。

 その、「所々」が結構見つかります。

 隧道は山王地区に残る築堤を南に向けてたどれば比較的見つけやすいところにありますので、あなたもぜひお立ち寄りください。もちろん柵がありますので、中には入れません。

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2009年10月22日 (木)

未成線「佐久間線」の「引照標」とは?

Hikitakankyo3 未成線「佐久間線」遺構となる築堤を訪ねてみました。立ち寄ったのは「引田函きょ」 。「昭和42年7月12日に着手、同44年3月11日竣工」とされています。当時は「国鉄=日本国有鉄道」の総工費85億円の計画路線でしたが、ほぼ50%完成の段階で工事は中止されたままとなりました。

 「函きょ」の築堤には、「工」の字が刻まれた「引照標」が立っていました。探してみると、築堤のあちらこちらに、このコンクリート製の杭が立っています。この「引照標」とは一体、何でしょう?

Insyohyo0  詳しくは分かりませんが、「引照標」とは、一般に言われる「境界杭」のことのようです。そして「工」は、鉄道の敷地で見られる標識杭の文字。鉄道工事の区域を示す標識に間違いありません。

 現在、この土地の所有は、どうなっているのでしょうか?かつては「国鉄清算事業団」の土地だったはず。その後、昭和63年(1988)に「国鉄清算事業団」が解散すると、「鉄道公団」がこれを継承し、さらに「鉄道公団」の業務は「独立行政法人・鉄道建設運輸施設整備支援機構内国鉄清算事業本部」を経て、昨年の平成20年(2008)4月には「国鉄清算事業管理部」「国鉄清算事業用地部」に業務が継承されているそうです。

 …で、どうなったの?私の頭ではよく分かりませんが、「工」の標識杭は、昭和42年の工事開始以来、あそこにああして立っているのだと思います。

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2009年10月15日 (木)

北遠の森は、「纏リス」の森

Matoirisu  「山火事予防のシンボルマーク」の「纏(まとい)リス」―以前紹介したものとは少しデザインが違う丸型のホーロー看板を水窪町で見つけました。

 「たき火 たばこ に注意 山林協会北遠支部」と書かれ、リスは纏を立てて得意気に胸を張っています。もしかしたら、北遠の森にはもっといろんなデザインの「纏リス」がいるのかも知れませんね。北遠の森は、「纏リス」の森。そうだ!もっと探してみよう!

Syobo  前回の記事に引続き、消防の古い写真を紹介します。これには「山香村消防」との但し書きがついているだけで、いつ頃撮影されたものかは分かりませんが、「山香村消防組」と染め抜かれた法被の下は、股引に「どんぶり」と呼ぶ腹掛け、足元は足袋に草鞋(わらじ)を履き、手には鳶口を持っていますので、かなり古い写真と想像します。

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2009年10月 9日 (金)

船明に残された旧「佐久間線」の名残り―「大池函渠」

Chikutei4  すでに何回か紹介させていただいている「佐久間線」―旧国鉄二俣線「遠江二俣」駅(現:天竜浜名湖鉄道の「天竜二俣」駅)と、飯田線「中部天竜」駅、あるいは「佐久間」駅の間を結ぶ計画だった鉄道です。

 その工事は昭和42年(1967)から始まり、12年後には中止されましたが、線路を敷くはずだった築堤はまだかなり残っています。写真は、旧「船明(ふなぎら)小学校」跡の東に残る築堤。この先には「船明隧道」が残されています。

 この工事が、いつ始まり、いつ終ったのかを示す記録が、写真の右側手前に写るコンクリート建造物「大池函渠(かんきょ)」に嵌めこまれた金属プレートに刻まれていました。

Kankyo  「大池函きよ 着手 昭和44年11月11日 しゆん功 昭和45年1月6日」。

 「函渠」とは、この築堤の下をくぐる用水路のトンネルのことです。この「函渠」は、「佐久間線」工事開始の3年後、昭和45年(1970)に完成していました。この「大池函渠」の辺りに「船明」駅ができる予定だったとのこと。もしも開通していたら、山里の暮らしは一変していたことでしょう。

 線路が敷かれ列車が走っていたはずの築堤も、あちこちで取り崩しが始まっています。やがて、この「函渠」も取り壊されてしまうのでしょうか?できるなら、一度、この築堤の上を列車が颯爽と走る姿を見てみたものです。

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2009年10月 4日 (日)

「中部天竜」の開業は三信鉄道「佐久間」駅

Nakabe354  「佐久間レールパーク」があるのは飯田線「中部天竜(ちゅうぶてんりゅう)」駅―「三信鉄道」が開通した昭和9年(1934)11月11日当時は、「佐久間」駅としてのスタート。写真には裏書がありませんので、確かなことは言えませんが、島式ホームの特徴からして当時の「佐久間」駅開業式典当日のものだろうと思います。(違っていたらゴメンナサイ)

Nakabe356  11月11日の山里の駅は、鉄道開通を祝う住民で溢れました。洋服や着物、学生服姿も見えます。男性は帽子、女性は日傘。目一杯のオシャレを決め込んで、開通記念の「花電車」を見に集ったのです。

 天竜川を舟で下るか、何日もかけて陸路を行くか…。そんな山間僻地の山里に、電気で走る鉄道が通ったのです。これで、「鳳来寺鉄道」「豊川鉄道」と乗り継げば、「吉田」(豊橋)にも出られます。きっと「盆と正月が一度に来た」以上の祭り気分で、この日を迎えたことでしょう。

Nakabe355  写真をよく見ると、終着駅だったはずの「佐久間」駅からさらに線路が延びているのが見えます。「三信鉄道」は、同11年(1936)には「佐久間」~「天龍山室」間を延伸開業。「佐久間水窪口停留場」(現在の佐久間駅)が新たに開業し、「佐久間」駅は現在の「中部天竜(なかっぺてんりう)」駅へと名称を変更しました。

 *写真は、長野県下伊那郡天龍村平岡にある「平岡駅」の前身、「満島駅」のものと分かりました。

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 ●2006年、惜しまれながら営業運転を終了したトロッコ列車「ファミリー号」の…
 ●以前、「JR飯田線『中部天竜』駅の変遷」の項で…
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2009年10月 3日 (土)

「小和田」~「大嵐」間に架かる「門谷川橋梁」

Kadotani351  「三信鉄道」工事当時の写真を貸していただきました。実際に工事に携わった人の大切なアルバムに貼られた写真です。主に鉄橋の測量に携わっていたらしく、アルバムには鉄橋の写真がたくさんあります。写真の裏にメモ書きが残されているものは、もちろんどの鉄橋かの特定は簡単でしたが…。

Kadotani348  この写真に写っているトラス鉄橋は、一体どこに架かっているのでしょう?現在の飯田線区間、そして佐久間ダム工事により廃線となった区間のデータを、あれこれ調べてみました。

 その結果、この写真によく似た鉄橋が、水窪町の「小和田」駅~「大嵐」駅間、天竜川の支流、門谷川(かどたにがわ)に架けられていることが分かりました。鉄橋の名は「門谷川橋梁」。昭和11年(1936)に完成し、翌年(1937)8月この鉄橋上で北からと南から延びた線路が連結され、全線開通となった歴史的な鉄橋です。

Kadotani349  現在の「門谷川橋梁」の写真は撮ってありませんが、見る限りではそっくりです。深い緑の山間に架かる緑色に塗装された鉄橋。この写真が「門谷川橋梁」のものだとすれば、完成当時の門谷川では木流しが行われていたことになります。鉄橋の両端はトンネル―きっと大変な難工事だったことでしょう。

 工事中、完成直後の写真もありましたので、3枚並べてみました。トンネル~鉄橋~トンネル…。これが「三信鉄道」―現在の「飯田線」です。

 *その後の調査の結果、写真は、「万古川橋梁」のものと分かりました。

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2009年9月22日 (火)

4本足の変な蝶「クロコノマチョウ」も北上

Korokonomacho0 南方系の蝶の北上―変温動物である蝶は気温の変化を感じやすく、また観察のしやすさもあって地球温暖化の指標になると注目されています。「ナガサキアゲハ」「ウラナミシジミ」もそうですが、先日紹介したジャノメチョウ科の「クロコノマチョウ」もその一つ。

 この「クロコノマチョウ」、昆虫でありながら足が2対4本しかありません。ねっ、変でしょう?タテハチョウの仲間は4本足なのです。でも、学校で「昆虫の足は6本」と習いましたよね?正確には、2本が退化して4本足に見える、と言うべきでしょうか?

 止まっている間の翅は閉じたままですので、翅表をお見せすることができませんが、前翅に大きな蛇の目模様がついています。

 もともとは、本州南西部の暖地から四国、九州、屋久島、種子島にかけて分布。東海地方に定着し始めたのは、昭和30年代以降のこと。現在では「ナガサキアゲハ」同様、北部関東地方にまで生息域を広げています。

 「忍法木の葉隠れ」が得意な「クロコノマチョウ(黒木間蝶)」。4本足のヘンテコリンな蝶ですが、私たちに地球温暖化の危険を知らせに飛んで来たようです。

 蝶の図鑑―INDEX…検索はこちらからお願いします。

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2009年9月20日 (日)

浜松市の生息確認は1997年―「ナガサキアゲハ」

Nagasakiageha0  「地球温暖化」の指標とされている南方系の蝶、「ナガサキアゲハ(長崎揚羽)」。そんなに簡単に出会えるとは思っていなかったのですが、意外と簡単に見つかってしまいました。良いことなのか、悪いことなのか…。少し不安を感じさせる出来事ではあります。

 「ナガサキアゲハ」の北上は、ここ50年のこと。例えば、1940年代には、その名の通り九州や四国南部が確認の北限だったのです。しかし、1980年代には和歌山県や兵庫県で「ナガサキアゲハ」の確認が報告されました。浜松市の最初の生息確認は、1997年。そして、2000年以降、とうとう関東地方でも確認されるようになったのです。

 研究によれば、1年間の平均気温が15度程度まで上昇すると、「ナガサキアゲハ」が見られるようになると言われています。しかも「ナガサキアゲハ」の翅の黒い部分は、北上につれて大きく濃くなっているのだそうです。

 浜松市の年平均気温って、何度くらいなんでしょう?浜松市の年平均気温の推移について調べてみました。気象庁のデータによれば、1915年の浜松市の年平均気温はすでに「15.1度」と報告されています。その後、1945年「15.3度」、1955年「15.4度」、1965年「15.6度」、1975年「15.5度」、1985年「15.7度」、浜松で「ナガサキアゲハ」の生息が確認された頃の1995年「16.2度」、そして2005年には「16.6度」と確実に上昇しています。

 これが、まさに「地球温暖化」の足取り。しかも、「ナガサキアゲハ」の幼虫がミカン科の植物の葉を食べて育っていると知れば、北区のミカン園で「ナガサキアゲハ」が目撃されていたのは、当然と言えば当然のことではあるのですが…。

 ●アゲハチョウ科の黒色アゲハで、尾状突起がないのは「ナガサキアゲハ(長崎揚羽)」だけ…
 【関連記事】「ナガサキアゲハ」―浜松でも生息確認!
 【関連記事】旧「竜洋町」でも「ナガサキアゲハ」を確認!
 【関連記事】ナガサキアゲハ発見 上伊那地域では珍しく
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2009年9月18日 (金)

光り輝く姿―三田島の「延命地蔵菩薩立像」

Jizo 室町時代中期京都の仏師の作と推定される。古い杉の木を主材とした寄木作りで漆地に金箔を張った立像である。仏像の総丈は161㎝の等身大で、台座の裏には秋葉山第七世住職任了雲和尚の銘文が記されている。

 春野町長蔵寺三田島(みだしま)の社の前には、「町指定文化戝(彫刻)」と書かれた看板が立ち、中に祀られていたのが写真のお地蔵さまです。

 お地蔵さまは、一部金箔が剥がれかかってはいますが、滅多に見ないほどに美しい姿。右手に杓杖、左手の宝珠を持ち、輪光と呼ばれる丸く厳かな光背を頭の後ろに背負っています。

 ただ、気になることが、いくつかあります。その一つは「秋葉山第七世住職任了雲和尚」の名。現在では、秋葉神社と秋葉寺との分かれていますが、かつては神仏混淆の「秋葉大権現」を祀る山でしたので、その時代には「了雲和尚」と呼ばれる「住職」がいたのでしょうか?そして、「秋葉山」と「三田島」との関係は?どうして「地蔵」なのでしょうか?

 「三田島」の名が「阿弥陀島→弥陀島」に由来しているとなれば、なおさら謎が深まるばかりです。

 *「文化戝」の「戝」の字は「財」の旧字です。

 【関連記事】「長蔵寺」跡に育つ「三田島のイチョウ」
 【関連記事】「三田島のイチョウ」に生えた乳房
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2009年9月16日 (水)

大千瀬川を渡る「錦橋」の古い絵葉書

Kinbashi342  「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の「島中」と「柏古瀬」の間に架かり、鮎で有名な大千瀬川を渡る橋。

 明治36年(1903年)(当時)大千瀬川には橋がなく、川合・島中・小田敷方面との往来には、渡船が利用されていました。渡船は川の水量が少しでも増すと、渡場は閉ざされて利用できなくなるのが実情でした。

 この状況を見かねた(当時)小田敷区在住の四門 錦(よつかどきん)さんは奮起し、実に2,480余円の私財を投じてこの地に橋をかけたのです。

 これは、「錦橋(きんばし)」のたもとに立つ「錦橋の碑」に刻まれた文字。国道473号の「島中」と「柏古瀬」の間に架かり、鮎で有名な大千瀬川を渡る「錦橋」の古い絵葉書を、磐田の佐口氏からお借りしました。

Kitte344  絵葉書は「北遠浦川風景 大千瀬川 錦橋」と右から左へと書かれています。実は、この絵葉書は使用済みのもの。東京の本郷から「静岡縣磐田郡浦川村」に宛てて出されたもの。当然、「壹銭五厘」の切手には郵便局の消印が押されています。その日付は「10.7.20」。大正?昭和?

 この切手は、昭和6年(1931)に発行されています。となれば、「10.7.20」とは「昭和10年7月20日」となり、内容は浦川で食べた川魚や鮎の味や、風景を懐かしむ「暑中見舞」です。

 絵葉書は、初代「錦橋」の写真。昭和10年ですから、「錦橋」の少し南には、「三信鉄道」の第2大千瀬川橋梁が架けられていたはずです。

 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
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2009年9月14日 (月)

蝶の図鑑―「アゲハチョウ科」

 いつの間にか蝶のコレクションが増えて来ました。大きくて見ごたえがある蝶と言えば、何と言っても「アゲハチョウ科・アゲハチョウ亜科」。これまでに掲載した写真を含めて一覧にまとめてみました。

 翅の鱗粉の色は、黒っぽいものが多いのですが、よく見ると白・赤・黄・オレンジ・青・緑…と鮮やか。後翅に伸びる長いオシャレな突起を「尾状突起」といい、「ナガサキアゲハ」を除けばほとんどの仲間に見られます。

 幼虫はミカン類やサンショウなどの葉を食べて育ちますので、『静岡県観光大使』をお願いしても良いのでは?まあ、害虫と言えば、害虫なのですが…。

 ミカン農家で生まれ育った私にとって、夢中になって追い掛け回した懐かしい蝶たちです。

Namiageha2 Kiageha
↑ナミアゲハ(並揚羽) ↑キアゲハ(黄揚羽)
Aosujiageha Jakoageha
↑アオスジアゲハ(青筋揚羽) ↑ジャコウアゲハ(麝香揚羽)
Kuroageha Karasuageha
↑クロアゲハ(黒揚羽) ↑カラスアゲハ(烏揚羽)
Nagasakiageha5_2 Onagaageha
↑ナガサキアゲハ(長崎揚羽) ↑オナガアゲハ(尾長揚羽)
Monkiageha
↑モンキアゲハ(紋黄揚羽)

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2009年9月11日 (金)

秋風に吹かれる瑞雲院の「シャチホコ」

Syachihoko  屋根の上に飾られている魚のような形をしたもの―名古屋城の「金の鯱鉾(シャチホコ)」でも有名な「シャチホコ」です。鯨やイルカの仲間の「シャチ」と勘違いされてもいますが、「シャチホコ」の「シャチ(鯱)」とは、頭は虎に似、背に鋭いとげがあり、常に尾をそらしているという想像上の生き物です。

 「鉾」とは本来、槍のような武器。武器として使われることが少なくなり、祇園祭の「山鉾(やまぼこ)」のように神事の屋台の屋根を装飾。やがて、火災の時には水を噴いて守るとの願いから、あの靴のような形をした鴟尾(しび)に代わって、城や寺社の棟瓦の両脇を飾るようになりました。

 写真の「シャチホコ」は、春野町の「瑞雲院」の鐘楼を飾るもの。雄と雌とがペアになっているとのことですが、「向かって右が…」と言われても、どちらが雄でどっちが雌?それにしても、年がら年中「シャッチョコ張って」いますが、疲れませんか?

 吹き抜ける風に秋の気配を感じるようになりました。春野の「シャチホコ」たちも、秋の訪れを感じているでしょうか?今日も、「瑞雲院」の屋根の上で、「シャッチョコ立ち」しています。

 ●「瑞雲院鐘楼堂」は、弁柄(べんがら=紅殻)塗りの赤い鐘楼…
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 ●「2月6日(金)午後1時 駒形稲荷大明神祭典」の貼り紙を…
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 ●例えば、春野の「秋葉神社」、例えば「秋葉寺」「瑞雲院」―その山門や鐘楼は、赤く塗られて…
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2009年9月10日 (木)

クマゼミ、福島市で生息情報=昨年より北上、温暖化原因?

Kumazemi2_2  民間気象情報会社のウェザーニューズは9日、クマゼミの生態に関する全国調査の結果をまとめた。クマゼミは西日本を中心に関東南部までが生息範囲とされていたが、今年は東北地方の福島市でも目撃情報があり、昨年の調査と比べ生息地点が北上した。同社は「地球温暖化や(都市部の気温が郊外より高い)ヒートアイランド現象が原因の一つと考えられる」と推測している。

 調査は2008年に続いて2回目で、会員からクマゼミに関心を持つ情報が寄せられたことをきっかけに始めた。今年は、同社の携帯電話向けサイトの会員から寄せられた1423件の報告などを基に、生息域などを分析した。昨年は福島県郡山市が生息情報の北限だった。また、昨年同様、今年も北陸地方の石川県で生息情報があった。(「時事通信」配信より)

 こんなニュースが伝えられました。昨日も、浜松市西区の「ガーデンパーク」で「ナガサキアゲハ数頭を目撃した」との話を聞いたばかり。南方系の昆虫の生息域が北上しているのは確かなようです。

 身近な自然に関心を持つことで、さまざまな変化が見えてきます。ぜひ、目を見開いて、自然を観察してください!もちろん、楽しみながらですけどね…。

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2009年9月 8日 (火)

旧「犬居橋」の架かっていた場所って、どこ?

Inuibashi  現在、気田川に架かる「犬居橋」は、昭和62年(1987)6月の竣工。もちろん、かつては渡船だったのですが、この「犬居橋」が完成するまでは橋がなかったのか、と言うと、そんなことはありません。現在の橋の少し上流に当る場所に、写真のような石造りの柱が残っていました。

 柱に刻まれた文字を読んでみましょう。「昭和二年五月竣功」―同2年(1927)5月に旧「犬居橋」が完成、60年の間、春野町堀之内の大きく蛇行した気田川の両岸をつないでいたのです。対岸にコンクリート護岸のようなものが見えますので、もしかしたら、あの辺りが旧「犬居橋」でしょうか?

 しかし、待ってください。秋葉詣での旅人で賑わった犬居の渡船場は、もう少し下流だったはずです。その名残りが「犬居橋」下流に立つ常夜燈だったはず。だとすれば、旧「犬居橋」は、その渡船場に架けられるべきだったと思うのですが…。

 「あのう…。犬居橋は最初からこの場所に架けられていたのですか?」。橋の近くに住んでいる人に話を聞くと、旧「犬居橋」のさらにその前には、現在の「犬居橋」の下流に橋が架けられていたと言うのです。やっぱり!そうでしょう、そうでしょう!

 現在の若身や犬居の商店の並び方を見ると、ともに現在の国道362号の南側の道路に沿って延びていますので、そこに橋が架けられていたと言う方が自然です。だったら、現地で調べてみればいいじゃん!そうです。仰る通りです。次回、調べてみることにしましょう。

2009年9月 5日 (土)

「三田島」の由来は「弥陀島」

Amida  突然ですが、慶應義塾大学と言えば「三田(みた)」―かつては「御田」「美田」「箕田」「箕多」とも書かれたことがあり、また「弥陀」とも…。春野町長蔵寺(ちょうぞうじ)の「三田島のイチョウ」で有名な「三田島」の由来は、どうなんでしょうか?「三田島」は、「みたしま」「みたじま」ではなく「みだしま」と読んでいます。

 かつて、この地には「長蔵寺」という寺があったとされます。その本尊が「阿弥陀如来」だったのでしょうか?この疑問を胸に、現地を訪れてみました。

 お寺があったという場所には、現在、寺ではなく赤い鳥居の社が祀られています。ところが社の中には、神社とは無縁と思われる、旧春野町の文化財に指定されていた金箔張りの「延命地蔵菩薩立像」が立っていました。神社?寺?

 向かって右側には、稲荷神社が祀られ、向かって左側には、写真のような与願(よがん)、施無畏(せむい)印の坐像が安置されています。神社?寺?

 よく見れば、これは、まさに私が探していた「阿弥陀如来」。「南無阿弥陀仏」の念仏でもお馴染みの仏です。これが、「長蔵寺」の本尊?天正初年(元年?1573)に廃寺となったとされる「長蔵寺」とは、「浄土宗」「浄土真宗」の寺だったのでしょうか?

 以前から「三田島」の地名が気になっていました。そして今回、その由来が少しだけ垣間見えたような気がします。「三田」=「弥陀」の説を裏付ける証拠として、平成5年に旧春野町教育委員会によって建てられた看板には、「三田島のイチョウ」の文字の下に「(弥陀島)」と確かに書き添えられています。やっぱりね。「三田」=「弥陀」で決まりのようです。

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千葉からの便り―温暖化の指標「ナガサキアゲハ」

Nagasakiageha  アゲハチョウ科の黒色アゲハで、尾状突起がないのは「ナガサキアゲハ(長崎揚羽)」だけ。この「クロアゲハ」に似た「真っ黒くろすけ」は、「ナガサキアゲハ」の♂です。2枚の写真は、実は千葉県柏市から送られて来たもの。南方系と呼ばれるこの蝶の北限は、すでに千葉県を超えているのは間違いありません。

Nagasakiageha2  かつての日本では、九州以南にのみ棲息。シーボルトが長崎で最初に採集したところから「長崎」の名がつきました。近年の温暖化の指標として注目されている蝶。その要因のすべてがいわゆる「温室効果ガス」だとは言い切れないのかも知れませんが、気になる存在であるのは確かです。

 浜松で探して見つからずにいたのに、あっさり千葉県からの報告が届くとは、インターネットの威力ってすごいですね?いや~、ホントにすごい世の中です。

 幼虫の食草は柑橘類ですので、ミカンの産地の静岡県は生育しやすい環境のはず。明日から、また探してみることにしましょう。「ナガサキアゲハや~い!」。

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2009年9月 4日 (金)

「川施餓鬼」と「北方増長天王」とは?

Kamihata  先日、佐久間町西渡の「川施餓鬼」場所で、四方に立てられた竹に張られた縄に吊るされた短冊=紙旗が気になりましたので、調べてみました。

 風に翻っていますので、文字が読みにくいのですが、「南方増長天王」と書かれています。そして裏返っている紙旗には「南無多寳如来」。これは、ともに仏様の名。「施餓鬼会」には欠かすことのできない仏様であることが分かりました。

 先ず、「南方増長天王」は、「四天王」と呼ばれる仏の一人。その「四天王」とは、手に琵琶を持ち国土を守る「東方持国天王」、左手に籠を持ち、民衆を守る「西方広目天王」、左手に銀色の鼠、右手に傘を持ち、民衆の富と幸せを守っている「北方多聞天王」と、剣を構える姿で、人間を慈善の道へ導く「南方増長天王」。「須弥山(しゅみせん)」を守護する、「持国天」「広目天」「多聞天」「増長天」のことです。

 また「南無多寳如来」は、「南無寳勝如来」「南無妙色身如来」「南無広博身如来」「南無離怖畏如来」「南無甘露王如来」「南無阿弥陀如来」とともに「七如来」とされています。

 「施餓鬼会」とは、新亡の霊や先祖代々の諸霊を供養するとともに無縁仏や餓鬼の施しをする法要。「施餓鬼」の由来は、『救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぐくえんこうがきだらにきょう)』というお経によると言われています。

 それによると、釈尊の十大弟子の一人である、阿難尊者(あなんそんじゃ)が、ひとりで瞑想している時、口から火を吐く1人の恐ろしい餓鬼があらわれ、「お前は3日後に死んで、我々と同じ恐ろしい餓鬼道に落ちる。」と言いました。恐れおののいた阿難尊者が、どうしたらそれを免れることができるかを釈尊に尋ねたところ、その餓鬼は、「その苦から免れたければ、三宝(仏・法・僧)に供養しなさい。また無数の餓鬼たちに食物を施して供養した功徳により、餓鬼も救われ、その功徳によってお前も救われるだろう。」と答え、姿を消しました。

 この説話にもとづく行事が「施餓鬼会」の始まりとされています。「川施餓鬼」の紙旗に書かれた文字には、こんな逸話が隠されていました。

 ●信州や佐久間の山から伐り出された木材のほとんどは、「筏(いかだ)」に組んで…
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「三田島のイチョウ」に生えた乳房

Kikon  イチョウの老木の枝には、しばしば「気根(きこん)」と呼ばれる氷柱(つらら)のような根が生えることがあります。春野町長蔵寺の「三田島(みだしま)のイチョウ」にも、「気根」が数本…。どこ、どこ?あ~、これだ!う~ん、まさに氷柱です。

 しかし、多くのケースでは、「気根」は乳房に例えられ「乳頭」とも呼ばれます。そう言われてみれば、似ているかも知れません。母乳が出ない人は、これを煎じて飲めば出るようになると言われ、近所の人の話では、「以前は樹皮を削って持ち帰る人もいたけどね」とのこと。

 母乳の出が悪くてお悩みのお母さん!削るのはどうかと思いますので、せめて触ってみてください。かつての「長蔵寺」の境内に育つイチョウの乳房となれば、ご利益がありそうです。

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2009年9月 3日 (木)

山を火事から守る「纏リス」

Matoirisu2  北遠の山で、しばしば見かけるもの。それは、纏(まとい)を持った「ニホンリス(ホンドリス)」のホーロー看板。「火気に注意」「たばこの投げすて!火事のもと」とキャッチコピーに違いはありますが、いずれも「火の用心」を呼びかけるもの。

Matoirisu この「纏リス」のキャラクターは、静岡県だけのものではなさそうです。調べてみるとこの纏を持ったりスは、「山火事予防のシンボルマーク」として、林野庁がデザインしたもののようです。この「纏リス」が見張ってはいても、やはり山の火事は恐ろしいものです。

   そんな時に頼りになったのが、「秋葉山」のお札と消防団。写真は、「静岡縣山香村消防組」。纏を中心にして、半纏の襟には「少年消防隊」から「青年消防隊」「第一部消防手」「第二部消防手」の他、「浦川」「水窪」などの文字も見えます。

Syouboudan1 集合しているのは、2階建て木造校舎やクスノキから見て、旧「山香小学校」の校庭のようです。制服組は、警察官でしょうか?立襟、肩章、5つボタンでサーベルを携帯していますので、大正時代から昭和の初め頃の「出初式」などの式典の写真と思われます。

 「火気に注意」「たばこの投げすて!火事のもと」などと、「纏リス」に言われるまでもなく、十分、いや十二分に注意しましょう!

 ●「山火事予防のシンボルマーク」の「纏(まとい)リス」…
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2009年9月 1日 (火)

江川卓はかつて佐久間町大輪に居住

Egawa  元ジャイアンツのピッチャーだった江川卓氏が、作新学院野球部時代、ノーヒットノーラン9回、完全試合2回など、図抜けた成績を残したのは、私たちの世代なら誰もが知っていることです。

 その江川氏がかつて佐久間町大輪に住み、近くの天竜川で石投げをしていたという話は有名。その石投げが強い肩を作り、「怪物」江川の基礎となりました。

 父親が働いていた久根鉱山が昭和45年(1970)に閉山となり、昭和30年(1955)5月25日生まれの江川氏は15歳。佐久間中2年生だった江川氏は、栃木県の中学校へと転校しました。

 この有名な話を知っていましたか?「へ~、でも、それってホントなの?」。

 ホントです。その証拠が、大輪の「渡辺商店」さんに掲げてありました。「たかが野球 されど野球」江川卓氏のサインが書かれた色紙。以前は、しばしば佐久間に顔を出していたそうです。

 私は巨人ファンではありませんが、佐久間出身の江川卓は、日本のプロ野球史上、最強のピッチャーの一人だったと信じています。

2009年8月31日 (月)

「犬居橋」のたもとに祀られる弁天様?足神様?

Ashigami  春野町犬居、「犬居橋」を渡ったところ。小さな祠が私の目を引きました。祠の中には、誰とも知らぬ神様が祀られ、辺りには埃を被った靴やサンダル、草履が供えられています。

 となれば、「足神様」。足の悪い人がその治癒を祈り、また遠出の旅をする人や山に登る人が、道中の安全を祈った、足を守ってくれる神様です。そこで、これが何なのか、ご近所さんに聞いてみました。

 「ああ、あれは弁天さんだよ」「弁天さん?」「他から遷座したものらしくて、ある人は勝負の神様だと言い、ある人は足神様だと言って…」。

Ashigami7  「秋葉街道ですから、足神様じゃあないんですか?」「ここに南中があった頃には、陸上をやっている子たちが靴を供えたのは知ってるけど、最近はどうかなあ?」。

 「足が痛いからって言う人はいないんですか?」「ああ、そういう人もいるらしいね」「そうでしょう?足神様でしょう?」「でも、昔から弁天様って言ってるけど…」。

 つまり、かつては別のお寺に祀られていたようなのです。近寄ってよく見ると、頭部には鳥居を戴き、右手に剣、左手に宝珠を持っているようです。ならば、琵琶を抱えた「弁財天」同様、「弁財天」のもう一つの典型。もともとはインドのヒンズー教の「川の神」ブラフマン(梵天)の配偶神とも娘神であるとも言われますので、気田川の畔に「弁財天」が祀られているのに不思議はありません。

 それが、いつ頃からか「足神様」の信仰と混淆し、現在に至っているのでしょう。この記事を読んで気になった人は、ぜひ寄ってみてください。比較的新しい「布草履」も供えられています。

 ●佐久間の「羽ヶ庄(はがしょう)」集落で「常陸足尾大権現」と刻まれた石碑を
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2009年8月28日 (金)

「矢獄山」って…?「嶽」?それとも「獄」?

Yatakesan2  先日、聞いちゃいました。「佐久間から羽ヶ庄(はがしょう)に向かう道に立っている『矢嶽山登山口』の標識の字が、『矢獄山』になっている」って。

 そこで、実地検分。県道水窪羽ヶ庄佐久間線の山道を車を走らせて登ってみました。標識は2ヵ所に立っていました。最初の標識は下平(しもったいら)。矢嶽山の尖った頭が見えるカーブのところです。標識の2面に「矢獄山」。確かに違っています。

Yatakesan  さらに山道を登って行くと、二本杉峠の手前にも標識が。これもまた「矢獄山」。さらに、地域活性化グループの名前入りの看板まで「矢獄山」。どうして、違ってしまったんでしょう?

 実は、「国土地理院」発行の地図の中では、「矢岳山」、佐久間の民話の看板では「谷嶽山」となっています。

Yatakesan6 「嶽」は「岳」の旧字とされています。「矢」と「谷」の音はともに「ヤ」。漢字で表記されるより以前の地名だと思えば、これも納得できます。「さん」と読むか、「やま」と読むかも、富士山を「ふじさん」と読むか「ふじやま」と読むかと同様と思えば良いでしょう。でも、「獄」は…?

 「獄」は「ごく」と読むだけで「たけ」とは読みませんよね?ナニコレ?これって、間違い?

ナニコレ珍百景「白い顔の女性の壁画」

Nanikore  天竜川の上流、静まり返った山奥で、川辺の壁面の真っ白な肌に真っ赤な唇をした女性の顔が大きく描かれている光景。しかもこの巨大な絵、人が容易に近づけない場所に描かれている!役場の方に伺ったところ。10年ほど前、地元でも話題になり、誰が描いたか調べたそうなのだが、結局わからなかったのだとか。たて2mもの大きさのこの絵については番組でも聞き込みをしたが、誰がいつ描いたのか知る人はいなかった…。

 テレビ朝日の人気番組「ナニコレ珍百景」の7月29日放送分の中で紹介されたのが、この「女性の顔」です。

Nanikore2  場所は、龍山町の旧龍山中学校の手前のトンネル「大瀬隧道」の外側になりますので、いつものように国道152号を走っていると見ることはできません。対岸の道、県道285号大輪天竜線を走ってください。できれば、佐久間町大輪の側からか、手前の「瀬尻橋」を対岸に渡り、秋葉ダムに向けて走った方が見つけやすいと思います。

 岩の形が角度によっては女性の横顔に見え、その口に見える割れ目を、口紅のように赤く縁取ったということです。ここは、天竜川とは言え、「秋葉ダム湖」ですので、かなりの川幅があり、残念ながら写真のように大きく見えるわけではありません。でも、注意して走ればきっと目に止まります。

 「大輪橋」たもとの「渡辺商店」さんにも、この写真がありました。テレビで放映されて以来、時々、聞かれるようになったとのこと。「隧道は途中に川に出られる脇道があるんだけど、そこから降りて描いたのかなあ?昔、ウナギを捕りに行ったことがある辺り」。

 それにしても、テレビ朝日さん!「天竜川の上流、静まり返った山奥」は言い過ぎです。「役場の方」とは「水窪地域自治センター職員」のことでしょうか?

2009年8月21日 (金)

紀行文に見る天竜川③―川を行く粗末な船

Nakabe325  上り船が一隻、三人の船頭が、崖の下をしがみつくやうにして、綱を肩にして引き上げ、一人が棹を弓のように撓(しな)はせて、遅々として水に逆つて来たが、私の乗つてる船と、行き違はうとして、ひどい波におつかぶせられ、向うもこつちも、ヅブ濡れになつて、両方の船が、急な角度で傾斜した、向うの船頭がポツリと黒い点になつて、乱濤の間に小さく立つてゐる、振り返ると、もう船も人も、影も形も見えずに打捨てられた、波は白い生毛のやうに、微かに彫刻した象牙のやうに、柔らかく泡立つて、大石の下の窪みに、逆さに落ちて、渦を巻き、反流を起したかとおもふと、波浪の特質の前進運動を沮められて、船はあふりを喰ひ、一二度振り廻される、「何しろ山室(やまむろ)の滝せえつて、遠州一の難所だあね」と船頭は後で話した。

 灘をこえて、水が静かになると、両方の岸を見廻すだけの余裕が出てくる、河原には材木を伐り出す小舎がある、岩石は上流の花崗岩と違つて、小さな褶曲(フオールヂング)や白や褐色の岩脈(ダイク)が、横に帯をしめたやうな、筋を入れたのが、美しく見える。

Nakabe326  湯島大屈曲をしてからは、松島から中部(なかつぺ)まで、直下といつてもよかつた、東岸には中部の大村があつて、水楊は河原に、青々と茂つてゐる、裸体に炎天よけの絲楯(いとだて)を衣た人足が、筏を結んでゐる、白壁の土蔵が見える、紺の香のするばかりに、新らしく染め抜いた暖簾をかけた荒物屋が、町に見える、積荷はみんなこゝで揚げてしまつて、水洩れの出来た船底には、棕櫚繩をちぎつて、当てがひ、石で叩きこんで修繕をする。「現代日本文学全集 第36巻」(小島烏水「天竜川」より)

 小島烏水(こじまうすい 1873-1948)は、登山家で随筆家。紀行文の中で、天竜川の川下りをレポートしています。

 「山室」は佐久間ダム湖に沈んだ集落の名。中央構造線の内帯と外帯による岩石の違いにまで注意深く目をやっています。また、「水洩れの出来た船底には、棕櫚繩をちぎつて、当てがひ…」と記述から、当時の船が、いかに粗末なものであったかが分かります。

 【関連記事】紀行文に見る天竜川①―「豆こぼし」→「西渡」
 【関連記事】紀行文に見る天竜川②―下伊那郡天龍村の辺り

2009年8月20日 (木)

紀行文に見る天竜川②―下伊那郡天龍村の辺り

Nakabe328  川はS(エス)字状に屈曲して、浅瀬と深淵と落ち合つて「捨粟の大曲り」を行く、左岸の峯は雲つくばかりに立ち上り、日の光も森にかくれて、燻んだやうに暗く、森の中には、枯木が巨大な動物の骨のやうに、散乱してゐる、崖から庇のやうに突き出た大石の上には、大木が根ぐるみ乗りかけてゐる、冷たい風が、川水を吹いて、裾から腋の下、背から襟へと、駈けめぐつて、そこら中をくすぐつて、振り返る姿を川波に残して、通りぬける。石から石の上を飛びめぐる鶺鴒(せきれい)と筋交ひに、舟は両崖の迫つた間の急湍を、櫂を休めて悠々と乗つ切る、川には筏に組む材木が漂ひながら岩に堰かれてゐる、王子製紙会社の紙の原料で、中部(なかつぺ)の支社で、製するのだといふ。

Nakabe329  右岸から和田川を併せて、船はこよひの泊りの満島の土堤を仰ぎ、高い岸には屏風に張り交ぜた色紙のやうな畑を見るやうになつた、ふと眼の前にそゝり立つ大きな岩に、吸ひつけられさうになつて、櫂を斜に構へ、岩の根をコヂリ上げるやうにして、やつと放れたが、岩石が目まぐるしく多くなり、灘が急になつて、村とはいへ、船着きがよくない、やうやく船を纜(もや)つて、私は船頭におぶはれて、岸に着いた。「現代日本文学全集 第36巻」(小島烏水「天竜川」より)

 小島烏水(こじまうすい 1873-1948)は、登山家で随筆家。紀行文の中で、天竜川の川下りをレポートしています。

 「捨粟の大曲り」がどこであるのかは分かりません。船が、どこら辺りを下っているのかを推測するヒントは「満島」。現在、飯田線の「平岡」駅は、かつて「満島(みつしま)」と呼ばれたことがありますので、おそらくその辺り。下伊那郡天龍村です。

 王子製紙中部(なかっぺ)支社の紙に原料にされる材木が、貯木されている様子を見たものと思われます。

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「落石注意」―北遠の道路は注意が必要

Dosyakuzure  7月27日、記録破りの豪雨のため、佐久間町の主要地方道飯田富山佐久間線(県道1号)で土砂や岩石が崩れ落ちました。現場は佐久間第1トンネルと佐久間第2トンネルの間。「土砂が長さ10メートルにわたって道路をふさぎ、通行止めとなっている」と伝えられた現場がここです。

 現在は、写真のような状態。トンネルとトンネルの間のわずかな区間―写真の右も左もトンネルです。もちろん、すでに「通行可」。

 でも、ここにも黄色い「落石注意」の道路標識が…。佐久間に限らず、北遠の道路は、わずかな雨でも土砂や石が路上を覆うことがしばしばです。雨の日はもちろん、雨が降った後のの走行には、十分な注意が必要です。

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2009年8月18日 (火)

レトロな看板建築―旧「三井屋呉服店」ついに解体!

Kaitai  佐久間町西渡の商店街に残っていた旧「三井屋呉服店」の建物が、近々解体の予定とお伝えしたのは7月23日のこと。8月16日には、あのレトロな看板建築の店舗付き住宅は既に解体されていました。

 これも、また「大井橋」を渡ったところにある「緑屋」(通称「ろくさ」)での話。「あんた、インターネットでホントに三井屋さんのことを書いたんだね。あの後、人が訪ねて来て、昭和の建物が解体されるって聞いたからって…。あんたの書いたブログを読んだみたい」。

Mituiya  旧「三井屋呉服店」の建物があった場所は、写真のような跡地が残るのみ。近代文化遺産と言える建物が、また一つ姿を消してしまいました。

 「今日、あんたが来るような気がしてたよ」と緑屋さん。「ますます、寂しくなるよね~」とも。もう二度とあの「井桁に三」の屋号マークにはお目にかかれません。

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2009年8月16日 (日)

紀行文に見る天竜川①―「豆こぼし」→「西渡」

Mamekoboshi330  川は中部の村を、包囲するやうに、北の一角だけを残して、三方を絎(く)け、もう大分開けた河原の中を流れる、「豆こぼし」といふ灘は、水が急なので、二挺の櫂を一つに合せ、船頭二人の力をこめて取り縋るやうにして、漕いだが、それでも東岸には、一髪の道が通じて、旅人が通つてゐるのが、ふり仰がれる、その上に青緑の山は高くそびえ、川は勾配を急に、杉の培養林のある山を匝(めぐ)る、久根(くね)の銅山が見えて、その銅山を中心に生活してゐる人たちの家が、重なり合つて、崖腹に巣を喰つてゐる。
 
 西の渡(と)の簇々(むら/\)とした人家を崖の上に仰いで、船を着けた、満島からこゝまで九里の間を、三時間半。
 
Kune327  糀屋(かうじや)といふ旅籠屋に、草鞋を釈(と)いて中食を済ました、天竜川もこゝからは、先づ下流の姿になるので、交通もしげくなり、下り船も、毎日便宜がある、船を乗り替へるため、暫らく川に臨んだ茶屋で、時間を待つてゐると、八反帆を南風に孕ませた上り船が、白地に赤く目じるしを縫ひつけて、二帆三帆と、追つかけ追つかけ、上つて来る、久根(くね)銅山から、銅を積み出すために、来るのだといふ、さうしてその帆には、太平洋の海気と塩分が、一杯に含まれてゐる、南へ来たのだ、太平洋が近くなつたのだ、桔梗色の黒汐が走る八重の海路が、川の出口に横たはつてゐるのも、もう遠くはあるまい、日本アルプスおろしの北風は、冬でももう、この地までは来ない、私は山から遁れた、たしかに遁れた、しかしながら私は、恋々として悲壮の谷なる天竜川の上流を、振り返り、振り返り見ることなくして、次ぎに出る客船には乗れなかつた。「現代日本文学全集 第36巻」(小島烏水「天竜川」より)

 小島烏水(こじまうすい 1873-1948)は、登山家で随筆家。紀行文の中で、天竜川の川下りをレポートしています。大変興味深い内容ですが、今回は「豆こぼし」から「西の渡=西渡」までを紹介しました。

 小島を乗せた船は、「豆こぼし」の急流を乗り切り、久根鉱山の帆掛け舟とすれ違っています。

 【関連記事】紀行文に見る天竜川②―下伊那郡天龍村の辺り
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2009年8月13日 (木)

春野町は「電線路」の交差点

Alim0214  「電線路」という言葉をご存知ですか?「電線路」とは、「電力を運ぶための電線およびその支持物・付帯設備を含む電力設備」と説明されています。つまり、送電線や鉄塔のこと。春野町はそんな「電線路」の交差点になっています。

 写真は「秋葉山」を「高瀬道」を通って下って来た辺り。縦、横、斜めに3方向の送電線が交差しています。

 さて、そこで…。

Map  実は、国土地理院の地図には送電線も記入されています。この地図のほぼ中央が、写真を撮った地点。どうですか?3本の線が描かれていますね?

 この線を辿って行けば、どこの発電所から電気が送られてきているのかが分かると言います。聞いた話によれば、新潟県の柏崎原発からとか、浜岡原発からとか…。中部電力の送電線と電源開発の送電線と…。

 「電線路」の交差点と言うよりも、古い言い方で言えば「電線路銀座」。春野町の山では、送電線と大小いくつかの鉄塔が背比べをしています。

2009年8月12日 (水)

江戸時代の香りを残す秋葉山「随身門」と彫刻

Shishi  「 秋葉山本宮秋葉神社」 の随身門には、旧春野町教育委員会により、こんな解説板が建てられています。

 秋葉神社神門は昭和18年の大火に類焼を免れ、秋葉山として栄えた江戸時代の俤(おもかげ)を偲(しの)ばせる唯一の随身門である。

 入母屋造りで、間口10米(5間4尺)奥行約6米(3間2尺)の宏荘な建物で、鮮麗な朱泥を塗り屋根下周囲には精巧な彫刻が施してある。文化9年(1812)諏訪三郎の作にて、建物は天保2年(1831)6月28日、信州上諏訪の住人立川内匠富昌、和蔵久子、立川次右衛門富保、喜三良父子の手に依って再建された棟札が保存されている。(原文のまま)

 さて、「随身門」の彫刻というのが、コレ。柱や棟木を支える獅子と天邪鬼、棟木の上を飾る天女の彫刻。諏訪三郎が刻んだと伝えられる彫刻です。

 この解説板の記述の通りだとすれば、彫刻は「随身門」建築の19年前に刻まれていたことになります。

Tennyo  立川内匠富昌とは、幕末の左甚五郎と呼ばれた立川流彫刻の2代目・和四郎富昌―天明2年(1782)~安政3年(1856)―のことだろうと思います。「諏訪大社下社秋宮」「諏訪大社上社本宮」「善光寺」「静岡浅間大社」などに、その作が残されているそうです。

 となると、自らも建築彫刻家だった立川内匠富昌が秋葉山の仁王門として建てた「随身門」に、諏訪三郎の彫刻が施されているということになります。これは、どうしたことでしょう?

 どうやら、疑問を解く鍵は「再建」にあるよでうです。火防の神「秋葉山」は、江戸時代にも火災に見舞われたようです。つまり、文化9年に建てられた「仁王門」は、数年後に火災に遭い消失。天保2年、燃え残った彫刻を生かして再建。しかし、再び昭和18年に火災に遭遇。しかし、その火災の時には運好く類焼を免れ、現在の「随身門」となっているというのが経緯のようです。

 「秋葉山」の歴史を記録した書物を紐解けば、おそらく詳細が分かると思いますが、それにしても、ぜひ見てほしい見事な「随身門」と彫刻です。「秋葉山本宮秋葉神社」を表参道の側に少しだけ下ったところに立つ「随身門」―江戸時代の香りを今に残す歴史的建造物です。

 ●秋葉山本宮秋葉神社の少し奥の山道を下った辺り…
 ●写真は、「秋葉山本宮秋葉神社」上社「随身門」の柱です…
 【関連記事】秋葉神社鎮座1300年奉祝 現代名工の四神現る

2009年8月10日 (月)

北遠での「木馬」の使用はいつ頃?

Kinma  北遠地方で木馬(きんま)=橇(そり)が最初に使用されたのは、明治23年(1890)旧龍山村雲折地内でした。同30年頃には、旧山香村地内、同40年には佐久間・浦川、水窪・熊・上阿多古・二俣・光明など、天竜川流域におよぶ。(「静岡県木材史」より)

 「さくま郷土遺産保存館」に掲げられた「木馬」の解説。「木馬」の写真は、春野でお借りしたものを紹介したことがありますので、今回は佐久間のものを掲載します。

Kinma_2  1枚目は、「さくま郷土遺産保存館」の展示写真。2枚目は西渡で入手したものです。森林鉄道やトラック、架線など機械が何もなかった時代、木を山から出す方法として「木馬」は北遠の各地で見られた搬出道具です。

 今でも北遠の山で、「木馬」が曳かれた専用の「木馬道」と思われる道を見ることがあります。もしかしたら、木材を満載した「木馬」が木と木の擦れ合う音を響かせてやって来るのではないかと、しばし佇むこともあります。本物の「木馬」が曳かれる情景を見てみたいものです。

 【関連記事】木材を運ぶソリ―「木馬(きんま)」
 【関連記事】「木馬(きんま)」を背負って運ぶ
 ●かつての木材搬出と言えば「木馬(きんま)」。木を満載した「木馬」を…

2009年8月 8日 (土)

帆掛け舟の連なる壮観―「鉱石船」

Kousekisen_2  船の大きさは4トン積(1067貫)、1500貫積、2000貫積などがあり、大船は3人、小船は2人が乗込んだ。

 水夫の仕事は水量や風に大いに左右され、南風が吹く春4月半ば過ぎからは帆をあげて鹿島から久根に5時間で遡ることができ、運航のかき入れ時となる。冬には綱で曳くなどして未明から晩まで13時間もかかり、雨で増水すれば水がひくまで1週間待たねば遡航できないことがある。

 人数については村誌は船夫600人、鉱夫900人といい、日給は鉱夫が67銭ないし1円56銭に対し、船夫はその最高に匹敵する1航1円50銭、雨天割増しとなっている。(大正2年の『佐久間村誌』より)

Hokake3_2  これは「さくま郷土遺産保存館」に掲出された「鉱石船」の解説。鉱夫900人に対し、船夫600人とは相当な人数です。

 1枚目の写真は、その「さくま郷土遺産保存館」に展示されているもの。「ヤマ一」の帆印の下には「久根鉱山」ではなく「久根銅山」と書かれているようです。2枚目の写真は、西渡で入手したもの。真中の船には、船夫が3人乗り込んでいます。

 ともに帆いっぱいに風を受け、船の喫水の位置から見て鉱石を積んではいない様子。おそらく、天竜川を遡る帰り船なんだろうと思います。しかし、帆掛け舟の連なるかつての壮観を見たことのある人たちも、今では少なくなってしまったのでしょうね?

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●「道がクネクネと曲がりくねっているから、『久根』?」…
 ●明治初年まで「片和瀬鉱山」と呼ばれた「久根鉱山」の始まりは…
 ●国道473号から天竜川方面を見晴らすと、「久根鉱山」選鉱所跡が…
 ●佐久間の「大鏡山明光寺」境内で、「じん肺物故者慰霊碑」を見つけました…
 ●「久根鉱山」での、鉱石採掘は昭和45年(1970)まで続き…
 【関連記事】農業や山仕事を捨てて働く―「久根鉱山」
 ●かつて「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されて…
 ●佐久間町西渡で「久根鉱山」の沿革に関する資料と「鉱業所の全景」の写しを…
 【関連記事】「久根鉱山」の「名合支山」とは?
 【関連記事】あの頃の写真が語る「久根鉱山」
 ●久根の鉱石を満載して天竜川を下ったのは「鉱石船」と呼ばれる帆掛船…

2009年8月 7日 (金)

大天竜を往来した久根の「鉱石船」

Hokake  久根の鉱石を満載して天竜川を下ったのは「鉱石船」と呼ばれる帆掛船。その数なんと250艘、船頭600人。白い帆に「へ(ヤマ)+一」の印を染め抜き、大天竜を上り下り。

 そんな「鉱石船」が大活躍をしていた時代の写真を、佐久間町西渡で入手しました。

 1艘で約4トンの鉱石が積まれたとのことですが、写真に写っている「鉱石船」の数は十数艘。のんびりとした帆掛舟の往来をイメージしていましたが、実際は大違い。まさに、大船団です。

 流れに乗って下るのは良いのですが、鹿島から久根へと川を遡るのが大変だったのは、すでに書いた通り。春からは南風を帆に受けましたので、約5時間。冬ともなると、北からの逆風となり、「センドウヅナ」で引き上げて13時間を要し、川への転落事故も多かったそうです。

 昭和9年(1934)、三信鉄道が開通して「鉱石船」は廃止され、船頭たちは、鉱山従業員になったり、岐阜などの出身地に帰って行きました。

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2009年8月 6日 (木)

新「戸口橋」と旧「戸口橋」

Shintoguchibashi   昭和45年(1970)竣工の「戸口橋」以前は、大正14年(1925)に竣工となった旧「戸口橋」。その両方が写っている珍しい写真を見つけました。

 手前に写る赤いトラス橋が、現在も使われている「戸口橋」で、奥に見える木造の吊り橋が旧「戸口橋」。背景に見えるのが「久根鉱山」です。

 「戸口橋」を数台の自動車が渡っているのが写っています。現在の広域基幹林道佐久間線の交通量からすると、これほどの台数の自動車が「戸口橋」を同時に渡ることなど考えられませんので、もしかしたら、この写真は竣工式の時のものなのかも知れません。

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 ●国道152号を北上、大輪橋を渡り天竜川左岸を行くと戸口の放水口。すぐ隣りを流れ落ちる滝を知らない人はいないと思いますが…

2009年8月 5日 (水)

橋の変遷―吊り橋だった「戸口橋」「大輪橋」

Toguchibashi  橋の変遷にがぜん興味が湧いて来ました。この古い写真は、旧「戸口橋」。写真の説明には、「大正14年(1925)10月31日戸口橋渡り初め紀念」とあります。

 現在の「戸口橋」は昭和45年(1970)に竣工していますので、それ以前の45年間は、この木造の吊り橋だったのです。

Toguchibashi_2  「ワイヤを何本も撚ってあるから安全だって聴いてはいたけど、ユサユサ揺れたで、そりゃあ怖かったに」とは、西渡で出会ったおばちゃんの話。(その気持ち、よく分かります)

Oowabashi2  2枚目の写真には昭和14年(1939)7月28日大輪橋竣工清祓(きよはらい・きよはらえ・きよばらい)式」との札が立てられています。先代の「大輪橋」は、3枚目の写真で分かる通り、コンクリート製の主塔とともに、モダンでオシャレなデザインの吊り橋。

Oowabashi1  山に吊り橋が多かった理由は、川幅狭い場合には橋脚工事の必要がなく、安価で短期間に竣工できるため。ただし、橋の構造上、どうしても揺れやすさを防ぐことはできないようです。その結果、吊り橋が苦手な私は、橋の袂で立ち往生することもしばしば。でも、山里の風景には、吊り橋の方がしっくりとマッチしていますよね。(揺れなければ良いのですが…)

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硫黄の匂い―「静修温泉」

Onsen  春野町で温泉が湧くと聞くと、「まさか」と思いますか?それとも「やっぱりね」?もちろん、「春野健康福祉センター」に併設された「すみれの湯」とか、ログペンション「シンフォニー」の「岩嶽温泉やしおの湯」のことではありません。中山川沿いに山道を遡った静修(せいしゅう)の山肌から、じんわり湧き出ている温泉は、かすかに硫黄の匂いを漂わせています。

 この温泉が見つかったのは10年ほど前のこと。地主の鈴木さんが、川原に近いところを埋め立てるために山際の土を掘ったところ、幾筋かの水が湧き出し、やがてその中の1筋が白濁することに気づき、県の機関に送って検査してもらい「硫黄分が含まれている」ことが分かったのだそうです。例え水温が低くても、天然の硫黄分が混じっていれば、定義上は温泉に違いありません。

Iou  もちろん、湧出量は多くありませんので、現在はこれをタンクに引いて貯え、ある程度貯まったところで沸かしているのだそうです。「辺りを掘ったら、こんな石が出てきたよ。白い結晶になっているのが硫黄だそうだ」と、見せてくれたのが下の写真なのですが、結晶は固くて、鼻を近づけてみたのですが匂いません。

 「温泉の写真を撮らせてください」と湧水箇所に近づくと、「匂いを嗅いでみな」と言われるまでもなく、ほのかに漂う温泉の匂い。確かに春野の山里には天然の「静修温泉」が湧いていました。

2009年8月 4日 (火)

あの頃の写真が語る「久根鉱山」

Kune3  「久根鉱山」の写真を2枚紹介します。縦長の写真には天竜川に浮かぶ鉱石船が写り、拡大してみると人が乗り込んでいるのが見えます。川を下る鉱石船ですから、帆は張られていません。昭和9年(1934)に鉱石船は廃止されましたので、この写真はそれ以前のものであることが分かります。

 もう1枚の写真の方は、施設の建物の数が増えていますので、時代が下ってからのもの。鉱石船の姿は見えず、拡大すると現在の国道473号を走るバスが見えますが、分かりますか?ボンネットの突き出たタイプではありませんので、昭和45年(1970)の閉山時期近くの写真だろうと思います。

Kune4  写真からは、言葉以上にいろいろな事実を読み取ることができます。まだまだ眠っている貴重な写真があるはずです。そんな情報を教えてください。差し支えねければ、紹介させていただきたいと思います。

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2009年8月 3日 (月)

「久根鉱山」の「名合支山」とは?

Nago2  昨日、紹介した「久根鉱山」の沿革と同じ資料の文章と写真です。「名合支山」とあるのは、佐久間町上平山「名古尾(なごおI」にあった鉱山のこと。「久根本山」に対し「名合支山」と呼ばれていました。

 名合支山は大正2年から約7年間、地表近くを稼行していたが、当時の経済情勢で休山、昭和12年12月再び開発に着手、13年5月坑口より150米附近で、□(月偏に永)巾1.2米、銅品位1.7%の鉱体を補促(原文のまま)、これを恵比須と名付け、その後引続き開発して、25年一般鉱業界の好転と相俟って、好況を呈し、俄然本山を凌ぐ優勢を示したが、35年をピークにして年年減産の一途をたどり、44年8月断層にあたり、採堀を断念、45年1月21日をもって操業を停止、27日閉山となった。

 「久根」と「峰之沢」の中間地点でも鉱石採掘がされ、朝鮮人や中国人の労働者の姿も見られました。国道152号を天竜川沿いに遡ることがありましたら、チラチラと対岸に目をやってみてください。そこに見えるのが、日本の近代化遺産「久根鉱山名合支山」の跡です。

Nago1

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2009年8月 2日 (日)

「久根鉱山の沿革」と「鉱業所の全景」

Kune2  佐久間町西渡で「久根鉱山」の沿革に関する資料と「鉱業所の全景」の写しを入手しました。

 享保16年(約240年前)に開坑されたと伝えられている。明治に至り32年2月古河市兵衛氏が譲受け同35年2月より出鉱、当時の鉱石は3%以下は捨てられ4~6%の塊鉱のみを搬出、川舟に約1,600貫積込み戸倉で中継ぎ天竜駅へ送鉱した。

 大正時代は通洞大直利により活況を呈し大正12年西向大立坑を着工、全盛時代には3,000人の坑夫と200人近い職員が就業したが、大正末期からは、不況につぐ不況で事業は全く縮小の一途を辿った。

 昭和9年坑内火災による打撃を蒙ったが、満洲事変(原文のまま)から大東亜戦争と進展した戦時景気により開発が強調され、昭和16年下4番坑で富鉱体「大東亜ひ(金偏に通)」をつかみ好調を辿ったが、戦後に入り、乱堀と銅補給金の打切り、貿易の自由化など苦しい操業をつづけ、昭和37年東部探鉱を中止、38年1月下部探鉱(下14番坑)の中止により、下3番坑以下を水没させ、現在下3番坑から上4番坑を中心に採堀を行っている。

 出典元が明らかではありませんが、「現在も採堀を行っている」と結ばれていますので、書かれたのは昭和45年(1970)の閉山前。享保16年(1731)を「約240年前」としているところから、閉山直前の記述と写真だと想像できます。

 操業当時の写真を見ることはありますがカラー写真は珍しく、しかも3枚の写真を繋ぎ合わせたパノラマ写真。巨大な施設だったことが一目で分かります。Kune

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今も残る「王子製紙気田工場」の水路跡

Suiroato  「王子製紙気田工場」では、砕木機グランド・ストーンを動かすために、気田川の水を郷島の取水口から水路で引いて使っていた話は、すでに紹介させていただきました。その水路は、仇山の東側を通り、気田工場の敷地へと引き込まれていました。

Harunochu  気田の「大原屋商店」の鈴木さんに聞いてみました。「春野中学校のところで水路の写真を撮ってきたのですが、あれがそう?」「見つけた?あれが、王子製紙の水路跡だね。水路の管理をしていた大工小屋も残っていたんだけど…」。

 下の写真は、春野中学校。かつては、ここで「王子製紙気田工場」が操業していたのです。春野の近代史を語る時には、忘れるわけにはいかない「王子製紙」。明治22年(1889)~大正12年(1923)の34年間の栄華。

 …というわけで、探してみれば、まだ他に何か見つかるかも知れませんね。

 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は明治8年…
 【関連記事】遠州街並み遺産 Vol.39は春野町「旧王子製紙製品倉庫」
 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は…
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 【関連記事】記憶を伝える製品倉庫―「王子製紙株式會社氣田分社」
 【関連記事】「マル王」―「王子製紙気田工場」起工式
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 【関連記事】水力利用のための水路敷設―「王子製紙」
 【関連記事】「王子製紙株式會社氣田分社機械部 紀念撮影」

2009年8月 1日 (土)

水力利用のための水路敷設―「王子製紙」

Ouji287

 『春野町史』には、「王子製紙気田工場」の水力利用に関する記述がありましたので紹介します。

 気田工場では、明治28年(1895)に第2工場が竣工して、砕水パルプによる製紙が開始されているが、同時に水力を動力として利用する施設も完成して、原動機を水力に変更している。それまでは、蒸気機関によって動力を得る形をとっていた。水力利用の動力施設および水力発電施設の設置は、当然当初からの計画にあったはずであり、その水路は地形的な条件をうまく利用して工場につないでいる。

 取水口は、気田川を4キロメートル近く遡った郷島地区にあり、河川が湾曲した部分に隧道を掘って、そこに取り入れた河水を流し込み、そのまま水路へつないでいる。水路引入口には監視人の詰め所が設けられていた。取水口や隧道に溜まりやすい土砂の除去等の管理をしていたと思われる水路は木樋で作られており、河岸の傾斜地を河流に沿ってほぼ水平に敷設されている。字名で言うと瀬崎・笹峰・峰山と続く辺りであるが、その最初のほぼ3分の1の地点に位置する大きな湾曲部の手前に、「白沢作業場」という作業場が設けられている。いくつかある沢の中でも1番大きい白沢やその周辺の沢の管理に当ったものであろう。気田の集落のある平野部に出る辺りで方向を右側鋭角に変え、工場西側の山の斜面に向かって伸びている。その曲がり角にあるのが、通称「大工小屋」と呼ばれる用水水路工作場である。木樋の修理や管理に当っていたと思われる。それより下流部の水路は、字名玉田通の山裾沿いに直進して円満寺の裏を通り、最終地点である仇山の東斜面に出る。そこが気田工場の西端部に接する山塊の中腹であり、そこの水路タンクから水を落下させるのである。

Daikugoya288  水路の総延長は、1608間3尺(約2927メートル)であり、落下地点の落差は77フィート(約23.5メートル)という。工場は、ペルトン型水車を使って動力を得るとともに、発電も行ったのである。原動力として得られる力は620馬力(最大有効馬力は900馬力)である。落下地点のすぐそばに第2工場の砕木室があり、水車からベルト伝動で砕木機のグラインド・ストーンを回転させていた。

 なおペルトン型水車について簡単に説明しておく。水平軸にお椀をたくさん取り付けた形の水車である。固定したノズルから吹き出す水がお椀に当ることによって、水車が回転するしくみである。この型の水車は、落差が大きく、比較的水量の少ない場合に多く用いられた。(『春野町史』通史編 下巻より)

 「王子製紙気田工場」が、現在まで残る赤煉瓦製品倉庫だけでなく、はるかに巨大な施設であったことがお分かりいただけましたでしょうか?

Goushima289 郷島貯木場(明治23年頃)
瀬崎貯木場(明治23年頃) Sezaki290
Suiro291 木の子島対岸の水路(大正3年)

田持山付近の木樋水路(水から砂利を取り除くための吐き出し口)

Housui292

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2009年7月30日 (木)

中山間地の消防力危機―団員減少止まらず

Pomp304  消防団員の減少に歯止めがかからない。特に20代の団員が県内全体で10年前の7割に満たない。中山間地ではかつて農家や自営業を営む住民が中心となって消防団を組織していたが、近年は都市部に通勤する会社員が多数を占め、日中の災害に対応できる団員が少なくなった。静岡市消防防災局の担当者は「中山間地の状況は深刻。このままでは消防力が落ちかねない」と深刻に受け止める。(7月8日付「静岡新聞」より一部引用)

 事態は深刻な様子です。さらに…

 「6、7割が会社員。すぐ出動できるのは全体の3割ほど」という。昨年、20代後半の会社員1人と農家1人が入団した。数年ぶりという。それでも20代は1割余り。小沢本部長は「新入団員が少ないために、何10年も活動する高齢団員もいる」と説明する。団員がいなくなって「器具置き場」でポンプなどの機材が管理できなくなり、置き場を手放す集落も出てきた。

 …とのことです。

Urakawapomp  写真は、春野町気田の青年会が、新しい消防ポンプを購入した時の記念式のものです。荷車のようなものに載っているのが「手押し式消防ポンプ車」。手前に立て掛けられているのは、梯子。周りには数十本の鳶口が立てられています。

 おそらく、王子製紙気田工場が操業していた明治22年(1889)~大正12年(1923)のものでしょう。これが、当時の最新装備。

 佐久間町浦川にある浜松市営宿泊施設、さくま自然休養村「清流荘」(053-967-3146)にも、ポンプ車が展示されています。

2009年7月28日 (火)

50年前の光が見える「周智隧道」

Syuchizuidou  現在の「周智トンネル」の完成は平成4年(1992)。それ以前は昭和34年(1959)に完成した「周智隧道」が、周智郡春野町と同郡森町とをつないでいました。「周智隧道」の完成記念に発行された絵葉書については、以前紹介した通り。そして、この古い「周智隧道」は現在もそのまま残っています。

 まるで、タイムトンネルのような隧道の中を覗いてみると…。

 もちろん、勝手に中に入って何かあっては大変ですので、入口には鉄の格子が嵌められています。格子の間にレンズを入れて、はい、シャ!はるか彼方に見えるかすかな光が、全長220メートルの森町側の出口。もしかしたら、50年前の光かも知れません。

 それにしても、この狭いトンネルでは、すれ違いなんかできなかったのではないでしょうか?

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2009年7月27日 (月)

「西渡橋」「大井橋」の変遷

Nishidobashi2  国道152号を左折して473号に入る時に渡る「大井橋」の歴史については、すでに書いた通り。昭和46年(1971)に架け替えられた現在の「大井橋」は、3代目となるようです。先代の「西渡橋(大井橋)」の写真は、すでにお目にかけましたが、さらにその前の初代「西渡橋」については、わずかに写る絵葉書を紹介したのみ。吊り橋だったとの話は聴いていたのですが…。

Rikugunensyu その写真が、これです。水窪川を跨ぐ、美しい木造の吊り橋の姿が写っています。

 次の1枚には、その吊り橋と2代目のトラス橋がともに写っています。これには、陸軍演習の写真との説明書きが付いていますので、軍隊は橋を渡らず、水窪川に架けた仮橋を軍馬とともに渡る渡河訓練をしたものと思われます。

Nishidobashi そして、現在の「大井橋」の工事を開始したばかりの写真。まだ架橋工事には到っていませんが、道路のレベルを上げる嵩上げ工事が始まっているようです。旧「西渡橋」が現在の「大井橋」に架け替えられたのは、昭和46年(1971)。着工は、おそらく数年前のこと。橋には、橋の歴史があります。

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2009年7月25日 (土)

「原田久吉翁銅像」の絵葉書発見!

Nakabe322  原田久吉翁(1837-1929)に関する新しい資料を入手しました。

 磐田在住の佐口行正氏から「中部(なかべ)の古い絵葉書が10枚揃いで手に入ったよ」との電話を受けました。「おそらく、大正時代のもの。原田橋や原田久吉の銅像が写ってる…」。

Nakabe323  私はすぐに待ち合わせ場所に向かいました。もしかしたら、大正4年(1915)に竣工した先代「原田橋」かも知れません。銅像というのは、平沢の旧「中部小学校」跡に台座だけ残された、あの銅像かも知れません。

 佐口氏との待ち合わせは、磐田市旧赤松家記念館。さあ、その絵葉書とは…?

 「北遠中部風景 繪葉書(十枚組)」の袋に入った10枚の絵葉書。予想した通り、ほとんどが初めて見る中部の風景です。まずは、「天龍川ニ架スル原田橋」の絵葉書。現在の「原田橋」も吊り橋ですが、現在の「原田橋」が上路式トラスであるのに対して、先代「原田橋」は下路式です。橋柱も少し違っているようです。それにしても、美しい橋。原田久吉翁の名前を冠した「原田橋」なら、こうでなくてはいけません。

Nakabe324  さて、次は「原田翁銅像」です。見てください!シルクハットとステッキを持ったオシャレな原田久吉翁の銅像が写っているではありませんか。銅像であったがために戦時供出の憂き目にあってしまった佐久間の宝物。橋を架け、道路を造り、学校を建てた郷土の偉人の幻の銅像が、今、私の目の前に当時の姿を見せてくれました。

 3枚目の絵葉書は「紀功碑附近ノ景」とあり、天竜川沿いの未舗装道路が写っています。おそらく、これが現在の国道473号、「歩危(ほき)洞門」を抜けた辺りに立つ「中部邨(むら)新道碑」。原田久吉翁の功績を顕彰した石碑の立つ山里の道が、中部を代表する10景に選ばれていました。

 残りの写真は、また後日。佐口さん、いつもありがとうございます。

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2009年7月24日 (金)

「マル王」―「王子製紙気田工場」起工式

1873年(明治6年) 渋沢栄一により「抄紙会社」設立、日本の洋紙産業の始まり
1875年(明治8年) 東京府下王子村に工場完成、破布を原料に抄造開始
1876年(明治9年) 商号を「製紙会社」と変更
1889年(明治22年) 静岡県に日本で初めて木材パルプを原料とした気田工場を開業(1923年廃止)
1893年(明治26年) 創業地の名を冠し、商号を「王子製紙」と改称

Kikoushiki  これが、「王子製紙株式会社」のHPに掲載された沿革です。

 「静岡県立中央図書館」で公開しているデータの中に、「近代日本製紙業の創成と王子製紙」という項を見つけました。この項は、「王子製紙気田工場設立の経緯について教えてください」との質問に答える形になっています。

 その一部を引用してみると…

 然るに木曽川の上流には、沢山の木材はあるが、河流が激湍であって、運搬の方法がない。富士川もよいが、多くは御料林で簡単に買取の方法がない。そこで天竜川の上流秋葉山の奥を探検した処が、非常に広大なる民有林があり、また遠州の牡丹谷と言う処に、恰当の林野を発見した。」と述べています。

 『王子製紙社史』には「この気田川は天竜川の一支流で、此の辺は僅かながら小船の運送の利く所であり、また水力電気の遠距離送電が発達しない時代に、ペルトン水車を利用して直接に動力を獲得出来る地点でもあった。」とあり、大川らは、数ヶ所の候補地域の山林調査の結果、原木として最適なモミ、ツガが豊富であり、小船に限られてしまうものの、船運が可能な気田の地を発見したのでした。(原文のまま)

 こうして、明治20年頃に「王子製紙気田工場」の起工式が執り行われ、2年後に操業。日本初の木材パルプ(亜硫酸パルプ)工場が誕生しました。

 写真は、「起工式」当日の様子を写したもの。中央の見える「マル王」の印が「王子製紙」を表わしています。

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2009年7月23日 (木)

近々解体の予定―レトロな旧「三井屋呉服店」

Mistuiya  佐久間町西渡の商店街に残された旧「三井屋呉服店」の建物は、近々解体の予定とのこと。「大井橋」を渡ったところにある「緑屋」(通称「ろくさ」)で聞きました。

 早速、デジカメでカシャ!

Mitsuiya1 「三井屋呉服店」さんのような店舗建築は、看板建築と呼ばれています。外観こそ洋風に見えますが、中は木造2階建ての店舗兼住宅。江戸時代以来一般的だった商店は、軒を大きく前面に張り出したもので、出桁造と呼ばれるものでしたが、道路の拡幅等で敷地が狭くなり、狭くなった敷地面積では軒を出すのは不利。かと言って、庇をが道路にはみ出せば違法ですので、前面が平らな建築となりました。

 また、各地で頻発した火災から守るため、建物の外側を不燃性の材質で覆う必要があり、それが、「三井屋呉服店」のような擬洋風の看板建築を流行させることになりました。

Mistui  今でこそレトロですが、当時としてはハイカラ。さぞかし、注目を集めたことでしょう。

 そんな「三井屋呉服店」の昔の写真を入手しました。玄関上の「三井屋呉服店」の文字が、はっきりと読むことができます。この文字は、木を銅板で覆ったもの。戦時供出で銅板を剥がされて、現在のように風化してしまったとのことです。

 久根鉱山の盛衰を見て来た西渡の「三井屋呉服店」の看板建築。間もなく、自らの歴史にも幕を引くことになります。

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2009年7月21日 (火)

天竜川を臨む「溺死者萬霊碑」「溺死一切精霊」

Kuyoutou  「溺死者萬霊碑」「溺死一切精霊」―佐久間の天竜川沿いの道では、こんな供養塔の石碑に出会うことがあります。「溺死」とは、水難事故によって起きる「水死」のことですが、「水死」と聞くよりも悲惨さが増すような気がします。天竜川での水難事故とは一体何のことなのでしょう?

 供養塔に刻まれた文字には、「永代供養塔」「三界萬霊塔」などがありますが、佐久間町大輪の天竜川を臨む岸辺に立つ2基の供養塔には、冒頭の文字「溺死者萬霊碑」「溺死一切精霊」が刻まれていました。

 近頃の「水死」と言えば、遊泳中の事故であったり、自動車転落により車内に閉じ込められたり…。古い時代には、洪水による「水死」も数多くあったことでしょう。ただし、天竜川での「水死」と聞いて思い出すのは、急流を下る舟や筏による事故です。

 人や馬が運ぶ陸路を使わざるを得ないケースもあったとは思いますが、山間の集落の搬送手段の中で、もっとも大量に物資を運べたのは川を使っての水運でした。山で伐り出した木を流し、海で採れた魚や塩を山に運ぶ過程で、私たちが想像する以上に多くの事故があったのではないでしょうか?それは、遊泳中の不注意によって起きた事故とは違います。

 厳しい仕事の中での転落事故。激流に隠れた岩に舳先をぶつけた筏や舟があったのかも知れません。激しく波打つ川の流れの中に落とした命が、数多くあったであろうことは想像に難くありません。

 「溺死者萬霊碑」「溺死一切精霊」―墓地ではなく、川の岸辺の佇む供養塔。「溺死」の2文字に、かつての水運がのんびりとした「川下り」の風景とは違い、危険を伴う過酷な労働であったことの証(あかし)のように思えました。

 ●信州や佐久間の山から伐り出された木材のほとんどは、「筏(いかだ)」に組んで…
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2009年7月20日 (月)

木材を運ぶ馬―心に残る「馬頭観音」

Batou  佐久間出身で千葉県在住の夏目さんのブログに、私宛に書かれた記事がありました。

 北海道のシレパ岬で写真のような石塔が目に付いた。早速、報告したいと思った。ふるさとの散歩道で出会う馬頭観音はやっと字が読めるかどうかの歴史物だが、これは昭和53年建立と書いてあった。ここでは、昆布漁のための干場(かんば)が丘の上にあった。今では自動車で運ぶが昔はすべて馬力だったそうだ。

Tetsudo276  かつては、人を運ぶだけでなく、農作業にも馬の力が役に立ちました。山仕事でも馬は重要な力。春野の山道を、満載した木材を運ぶ2頭の馬の姿を撮った写真を借りることができました。古い写真を複写したものですので、ピントが甘くなっていますが、道路には轍(わだち)もくっきりと残っています。着物姿の子どもたちを見ると、明治時代の写真ではないでしょうか?

Ishikiribatou  人々は家族同然に愛した馬のため、馬と生きた路傍に「馬頭観音」を建てて供養をしました。この記憶は、今も地域の人たちの心に強く残っています。だからこそ、「馬頭観音」が単なる過去の遺物ではなく、昭和53年(1978)と比較的最近になっても、北海道では「馬頭観音」が建てられたのです。春野の路傍には少ない「馬頭観音」を、石切の山道で見ることができました。

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2009年7月19日 (日)

さあ、夏休み―大正時代の『夏休みの友』

Natsuyasumi1  さあ、「夏休み」です。楽しいはず「夏休み」の気がかりの一つが『夏休みの友』。そして、この時期の話題として出てくるのは、あの「ちびまる子」ちゃんが「お前なんか友だちじゃないやーい」と言ったシーン。『夏休みの友』さえなければ、もっと楽しい気分でいられたはずなのに…。

 …と、こんな思いを抱いたのは、私たちの世代だけではなさそうです。大正時代の『夏休みの友』の写真を紹介させていただきます。

Natsuyasumi2  1冊目は大正13年(1924)。「静岡縣教育會編纂 ナツヤスミノトモ 尋常科第一學年」とあります。人形遊びの少女と帆掛け舟を川に浮かべる少年の背景には、静岡県の象徴である富士山が描かれています。

 2冊目は大正14年(1925)。こちらは「尋常科第二學年」となっています。浴衣姿の少年と少女が蛍を追う姿。今では懐かしい情景です。

 『夏休みの友』と言っても、決してカブトやクワガタムシのことではありません。それにしても、誰がこんなネーミングを考えたのでしょう?かつての子どもたち全員を敵にまわした宿題帳も、今見れば懐かしい思い出。1年、2年は『ナツヤスミノトモ』とカタカナ書き、3年生からは『夏休みの友』と漢字で表記されていたようです。

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2009年7月18日 (土)

西渡の「栄枯盛衰」―新旧の写真を比較

 昭和50年頃の西渡の写真を貸していただきました。久根鉱山は既に閉山(昭和45年)された後の写真です。現在とそれほど違っているわけではありませんので、私にもそこが何処かは分かります。では、どこが同じで、どこが違っているのでしょう?現地に行って、ほぼ同じ角度からの写真を撮ってきました。

 それぞれの写真を並べてみましたので、比べてみてください。

 『土井呉服店』さんの写る1枚は、店正面に掛けられた大きな日除け暖簾こそありませんが、少なくとも、道路のアスファルト舗装に残る凹凸はそのままのようです。

 2枚目の写真は、『持永療院』さんの近くです。印象的な赤レンガの塀はそのまま。路面の不思議な凹凸もまったく同じ。でも、通りを挟んだ向かいにあったはずの家並が、現在はありません。ガードレールの外にあったはずの数軒の家は、西渡を離れたのでしょうか?

 遠景の高台に見えるのが「山香中学校」。もちろん、現在は残っていません。

 久根鉱山があった時代には、西渡には映画館があったそうです。パチンコ屋も、ビリヤードも、カフェも置屋さんもあったそうです。鉱山で働く人は、他所の土地から来て西渡に住み、危険な仕事に従事しながらもそれなりの給料を貰っていたそうですので、客はそんな久根の従業員。呉服店もあれば洋服店もありました。

 そして今、『土井呉服店』さんは残っていますが、『三井屋呉服店』さんのレトロな建物は、近々解体されるそうです。栄枯盛衰の風は、この山里にも確かに吹き荒れました。この話は、数回に分けて紹介させていただくことにします。

Nishido309 Alim0864
Nishido310 Alim0863

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2009年7月17日 (金)

時代の激流―「大井トンネル」と「大井橋」

Alim0853 気になり始めたら止められません。早速、佐久間町の西渡に行って来ました。現在の「大井橋」の竣工は昭和46年(1971)、「戸口橋」は同45年(1970)。…と、ここまでは分かっていました。古い写真に写っていない「大井トンネル」の開通がいつだったのか気になりました。答えは、同49年(1974)8月。トンネル入口のパネルが教えてくれました。

 「大井橋」が架橋される前には、すでに紹介した通り、「西渡橋」と呼ばれる上路式のアーチ型トラス構造の美しい橋が架けられていました。地元で聞いた話によれば、この橋には昭和34年(1959)の伊勢湾台風の折、水窪川を流れた何軒もの家屋の屋根が衝突し、橋にかなりのダメージが残ったのだそうです。その結果、架け替えの必要が生まれ、現在の「大井橋」はかさ上げされ、それまでに比べて路面位置がかなり高くなっているのだそうです。

 確かに、上路式の橋の場合には、道路の下に橋梁となるトラス部分がありますので、それだけ水位の変化に近いことになります。

Alim0856  それにしても、現在の水窪川の水位を見ると、ちょっと信じられないことなのですが、ダムのなかった時代、天竜川の水位が上昇すれば、水窪川の水が天竜川には流れず、橋の下に貯まったための水位上昇。現在でも、大雨の時の川面は、かなり橋に近いところまで来るのだそうです。だとすれば、一大事。

 その事実を踏まえて、あの美しい「西渡橋」が現在の「大井橋」へと更新されたと言うのです。

 写真の橋は、現在の「大井橋」と「大井側道橋」。見上げれば、こんなに高くにあるのですが、いざ大雨の折には、橋梁ギリギリで激流が渦巻くそうです。

 さて、この時代の西渡に、もう一つの大きな出来事が起こりました。さあ、それが何であったか、お分かりですか?

 答えは、久根鉱山の閉山。久根鉱山が採掘を放棄したのが、くしくも昭和45年(1970)―2本の橋が架かり、トンネルが貫通したのは、西渡の転換点とも言うべき出来事。時代の激流も、西渡の山里で渦巻いていたのです。

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「歓呼の声に送られて」―昭和10年入営の様子

Nyuei286  ♪天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は
 歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国
 勝たずば生きてかえらじと 誓う心の勇ましさ

 明治37年(1904)に作られた『日本陸軍』の歌詞。『出征兵士を送る歌』が発表されるまで、入営の壮行会や見送り行列の人々に歌われ親しまれた歌でした。

 写真を貸してくれたのは、春野町気田の「大原商店」の鈴木さん。「この写真は、もしかしたら…?」と聞いた私に対する答え。それは「歓呼の声に送られて…」の一言。昭和10年(1935)、村中の人が集り、日の丸の小旗を打ち振り万歳をしている様子が写っています。「祝入営○○○君」の幟旗も立ち、「歓呼の声に送られて」が歌われたのでしょうか?左手前の女性は正座しています。(*写真はクリックすると拡大して見やすくなります)

 「○○○君は、その後どうなりましたか?」と思い切って聞いてみました。「ああ、数年前に他界したよ」。と言うことは、生きて再び故郷の土を踏めたということ。

 こんなことが2度とあってはいけませんが、この記憶も決して忘れてはいけません。それが、私たちに課された義務だと思います。

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2009年7月16日 (木)

記憶を伝える製品倉庫―「王子製紙株式會社氣田分社」

Ooji279  日本最初の製紙会社の操業開始は明治6年(1873)。当時の原料は麻や綿布のぼろ布。原料の調達のし易さと印刷所が都市部に集中していたことから、東京府王子村に誕生しました。

 その後、増大する需要に応えるため、木材パルプによる製紙に移行したのですが、木材の調達が思うようにいかず、全国に新たな工場の敵地を探し求めました。調査の結果、パルプ適材のモミ、ツガが豊富で、川による輸送が可能であったことから白羽の矢が立てられたのが「王子製紙気田分社」でした。

Ooji281  1枚目の絵葉書には「王子製紙株式會社氣田分社」と書かれ、明治22年(1889)操業当時の写真だと思われます。気田川の流れを利用して原料を運び、水力を動力源として発電をし、水車を利用して「グラインダー・ストーン」を回転させ砕木パルプを作っていました。

 2枚目の写真には、「気田工場の舟積み風景」との説明が付いています。当時は、これが唯一の製品搬出路。つまり、原料の調達、紙の製造、製品の搬送のすべてに、気田川の流れが有効に利用されていたのです。

Ooji284  気田工場の閉鎖は大正12年(1923)。跡地には「気多村立気多中学校」の校舎が建ち、現在「春野中学校」の校庭に残されている「赤レンガ製品倉庫」が、3枚目の写真です。子どもたちの中には鍬をふるう姿も見られ、サツマイモを収穫している様子。昭和15年頃とされていますので、戦局が悪化していた時代です。食糧難の対策として運動場でサツマイモの栽培をしていたのでしょう。

 明治、大正、昭和の春野の歴史を見て、その記憶を平成に伝える「製品倉庫」。私たちが、語り継いでいかなくてはなりません。

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2009年7月15日 (水)

相月で舞われていた「獅子神楽」の写真

Album  北遠の「獅子神楽」と言えば水窪の「八幡神楽」や春野の「勝坂神楽」。しかし、まだ他にも「獅子神楽」は継承されています。以前、紹介した佐久間の「芋堀神楽」のすぐ近く、相月(あいづき)地区でも、少し前までは同じような「獅子神楽」が舞わていたとのことで、「相月諏訪神社」前の渥美さん宅で当時のアルバムを見せていただくことができました。

Aiduki2 赤い女物の着物を着て、大きな獅子頭を被り、諏訪神社拝殿の中で舞われたのだそうです。アルバムの日付は「S57.2.11」とあり、27年前の昭和57年(1982)までは継承されていたことが分かります。どの程度の演目が伝えられていたのでしょうか?今となっては画像で知るのみ。ビデオが残されているとも聞きましたが、現物は見ていません。

 近くの「中芋堀」の「御鍬神社」には舞台があり、松島、向皆外、中芋堀の「松尚中(しょうこうちゅう)」合同で「獅子神楽」が続けられているそうです。見に行ってみたいとは思いませんか?時期になれば、私の元に案内状が送付してくれるはずです。楽しみに待つことにしょうましょう。

 以前は「歌舞伎」も演じられていたそうですが、残念ながら現在は途絶えてしまいました。

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 ●「花の舞」は、愛知県奥三河地方に残る「花祭り」と同じ系統のもので…
 
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2009年7月14日 (火)

シカ捕獲、最多の1万4674頭 前年度比41%増

Shikagraph  (長野)県野生鳥獣対策室は県議会林務委員会で、2008年度のニホンジカ捕獲頭数が県内で1万4674頭だったことを報告した。前年度比41%増で過去最多。

 狩猟での捕獲は5150頭、個体数調整は9524頭。年間捕獲目標の8300頭を大きく上回ったほか、雌の年間捕獲目標5500頭を初めて達成。塩原豊室長は、市町村域をまたいだ広域捕獲が広がっていることや、狩猟者への財政的な支援が強化されたことを理由に挙げた。

 ニホンジカの鳥獣保護管理計画は06~10年度までの5年間。同室は本年度中に06~08年度までの捕獲効果を調査して、11年度以降の計画に反映させる。(「中日新聞」より)

 長野県の記事ですが…。

 7月11日(土)、私たちNPO法人「天竜川・杣人の会」の定例会の席でも、シカによる食害の話題が提供されました。水窪の山を歩いたメンバーから、下草をすべてシカに食べられてしまい、まるで秋の野原のようだったとのレポートが寄せられました。せっかく植樹されたドングリに木も、シカによって食べられ跡形もなかったそうです。木を植えれば自然が回復すると考えるのは、所詮「妄想」だと言うのです。

 生態系全体のバランスをよく見て判断しなくてはいけないようですが、ニホンジカの頭数の増加は、異常事態ではないでしょうか?その責任が「人間にはない」とは言いませんけど…。

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天竜川の石「謎深いゾ」 川の働きと魅力学ぶ

Nakanomachisyo  浜松市立中ノ町小(小野間正巳校長)は13日、浜松市東区の天竜川河川敷で総合学習を行い、児童48人が河原の石を観察して川の魅力に触れた。

 理科支援員の小畠逞壯さん(64)=南区=が川を流れて堆積(たいせき)する砂岩、流紋岩など7種類の石の特徴を紹介。児童は見つけた石を次々に小畠さんに判別してもらい、石に印をつけた。

 児童は今後「流水のはたらき」について学習する予定。小畠さんは「石は何億年もかけて循環している。地球の歴史を実感してほしい」と話した。中沢里花菜さん(10)は「花こう岩が宝石みたいで気に入った。もっと石について知りたい」と興味津々な様子だった。(「静岡新聞」より)

 以前、記事に書いたように、天竜川の川原の石は、変化に富んでいます。それは、中央構造線の内帯と外帯の石が混在しているためです。堆積岩、火成岩、変成岩と見た目いろいろ。楽しいですよね。

 ●中央構造線を境に東側には三波川帯の…

山城ブームで人気上昇「大洞若子城」

Wakagojo8  「城ブーム」の中、気軽に近づける「若子城址」の人気が高まっています。国道152号を水窪に向けて走り、「城西大橋」を渡ればすぐに見えるのが、こんもりと茂る城山。山道を少し登れば、本曲輪(ほんくるわ)跡に到着します。そんな城跡を訪ねてみました。

 「若子城」は、佐久間の民話『落城物語 若子城』としてその悲劇が語り継がれていますが、ここでは趣きを変えて、浜松市生涯学習課(文化財担当)が編集した『北遠の城』から、「大洞若子城(おおぼらわかごじょう)」の項を引用してみます。

Tahata  水窪川と大洞沢に囲まれた要害の地にあり、近くに信州街道が通る。奥山氏一族の城で南北朝時代の築造とされる。武田氏の南下とともにその傘下に入っていたとされ、天正3年の武田氏の長篠城敗退により家康の北遠地方への進出が始まる中で平定された。標高331mの山頂に本曲輪があり、尾根沿いに曲輪や堀切などが残る。周辺にある巨大な岩などが往古の趣きを残している。

 苔むした石段を登りたどり着いた本曲輪跡には、「大洞若子城主奥山加賀守定吉霊」を祀った「若子神社」が建てられています。裏側には大岩がありまさに天然の要害。ただし居住に相応しいロケーションとは言えず、城の下の田畑の辺りが、かつての住居跡ではないかとも考えられているようです。

 地図がなくても気軽の行ける山城「若子城」。『北遠の城』をバッグに入れて、さあ、出かけよう!北遠へ。

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これが「森林鉄道」のジオラマです。

 「Tetsudo217気田森林鉄道 ジオラマ」のキーワードでの検索がありました。先日は、「けん」さんの問い合わせのコメントも寄せられていました。見てみたいですか?それでは、どうぞ!

 これが、そのジオラマの写真です。黄色と青の機関車が、8台の台車と最後尾に客車を引いています。

 このジオラマを製作したのは、春野町にお住まいで、元・森林鉄道の機関士だったという井口さん。「手動ブレーキの時代には6輌、エアブレーキになってからは8輌を引き、私は最大で13輌を引いたこともあったよ。木材を山積みにした台車の後ろに客車を引いてね」と話してくれたことがありましたのが、まさにその通りの風景が再現されています。

 来週から「森林鉄道写真展」が開催される予定になっているのですが、まだ詳しい日程を入手していません。スペースの関係もあり、残念ながらジオラマの展示はないようです。本物に会うのは次の機会の楽しみにしていただき、この写真で想像してください。それでは、出発進行!

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2009年7月13日 (月)

線路のある風景―春野町の「森林鉄道」

 ♪線路は続くよ~ど~こま~でも~

 はい、線路は春野町気田から、水窪町の気田川源流付近まで続いていました。

 これまで、「気田森林鉄道」と「熊切森林鉄道」の写真を紹介してきましたが、今回はレールの写真。気田川に沿って続いていたレールは、「勝坂神楽」で有名な「勝坂(かっさか)」も通っていました。

 「勝坂 日影山付近」の1枚は、きれいに並べられた枕木、整地や草の様子から、開通間もない頃の写真と思われます。

 「森林鉄道」のレール幅は762ミリ。木材積込み箇所や方向転換などの分岐には手動のポイントがありました。

 ♪野~を越え山越え~谷越え~て

 木材を山積みした台車は、ディーゼル機関車に引かれ、春野の山里を走っていました。つい、42年前のことです。

Senro282 Senro283

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2009年7月12日 (日)

トラック、三輪自動車も活躍―「篠原貯木場」

Shinohara1  かつて、春野や水窪の国有林から伐り出した木材―川沿いを縫うようにして走る「森林鉄道」で運び積み上げられたのは、気田営林署「篠原貯木場」。この広大な跡地には現在、「売土地」の看板が立ち、名残りと言えば事務所棟が建っていたという石積み基礎くらいなもの。近くのお年寄りによれば、「広いら。2.4haあるからね」とのこと。下に並べた3枚の写真は、ともにトラックやオート三輪が写っています。

Testudo215 先ず最初の1枚は、題名が「三輪トラックに生活物資 を積込む」。「谷(場所)によっては軌道付近に三輪トラックを利用、飯場へ生活物資を搬入 車の名称はジャイアントと記憶 当時人気があった 篠原貯木場 昭和31年頃」との説明が付いています。

Testudo214  2枚目は、「伐採後の山地へ苗木を運ぶ」。「自動車道のある場所近くへは自動車で苗木他を運搬 当時営業者は殆どなく自家用で 篠原貯木場」。

 そして3枚目は「トラックへの積込作業」。「浜松営林署の中野町貯木場へ運搬する材で、当時、気田・水窪・浜松の各営林署の材を協同販売を行った」。

Testudo213  「ヂャイアント号」とは、愛知機械工業で製造された三輪自動車。当時のメーカーでは「ダイハツ」が1位、「マツダ」が2位。あとは、「ニューエラ」「ウェルビー」「イワサキ」「HMC」「ツバサ」などと並んで「ヂャイアント」が人気を集めていましたが、昭和35年(1960)に製造が中止になりました。

 さあ、懐かしいボンネット・トラックとオート三輪の姿をご覧ください!

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あの「西渡橋」が写る絵葉書

Nishido311  昨日、写真で紹介した佐久間町の「西渡橋(にしどばし)」は、現在の「大井橋」のほんの少し上流に架けられていました。その場所は水窪川に残されたコンクリート構造物によって推測できます。

 偶然、磐田の絵葉書コレクターの佐口行正氏から、同じ橋の写真を使った絵葉書を貸していただきました。観光用に「北遠振興會観光部」で制作した絵葉書のようで、モノクロの写真と背景に薄い水色(スキャンが悪くグレーになってしまいました)を使った2色刷り。着物を着た女性がポーズをとっている感じですので、モデルを使った撮影がされたようですので、そんなに古いものではないのかも知れません。

 何枚組だったのかは分かりませんが、その中の1枚が「山香村西渡橋 佐久間村附近天龍下り」。

 問題の橋「西渡橋」が現在の「大井橋」に架け替えられたのは、昭和46年(1971)でしたが、浦川町と佐久間村・城西村・山香村が合併し、町制施行され「佐久間町」が誕生したのは昭和31年(1956)。「西渡橋」が先代の吊り橋から架け替えられた時期は未調査ですが、「山香村」「佐久間村」と表記されているところを見ると、少なくともそれ以前ということになります。

 写真は多くを語ってくれます。二級国道152号飯田浜松線が一般国道に格上げされたのは、昭和40年(1965)4月1日。バスが1台走っています。「大井トンネル」の開通がいつであったのかは調べてありませんが、この絵葉書の写真にはトンネルは写っていません。

 調べてみたいことが、また増えてしまいました。

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2009年7月11日 (土)

昭和40年撮影「西渡橋」の冬景色

Nishido308_3  水窪川と天竜川が合流する辺り、佐久間町大井に架けられた「大井橋」―国道152号をそのまま水窪に行く時には渡りませんが、左折して473号に入る時に渡る橋。現在の赤い橋は、昭和46年(1971)に竣工したものです。でも、地元の人にとって懐かしい「大井橋」は、その前に架けられていたこの橋です。

 どうですか?先ずは、写真をじっくりと眺めてください!

 このトラスで組まれた上路式のアーチ橋。水窪川のV字渓谷の背景に見えるのは、雪化粧した竜頭山です。貧弱とも思える欄干(手すり)。橋の上を歩く2人の背には背負子。大きな俵が2つ写っています。まさに、佐久間町西渡を代表する、いや日本を代表する原風景。

 さて、この俵には何が入っていたのでしょう?この写真を撮影したご本人、現在は西区雄踏町に住む寺田さんにお聞きしました。

 「あれは、炭俵。寒くなると大輪の人たちが炭を売りに来たもんでね。カメラを構えていたら、ちょうど渡り始めたんだよ」。

 何と美しい風景でしょう。言葉にならない思い。こうして、私たちは、ただひたむきに生きてきたのです。決して忘れてはいけない風景だとは思いませんか?昭和40年(1965)の冬の撮影。当時は「西渡橋(にしどばし)」と呼ばれていたようです。

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「王子製紙會社」―中部工場の全景

Oujiseishi273_2 春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんから、「王子製紙」が操業していた頃の写真お借りしました。ほとんどは「気田工場」の写真だったのですが…。

 あれ?これは…。1枚だけ「北遠中部風景 王子製紙會社」と書かれた絵葉書が交じっていました。「気田工場」の写真を紹介する前に、「中部(なかべ)工場」の絵葉書を紹介することにします。

 いかがでしょうか?写真は、かなり高い位置から撮られていて、高い煙突が立つレンガ造りと思われる工場の全景が見て取れます。

 「王子製紙気田工場」が操業を開始したのは明治22年(1889)、中部工場は10年後の同32年(1899)。原料となる木材は上流の長野県から調達したため、筏に組んだ木材が天竜川を下り、次々と中部に陸揚げされたのだそうです。

 パルプ製紙には木材の調達と大量の水が欠かせません。そのため、製紙工場は、川沿いに建てられました。「中部工場」もまさに川のそば。閉鎖されたのは大正13年(1924)でしたので、その間25年、木材パルプによるこの製紙工場が当時の紙需要増大に応えました。

 *「王子製紙気田工場」の写真は、次の機会に紹介させていただきます。

 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は明治8年…
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2009年7月10日 (金)

木を満載して「木馬」を曳く

Kinma272  かつての木材搬出と言えば「木馬(きんま)」。木を満載した「木馬」を支えながら、緩やかな下り勾配に作られた専用の「木馬道」を少しずつ下ったのです。滑りが悪ければ油筆で番木に油を塗りながら進みました。「木馬」を曳く「木馬曳き」は、林業の仕事の中では稼ぎが良い方だったとのこと。

 今は使われなくなった「木馬」の展示は見たことがありました。木材を下ろした「木馬」を再び背負って山の上まで上げるため、「木馬」は軽くする必要がありましたので簡単な構造。こんなもので、木材を運んだなんて信じられない思いでした。

 まさか、そんな「木馬」が曳かれている本物の写真を見られるとは思っていませんでした。緩やかな傾斜とは言え、こんなに「木馬」が連なっていたのでは危険過ぎますね。もしも、「木馬曳き」の上に「木馬」が乗り上げてしまったら…。

 写真は、春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんからお借りしました。

Kinma269 Kinma268
Kinma270 Kinma271

 【関連記事】木材を運ぶソリ―「木馬(きんま)」
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2009年7月 9日 (木)

危険が伴う山の仕事「シュラ流し」

 ♪こんぴら船々 追い手に帆かけて シュラシュシュシュ~

 林業では、山の沢伝いに材木を滑り落とすのが「シュラ(修羅)」。丸太を組んで作った「シュラ」を滑りやすくするためには沢の水をかけ、川に向かって木材を滑らせました。その「シュラ」の模型を「佐久間郷土遺産保存館」で見たことがありました。しかし、この写真は「本物」です。

 架線やトラック、集材機が普及する以前、山からの木材の搬出は「シュラ」や「木馬(きんま)」を使う人力が頼りでした。ともに「勝坂 入地山」と書かれています。

 実は「たかが丸太を組んだだけ」と思っていたのです。しかし、「本物」の「シュラ」は、私が想像していたよりはるかに大規模。途中に設けられた作業台で方向を変えながら、山の上からこの大量の木材を滑らせるのは危険が伴う作業。「シュラ出し」「シュラ落とし」では、木と木とが擦れ合う音が、山いっぱいに響いたことでしょう。

 写真は、春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんからお借りしました。

Syura266 Syura267

 【関連記事】「修羅」の上を滑り落ちる丸太

2009年7月 8日 (水)

石切で見つけた「森林鉄道」の名残り―ガードレール

Ishikiri  春野町を走っていた「森林鉄道」の名残りは、すでにいくつか紹介させていただきました。大きなアーチが美しい「仙郷橋」、人も通った「小石間隧道」、レールで造られた半鐘台…。そして今回は、ガードレールです。

 このガードレールを見つけたのは、石切川沿いの町道。よく見る白いガードレールの中にある一角、まるで時間が止まってしまったような錯覚にとらわれるレトロなガードレールが残っていました。少し錆びてはいますが、この形は確かに「森林鉄道」に敷かれていたレールです。

 春野町の「森林鉄道」―気田の「大原商店」の鈴木さんから古い写真をお借りしての紹介が好評です。探してみればその遺産とも言えるものが、今でも残っています。鈴木さんたちは、7月中旬に「写真展」を開く計画とか。鉄道マニアでなくても、山が林業で潤っていた時代を振り返る良い機会になるはず。詳細が分かり次第ご案内しますので、楽しみにお待ちください。

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2009年7月 7日 (火)

「星会の空」―佐久間の「七夕」

Tanabata  7月7日は「七夕」です。昨年、佐久間町の「七夕」では「帯と着物を盆の上に載せ、キュウリ・ささげ・ナスなどを祭った」との記事を書き、「佐久間郷土遺産保存館」の「七夕」の展示を紹介しました。そこには、確かに笹飾りの他、「七夕盆」の風習と思われるトマトやトウモロコシ、「機織り」との関係を彷彿させる帯と着物が供えられていました。

 そして、解説板によれば…

 山から竹を切ってきて、シュロの葉を裂き短冊を結びつけ軒先に立てます。芋の葉にたまった朝露をもって墨をすり、短冊に「天の川」「星会の空」「七夕や天の川原」「七夕や天の川原の睦事を一度に結ぶ竹の下」などと書きました。

Tanabata  屋内にはキビ、スイカ、ナスなどの季節の作物と一緒に、なるべく、派手な着物と帯を祀ります。

 …とのこと。そのほか…

 「この日、瓜畑に入ると雨が降って、牽牛と織女が逢えなくなる」「女の人が髪を洗ったり、手箱を洗うと脂がよく落ちる」「三粒なりとも雨が降る」などの言い伝えもあり、佐久間の「七夕」が水に関係した祭りの面影を残しているのではないか、と考えれています。

 さあ、今晩のお天気はどうでしょうか?髪を洗うと、雨ですよ!

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2009年7月 6日 (月)

「広報はままつ」7月5日号全市版の表紙は佐久間の機織淵

Hataoribuchi

 「広報はままつ」7月5日号全市版の表紙の写真は、『時を越え語り継がれる民話の地へ』と題した佐久間町下平の機織淵でした。

 県道から遊歩道を下ると、そこに「機織り渕」はあります。「サーッ」という澄み切った音が、木々の中から伝わってくると、機織り渕はもう少し。10分ほど歩いてたどり着くと、静かな山間の中で水が途切れることなく流れ落ちています。その様子は、まるで織り上げられた白い布がどこまでもつながっているように・・・。

 旅人の中継点としてにぎわいを見せた佐久間町には、多くの民話が伝承されています。機織り渕もその一つ。今も語り継がれる民話の地へ、足を運んでみませんか。

 戦に敗れた肥田孫兵衛と村娘お銀との悲恋の物語。ぜひ、民話の里・佐久間をお訪ねください!

 この号で、私たちNPO法人「天竜川・杣人の会」が主催する「緑の募金協働事業 親子で楽しむ『北遠の森林の豊かさを知ろう・春野!』」も紹介されています。ぜひ、ご参加ください。詳しい内容については、「北遠の森林の豊かさを知ろう・春野!」pdfファイル でご確認ください。参加受付中!

 ●戦国時代の頃でしょうか。戦に敗れた肥田孫兵衛という侍が…
 ●「機織りが上手で気だての良い優しい娘が…
 ●「はたおりの子を負ひたればあはれなり」…

バンガローの施設として活用―旧「石切小学校」跡

Ishikirisyo  春野には、廃校となった小・中学校がたくさんあります。気田川の支流、石切川を遡った集落、旧「石切小学校」も昭和45年に廃校となっていましたが、木造平屋建ての校舎は、ほぼ元のまま懐かしい姿で保存されています。

 「平成19年度 第8回浜松市学校・幼稚園規模適正化基本方針検討会 会議録」も中に、こんな発言を見つけました。

 例えば石切小学校というところがあったが、昭和43年当時は世帯数が33世帯、人口が155人であった。しかし現在は世帯数が8世帯、人口が16人となっている。学校が統合され、地域の過疎が進んでいく…。

Komata254  「石切」だけでなく、さらに奥の集落「小俣京丸」には「石切小学校小俣分校」がありました。ある時期以降、「小俣分校」で学ぶのは3年生までとされ、4年生からは「石切小学校」へ通っていたそうです。旧「石切小学校」は現在「石切バンガロー」の施設の一部として活用されていますが、地域の過疎化は確実に進んでいます。こんな地域の弱体化を食い止める良い施策はないものでしょうか?

 ●写真の2階建ての校舎は、知る人ぞ知る「周智郡立勝坂小学校」跡…
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「青面金剛」に髪の毛を鷲掴みされる「ショケラ」

Syokera  現在でも「庚申待ち」が行われているのかどうかは分かりません。「庚申塔」も風化したものが多いのですが、水窪町向市場の祠に納められているこの「庚申塔」は、建立当時の様子が状態良く保存されている珍しいものです。

 そもそも、「庚申」の夜の男女同衾はタブーとされていました。もしも守らないと、生まれて来た子どもは石川五右衛門のような大泥棒になるとされ、しまいには「庚申」の日に生まれた子までそう言われるようになってしまいました。それを避ける方法は、ただ一つ。生まれた子どもに「金」の付いた名前をつけること。慶応3年1月5日、「庚申」の日に生まれた夏目漱石は、本名「金之助」と命名されたのは有名な話です。

 つまり、「庚申」の夜には、○○○○など考えず、寝ずに起きていれば良いのです。このタブーを破ってしまえば…?

 「青面金剛」に髪の毛を鷲掴みにされ、「懲らしめるぞ!」と脅されているのが「ショケラ」と呼ばれる女性の姿。「ショケラ」が何者なのかについては諸説あり、はっきりとは分かっていないようですが、とにかく乱暴な扱い方です。「青面金剛」に髪を掴まれている女性は、着物姿で両手を合わせて許しを請うているように見えます。

 今の時代にこんなことしたら…?2009年のこの後の「庚申日」は、7月14日(火)、9月12日(土)、11月11日(水)です。

 ●「庚申(こうしん)塔」と呼ばれる石塔が見られます。ここに彫られている像は…
 ●「庚申(かのえさる)」は、十干十二支に基づき60日ごとに…
 ●十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん=かのえさる)の夜に…
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 ●水窪の竜戸(りゅうと)集落の祠の中、他の石仏たちと並び、庚申の本尊「青面金剛」石像が2基祀られていました…

2009年7月 5日 (日)

相月には「庭天白」が祀られています。

Niwatenpaku  日本には「八百万の神」がいる、とは聞いていました。つまり、どこにもかしこにも「神」がいるという意味ですが、佐久間町相月でそれを再確認することになりました。家の玄関には「門神様」が祀られ、台所にも風呂にもトイレにも。床の間には「山住神社」「猿田彦神社」「諏訪神社」「御鍬神社」から「庚申様」まで、「御宝(おたから)」と呼ばれる「御幣」が祀られています。そして、家の外にも…

 白と緑と紫の「御幣」は「庭天白(にわてんぱく)」と言われるものだそうです。

 すでに紹介した通り「天白神」は伊勢の土着の神「伊勢津彦」とも関係があると言われ、伊勢を追われた「伊勢津彦」がたどった道筋に沿い、尾張、三河を経て、天竜川を遡って点在して祀られてます。「天白神」の祀られているところは河川の下流や海岸地方に多く、洪水から田畑を守る農業神と考えられていますが、製鉄などの技術者に関連した金属神との説もあるようです。

Tenpaku  下の写真は、相月のすぐ隣り「大洞(おおぼら)」の天白神社の鳥居の足元です。ご覧のように「鉄剣」が捧げられています。だから、金属神と決め付けるわけにはいかないのかも…。金物を嫌う神に「鉄剣」を奉納し、降雨を願った可能性もあります。

 話が脱線してしましましたが、相月の「庭天白」は、庭で遊ぶ子どもたちが怪我をしないようにとの願いを込めたものだそうです。

 ●「天白神」は天竜川流域や伊勢地方に多く分布し…

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…
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 ●「相月(あいづき)」は、佐久間町城西地区の集落です…
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2009年7月 4日 (土)

男の○○を握る「双体道祖神」

Dousoshin  水窪町向市場に立つ「双体道祖神」には、こんなパネルが嵌め込まれています。

 絶世の美男美女であった二人の兄妹は、余りにも美しすぎて結婚相手を見つけることができず、お互いに花嫁、花婿探しの旅に出て、相手を探し求めましたが結局見つからず、お互いの相手は他にはいないと気づき、兄妹で夫婦になりました。

 宿命によって結ばれた男女の伝説が伝えられる道祖神です。

 …って?まさか?

 あなたは、この言い伝えを信じますか?今でも昔でも、外見だけで結婚相手を選ぶ人なんていませんよね?むしろ、肩を抱き着物の裾をはだけ、脚を絡ませ、女は男の○○を握るという大胆な図柄からは、当時の人たちのおおらかさを感じざるを得ません。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 によれば…

 「道祖神(どうそじん、どうそしん)」は、路傍の神である。古い時代のものは男女一対を象徴する ものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や 交通安全の神として信仰されている。
 …と解説されています。
 「道祖神」は、天明3年(1783)に建立。まさに「天明の大飢饉」の真っ最中です。水窪の山里でも農作物の収穫量が激減し、きっと農民たちは疲弊していたと思われます。にも関わらず、このおおらかさはどうでしょう?現在では、こんな「双体道祖神」は「猥褻」とか「公序良俗に反する」と言われるのがオチでしょうけど…。

フォトムービー「遠州の旅」―北遠の風景も登場

 「ギャラリー 遠州路」萩原さん制作のフォトムービー「遠州の旅」―北遠の風景もたくさん登場しています。「 素晴らしき地『遠州』へ、どうぞお越しください」が萩原さんからのメッセージ。ぜひ、お出かけください!

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2009年7月 1日 (水)

水窪「次郎兵衛様」=相月「治郎兵衛霊神」

Jirobee4  「相月諏訪神社」の数ある境内社の中には、「治郎兵衛霊神」が祀られていました。「治郎兵衛霊神」?この「治郎兵衛霊神」って、もしかしたら水窪町向市場に立つ「次郎兵衛様」と同じなのでは…?

Jirobeesama  水窪の「次郎兵衛=治郎兵衛」に関しては、いくつかの言い伝えが残されています。隣りに立つ「双体道祖神」と混同して伝えられたりもしていますが、どうやら、過酷な年貢に抗議して首を斬られた名主と言う説が一番説得力があります。当日、親しい家の前で「首を斬られに行く」と声を掛けたが、家人は気の毒で顔が見られず、家から出なかったため、その家には障りがあったとも伝えられています。

Jirobe_2 こんな話は、すぐに伝わります。相月(あいづき)は佐久間町の城西地区。城西は水窪町に隣接していますので、そんな「次郎兵衛様」の功徳もあっと言う間に広まったことでしょう。

 城西地区の言葉の調子は、水窪の人たちの話し方とよく似ています。城西の元となった「若子城」は、水窪にあった「高根城」の出城として築城されました。テレビもインターネットもない時代ですが、水窪で起きたことは、口伝えに城西へ。ましてや、徳の高い「次郎兵衛様」なら、すぐ隣りの「相月諏訪神社」に「霊神」として祀られても当然です。

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
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2009年6月30日 (火)

シカ捕獲、最多の2312頭 昨年度の上伊那

 上伊那地区野生鳥獣保護管理対策協議会は29日に伊那市で開き、昨年度の活動を報告した。特に食害が深刻なニホンジカの上伊那地域での捕獲は目標の2倍近い2312頭で、統計のある2001年以来最多に上った。全体の農林被害は1億7500万円余と前年度より4000万円余減少。「活動により、被害の増大を何とか抑えている状況」と説明した。

 農地などへの侵入を防ぐ防護柵は延長121.9キロと1年間で36.5キロ増え「設置場所では一定の効果は示している」という。

 ただ、農業に絞ったシカ被害は前年度から面積が2割、金額は8割超と大きく拡大。中山間地のほぼすべての集落で依然、被害は報告されている。地域ごとの実情をさらに精査し、対策につなげていく。

 本年度は、獣害や防護策について「山間部と外部では認識に大きな差があり、地域全体の合意形成が重要」として、非農家への周知にも力を入れる方針を決めた。

 同協議会は上伊那地方事務所や信州大農学部、市町村などで構成している。(「中日新聞」より)

 先日、シカの食害による森林被害の深刻さについて、水窪町の写真を掲載しながら紹介したばかりです。上伊那のデータは、北遠のデータにリンクします。決して他人事ではありません。被害の拡大が抑えられている、との報告に少しは安堵しますけど…。

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すっかり夏の装い「岩井戸隧道」

Iwaido9  前回は2月に通った「岩井戸隧道」を、もう一度通り抜けたくなり天竜川の東岸、県道285号大輪天竜線を走りました。さあ、前方に見覚えのあるトンネルが見えて来ました。

 全長わずか24.4メートル。短いトンネルランキングの県内第4位のこのトンネル。緑色の夏服に「衣替え」も済ませ、明るい装いに変っていました。今回は、川下から川上に向かって見た風景です。

 ほら、「岩井戸隧道」の文字が、はっきりと分かるでしょう?トンネルの上には、2つの「養蜂箱」も見えます。手前に少しだけ写っているのが「岩井戸橋」。

 今回も、あっと言う間に抜けてしまいました。

 ●北遠など山間地域などをドライブしていて思うこと…
 ●以前、「隧道(ずいどう)」と「トンネル」について書いたことがありました…
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2009年6月29日 (月)

「切開堰堤」に「SR合成起伏堰」

Alim0279 漏水止めの工事をしていた佐久間「切開(きいなま)堰堤」の切開手術が終ったようです。河川敷にあった重機も堰堤の外に出されています。

 「切開堰堤」は、これまでの「堰堤」を撤去、新たに「SR合成起伏堰」を設置しました。流れを遮るように設置されている黒いものが、それ。つまり、水窪川の水位が上がったら空気袋に空気を送り、起こしたり伏せたりして水窪川の水位をコントロールする装置です。もちろん、すべてが自動。

 ま、 難しい話ですので、資料pdfをダウンロードして勉強してみてください。新しい工法のようです。

 「切開堰堤」は、「西渡発電所」に水窪川の水を送るためのものです。中部電力「西渡発電所」では4,600kWの発電機を回しています。

 ●「西渡(にしど)発電所」は、国道473号を上流に向かい右側の…
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 ●「西渡(にしど)発電所ダム」とも「切開(きいなま)堰堤(えんてい)」とも…
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山道の「よつじ」に立つ道標

Douhyou1  秋葉山に登った帰り道、私たちは「高瀬道」を通り下へ下へと向かっていました。途中、送電線の鉄塔とその案内、木々の間からたまに覗き見える下界の景色を目印に、地元の人が「よつじ」と呼ぶ分岐に到着。「多分、左に行けば前島(まえじま)、右に行けば坂下(さかした)。真っ直ぐ行けば犬居城の裏手に出られるはず…」。

 …と、その前に。「この道標を読んでくれない?」と頼まれてしまいました。道標は、私たちの進行方向の逆、「帰路」ではなく「往路」の参詣客に向けてのメッセージのようです。

 写真では読みにくいのですが、下部に地蔵尊を浮き彫りにした石の道標の正面には、「右けたがわ すぐあきは道 左さかした」と浅く彫ってあります。「すぐ」とは「真っ直ぐ=直進」の意味。今ではほとんど使われていないらしいこの山道も、かつては秋葉道として使われていた名残りだと思われます。

 そして、向かって左の面には「天保六乙未七月 施主 高瀬村伊三良」。「天保6年」には、あの楕円形の貨幣「天保通宝」が創鋳されています。「乙未って?」。「十干と十二支を組み合わせたもので、60年周期になっています。これは『きのとひつじ』と読み1835年を表わしています」と得意の知ったかぶり。「高瀬って言うのは、この下の集落のことだから、その村の伊三良という人が、今から174年前に、この道標を建てたっていうこと?」「そうですね」。

 ちなみに、次の「乙未」は2015年。この道標が建てられてから、あと6年で、暦が3周することになります。「とにかく俺たちは、道に迷ってはいなかったってこと?」「まっ、そういうことですね」。

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「B型鉄橋」と呼んで!

Bgata  「広報はままつ」天竜区版の表紙を飾った「B型鉄橋」の記事を掲載したばかりですが、手元にもう1枚、「B型鉄橋」での鮎釣りの写真がありますので紹介します。

 こちらは、知人が撮ったもの。2007年となっていますので、2年前の写真。「B型鉄橋」の向こうに見える釣り橋は「なかっぺはし」、建物は浜松市国民健康保険佐久間病院です。「B型鉄橋」には「中部大橋(なかべおおはし)」の正式名称がありますが、地元の人や釣り人の間では「B型鉄橋」の愛称の方が知られています。

 かつて、レールが敷かれて佐久間ダムのセメントサイト(現在の佐久間周波数変換所)を行き来する貨車が渡っていた鉄橋。Bの字を横に寝かした形に見えるのが、「B型鉄橋」の名前の由来です。

 北遠大好きなあなたなら、ぜひ「B型鉄橋」と呼んであげてください!

 ●佐久間の「中部(なかべ)」に架けられている橋の一つが「中部大橋」…
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2009年6月28日 (日)

変らぬ風景―大正15年の「新宮神社」

Shingu118  「新宮池」は、春野町和泉平の山頂にある広さ約1.4ヘクタールの池。池の底が諏訪湖と繋がっているとか、大蛇が出たとの伝説のある神秘的な池です。池の畔には「新宮神社」が祀られています。その祭神が諏訪神社の「建御名方命(タテミナカタノミコト) 」なのかどうかを知りたくて神社の境内を探してみましたが、そのヒントになりそうなものを見つけることが出来ませんでした。

 その後も気になり、何度か立ち寄ってはみたのですが…。

 ひょんなことから、「新宮神社」に祀られる祭神が分かりました。大正15年8月発行の『和享帖』(静岡縣神職會周智郡支部)に、当時の「新宮神社」の写真とデータとが公開されていました。それによると…

 「神社(示土=旧字)名 新宮神社(旧字)」「社(旧字)格幣帛供進有無 村社(旧字)幣帛供進」「鎮座地 犬居村和泉平字新宮新宮山頂上」「創建 養老六年壬戌六月」「御祭神御名 伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冊尊(イザナミノミコト)、瓊々杵命(ニニギノミコト)」とあり、「建御名方命 」ではありませんでした。

Singu  ところが、「新宮池」を超せば熊切長蔵寺(ちょうぞうじ)の「諏訪神社」。となると、「新宮池」に伝わる「竜蛇伝説」は、長蔵寺の「諏訪神社」の言い伝えと合わさったものなのかも知れませんね?

 『和享帖』では、「例祭 七月二十四日、二十五日、二日間」「古例儀典 例祭ハ乙女神樂奉奏アリ又神池ニ舟ヲ浮べ提灯ヲ以テ満(旧字)飾スルノ例有」とされ、「神池」とは「新宮池」のこと。この祭りは、今も変らずに引き継がれています。

 ●「新宮池」は春野町和泉平(いずみだいら)の山頂668㍍にあり…
 ●「新宮池」を過ぎ、「春埜山」に向う途中…
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2009年6月27日 (土)

秋葉神社裏に残る「機織井」

Hataoriido  以前から気にしていました。秋葉山秋葉神社の古い絵葉書で見つけた「機織井」―現在も残ってはいるようなのですが…。

 そこで5月30日に秋葉山に登った折、同行した地元の人に聞いてみました。「私が子どもの頃には、看板が立っていたんだけどね。確か、あれだと思う」と、秋葉神社裏の山道から下の方を指差してくれました。「あの四角で囲まれたのが、機織井ですか?」「そうだと思うよ。こんな山の上に湧いているんだから…」。

Akihajinja133  『秋葉山略縁起』によれば、「西北隅に清水が湧き出て、蝦蟆が背中に秋葉の二字をもって現われる。この清水のほとりに寛永年間山姥が現われて機を織ったので、以後機織井という」とあります。

 「機織井」の湧水は、秋葉神社の祭礼に使われているのだそうです。もし、写真の場所が「機織井」だとすれば、絵葉書のイメージとはかなり違っています。絵葉書の説明によれば、「秋葉神社機織の井古跡」となっていましたが、下まで降りては行きませんでしたので、確証はありません。今回は、これを「機織井」としてUPしておきます。

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夏休み親子環境教室―「春野山の村」に出かけよう!

Yamanomura 「春野山の村」のホームページとリンクしました。「春野山の村」とは…

  静岡県天竜区の春野町にある「春野山の村」は本格的な野外活動施設です。

 1981年に高校生宿泊施設“山の村”として開所し、後に学校・青少年育成団体・勤労青年団体なども利用できる静岡県立春野山の村となりました。43.1haの広大な敷地に、管理棟・10棟の宿泊棟・炊飯施設・創作活動棟・天体観察ドームを備えています。

 2007年度に閉鎖されましたが、浜松市が県から借り受け、補助事業としてNPO法人はるの山の楽校が運営、再び利用ができるようになりした。

 今年の夏休み親子環境教室『北遠の森林(もり)の豊かさを知ろう・春野!』は、この「春野山の村」に出かけます。「春野山の村」の豊かな自然を楽しみ、「まき割り」「火おこし」などを実際に体験していただくための環境プログラムです。ご参加の申込みをお待ちしています。

■とき 平成21年8月8日(土) 8:00発~18:00着予定
■ところ 「春野山の村」天竜区春野町杉943-1 TEL 053-984-0311
■募集人員 100名 
■参加費 1,200円(昼食代・傷害保険料)
■対象 市内の小学生と父母・先生
■申込み 先着順に受付。FAXかメールでお申込みください。
*定員になり次第締め切ります。

特定非営利活動法人「天竜川・杣人の会」事務局
430-0933 浜松市中区鍛冶町124番地マルHビル
TEL/FAX 053-456-3215
E=mail somabito@cy.tnc.ne.jp

 もっと詳しい内容については、「北遠の森林の豊かさを知ろう・春野!」pdfファイルでご確認ください。

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2009年6月26日 (金)

常夜燈の「∴」はオリオン座の「三つ星」

Eitai2  「秋葉山本宮秋葉神社随身門」前に立つ常夜燈の火袋の火口窓の形―正面は四角ですが、背面が日輪を表わす丸「●」、向かって左は三日月形「」、そして向かって右は…?

 上に1つ、下に2つ、三角形の形に丸い穴が開いています。何だと思いますか?これは「星」を表わす「三つ星=」。日・月・星の3つの光を足して「三光」と言われ、家紋などにも使われている意匠。「三つ星」は勝ち星と言い、「三つ星に一文字=」は源氏の大族渡辺氏、「三つ星」の上に一文字をつけたのは毛利氏の家紋として使われています。

 現在では「星型」と言えば「★」を連想しますが、これは西洋の影響。日本人にとって、本来の星は丸いもの。つまり「●」。ただし、「三つ星」の意匠は、冬の代表的な星座「オリオン座」の「三つ星=」を表わすと言われています。しかも、星の伝説のふるさととも言われる、イスラム文化圏から遠い昔にシルクロードを通って伝えられたとも言われています。

 「秋葉神社」に立つ常夜燈から洩れる仄かな灯りが、太陽「●」と月「」と冬の夜空の「オリオン座」の「三つ星=」の形とは、何だかロマンティックですね?

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2009年6月25日 (木)

「ヤマモモ」の季節なんですね

Yamamomo  道路のアスファルトの上に、赤い実が散らばっていました。見上げると「ヤマモモ」が…。そうか、「ヤマモモ」の季節なんですね?

 実家には、大きな「ヤマモモ」の木がありました。子どもの頃、この実を拾って食べました。木に登って採ったりもしました。洗濯物の乾きにくいこの時期に、着ている服に赤い染みをいくつも作り、母を困らせたことがありました。

 「ヤマモモ」の実が店に並ぶことはあまりありませんので、名前は知っていても見たことがないという人もいるのかも知れません。もし、手に入った時には、生食のほか、「ヤマモモジャム」にして保存することもできます。

 それでは、ネットで調べた「ヤマモモジャム」の作り方。

 (1)「ヤマモモ」の実を水洗いし、水を切ります。

 (2)ステンレス鍋に水500mlくらいを入れて沸騰。

 (3)沸騰したお湯に入れ、焦げ付かないよう、攪拌しながら加熱。

 (4)果肉が柔らかくなった「ヤマモモ」を裏ごし。

 (5)裏ごしした果肉をステンレス鍋に入れて、再び加熱。

 (6)鍋の裏ごし果肉が沸騰したら、分量の砂糖を全部入れます。

 (7)攪拌しながら加熱を続け、時々煮詰め具合いを確認します。

 (8)適当な煮詰め具合になったら、殺菌したガラス瓶にジャムを移し、ふたを軽くして、脱気殺菌します。

 (10)脱気殺菌が終了したら、ふたを堅く閉め、逆さまにして冷まします。

 (11)倒立放冷が終了したら、流水で冷却。

 (12)ジャムが冷えたら、ビンの外側の汚れを完全に洗い落とし、水を拭き取ります。

 機会に恵まれましたら、ぜひお試しください。案外、種が大きいのが気に入りませんが…。

春野町花島の「壁掛けポスト」

Post  春野で見かける壁掛けポスト―「郵便差出箱2号」との出会いの5ヶ所目は、花島でした。「春埜山大光寺」で知られる花島ですが、集落を構成する戸数は激減。

 ポストが掛けられた家は、旧「花島小学校」跡を少し下った辺り。普通の民家のようでしたが、かつては秋葉山への参詣客を宿泊させたこともあるとのこと。「この前の道が、東海自然歩道にもなっているから」、今でも時々歩いて通る人もいるそうです。

 このポストに手紙を投函したら、一体いつ頃届くのでしょうか?収集は週1便くらい?いえ、いえ、大丈夫。収集は1日1便となっています。

これが「一等水準点 建設省国土地理院 No5286-1」

Suijunten  いつもの知ったかぶりですが…。

 水準測量によって高さを求めた基準点を「水準点」といいます。「水準点」は、全国の主な国道、または主要地方道に沿った約2キロメートルごとに設置され、土地の高さをミリ単位で精密に求めることができます。

 その総数は全国で約22000点。特別に珍しいものではないのですが、なかなか「これが水準点だ」と確認する機会はありません。写真の「水準点」は、国道152号、佐久間町の「大井トンネル」の東にありました。基準、一、二、三等の4種類があり、これは「一等水準点」。「建設省国土地理院 No5286-1」とされ、「この測量標を移転き損すると測量法により罰せられます」と刻まれています。

 これに対し「三角点」は、山の頂上付近や見晴らしのよいところに設置され、経度、緯度が正確に求められています。地図の山頂の▲印がこれ。

 まあ、いつもの知ったかぶりですが、地殻変動・地盤沈下対策等に必要な土地の上下変動は、「水準点」の測量を繰り返して求められています。

2009年6月24日 (水)

昭和14年頃「天龍川沿岸西渡全景」

Ooibashi  川の港―「天龍川沿岸西渡全景」の古い絵葉書の複写を貸していただきましたので紹介します。前回紹介した「遠州西渡」の絵葉書は、文字が右から左に書かれ、大正時代のものだと思われましたが、この絵葉書の文字は左から右。「昭和14年頃」とのコメント付きです。

 対岸、戸口側から見た「其三」「其四」2枚続きのパノラマ写真。水窪川と天竜川との合流地点がよく分かります。水窪川には、大量の木材が流され、合流地点に貯木されているようです。天竜川には渡船と思われる船と筏が浮かび、背後の山には送電線の鉄塔が見えます。

 気になるのは上路式トラスの「大井橋」。現在の「大井橋」はアーチ+下路式トラスですので、明らかに別の橋です。大正時代の絵葉書に写っていたのは、木造と思われる吊り橋でしたので、これとも違っています。

 実は先日、西渡に寄った時、現在の橋のすぐ上流に、旧「大井橋」の遺構と思われるものを見つけました。水窪川を挟んで同じ位置にコンクリートで造られています。絵葉書の橋とまさに同じ位置。おそらく、これが先代の「大井橋」の遺構だったのでしょう。

 国道152号、城西、水窪方面に抜ける「大井トンネル」は、まだ出来ていません。

Nishido277 Nishido278

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 【関連記事】絵葉書で振り返る北遠⑨―「三信長瀞の景」
 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

2009年6月23日 (火)

「シャッター」ではなくて「三和シヤッター」

Sanwa  「三和シヤッター販売店」のホーロー看板は、縦と横の2タイプです。佐久間町浦川で見つけました。

 「三和シヤッター」は、商店や住宅、ガレージ用のシャッターのトップメーカー。一昔前には「鎧戸(よろいど)」とも呼ばれた、あの金属の板をすだれのようにつなぎあわせた建具のことです。

 現在の「三和シヤッター工業」の前身「三和シヤッター製作所」の創業は、昭和31年(1956)。ここまで読んで、気づきましたか?「シャッター」ではありません。「シヤッター」です。

 「シヤッター」と「ヤ」を大きく表記するのは、商標登録や商業登記に小文字(拗音)が使えなかった名残とのこと。他には「キヤノン」「富士フイルム」なども知られるところです。でも、発音は「シャッター」「キャノン」「フィルム」。「文化シヤッター」「東洋シヤッター」も「シヤッター」です。

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 ●写真のホーロー看板は、佐久間町西渡の「舟戸(ふなと)商店街」で…
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 ●春野町長蔵寺で見つけた「三菱かつらエンジン」のホーロー看板です…
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 ●マニアの間では金融系に分類される「第一證券」のホーロー看板…
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 ●「電球はナショナル」のホーロー看板で思い出されるのは…
 ●天竜区熊で見つけた、赤地に白文字「蛇の目ミシン」のホーロー看板です…
 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…
 ●「自動模様編機の開発メーカー アルス編機 編物教室」のホーロー看板…
 ●「一ばん良い ナショナル電球」の横長ホーロー看板は、水窪町での撮影です…
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2009年6月22日 (月)

山里に流れた時間―「気田堰堤」と「豊岡発電所」

 春野町の「気田堰堤」と「豊岡発電所」の古い写真を見つけました。

 「気田堰堤」が建設されたのは昭和4年(1929)。写真は同10年頃となっていますが、正確な撮影時期は不明です。ただ、背後の山肌に写っている鉄管が、「豊岡発電所」の送水パイプだとすれば、「豊岡発電所」が同13年(1938)2月に運用開始されて以降のものと推定できます。見た目にはほとんど変わっていません。

 その「豊岡発電所」の写真は絵葉書のようです。現在は中部電力が運用管理しているのですが、絵葉書の説明によれば「東邦電力株式会社豊岡發電所全景」となっています。建物の外観は、おそらく耐震補強をしたためか少し変って見えますが、窓の位置などはそのままです。

 発電所手前に写っているのは「門島橋(かどしまばし)」。現在の橋は、、「気田森林鉄道」が廃止された年「昭和34年5月31日竣功」の青色のトラス橋ですが、絵葉書の橋はそれ以前の吊り橋です。

 こうして昔と今の写真を比べてみると、時間の流れが見えてきますね。変化の少ないように見られがちな山里にも、確実に時代の変化がさらされています。

 資料となる写真は、気田の大原屋商店の鈴木さんからお借りしました。

Testudo248 Kertaentei
Testudo249 Toyookahatsudensyo

 【関連記事】昭和13年運用開始「豊岡発電所」
 ●気田川にある「豊岡水力発電所」のすぐ下流に「気田ダム=気田堰堤(えんてい)」…
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2009年6月21日 (日)

三猿が彫られた向市場の「庚申塔」

Koushin  写真は、水窪町向市場で出会った「庚申塔」です。「青面金剛(しょうめんこんごう)」については、すでに何度か紹介させていただきました。この石像は、風化が少なく、当時の形が良く保存されています。

 「青面金剛」の頭上には日月が配され、六臂の持物は、法輪、弓矢、剣など。変わった物としては、「ショケラ」 と呼ばれる女性の頭髪をつかんでぶら下げています。

 足元の左右には「鶏」が、台座には「見ざる、聞かざる、言わざる」のいわゆる三猿が彫られています。

 「庚申」とは干支の57番目、「かのえさる」とも読まれます。「庚申」の「申」が動物の「猿」と一緒にされ、やがて「三猿」へと統一されて行ったのだろうと言われています。「見ざる、聞かざる、言わざる」には、三尸(さんし)の虫による天帝への報告阻止の意味もあったのでしょうか?

Sanen 「おそいもの、庚申の夜の鶏の声」と詠まれてもいるように、「庚申」は夜明かしの行事。夜明けを告げて鳴く神秘な鳥として、また十二支の「申」の次が「酉=鶏」とのこじつけでもあったのでしょう。向かって右が雄鶏、左が雌鳥のようです。

 北遠の山里にも「庚申塔」は数々残っていますが、教科書通りの像は意外と少ないもの。ちなみに「三猿」を日本のオリジナルと思っている人も多いと思いますが、その原型は古代エジプトにも見られるとのこと。英語圏では、「Three wise monkeys」として「叡智の三つの秘密」を教えているそうです。

 ●「庚申(こうしん)塔」と呼ばれる石塔が見られます。ここに彫られている像は…
 ●「庚申(かのえさる)」は、十干十二支に基づき60日ごとに…
 ●十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん=かのえさる)の夜に…
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2009年6月20日 (土)

懐かしい「ナショナル」のロゴは「ナショ文字」

National  この斜体のロゴを覚えていますか?懐かしい「ナショナル電球」のホーロー看板とは、相月(あいづき)の集落で出会いました。

 創業者は、ご存知、松下幸之助氏。2008年からは「パナソニック株式会社」と名称変更されましたが、その前までは「松下電器産業株式会社」。このお馴染みのロゴは「ナショ文字」と呼ばれ、昭和12年(1937)から使われました。縦の線が太く、横の線が細い直線の組み合わせ。人気の高かったTVヒーローものの先駆け「ナショナルキッド」のタイトルロゴにも、この「ナショ文字」が使われていました。

 ところが、外国では「ナショナル」の商標が使えなかったのが、「パナソニック」に社名が変った大きな理由。「ナショ文字」が使われなくなったのは昭和62年(1987)。さらに時代は流れ、電力消費が多く短寿命という白熱電球→環境に優しい電球形蛍光灯へと主役交代が進んでいます。

 隣りの赤錆びた看板は「サンビシしょうゆ」のものです。

 ●「電球はナショナル」のホーロー看板で思い出されるのは…

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佐久間の壁掛けポストは現役引退後

Post  春野で見かける壁掛けポスト「郵便差出箱2号」―あの赤い箱は、佐久間でも使われているのでしょうか?現役のポストは見つけられませんでしたが、すでに現役を退任した壁掛けポストを羽ヶ庄(はがしょう)で見つけることができました。

 ほらね、これがそうです。

 このポスト、少し前までは使われていたのだとか。角型のポストに切り替えられた時に記念に譲り受けたのだそうです。絶滅危惧種の壁掛けポスト。もしかしたら、佐久間に残る最後の1台かも知れないこれを見つけるのは、マニアでも苦労すると思いますよ。例え「羽ヶ庄」の大ヒントがあってもね…。

 探してみてください!さあ、見つかるかな~?

2009年6月19日 (金)

秋葉山表参道「九里橋」のたもとに立つ道標

38cho_2  秋葉山表参道の宿場「坂下(さかした)」、栃川に架かる「九里橋」は、浜松・掛川からともに9里目の距離に当ることが、その名の由来とか。かつての木橋は昭和16年(1941)夏の洪水で失われ、現在の「九里橋」は昭和38年(1963)竣工のもの。さあ、いよいよ秋葉山表参道50町の山道のスタートです。

 橋のたもとには、表参道の始点を知らせる昭和12年(1937)の年号を刻んだ道標が立っています。「至神社縱是三十八○」。「○」の分部は地中となっていますので判読できませんが、おそらく「町」の文字が刻まれているはずです。つまり、「秋葉山秋葉神社上社」まで、ここから「38町」あることを参拝者に告げる道標だろうと思いますが…?

Kuribashi  でも、これって変ですよね?そもそも、秋葉山50町の基点となっているのが、この「九里橋」。ここから50町の山道が始まります。…となれば、「縱是五十町」となるはずのところです。

 本来この道標が立つべき場所と言えば「12町目」のはず。以前紹介した金原明善翁の父君の名が刻まれた「町石」が13町辺りでしたので、その少し下のはずです。(*この「町石」には町目が刻まれていませんので、「町石」と言うよりも「常夜燈」と言った方が適切なのかも知れません。)

 初めからここに建てられたものなのか、移されたものなのか…。なぜ?どうして?その理由は分かりません。「50-38=12」ですので、計算が合わないことだけは確かです。

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2009年6月16日 (火)

当時の賑わいを彷彿―秋葉山表参道

Fujimi_2 5月11日付「静岡新聞」古道を歩く―秋葉街道50「富士見茶屋」で紹介されたのは、秋葉山表参道にあった茶屋。多くの参詣者が列をなして登った秋葉山には、「富士見茶屋」をはじめ、数軒の茶屋が店を構えていました。

18chayaato  「飲み水は50分ほど山を下りた谷川までくみに行き、てんびん棒で担いで運んだ。地面に大きな穴を掘って雨水をため、落ち葉などをたいつけにして屋外のドラム缶のお風呂に入った。お月さまがきれいでしたよ」…。1943年の秋葉大火。山は三日三晩燃え、1週間くすぶり続けた。内山家も両隣の家も、茶屋も丸焼け。(「秋葉街道50」より一部引用)

Mikawaya  上の写真は、28町目付近の「富士見茶屋」があった辺りに残る廃屋。かつては眺望も良く、遠く富士山が望めたという辺りも、現在では樹木が生い茂り、富士山はおろか犬居や気田の集落さえ見えません。

 秋葉山表参道には、6町目に「三河屋」、13町目辺りには「もみじや茶屋」、18町目の石垣にも「十八丁茶屋」が営まれていました。「富士見茶屋」近くにも「桜屋」があり、「ちょぼいち」と呼ばれた賭博場も、19町と神社裏にあったとのこと。当時の賑わいが彷彿させられます。

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佐久間の常夜燈は明治33年

Sakumajouyatou  佐久間町佐久間の「佐久間神社」のすぐ下に、常夜燈の基壇と台石が残っているのは知っていました。ところが、肝心な竿から上がありませんので、これが「秋葉山」の常夜燈であるかどうかについては判断できないままでいたのですが…。

Sakumajouyatou2  やはり、地元の人に聞くのが一番です。「この常夜燈は、秋葉山のものですか?」と声をかけてみたところ、「この上に、上が残ってる。もう少し離れたところに、一番上の珠があるよ」と、丁寧に教えてくれました。

Sakumajyoyatou2  「秋葉山」の文字は、ほとんど風化せず、オシャレな字体。裏には「明治参十三年九月十七日建之」と、1900年のミレニアムに建てられたものであったと分かります。これは、偶然ですが、浦川の五社神社に立つ常夜燈と同じ年。「久根鉱山」が操業を開始したのは、明治32年です。

 常夜燈の笠の上に載る宝珠は、草に埋もれていました。火口は一番壊れやすい部分ですので、あるいは残ってはいないのかも知れません。

 思い切って「どうして、バラバラになっちゃったんですか?」と聞いてみました。「倒れそうになって、子どもたちが登ったりいたずらすると危ないから」の返事。「そうでしょうね」と言ってはみましたが、でも、何だか淋しいですね。再建していただくことはできないでしょうか?

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2009年6月15日 (月)

修験者によって建てられた「不動明王」

Fudou2  春野町宮川の「八王子神社」で、「不動明王」の石像を見つけました。

 「不動明王」は、元々は「大日如来」の使いとされていますので、仏様。ところが、山間の滝などで見かける「不動明王」のほとんどは、修験の行者が建てたもの。神仏混淆の修験道ですので、真言密教の呪文を唱え、「大日如来」や「不動明王」を招来したのです。

 「八王子神社」は、もちろん神社。ですから、「不動明王」は鳥居の外に鎮座しています。右手に剣、左手に検索を持ち、火焔を背負っています。春野に流れる「不動川」の名も、この「不動明王」と、春野で盛んだった修験道に由来するものと思います。

 さらにもう一つ、気になるものを見つけました。「不動明王」の前に置かれた小さな丸い石です。これは以前、秋葉神社下社の近くの秋葉で見た熊野神社に関わりのある「丸石」と同じなのではないでしょうか?大きさはずいぶん違っていますが、「不動明王」と「丸石」は、ともに修験道ゆかりのものという共通点があります。さあ、あなたは、どう考えますか?

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「巨樹」「古木」の「目通り」「樹齢」とは

Harunosugi3  春野町花島「春埜山大光寺」に聳える「春埜杉」については、「樹高 43.0㍍ 目通り14.0㍍ 樹齢1300年」とも「樹高44.0㍍ 目通り11.4㍍ 樹齢1200年」とも。現地看板、環境省、旧春野町と、それぞれ微妙な違いが見られます。

 「これって、ホントはどうなのよ?」との声が挙がりましたので、巨樹、古木のデータで見られる「樹高」「目通り」「樹齢」について調べてみました。

 先ず「樹高」は物理的な木の高さですので、「地面から樹冠の先端までの高さ」となります。ただし、計測法については、はっきりとした規定がないようです。特に「春埜杉」のように傾斜地に育つ木の場合には、基準となる「地面」レベルが定まりません。「43.0㍍」「44.0㍍」は誤差の範囲と言えるかも知れません。

 次に「目通り」についてです。木の太さを示す数字としては、ほとんどの木は真円ではありませんので、「直径」は正確さを欠きます。そこで、幹の周囲長で表わすことになりますが、その高さを規定する言葉が「目通り」です。つまり、目の高さ位置(旧環境庁は1.3㍍)での幹囲で比較するのですが、問題なのは、数本に枝分かれした幹の場合です。この場合、旧環境庁の「巨樹・巨木林調査実施要領」によれば、1本1本の幹囲を測り、その合計を幹囲とするとされているのです。この場合には、佐久間の「吉沢の田高杉」のように分枝している木の数字が、特出化することになってしまいます。

 「樹齢」については、さらに曖昧です。「樹齢1200年」でも「樹齢1300年」でも、誰も確かめる方法はありません。「春埜杉」の根拠は、僧行基が養老2年(718)の開山記念に植えたという言い伝え。だから約1300年は経っているはずだ、とのことになります。ちなみに、「山住神社」の大杉は、和銅2年(709)の神社鎮座と同時に植栽されたと言われますので、こちらの方が古いはずですが、「いや、山住の杉は1200年だろう」と言う人もいます。

 …と、まあ、あくまでも、科学的とは言えないデータです。まあまあ、そんな小さなことに目くじらを立てないで!「春埜杉」に笑われますよ。

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2009年6月14日 (日)

お寺の「山号」、「寺」と「院」の違いについて

 「秋葉山秋葉寺」「春埜山大光寺」「秋葉山瑞雲院」「龍頭山戒光院」―お寺の名前の多くに「○○山」と付いています。これには、どんな意味があり、どうして付いているのでしょう?

 この「○○山」は「山号」と呼ばれ、昔のお寺は山の中に建てられることが多かったため、その所在地を示すためにつけられた呼称とのこと。平地に建てられるようになってからも、本山を表わしたり、僧侶が修行した山の名前を付けたりして続いているのだそうです。お寺の正面の門を「山門」と呼ぶのも、ここから来ています。

 考えてみれば、山国に住む私たち日本人とっては、山は強力な力を持った神や仏が棲む特別な世界。日本における「山号」は、もともとの庶民信仰(先祖崇拝・霊魂観)などと深く結びついたものであり、仏教が日本で広まる過程において生み出されて来たものだったのでしょう。

 また、お寺の名前には、「○○寺」と「○○院」があります。この二つには、何か違いがあるのでしょうか?調べた限りでは、特別な格付けのようなものはないのだそうです。「意昌庵」のように、「○○庵」という場合もありますね?

「庚申仏」が掲げる「法輪」って何?

Koushin  秋葉山からの帰り道、林道を通り犬居城の脇を抜け出てきたのは春野町領家の「原」の集落。「庚申堂」の小さな祠が、私たちを迎えてくれました。

 そこで、同行の一人から質問。「ねえ、ねえ。これって何を持ってるの?」。持物(じぶつ)は、その仏を象徴しする物。ただし、同じ仏ならすべて同じ物を持っているかと言うと、そうとは限りません。この「庚申仏=青面金剛」の右手には、錫杖(しゃくじょう)、羂索(けんさく)、三鈷杵(さんこしょう)を持っているようです。そして、左手には、「法輪(ほうりん)」、払子(ほっす)、五鈷鈴(ごこれい)を持っているようですね。

Hourin  次の質問。「この輪は、船の蛇輪みたいなもの?」。いえいえ「法輪」とは、「仏法が人間の迷いや悪を打ち破り追い払うのを、古代インドの戦車のような武器(輪)に例えて言ったもの」だそうです。「投擲武器のチャクラムのこと」とも言われていますが、いずれにしても人間の迷いを攻撃するため、「庚申仏」に持たせた物のようです。

 我々凡人には、難しい話なりそうです。「如意輪観音」が持っている「如意輪」も「法輪」だとか。

 そうそう、インド国旗に描かれている輪が、「チャクラ」と呼ばれる「法輪」だそうですよ。

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「外出吧! 北远向-下嘛的话散步道 」

 「外出吧! 北远向-下嘛的话散步道 」

 你好!突然ですが、『百度(バイドゥ)』ってご存知ですか?『百度』は、お隣の国、中華人民共和国のインターネット検索エンジン。全世界の検索エンジン市場において、「Google」「Yahoo!」に続き第3位のシェアとなっています。

 その『百度』から、たびたび「出かけよう!北遠へ ふるさと散歩道」にアクセスが入ります。

 私たちのページは、管理画面を見れば、「いつ、どこからアクセスがあったのか」が表示されるようになっています。アクセス先を辿れば、リンク先や検索エンジンまでは分かりますので、検索エンジンに入力された「キーワード」を知ることができるようになっています。(個人は特定されませんので、ご安心を!)

 もちろん『百度』の場合には、記述されているのはすべて中国語。「出かけよう!北遠へ ふるさと散歩道」は、「外出吧! 北远向-下嘛的话散步道 」と書かれていました。今回のキーワードは「溪流钓鱼」。3月2日の記事「以天龍河溪流釣魚解禁  太公望  流心興致勃勃的線」にアクセスが…。

 ちょっと辿ってみると、Oh!何と中国語に翻訳された「天竜川で渓流釣り解禁 太公望 心ウキウキ糸たらす」の画面が見られます。

 興味のある方は、下のURLでアクセスしてみてください。再見!

http://jp2tc.googlec2c.com.tw/m2m-0000/yama-machi.beblog.jp/sakumab/2009/03/post-57ad.html

2009年6月13日 (土)

相月の「イセコサマ」とは…?

Otakara  佐久間町相月では、私たちのすぐそばに神様がいるようです。

 「イセコサマって何のことか分かりますか?」と聞いてきたのは、相月諏訪神社を通して知り合った渥美さん。「イセコサマ?」「そう、イセコサマ。お年寄りが聞いてほしいって…」。

 そこで私は考えました。「イセコサマ、イセコサマ。もしかしたら伊勢講(イセコウ)さま?お宅に、天照皇大神に掛け軸がありますか?」「あります。2階に…」。

 …というわけで、2階に上がらせていただきました。

Isekou_2 床の間には、たくさんの御幣が並べられています。「御宝(おたから)って呼んでます」とのこと。そして中央に、ありました、ありました。まさしく「天照皇大神」の掛け軸です。

 かつて、伊勢信仰が盛んだった時代でも、伊勢参りができる人は、限られた人だけ。お参りに行きたくても、ほとんどの庶民には高嶺の花でした。そこで、「伊勢講」を組み、皆で出し合った旅費を元に、代表者が伊勢参りに出かけたのです。これが「代参」。

 帰ってくれば、祈祷を受けて貰い受けてきた「お札」や「掛け軸」を前に皆で礼拝、飲食をしたのです。「天照皇大神」の「軸」は1軒では持たず、年に数回の持ち回り。「軸」が回って来た家が世話役となり、会場を提供したのです。

 つまり、「イセコサマ」とは「伊勢講」さまのこと。どうでしょう?違っていますか?そんな気がしてきませんか?ねっ、してきたでしょう?

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…
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2009年6月12日 (金)

「春埜山大光寺」狛犬の足元に積まれた小石

Koishi  「お犬様信仰」で知られる「春埜山大光寺」―本殿(本堂)前に座す1対の「狛犬」は日本一美しい狼型。この狛犬は清水の信徒、灯籠は福田講中の奉献です。ともに、地元から東に遠く離れた地域。その共通点は、漁師の拠点となる港町です。

 これには、どんな理由があるのでしょう?聞いた話では、かつて光明山で点した火が、鏡岩に反射し、遠い海で魚を捕る漁師たちの目印になったとか、漁師の間で流行ったは病気が「春埜山」にお参りしたら治ったとか。そんな言い伝えから、現在でも海の近くの人の信仰が厚いようです。

Nihonsugi  写真は、「春埜山大光寺」の狛犬の足元を写した写真。ご覧のような小石がたくさん積まれています。この石は、「春埜山」近くの石ではありません。山のゴツゴツした石というよりも、長い時間をかけて水に洗われ磨かれた小石。

 もし私の推理が当っているとすれば、この石は漁師たちがお参りの時に持って来た、海岸の石ではないでしょうか?自分たちの生業のステージとなる浜の石を持参し、それを供えることにより、加護を祈ったのではないでしょうか?

 先日も紹介したように、本殿脇には、「春埜杉」とは別の杉の巨樹が聳えています。こちらは、根元から別れた二本杉。あるいは、2本が1本になった合体木なのかも知れません。「春埜杉」を訪ねた時には、こちらの杉にも注目してください!

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「道祖神のまねきにあひて…」―佐久間町大井の「道祖神」

Dousojin  「道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず…」―俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立ったのは、元禄2年(1689)3月27日。江戸深川の採荼庵を出発したのは、「道祖神」に招かれたから、と言うのです。

 「道祖神(どうそじん・どうそしん)」は、路傍の神。集落の境や中心、辻、三叉路などに祀られるものですが、ピンと来るのは、男女が仲睦まじく並ぶ「双体道祖神」のイメージ。ところが、実際には「賽の神」や「庚申仏」「馬頭観音」を「道祖神」として祀っている例も見られます。そして、「道祖神」の文字を刻んだだけの「文字碑」も…。

 そんな「文字碑」を佐久間町大井で見つけました。国道152号を水窪方面に進路を取り、まず通るトンネルが「大井トンネル」。そのトンネルを出外れた辺りの水窪川の側に、石碑が1基。石碑の表面には行書体で書かれた「道祖神」の文字が…。これが、いわゆる「文字碑」―「文字型道祖神」に分類される石碑です。

 全国的に見れば、特に珍しいものでもないようですが、私は初めて見ましたので、少なくとも佐久間では数少ないものだと思います。

 「月日は百代の過客にして…」―芭蕉の旅立ちから320年の歳月が流れてしまいました。

2009年6月10日 (水)

自信と誇り―気田営林署「熊切森林鉄道」

 水窪の白倉や戸中山国有林の材を運んだ「気田森林鉄道」に対し、杉川に沿い、岩岳山東の小俣国有林まで延びていたのが「熊切森林鉄道」です。かつて、春野の山を走った2本の「森林鉄道」は、東京営林局気田営林署が管理。気田営林署は、現在の春野町地内だけにとどまらず、水窪町の「山住事業所」「門桁事業所」なども広域に管理していました。

 「気田森林鉄道」の写真はすでに紹介しましたが、「熊切森林鉄道」のものは初登場。軌道が写っているものと、山仕事の写真を掲載します。

 1枚目は木材の積み込み風景です。そして2枚目は、飯場で働く「炊(かしき)さん下山」。山仕事で賄をした女性は住み込みでした。年に2~3回の里帰りを「下山」と呼んだのだそうです。森林鉄道の鉄路の上での記念撮影。誰もがカメラなど持てなかった時代です。

 山仕事は決して男性だけの職場ではなかったようです。粗末な掘立小屋に暮らし、樹齢も分からぬほどの天然の巨材を伐り出し、台車に載せて軌道で貯木場に運ぶきつい仕事でしたが、それもこれも女性の助けがあってこそ。木材供給が戦後の復興を支えていた時代―男性も女性も、自信と誇りに満ちた晴れやかな表情が印象的です。

 写真は、春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんからお借りしたものです。「懐かしの森林鉄道」をご覧ください!

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2009年6月 9日 (火)

「篠原貯木場」と「KATOWORKS」の機関車

 先日紹介した「気田森林鉄道」を走っていた機関車の写真を覚えていますか?最初の1枚がそれです。機関車のシャーシーに書かれた「協三工業」の字が気になりましたので、ちょっと調べてみました。

 「協三工業」の創業は、昭和15年(1940)。軍事用の小型蒸気機関車の製造を事業の中心としていましたが、戦後は森林鉄道や土木工事用鉄道の機関車を製造し、ディーゼル機関車やガソリン機関車の製造を始めたのは、昭和25年(1950)のこと。現在は、遊園地向けとして小型蒸気機関車の製造などほか、橋梁や建設機械などの製作をしているそうです。

 別の1枚には、ボンネット前面のラジエータ上部に「KATOWORKS」の文字が見えます。こちらは、「加藤鉄工所→加藤製作所」製造の機関車。戦時中は、主に海軍向けの納品が中心でしたが、戦後は河川改修事業用工事軌道向けの受注が多かったようです。

 「KATOWORKS」の機関車の前での記念撮影は、昭和20年の写真。まさに終戦直後。「機関車(エンジン)前で 復員軍服姿でも若者は希望に輝く顔 篠原貯木場にて」と書かれています。

 次の写真は、それぞれ昭和23年「愛車とともに集い 篠原土場にて」、昭和26年「椪積手 椪積材に立つ自信の面々」となっています。「椪積手」は「はいずみしゅ」とルビがふってありますが、正しくは「はえづみ」でしょうか?材木を整理して積み上げることを「椪(はえ)」と呼ぶようですので、「椪積手」とは、台車から降ろした「木材を積む仕事をする人」の意味でしょうか?

 昭和30年(1955)の写真は「篠原貯木場全景」。「椪積された原始林材 この多くの材は戦中に崩壊された国土復旧に使用されたと推定」との説明が付き、写真の手前に森林鉄道のものと思われる軌道が見えます。

 最後の1枚は「台車に連なり圧倒する材 樹齢ははかり知られない年月の原始材 他を圧倒する立派さ」。植林された杉やヒノキではなく、自生のケヤキやブナが多かったようです。

 かつて、山里の暮らしが林業で成り立っていた時代。寂しい限りですが、昔日の感があります。

 写真は、春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんからお借りしたものです。「懐かしの森林鉄道」をご覧ください!

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2009年6月 8日 (月)

「山住家」のそそり立つ石垣

Kouchiure  水窪に残る「西浦田楽」―「西浦」と書いて「ニシウレ」と読みます。同様に、向市場から山住に向かう山道の途中に「河内浦(コウチウレ)」の集落があります。「ウレ」には、「谷」とか「行き詰まり」の意味があるそうです。「河内浦」は、まさにそんなところ。その「河内浦」に巨大な石垣を構えた家があります。

 これがあの山住家の屋敷です。明治の中頃の河内川の氾濫の後、当時の当主が築いたのが、この幅60メートル、高さ15メートルのそそり立つ石垣。見上げてみてください。まるで城砦のようです。

Ishigaki  「石積記念 山住雪江 山住重治 石工大沢丑太郎 同平出寅一 明治三十七年六月十日」

 石垣の基礎部に組み込まれた石に彫られた文字です。これほどまでの石積みを成し遂げたとなれば、石工にとっても一世一代の大工事。「石積記念」の珍しい記念碑が、自慢げに納まっていました。

2009年6月 7日 (日)

短いトンネルランキング第3位「布滝隧道」

Nunotakizuidou  以前、静岡県の短いトンネルランキング第4位の佐久間町山香地区の「岩井戸隧道」を紹介させていただきました。全長はわずか24.4メートル。確かに短いのですが、上には上(下には下?)があります。

 水窪の「布滝隧道」。県道389号水窪森線を「山住神社」に登っていく途中にある唯一のトンネル。長さは何と14メートルとなっています。これが第3位だ!

 山を掘ったと言うよりも、大岩をくり貫いた感じ。短くても、「隧道」の雰囲気たっぷりです。

 すぐ近くには、まるで絹糸のように長く細く流れ落ちる「布滝」があります。たった14メートルの「布滝隧道」はあっと言う間に通り過ぎてしまいますが、ここらでちょっと一休みしたいところですね。「布滝」は、「新・浜松の自然100選」に選ばれています。

 ●北遠など山間地域などをドライブしていて思うこと…
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2009年6月 6日 (土)

「春埜山大光寺」にある「二本杉(?)」

Nihonsugi  「春埜山大光寺」と言えば、県指定天然記念物の「春埜杉」。「春埜杉」の偉容に圧倒されて、ついつい見逃してしまいがちなのが、「太白坊大権現」を祀る本堂横に聳える「二本杉(?)」。回廊の外側にあり、雷に打たれて2本に裂けたのだろうとも、もともと2本の杉の合体木だろうとも言われていますが…。

 樹高や幹囲からすると、かなりの樹齢のようです。「春埜山」の守護神「太白坊」は天狗。「狗(イヌ)」に乗って、自由自在に空を飛び回っていたそうですから、「太白坊」に聞けば、ホントのことが分かるかも知れませんね?

 せっかく「春埜山」に出かけるのなら、この「二本杉(?)」もお見落としのないように願います。

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春野に継承される手揉製茶「倉開流」

Temomi  『はままつの文化財』をネット上で見ることができます。平成20年5月15日付「浜松市文化財情報」では、春野に継承されている手揉製茶技術「倉開流(そうかいりゅう)」が紹介されていますので一部抜粋して紹介します。

 「倉開流」とは…

 春野地域に継承されている手揉製茶技術は、県内に現存する8つの流派のうち「倉開流」と呼ばれる製茶法です。倉開流は明治20年(1887)橋山倉吉により創案され、現在は春野・森地域(旧周智郡)のみに伝えられています。昭和42年(1967)以降、県の無形文化財保持者に6名が認定されています。

Cha  手揉製茶は、製茶準備の蒸しや仕上げの乾燥なども含めると、7時間程度を要するかなりの重労働です。蒸し終わった茶葉を焙炉(ほいろ)の上に乗せ、焙炉1台につき2~3名で仕上げていきます。生茶2.5キログラムに対し、出来上がりはわずか500グラム!このようにして揉まれた茶葉は、針のように細く真っ直ぐに伸びた形状で、障子紙に突き刺さるほどの鋭さが特徴です。

 なお、大量生産が困難であるため、市場には出荷されず、現在は献茶式等献納用の生産のみとなっています。

 天竜区春野町は古くから製茶が盛んで、明応年間(1492~1500)に初めて播種したという伝承が伝わっています。かつて春野町内には樹齢300年以上の大茶樹が生育しており、野尻(のじり)の大茶樹(気多)・門島(かどしま)の大茶樹(熊切)は県下唯一の茶樹として県の天然記念物に指定されていました。

 残念ながら昭和40年代に枯死してしまったため、現在指定は解除されています。

 周智郡森町の小国神社や「秋葉山本宮秋葉神社上社」で、手揉の実演をしているのがこの「倉開流」とのことですので、ご覧になった人もいらっしゃるのでは…?

 「このような地域の生活文化史上価値が高い技能も文化財となります。自然の恵み豊かで広大な市域を有する浜松市には、世界に誇れる伝統技術・技能が伝承されています」と、結ばれていましたが、同感です。北遠のすばらしさは、自然の豊かさに由来しているのです。北遠に近づいてください!もっと、北遠の魅力に触れてください!もっと、もっと、北遠を楽しみましょう!

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2009年6月 5日 (金)

運行の無事を神に祈る―「気田森林鉄道」

Tetsudo207  森林鉄道の写真は、春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんからお借りしたもの。「山住事業所 昭和20年頃」と書かれています。木材を満載した台車の背後に見えるのは「大山住神社」と書かれた幟旗。「現場に祀った氏神の例大祭。署の幹部も総参加で神への祈り」とあります。

 「山住神社」の幟立てに、「森林鉄道」のものと思われるレールが使われているのに気づきました。「山住神社」が祀られているのは水窪町。だから、「これはきっと、水窪森林鉄道レールだったに違いない」と早合点していましたが、先日ご紹Rail 介した通り、山住を通っていたのは「気田森林鉄道」。となると、「山住神社」の幟立てに使われているレールは、春野町篠原から延々と気田川を遡って水窪に達していた「気田森林鉄道」のものだったに違いありません。

 事故の起きぬように願った「山住神社」であるなら、廃線となり不要になったレールを、幟を立てる柱として寄贈しても何ら不思議ではありません。わずか50年余りの時間を遡ると、北遠の林業が好景気に沸いた時代が見えて来ます。

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絵葉書で振り返る北遠⑩―「遠州西渡」

 古い絵葉書のコレクター・佐口行正氏から電話が入りました。「西渡(にしど)の絵葉書が手に入りましたよ」。早速、待ち合わせの店に出向き、3枚の絵葉書と袋を預かりました。題して「北遠風景繪はがき 遠州西渡」。「イサミ寫眞店發行」です。初めて見る、佐久間の風景。おそらく、大正時代のものと思われます。

 最初の1枚は、久根鉱山から見た西渡の家並。前方奥が大井だろうと思います。次は航空写真のようです。久根鉱山で賑わった、西渡の家並。右下に見えるのが「大井橋」だとすれば、現在のものとは違う吊り橋です。

 最後の写真は、水窪川を埋め尽くす木材。木材の上に立つ人の姿が見られます。

 水深が浅い大千瀬川や水窪川では、筏(いかだ)を組んでも運行ができないため、「管(くだ)流し」「川狩り」での木材搬送が行われていました。木材をバラで流す「管流し」なら、川や沢さえあれば木材の搬送ができますので、どんなに山奥の木材でも流せます。

 「川狩り」とは、岸にかかって流れない木材を、鳶口を使って流れに乗せてやる方法。水窪川は、西渡に着けば天竜川と合流します。ここからは、筏に組んでの「筏流し」ができたはず。水量、水深とも十分な天竜川以外では、こんな方法で木材の搬送が行われていたのです。

 古い絵葉書の写真には、単なるノスタルジーにとどまらない資料的な価値があります。佐口さんからお借りしたすべての絵葉書を、「絵葉書で振り返る北遠」にまとめさせていただきました。ぜひ、歴史の中の北遠を、絵葉書を通して振り返ってみてください!

Nishido204 Nishido205
Nishido206 Nishido207

 ●川の港―「天龍川沿岸西渡全景」の古い絵葉書の…
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 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

2009年6月 4日 (木)

名犬「シロ」を祀る名古尾橋

Shiro  昔、この部落では害獣が出て困窮致し「のんで川」の名犬シロを奉りました。以来少しも被害はなく豊かな部落となりました。又、秋葉街道なので多くの人々が救われました。
 
 夜暗くなって駒って居ると必ず何処からともなく、白い犬が出て来て道案内をしてくれたと言います。

Nondekawa  佐久間町名古尾(なごお)、名古尾橋のたもとで見つけた解説板です。昨年(平成20年)に造られたものですが、いつ頃のお話でしょうか?また、「のんで川」とは、すぐ上の家の屋号だそうです。

 この道は、秋葉街道であり信州街道。かつては、秋葉詣での人たちが賑やかく通った山道です。この水を飲んで、乾いた喉を潤したのでしょうか?

 解説板の横には、山犬とも狼とも思われる動物を刻んだ石塔が立ち、小さな丸い石が一つ置かれていました。おそらく、本来は明光寺峠の「お犬様」と同じく、「山犬信仰」の証として建てられた「お犬様」だと思われます。

 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
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スギに覆われた秋葉山―「幾万本ともはかり知られず」

Soseki  「四の鳥居跡」―いまも残る礎石の上に、かつて「最勝関」と書かれた縦五尺横二尺七寸の額が掛かる銅鳥居が建っていた。明和二(一七六五)年八月に秋葉寺三十七世住職任超和尚の請に応じた八十三歳の面山和尚が揮毫した額と伝えられる。

 これは、『よみがえれ秋葉古道』の人たちが現地に建てた解説の高札です。坂下から登り始めて30町の辺りに、「四の鳥居」が立っていたと思われる礎石が残されています。ところが、手元にある『静岡県歴史の道調査報告書―秋葉道』(静岡県文化財保存協会)の記述によると、この鳥居は「二の鳥居」となっています。

 この誤差は、どの鳥居を「一」と考えるかの違い。中区田町にあった鳥居を「一の鳥居」、浜北区小松にある鳥居を「二の鳥居」と考えれば、表参道入口に立っていたのが「三の鳥居」となって、ここが「四の鳥居」ということになり辻褄が合いますね。

 また、江戸時代に書かれた旅行記ともいえる『上方一覧日記』によれば…

 このところに川あり、けた川と云ふ、船渡しを越え、なべ屋にて中食、それより歩行にて十四丁行く、秋葉山の麓に至る、一の鳥居銅なり、額に「金明嶺」とあり、裏額に「金光明大法輪」とあり、山の高さ五拾町、壱町毎に石表あり、二の鳥居も銅なり、「最勝関」との額あり、三の鳥居も銅なり、額に「護国嶺」とあり、一山皆杉なり、麓は四五拾年木に相見え候へども、廿七八丁目より上は大木夥しく、幾万本ともはかり知られず…

 …とあり、「最勝関」の額が掲げられていたのは「二の鳥居」とされています。

 この額の字を揮毫したと言われる「面山(めんざん)和尚」とは、曹洞宗の有名な学僧。天和3年(1683)、熊本に生まれ、明和6年(1769)に没。「最勝関」とはどんな意味で、どんな字が書かれていたのでしょう?

 天保14年(1843)に旅に出た『上方一覧日記』の作者たちが見た秋葉山は、植林されたスギに覆われていたようです。「幾万本ともはかり知られず」に茂っていたスギの大木は、偶然にもちょうど100年後の昭和18年(1943)の大火により、そのほとんどを失ってしまい、参道の山道には、黒く焼け焦げたスギの根が残っています。

 *鳥居の銅が剥がされた「戦時供出」の経緯は、「供出で身ぐるみ剥がれた『五の鳥居』」で既に書いた通りです。

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2009年6月 3日 (水)

機関車の悲鳴が聴こえそう―「気田森林鉄道」

Tetsudo  写真で見る「気田森林鉄道」シリーズ③です。
 
 最初の写真の説明には「鵜の首(現明神橋)森林鉄道 都沢線」と書かれています。太い材木を載せた台車を引いた小さな機関車が、幅の狭い鉄橋を渡っています。裏面には「30数粁の鉄路には数々の難所。これを通過する勇気の機関車」と。「粁」とは「キロメートル」のこと。次の写真も「Iビーム(I型綱)」で組まれている同じ鉄橋だと思われます。

 3枚目の写真の鉄橋も「Iビーム」。これも同じ「明神峡」とも見えますが、背景に映っている堰堤が気になります。どうやら、「豊岡堰堤」のすぐ上流に架けられていた鉄橋でしょう。

 4枚目は、勝坂辺り。後は、場所が特定できませんが、息を切らせて喘ぎながら重い台車を引く機関車の悲鳴が聴こえて来そうです。

 「気田森林鉄道」を示していると思われる地図も見つけました。「国定公園」と赤字で書かれたすぐ下辺りをご覧ください。水窪町の門桁(かどげた)から、「山住神社」の南を進み、気田川の流れに沿い水源に向かって走り、「都沢線」と言われていたところをみると、水窪町都沢にまでは達していたようです。もちろん「水窪ダム」に向かって延びている線路は、「水窪森林鉄道」のようです。

Tetsudo206 Tetsudo208
Tetsudo209 Tetsudo211
Tetsudo210 Tetsudo213

 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
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学生向け衣料メーカー「菅公シャツ」のホーロー看板

Kanko  佐久間町佐久間の民家で、懐かしいホーロー看板を見つけました。

 「菅公シャツ」は、岡山県の学生向け衣料の製造販売会社「尾崎商事」のブランド。団塊世代の学生時代を迎えた1960年代に「菅公学生服」「菅公シャツ」のホーロー看板を展開したようです。

 ところで「菅公」とは、何のことかご存知ですか?学問の神様として知られる「菅原道真公」、略して「菅公」となったようです。

 確か、「カンコー学生服」のCMが桜田淳子、「富士ヨット学生服」が山口百恵だったように記憶していますが…。懐かしいでしょう?

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 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…
 ●「自動模様編機の開発メーカー アルス編機 編物教室」のホーロー看板…
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2009年6月 2日 (火)

絵葉書で振り返る北遠⑨―「三信長瀞の景」

Kimbashijpg  興味を引かれる古い絵葉書と出会いました。磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集の1枚です。

 絵葉書の説明を書き写しますと、「[奇勝天龍峡]風致得も言われぬ、浦川驛付近の三信長瀞の景。」。川岸には船が繋がれ、吊り橋が架かっています。ここは、一体どこなのでしょうか?

 スキャナーで取った画像では、はっきりとはしませんが、元の絵葉書を見ると、吊り橋の向こうに鉄橋が見えます。佐久間町「浦川駅」の近くで橋と鉄橋が平行して架かる場所。「錦橋(きんばし)」だとは思うのですが、現在の「錦橋」は、吊り橋ではありません。

 待ってください。確か、現在の「錦橋」は3代目。明治37年(1904)に架けられた初代の「錦橋」は、吊り橋だったはずです。となると、この川は天竜川の支流となる大千瀬川ということになります。きっとそうです。これは、初代「錦橋」。穏やかな流れと、川面に映る山々や木々の緑。絵葉書はモノクロですが、まさに絶景。

 この絵葉書には、英語のコメントが添えられています。「WONDERFUL AND MYSTERIOUS SCENES AT TENRYUKYO.」。以前紹介したワイヤーの錨留に吊られていた橋が、この絵葉書の「錦橋」です。

 ただ、もう一つ気になるのは、浦川は「遠州」でありながら、なぜ「三信長瀞(ながとろ)」と「遠」の字が入っていないこと。その答えは、こんな感じでは…?

 後の2枚の絵葉書も「小和田驛付近」と「「佐久間驛付近」となっているところを見ると、どうやらこの絵葉書は、鉄道会社の発行。路線が国有化され「飯田線」となったのは昭和18年(1943)。この絵葉書が作られた時代は「三信鉄道」だったのが、「三信長瀞」と表記された理由ではないでしょうか?

Sonota199 初代「錦橋」付近と思われます。
Sonota197 Sonota198

 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
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 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

2009年5月31日 (日)

これが「気田森林鉄道」を走った機関車です。

Tetsudo205  「気田森林鉄道」は、昭和8年着工、26年全区間完成で34年には廃止。金川(きんがわ)から、植田(うえった)を通り、勝坂(かっさか)から水窪に入りさらに奥、気田川沿いに国有林まで伸びていました。
 
 機関車は、当時としては珍しいガソリンエンジンでしたが、その後、燃料費の安いディーゼルエンジンに変わりました。写真は、当時の機関車です。

 フロントガラスに「臨時」の貼り紙が見えますので、どうやら新車配備前の「試運転」の写真。営林署に勤め、この機関車を運転していたという人によれば、「4メートルに伐ったツガやケヤキを満載して山を下り、篠原の貯木場でトラックに積み変えて運ばれて行ったんだ。機関車のエンジンが、重い重いって唸りを上げてね。帰りは生活物資や人の載った客車を引くくらいだったから、ずい分軽く感じたもんだ」。

 「その後、機関車はどこに行ったんですか?」と聞いたところ、「千頭か寸又峡にあるらしいけど…」とのこと。「里帰りさせたいって思いませんか?」「できるなら、もう一度乗ってみたいね」。

 「里帰り」の夢が実現したら、きっと喜んでもらえるでしょうね?今なら、当時のことを知っている人たちが健在です。何とか実現させる方法はないものでしょうか?

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2009年5月30日 (土)

農業機械化に貢献―「三菱かつらエンジン」の看板

Mitsubishi  春野町長蔵寺で見つけた「三菱かつらエンジン」のホーロー看板です。「三菱エンジン」は分かります。でも、「かつら」って何?

 「三菱かつらエンジン」は、1948年に生産が開始された産業用のエンジン。三菱重工業の京都・太秦桂工場で製作されたところから、「かつら」と命名されたエンジンです。

 エンジンと言うようよりも発動機と言った方が分かりやすいかも…。燃料タンクは2つに分かれていて、ガソリンと灯油のどちらでも使用できたのだとか。戦後の農業近代化におおいに貢献したパイオニア的な発動機。兼業農家の増加を機械化で補ったのが、「三菱かつらエンジン」。あの三菱重工業が作っていたのです。

Muhi  縦長の楕円形。控え目なデザインがオシャレですね。

 おまけは、残念ながら外壁の色で塗られてしまっていますが、「虫さされ かゆみ止 ムヒ」の看板です。元は赤い看板だったはずですが…。

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絵葉書で振り返る北遠⑧―「北遠浦川風景」

Ukimori  「浮森の丘」にそびえ、歴史と伝統に輝く浦川小学校は、豊かな自然と伝統文化を生かした「浮森教育」が自慢です。

 これは「浦川小学校」のキャッチコピー。「浮森」とは、「浦川小学校」が建つ佐久間町浦川の字名です。そんな「浮森」の名を、「伊勢屋商店発行 北遠浦川風景」の古い絵葉書の中で見つけました。

 磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集の古い絵葉書の中には、旅館が発行したものが数点含まれていました。おそらく、宿泊客のお土産と、旅館の宣伝を兼ねて製作したものと思われます。

 「浮森の清流」と題された1枚には、大きな船が2艘写っています。この船は、天龍下りの観光船と言うよりも、架橋前の渡船だったのだろうと思います。

Urakawa162 Urakawa163
Urakawa164 Urakawa165

 

 ●かつては、まゆ市場、木材の取引きなどで栄えた浦川の町には…
 ●江戸時代の「浦川村」に関する記述を見つけました。それによると…
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2009年5月29日 (金)

「仙郷橋」に集合した5台の機関車―「気田森林鉄道」

Tetsudo204_2  どうしても、どうしても知りたかったのです。

 これまでにも、「仙郷橋」や「小石間隧道」など、いくつかの痕跡を紹介してきた森林鉄道について「もっと知りたい」と思い、春野町を訪ねました。お訪ねしたのは、気田の大原屋商店の鈴木さん。「実は、森林鉄道について知りたくて…」と切り出したところ、鈴木さんは、すぐに森林鉄道の機関車を運転していたという井口さんを電話で呼び出してくれました。

 「森林鉄道について、知っていることを教えてください」「昔の写真が残っているけど、見るかね?」。何と、大量の写真が目の前に。そこには、木材を積んだ森林鉄道と、山の仕事人たちの生き生きとした姿が映し出されています。

 「現在のJRの線路の幅は、1067ミリ、新幹線は1435ミリだけど、森林軌道の線路はずっと狭い762ミリ。手動ブレーキの時代には6輌、エアブレーキになってからは8輌を引き、私は最大で13輌を引いたこともあったよ。木材を山積みにした台車の後ろに客車を引いてね、よくもまあ狭いところを走ったもんだ」。

 「いきなりずうずうしいようですが、もし宜しければ貸していただけないでしょうか?」とお願いしたところ、「ああ、いいよ。少し前の春野の暮らしの一旦を多くの人に知ってもらえるなら」と、快く承諾していただきました。お貸しいただいた写真の中から、最初の1枚を紹介させていただきます。

 写真はすでに紹介したことのある「仙郷橋」。5台の機関車が勢揃いしての記念撮影です。今後、何回かに分けて、懐かしい写真を紹介していきますが、まず第1回目として、この写真を選びました。

 木材の輸送は貨物トラックにその座を譲り、「気田森林鉄道」は昭和34年に廃止されました。どうですか?今は線路も外されて土橋のようになって残っている「仙郷橋」の、これが青春時代の勇姿です。

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2009年5月28日 (木)

大切に守られる「秋葉」と「金毘羅」の神号碑

Konpira2  「相月(あいづき)」は、佐久間町城西地区の集落です。

 天保8年(1837)の村明細帳によれば…

 家数178(公文名主1・本百姓157・水呑16・その他4)・人数849、馬40、酒造株保持者1。楮・漆・茶を生産し、水窪川で魚をとる

 …と書かれています。

 また、「元禄高帳」324石余、「天保郷帳」332石余、「旧高旧領」360石余とのことですので、石高の増加はほとんどありません。おそらく、北遠農業の典型とも言える、焼き畑の耕作を生業として来たのだろうと思います。

 相月の集落には、「秋葉山大権現」と「金毘羅大権現」の神号碑が祀られ、門毎に「山住神社」の山犬のお札が貼られていました。人々は、焼き畑の火入れの火が洩れ、山火事になることを防ぐために「秋葉」さまに願い、粟も稗も枯らせてしまう恐ろしい旱魃にならないように「金毘羅」さまに雨乞いをし、そして作物を獣たちに食い荒らされないよう「山住」の「お犬さま」に願ったのでしょう。
 
 焼き畑が盛んだった佐久間には、同様の神号碑があちこちに建てられています。しかし、そのほとんどは1基の石に、2つの神号を彫ったもの。相月のそれは、2基の石にそれぞれの神号。小さいながらも祠(ほこら)に納められています。相月の人々の素朴な信心が、現代までもこの2基の神号碑を大切に守り続けて来たのでしょう。何だか嬉しくなって来ました。

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…
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昭和12年設立―「遠州秋葉自動車」

Akihajidousya  「遠州秋葉自動車」のルーツは、大正末期に運行を開始した水窪線・佐久間線。昭和12年(1937)、この路線を買収して誕生したのが「遠州秋葉自動車」。昭和18年(1943)戦時統合により、遠州電気鉄道・浜松自動車・掛塚自動車・遠州乗合自動車・気賀自動車と合併し「遠州鉄道株式会社」となり、現在に至っています。

 今、手元に「遠州秋葉自動車株式會社」発行の「秋葉山御案内 自動車・飛行艇」の6つ折パンフレットがあります。表紙には、サクラの季節、秋葉神社と秋葉寺の建つ秋葉山を背景に、懐かしいボンネットバスと天竜川を行く飛行艇(プロペラ船)のイラストが描かれています。

 表面の地図は、秋葉山への路線案内となっています。当時の路線は「笠井⇔二俣」「二俣⇔犬居」「二俣⇔西川」「中泉⇔二俣」「掛川⇔二俣」。「濱松⇔笠井」は「連結自動車線」となっていますので、他社の路線だったのでしょう。

Akihasan115  「飛行艇発着所」は、「二俣」の「天竜橋」。「当社営業航路線」の破線は「西渡」まで描かれていますので、まさに以前紹介した「プロペラ船」がこれに当るようです。

 現在の「天竜浜名湖鉄道」、当時の「二俣線」は、昭和10年(1935)に掛川 - 遠江森間を開業。その後、路線を延ばしましたが、掛川⇔新所原間が全線開通したのは昭和15年(1940)です。この案内図に「二俣線」は描かれていません。推測ですが、このパンフレットが出来たのは、「遠州秋葉自動車」が設立された昭和12年~「二俣線」が全通した同15年の間だったのではないでしょうか?「静岡縣二俣町」が本社所在地だったようです。電話番号は「115」「125」となっていますが、電話をかけても誰も出ませんよ。

 パンフレットと絵葉書は、磐田市にお住まいの佐口行正氏収集のコレクションです。

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2009年5月27日 (水)

馬の顔だけが浮き彫りにされた立原の「馬頭観音」

Batou2th  佐久間町立原(たっぱら)は、秋葉道・塩の道に沿った山の集落です。写真は、その立原の山道に立つ「馬頭観音」。果たして、これを「馬頭観音」と呼んで良いのかどうか…?

 ご覧のように、馬の顔だけが浮き彫りにされています。実際には前脚と思われるものも彫られてはいるのですが、これまで見てきた「観世音菩薩=観音」の造形がありません。

 つい最近まで、馬は私たちのすぐそばで飼われていました。田や畑での農作業を助けたり、荷物の運搬をしたり、家族の一員として頼りにされていました。

 もしも、病気で寿命を全うできずに死別すれば、人間並みに葬儀を営み、老馬になれば泣く泣く生き別れをすることもありました。人々にとって「馬頭観音」は、仏教本来の「観世音菩薩」ではなく、道に生き道に死んだ家族との別れのモニュメント。この馬の顔だけを刻んだ「馬頭観音」を見れば、愛馬の供養のために建てたものだとよく分かります。

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2009年5月26日 (火)

地名「ケタ」の意味するものは…?

Keta1_2  地名の由来を探るのは、楽しいものです。

 春野町「気多」あるいは「気田」。決して「キタ」と読まれずに「ケタ」と読まれるところに、地名の由来を探るヒントがありそうです。同じ春野町には「気田子(ケタコ)」の地名があり、お隣の水窪には「門桁(かどケタ)」があります。

 さて、「ケタ」とは、一体何を表しているのでしょうか?

 「ケタ」で思い出すのは、石川県の能登一宮として知られる「気多大社」。「気多(ケタ)」は、古代語で「鰐=サメ」を意味していたという説があります。鳥取県にも気多(ケタ)郡があり、「気多前(ケタノサキ)」があり、大国主命が「因幡の白兎」と出会った地と言われ、「白兎神社」が祀られています。となると、「ケタ」とは「鰐」のことなのでしょうか?春野に「鰐」?

Keta2  いやいや、「ケタ」とは「地滑った土砂が造った棚状の地形」の説があります。かつて兵庫県にあったと言われる「気多郡」にしても、岐阜県の飛騨古川に祀られる「気多若宮神社」にしても、近くに砂地や崖があり、崩落防止のための堤防や砂丘を「ケタ」と呼んでいたそうです。

 「気多郷」は、平安時代に作られた辞書『倭名類聚抄』に「遠江国山香郡四郷」の1つとして登場する古い地名。

 橋桁や家の「桁(けた)」も、実はここに語源を発しているのではないかという説もあるそうです。この説の根拠として紹介されているのが、「『崖』のことを『ケタ』と呼ぶ」という春野の地域方言。これって、本当ですか?

 地名の由来を探るのは、楽しいものです。

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見つけました―大正15年の「相月諏訪神社」

Aiduki117  このところ、何度か紹介させていただいている「相月諏訪神社」の、古い写真を見つけました。

 見つけたのは、大正15年8月発行の『和享帖』(静岡縣神職會周智郡支部)の中。当時の子どもたちや住民が、着物姿で記念撮影のポーズを取っています。

 『和享帖』のデータによれば、「神社(示土=旧字)名 諏訪神(旧字)社」「社(旧字)格及幣帛供進有無 式内村社(旧字)幣帛供進」「創建 不明」「御祭神御名 建御名方命」「特殊齋典 大和舞奉奏」。写真をよく見れば、拝殿前の御神木は現在も昔のまま。資料によれば、明治45年(1912=大正元年)の相月(あいづき)の世帯数は338戸、人口は1526人となっていますので、大正15年(1926=昭和元年)の当時も、現在と比べたらかなり賑やかな集落だったろうと推測できます。その後の人口流出は、相月にだけ起きたことではありません。

Suwajinja2  明治8年に定められた「神社祭式」では、「幣帛(へいはく)」として布帛などの現物のほか、金銭を紙に包んだ「金幣」を加えることとされていました。つまり平たく言えば、例祭の日に国から金銭が贈られる格式のある神社が、「幣帛供進」ということだったのでしょう。

 ところで、写真の頃には、この神社のどこかに、あの昔話に出てくる大蛇が棲んでいたのでしょうか?

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2009年5月25日 (月)

よみがえれ秋葉古道―参道に倒れた「町石」

Choseki  秋葉山の表参道「秋葉古道」、麓の「九里橋」から山頂までの50町の1町ごとに「町石」と呼ばれる道しるべが立っています。

 1町(=丁)とは日本固有の尺貫法の単位で、長さでは60間(109.09メートル)、面積では3000歩(9917平方メートル)が1町に当ります。つまり、約109メートル置きに建てられた目印の石が「町石」だったのです。

Kodou  「町石」の形は地域によって異なり、秋葉山の場合はおおむね「丁」字形。上の膨らんだ箇所に蝋燭や菜種油の灯りを入れられる火袋が彫られ、常夜燈にも使える形。竿には1町ごとの「町目」が刻まれています。

 秋葉山の「町石」は嘉永5年(1852)の大祭を機会に建てられたものと推定され、笠の乗ったものもあれば、笠を失い「丁」字形だけのものもあります。倒れたままのものもあれば、高さが低くなっているものもあります。移設されたものもあるらしく、実際の距離とは多少のズレがあるようです。しかし、もっと心配なのは、写真のように倒れたままのもの。果たして、このまま放置していて良いのでしょうか?

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地震が来ても揺れない「宮川橋」

Miyakawabashi  「宮川橋(みやがわばし)」と言えば、春野町のシンボル「大天狗面」が見下す「天狗広場」のすぐ先、国道362号に架かる橋。老朽化した旧橋の架け替えとして、平成3年3月に完成した長さ105.8メートルの「鋼3径間連続鈑桁橋」のことです。

 「鋼3径間連続鈑桁橋」などと言われても、ピンと来ませんよね?ネットの情報によりますと…
 
 「宮川橋」は、ニュージーランドで実績の多い免震橋技術を、地震国・日本の橋梁に取り入れたもので、地震エネルギーを吸収し、地震エネルギーを減衰できる支承(鉛プラグ入り積層ゴム支承)を用い、地震に対してより安全で経済的な橋梁設計技術に挑戦したものだそうです。国のパイロット事業として計画された免震橋の中でも、最初に設計され、最初に完成したのが、あの「宮川橋」なのだそうです。

Miyagawabashi2  計画から設計、地震動的応答解析と加震実証実験とその解析を含め、施工後の追跡調査・解析と免震支承及び免震設計の有効性の検証を一貫して行ってきており、これらの結果により今日の免震橋設計技術が確立されています。

 …と、難しい説明になってしまいましたが、要するに、「宮川橋」は地震が来ても揺れない橋なのだそうです。よく分からなかった人は、今度、車で通る時には、欄干の親柱に飾られた天狗さんに、「免震橋って何?」と、聞いてみてください!

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2009年5月24日 (日)

塩の道―西渡の道標に刻まれた「醤油製造元」の文字

YamayaShionomichi  佐久間町西渡(にしど)は、天竜川の水運と秋葉道・塩の道の陸運が交差する地。「八丁坂」の入口に立つ「津島神社」の社の前に、道標を兼ねた常夜燈が建てられていました。

 柱に刻まれた文字を読んでみました。先ず正面には「登り水窪信州道」。右には「下り秋葉山濱松道」、左には「浦川三河道」。そして裏面には「∧や醤油醸造元 濱松市成子 ○○○○」。「∧や」と書いたのは、屋号の「∧(やま)+や」。浜納豆で有名な「ヤマヤ醤油」さんなのでしょうか?

 しょう油醸造に、大豆と塩は欠かせません。塩の道の起点が相良なら、大豆と塩の流通の拠点にもなっていたのが、川の港の西渡。そんな関係を考えると、この常夜燈に刻まれた「∧や醤油醸造元」の文字の意味が、分かったような気がしました。

 ● 「浜」とは海岸の浜と同じように、天竜川の川端の呼び名…
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 ●天竜川にも船が往来し、さまざまな物資が運ばれていたころ…
 ●「浜背負い」と呼ばれる女性たちが、荷揚げされた米や塩などを背負い子に…
 ●西渡(にしど)から明光寺峠へと続く「八丁坂」…
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2009年5月23日 (土)

絵葉書で振り返る北遠⑦―「遠州 秋葉山 寫眞端書」

 「飯田線」が現在のようなルートに変更され、「佐久間ダム」が完成する前の北遠の地図が、「遠州 秋葉山 寫眞端書(しゃしんはがき)」の袋に描かれていました。秋葉山から佐久間にかけての地図を拡大すると、現在の地図との違いに気づかされます。

 さて、「飯田線」ですが、飯田~豊橋間は、天竜川に沿うように描かれています。現在のルートに変更されたのは、「佐久間ダム」が完成する前年、昭和30年(1955)のこと。

 次に、現在はともに廃鉱となっている「久根鉱山」「峯沢鉱山」の2ヵ所の鉱山が描かれています。「久根鉱山」が廃鉱となったのは、昭和45年(1970)。「気賀(気賀口)」駅から先に延びる「奥山線」の一部も見られます。

 他にも気になる写真が使われています。「気田川の清流と秋葉橋」には、懐かしいボンネットバスと珍しい筏が写っています。「戸口の激流」の写真に写っているのは、飛ぶように進んだあのプロペラ船。多くの客を乗せた「天竜下り」や「秋葉山奥之院」。「秋葉山神社(示土=旧字)」と「秋葉山三尺坊」が仲良く並んでいるのは、この「寫眞端書」ならではかも知れません。

 宛名やメッセージを書く側には、「POST CARD」の英語表記ではなく、「CARTE POSTALE」とフランス語表記。このワクワクする絵葉書は、磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集のものをお借りしました。

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「信玄足掛けの岩」―秋葉古道

Baggy  秋葉山表参道の山道を登っている途中、後方からエンジン音が聴こえてきました。え~、こんな山道に誰が…?

 一緒に登っていた地元の人が「あれは、秋葉寺の坊さんだよ。三輪バギーで通っているんだ」と教えてくれました。「そ、そうなんですか?」と言う間もなく、三輪バギーは私たちを追い越して登って行きます。

 秋葉山表参道の山道を登り、「秋葉寺」の少し手前に、「信玄岩」があります。解説板によると…

Shingeniwa  信玄岩(信玄足掛の岩)

 此の岩は戦国時代甲斐の武田信玄が光明山に陣取る徳川家康に向けて此の岩に足を掛け強弓を放ったと云う伝説があります。

 信玄が遠江に侵攻したのは元亀2年(1572)秋とのこと。水窪の青崩峠を越し、北遠の各城を味方につけ、三方原合戦で家康と戦いました。まさか、放った矢が光明山まで届いたとは思えませんが、この「信玄石」は、信玄による二俣城攻略の歴史を現代に伝える証人なのかも知れません。

 「信仰」の山「秋葉山」に、戦国時代の「侵攻」の歴史が残されていました。

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2009年5月22日 (金)

体力と資力の証―「西国巡礼供養塔」

Junreihi2  「西国三十三箇所霊場」とは、近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヵ所の観音霊場。日本では最も歴史のある巡礼行です。北遠のあちらこちらに巡礼行を完遂した記念の供養塔が立っています。その中から2基を紹介しましょう。

 左上の供養塔は、佐久間町吉沢に立っているもの。正面には「西國三十三所順礼観音」、向かって右側の面には「元禄二年」と彫られています。

 右下のものは、中部平沢の「宥泉寺」境内に立っています。こちらは「西國三十三所観音」と彫られ、おそらく当時のままの屋根飾りも乗る本格的なもの。「宝暦二年」となっています。

Junreihi1  「元禄2年」は西暦1689年、「宝暦2年」は西暦1752年。1000年の歴史を持つ「西国三十三箇所巡礼(=順礼)」ですが、庶民の間で盛んになったのは、江戸時代に入ってから。長期にわたり広い地域を回るのですから肉体的な苦痛はもちろん、宿賃もバカになりません。資料によると、素泊まりの木賃宿で20~30文、食事付きの旅籠屋は200~300文。当時の100文は、現在の500文ほどに当るとのこと。例えば、甲斐(山梨県)からの西国巡礼には7両(21万円)がかかっているそうです。奉公人の給料が1年で1両前後の時代。一生に1度、体力と資力を兼ね備えた人だけが許された特別な旅行でした。

 もしも、あなたがその当事者だったとしたら、やはり記念の供養塔を建てますよね?

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絵葉書で振り返る北遠⑥―「自然と人工の調和美 佐久間ダム」

Dscf0080  「佐久間ダム」が完成したのは、昭和31年(1956)10月。紹介する絵葉書には「32.7.1」の記念スタンプが押されていますので、翌年の夏に購入したものです。「自然と人工の調和美 佐久間ダム カラー第一集(八枚組)」となっていますが、残念ながら7枚しか残っていません。

 絵葉書が入っていた袋に印刷された「佐久間ダム案内図」の地図に注目してください。「佐久間ダム」建設のため、「飯田線」は昭和30年に佐久間 - 天龍山室 - 大嵐間 (13.3km) を廃止。新たに佐久間 - 水窪 - 大嵐間の新線 (17.3km) が開業しています。地図の「飯田線」は、もちろん新路線となっていますが、佐久間駅と中部天竜駅との間から天竜川を渡って西に延びている線路が描かれています。

 実は「佐久間ダム」建設に伴い、資材を中部天竜から対岸のセメントサイロまで運ぶためのレールを敷設。引込み線は、天竜川対岸のセメントサイロ(現在の佐久間周波数変換所)に運ぶため、中部鉄橋(B型鉄橋=中部大橋)を渡りました。この線路は、その引き込み線を描いたもののようです。

 では、「B型鉄橋」を人や動車が渡ることができるようになったのは、引き込みが廃止されてからだったのでしょうか?この鉄橋は当時から歩道が併設され、自動車も鉄道の同時に軌道上を走れる併設橋だったのです。そのため、現在の「中部大橋」のアスファルトの下には、レールが当時のまま残され、地元の人たちは50年以上も過ぎてなお「B型鉄橋」の愛称で呼んでいます。

 なお、絵葉書は、磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集のものをお借りしました。

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 重力式コンクリートダム「佐久間ダム」は…
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2009年5月21日 (木)

羽ヶ庄に立つ「足神様」の石碑

Asiodaigongen  佐久間の「羽ヶ庄(はがしょう)」集落で「常陸足尾大権現」と刻まれた石碑を見つけました。明治43年建立と書かれ、すでに文字は読みにくくなっていましたが、石碑を守る細澤忠良氏と一緒に何とか読み取ることができました。さて、「常陸足尾大権現」とは一体…?

 常陸(ひたち)と言えば、現在の茨城県。石岡市と桜川市とにまたがって聳える標高627.5メートルの山が「足尾山」です。「足尾山」は、筑波山や加波山と並ぶ山岳信仰の対象となっていて、かつては山中に800座の霊場があったと言われています。現在は廃れてしまいっているようですが、明治・大正・昭和の初め頃までは多くの霊場参拝者があったとのこと。

 『常陸国風土記』では「葦穂(おはつせ)山」とあり、平安時代に醍醐天皇がこの山の神社に祈願し足の病が治ったことから、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜したため、「足尾山」に改称したのだそうです。足の病に霊験があるとされ、草鞋、靴、義足などが多数奉納されていると聞くと、名水でも有名な水窪の「足神様」が思い出されますね。

 水窪の「足神様」は、昔、諸国行脚の途中、脚を痛めた北條時頼がここで治療して全快し、時頼の命により祠を建て祀ったという神社です。まったく、よく似た縁起です。「足尾山信仰」とは、どうやら「足神様」信仰のようです。

 現代のように、便利な自動車などなかった時代、馬に乗る以外には、自分の足で歩くより他にはありませんでした。山道を歩き、二本杉峠、ホウジ峠を越すには、あまりにも頼りにならない二本の足…。現代人よりも総じて健脚ぞろいだったとは思いますが、足に痛みが出れば、もう歩き続けることはできません。そんな時にお参りするのが「足神様」。そう言えば、細澤家ではこの石碑を、昔から「足神様」と呼んでお参りをしてたそうです。

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「瑞雲院」の山門の赤は「ベンガラ」

Zuiunin1  例えば、春野の「秋葉神社」、例えば「秋葉寺」「瑞雲院」―その山門や鐘楼は、赤く塗られています。この赤い顔料は「紅柄・紅殻(ベンガラ)」と呼ばれています。

 ところでその「ベンガラ」とは、何のことでしょう?

 「ベンガラ」の語源は、インドの「ベンガル」地方のようです。インドでは、この天然の酸化鉄を仏像などを赤く着色するために使ったようです。酸化鉄を建築用の顔料として使う文化は世界各地にあり、「インディアンレッド」とか「ベネチアンレッド」とか呼ばれる赤色は、酸化鉄の赤だとのことです。

 インドの「ベンガラ」が、オランダの東インド会社経由で日本に入って来たのは、17世紀初頭とのことですが、古代の日本でも、古墳の石室壁面の赤い彩色に、天然採取の酸化鉄が使われたようです。酸化鉄から「ベンガラ」を製造する時の、純度や温度によって、暗赤色や赤褐色に発色し、「朱」や「丹」が貴族の赤だとすれば、「ベンガラ」は庶民の赤。

Ishi  春野の隣りの森町の「森山焼」の赤色は、「鉄釉」と呼ばれる酸化鉄。赤石山脈の名前の由来となっている「ラジオラリア板岩」の赤も、酸化鉄の赤です。

 もちろん、これが春野の寺社に「ベンガラ」が使われた理由とは言い切れません。しかし、気田川に転げている赤い「ラジオラリア板岩」のチャートは、春野の石垣にも頻繁に使われています。春野に馴染みの赤色に塗られた「瑞雲院」の山門。

 酸化鉄の化学式は「Fe2O3」「Fe3O4」とか「FeO」ですが、もしかしたら、春野の山からは、鉄分を多く含んだ鉱石が産出されていたのかも知れません。

 ●「瑞雲院鐘楼堂」は、弁柄(べんがら=紅殻)塗りの赤い鐘楼…
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 ●「2月6日(金)午後1時 駒形稲荷大明神祭典」の貼り紙を…
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2009年5月20日 (水)

「広報はままつ」天竜区創造人―鎌倉亀代さん

Kamakura  「ここで楽しく働くことが、みんなの生きがいであり、元気の源です」

 こだわりの味

 佐久間町中心部から車でおよそ20分の北条峠(ほうじとうげ)にある「民俗文化伝承館」で、手打ちそばや郷土料理を振る舞っている「野田やまびこ会」。地元在住の女性により構成されるこの会で、平成15年から会長を務める鎌倉亀代さんを訪ねました。

 「ここが開館したのは平成2年。平成8年に自分たちの加工所が完成してからは、自分たちの畑で採れたものなど、主に地元産のそばだけを使っています」と鎌倉さん。「イベントにもよく出店しますが、私たちの活動拠点は北条峠。ぜひここに来てそばを食べてほしい」と、挽きたて、茹でたてのそばを食べてもらうことへのこだわりを話してくれました。

 お客さんに感謝

 営業日である土日と祝日には、手打ちそばや郷土料理の味を求めに来るお客さんで大いににぎわいます。

 「100人くらいお客さんが入るとパニックになることもある。でも『忙しいのはありがたいこと』という認識をメンバー全員が持っています」と、忙しさもエネルギーに変えています。「遠くから何度も来てくれるお客さんもいるし、地域の人たちもよく使ってくれる。ここに来る人たちは本当に温かい人たちばかりで、いつも和気あいあいとしていますよ」お客さんとのコミュニケーションも、会員の元気の源になっているそうです。

 みんなが元気でいるために

 「現在会員は15人。最高齢会員は84歳で私は最年少です。でも、会長として認めてもらっていますよ」と笑う鎌倉さん。「会員の高齢化が進み、みんなの体が心配。でも、ここでにぎやかに働き、多くの人と出会うことが、会員にとっていきがいであり、ストレス解消にもなっています」と、活動を楽しく続けられる秘訣を嬉しそうに話してくれました。

 「会員は気心の知れた家族のようなもの。野田やまびこ会は、私にとって生活の一部です。お客さんや地域活性化のため、そして自分のためにも、働ける限り楽しくみんなで働いていきたい」鎌倉さんや会員の皆さんの思いがある限り、山村の集落から明るい笑い声が響き続けることでしょう。

 Profile
 1950年(昭和25年)水窪町山住(上村)生まれ。野田やまびこ会には発足当初のおよそ30年前から在籍し、子育てが落ち着いてから本格的に活動を開始、平成15年から会長を務める。平日は畑仕事や椎茸栽培など農林業に従事するほか、最近はパソコン教室の仲間とのメール交換や、インターネットが趣味。佐久間町奥領家(野田)在住。58歳。

     ◆     ◆     ◆     ◆

 天竜区版「広報はままつ」(2009年5月20日号)「天竜区 創造人」に、「野田やまびこ会」の鎌倉亀代さんが登場しましたので、紹介させていただきます。「民俗文化保存館」の地そばは美味しいですよ。「ホウジ峠の中央構造線」は、「新・浜松の自然100選」にも選ばれました。ぜひ、お出かけください!

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 ●以前、「北条(ほうじ)峠の名前の由来について…
 ●この地の昔をよく知る方から、「北条(ほうじ)峠は、悲しい別れの峠…
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 ●北条(ほうじ)峠の民俗文化伝承館は、浦川地区和山間(わさんま)の…
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巨木に囲まれた「神妻神社」

Kadumajinja  「神妻(かづま)神社」は佐久間町半場の山の中に祀られています。以前、探してみたことがありましたが、その時には見つからず、今回山道を走っていたら、突然目の前に赤い立派な神門が現れました。神門に掲げられた額には「神妻神社」の文字が…。

 ここが、あの佐久間の民話「椎ケ沢の白ひげ明神」に登場する「神妻神社」だったのです。

 神社本庁が平成7年に公表した「全国神社祭祀祭礼総合調査」によれば…

 宝亀2年(皇紀1430西暦770)11月に創立され、「関野大明神」「鹿島大明神」「神妻大明神」、また「馬主神社」とも呼ばれていましたが、明治6年(1873)3月に現在の「神妻神社」と改められたとのこと。「馬主神社」とは、同じ佐久間町の「馬背神社」「相月諏訪神社」にもその名が見られます。

Kadumanomori  拝殿裏の森には杉の巨木が林立し、「神妻の森」の木札が立っています。この中のいずれかが、「静岡県環境影響評価データベース」に登録されている目通り530センチ、樹高50メートルの杉のはずですが、この中から探すなんてムリ!

 祭神の一人「武甕槌神(タケミカヅチノカミ)」とは、雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており「鹿島神社」の祭神でもあるとのこと。「大国魂神(オオクニタマノカミ)」「伊弉冉神(イザナミノミコト)」も祭神に名を連ねています。「神妻」とは「巫女」の意味。これらの祭神に仕えた「巫女」が「神妻」なのでしょうか?

 「昔一人の巫女が神を生んだが、その神が神妻社の祭神となった」との言い伝えもあるようです。

 杉の巨木に囲まれ、山の神社に静かに祀られた神々。長い林業不振の時代が続き、手入れもままならない北遠の多くの森を眺め、今、何を思っているのでしょうか?

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2009年5月19日 (火)

赤錆びたレールの山―佐久間町相月

Rail2  これまでに、森林鉄道に使われたレールが、春野の山里の半鐘台や火の見櫓として第二の人生を送っていることをお伝えして来ました。鉄道のレールは、文字通りガードレールの柱として使われたりもしていました。佐久間でも、数ヶ所の半鐘台がレールの再利用でしたね。

 佐久間町城西地区の相月諏訪神社(あいづきすわじんじゃ)のすぐそばに、L字鋼に交じって写真のような赤錆びて曲がりくねった…。Oh!これは、鉄道のレールじゃあないですか?レールが山になって捨てられていたのです。どこで、何に使われていたのでしょう?道路なのか、建築物なのかは分かりませんが、今は廃材として山積みにされているようです。

 細いレールですので、飯田線で使用されたものではありません。当時は水窪まで延びていた「気田森林鉄道」で使われたレールでしょうか?相月は水窪と接した地区ですので、もしかしたら「水窪森林鉄道」で使われていたレールなのかも知れません。

 誰か、本当のことを知っている人はいませんか?でも、想像しているうちが花?答えを知ったらがっかりするのかも…。

 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
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「新宮神社」で見つけた奉納額と「役の行者」像

Nichirosensou  5月18日付「静岡新聞」古道を歩く―秋葉街道51「山里の勧学祭」

 山里はまだ桜が咲き残る四月初め。浜松市天竜区春野町和泉平、五十段はある新宮神社の急な石段を神職に伴われて男女各一人の新入学児が上がっていく。地域の伝統行事「勧学祭」があった。

 (中略)「今年は二人だが、昨年はなし。来年はいない。再来年は多くて三人。比較してはいけないが、昔は毎年六、七人はいて華やかさがあった。数年前から一年置きの勧学祭になってしまった」と話す。 

 偶然ですが、新聞にこの記事が掲載された日、「新宮池」に立ち寄りました。たまたま、木造「倉庫」に防腐塗料を塗っている地元の人がいましたので、「勧学祭」について伺ってみました。

 「そう言えば、今日の静岡新聞に新宮池のことが載っていましたね?新入学の子どもの行事」「ああ、勧学祭のことね」「この石段で撮った写真でしたよね?」「そうそう、ここの写真。今じゃあ、毎年っていうわけじゃあないけどね…」と、私が聞いた話も記事の通り。

Gyoja  「この中には、何が入っているんですか?舟屋台の飾り?」。たまたま引き戸が開いていましたので、中を覗かせていただきました。「この絵は?明治時代の軍人たちの絵ですね?皇居前の行軍かなあ?」「だいぶ痛んでしまっているんで、ちゃんとしたいと思っているんだけど…」「以前、これとよく似た絵を、佐久間の馬背神社で見たことがありますよ。大切にしてほしいです」。

 絵には「明治参拾五年七月十四日 周智郡犬居村和泉平」と14名の名前が書かれています。明治35年(1902)と言えば、日露開戦の直前。和泉平から出兵した青年の武運長久を祈って奉納された額でしょうか?明治22年(1889)、「国民皆兵」が義務付けられています。この絵に名前を挙げられた青年たちも、「新宮神社」での「勧学祭」を祝ってもらったのでしょう。

Masejinja9  「ちょっと、聞きたいんだけど、これは、何?この石に彫ってあるのは…」と尋ねられました。「ああ、これは役の行者(えんのぎょうじゃ)ですね。修験道の開祖ですよ。昔、この辺は山伏が修行する場だったらしいですから、その名残りでしょう。残念ながら、欠けてますね?」「ちゃんとできるんだったら、した方が良いよね?」「もちろん、そうしてくれれば…」。

 「ここに、何かある」と、割れて崩れた欠けらを元の位置に戻したら、「寛政(1789~1800)」、200年以上も前の年号が彫ってありました。「ちゃんとしたいですよね?」。

 ●「新宮池」は春野町和泉平(いずみだいら)の山頂668㍍にあり…
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 ●「馬背(ませ)神社」は佐久間地区佐久間。延元年間(1336~1340)の創建…

2009年5月18日 (月)

「二本杉峠新道碑」除幕式の思い出

Nihonsugi  佐久間出身で現在千葉県にお住まいの夏目さんが編集した『羽ヶ庄の歴史と民話』(平成20年11月20日作成)の中に、「二本杉峠新道」の記念碑除幕式に関する細澤氏のこんな記述がありました。

 村の人が集まって、ご馳走の支度に豚を殺して料理に使うのだが、殺し損ねて豚がキーキー鳴いて大暴れしたのを覚えています。折詰も村の器用な人たちが作るのです。のし紙を私に書け、模様は菊の花を描けと言われ何十枚ものし紙を書いたがうまく書けなくてえらい目にあったことを今でもハッキリ覚えています。

 五十年前のことを今の人が聞いたら笑うでしょうが、実際ですよ。ほんとに、そうそう、権市サ(澤上)が串芋焼き菰で周囲を取り囲みほいろの鉄棒をならべ、その上で焼くのです。蓄音機の音楽を草むらの中でやり、式が始められたのです。投げ餅も終わり記念写真を撮り、式が終わったので折詰を来賓に渡す。原田翁代理の方が部落の人たちに手製の折詰を持ち串芋を食べている風景は又、見ものでした。

 80年以上も前に執り行われた記念式の雰囲気が、いきいきと伝わってきます。

 新道とは言え、今の舗装された県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線と違い、もちろん未舗装。羽ヶ庄出身のKさんの記憶によれば、馬に曳かせる荷車の轍(わだち)が残り、轍の間には草が生える泥んこ道だったそうです。

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旧「花島小学校」を再訪

Hanajimasyo  春野町花島、旧「花島小学校」が廃校になったのは昭和44年(1969)。

 現在は、茶工場(春野では「茶部屋」と呼んでいるようです)に使われている、一部の瓦も剥がれ、崩れかけた古い木造校舎。久しぶりに訪れた日は、茶の摘採シーズン。旧校舎跡の中では製茶作業の真っ最中でしたが、そんな忙しい中、問いかけに快く答えていただきました。

 「あの~、この小学校の生徒さんは、何人くらいいらっしゃったんですか?」と尋ねたところ、「多い時には100人くらいはいたよね。昔は、子沢山だったから」とのこと。

Koumon5  「あの、オシャレな洋風の建物は?」「あれは、音楽室。あっちに見えるのが校長先生の住宅で、校門の横には二宮金次郎も立っていたんだけど、いつの間にか行方不明になってしまって…」。確かに、台座だけが残っています。「今、子どもさんは、どこまで通っているんですか?」「熊切小。少ないけどね」。
 
 花島は、「春埜杉」で有名な「春埜山大光寺」のある集落。『静岡県周智郡誌』によれば、大正4年の「花島尋常小学校」の生徒数は61。世帯・人口は、明治13年27・123、同24年27・135、大正9年37・203、昭和30年40・253、同40年38・197となっています。

 ●写真の2階建ての校舎は、知る人ぞ知る「周智郡立勝坂小学校」跡…
 ●廃校シリーズ②。ここは春野町花島(はなじま)、旧「花島小学校」の跡…
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 ●旧「犬居小学校領家分校」は、領家の高台…
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 ●写真は、現在は廃校となっている旧「熊切小学校五和分校」跡…
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2009年5月17日 (日)

肥えた馬―「馬頭観音」

Batou  まず、写真をクリックして拡大してみてください。石に浮き彫りされているものの形が、うっすらと見て取れるはずです。これは、一体何でしょう?

 すでに風化が進んでいるため、はっきりとは分かりませんが、首を傾けるようにしてこちらを見ている丸々とした体。動物のように見えませんか?犬?豚?牛?いえいえ、おそらくこれは「馬」だと思います。

 …となると、これは「馬頭観音」?六道の一つ「畜生界」を済度する「馬頭観世音」のはずの「馬頭観音」でしたが、農耕馬や駄賃馬の供養のために建てられた「馬頭観音」は、すでに仏教本来の意味から離れてしまいました。人々は、道で倒れる家族同然だった馬を供養するため、路傍に「馬頭観音」を建てて祀ったのです。

 そんな「馬頭観音」の中には、文字だけを彫ったもの、馬の顔だけを彫ったものもありましたが、このように馬の姿を浮き彫りしたものは珍しいと思います。どうですか?あなたの目にも、馬の姿が見えて来ましたか?

 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」―これは、徳川家康の家臣で大番頭、本多作左衛門重次が陣中から家族に宛てたとされる有名な手紙。この馬はもちろん戦闘用の馬でしたが、佐久間の馬は、こんなにも肥えていました。

 当時の馬は、競馬馬でお馴染みのサラブレッドではなかったはず。もっと、背も低くずんぐりした体型の在来種「木曽馬」。サラブレッドに比べ、スピードもスタミナも劣ってはいても、山道を歩く力には優れています。

 この肥えた馬―「馬頭観音」は、「ほき洞門」西に祀られた石仏群の中にあります。

 まさか、「お犬様」じゃあないですよね?「肥えた馬」と書いておきながら無責任なようですが、ちょっぴり不安が残ります。

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「春埜杉」の正面の姿を見たことがありますか?

Harunosugi  皆さんは、「春埜杉」のことはご存知ですね?行ったことがありますか?見たことがありますか?「春埜山大光寺」に聳える、樹齢1300年とも伝えられる「春埜杉」は、行く度、見る度に、その圧倒的な迫力に、感動を超えた何かを感じさせてくれます。

 でも、でも実は、私たちが見慣れた「春埜杉」は背中の姿。今「えっ?」って言ったのは、誰ですか?だって、だって、私たちは山の側から見ています。つまり、木の裏側。表側=正面は、谷側に回らないと見られないはずです。では、足元に気をつけながら、表側に回ってみることにします。さあ、これです。普段、あまり見ることのない「春埜杉」の正面の姿をじっくりとご覧ください。

 どうですか?今まで見慣れていた「春埜杉」(下の写真)と比べてみてください!息を呑む迫力。言葉を失ってしまいます。

Harunosugi2  裏側でも十分にすごいのです。しかし、日当たりの良い表側は、もっと枝の数が多く、その逞しさもさらに増しているとは思いませんか?う~ん、写真では、うまく伝わりません。これは、ぜひともご自分の目で見ていただきたいと思います。

 今度行ったら、「春埜杉」の正面に回ってみてください!

 「出かけよう!北遠へ」―昨日(5月16日)、私は、NPO法人「天竜川・杣人(そまびと)の会」の仲間たちと一緒に、「春埜杉」を訪ね、何度目かの再会を果たしてきました。

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2009年5月16日 (土)

“双子”の「聖観音」―佐久間町西渡

Futago  佐久間町山香地区、川の港として栄えた西渡(にしど)大井橋のたもとに立っている2体の石仏。よく見ると、この2体の「聖観音(しょうかんのん)」が“双子”のようにソックリなのに気づきます。

 私は、各地に残る路傍の石仏を見て歩いて来ました。中には、「あれとこれとは同じ石工さんが造ったものかな?」と感じることもあるにはあるのですが、ここまでソックリな2体が、しかも並んで立っているのは「六地蔵」以外では見たことがありませんでした。

 よく考えてみれば、同じ石工が造れば同じ造形になるのが普通。1体1体すべてが違っていることの方が不思議なのかも知れません。それでも、違っているのは、製作を依頼された時期や、石の素性の違いによるのでしょうか?

 この「聖観音」は、たまたま同じ時期に同じ依頼先から2体の注文があったのかも知れません。しかも、「2体並べて祀るので、ソックリ同じものを造ってほしい」と…。

 1面2臂の菩薩形、左手に蓮華を持って静かに立つ気品ある姿。小さな“双子”の石仏に、あなたも出会ってみてください。すぐ隣りには、「山頭火」の句碑も建っています。

 *左側の「聖観音」の足元には、絶滅危惧種の「ツメレンゲ」が育っていました。

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繪葉書で振り返る北遠⑤―「氣田尋常高等小學校」

Ehagaki  春野町気田のデイサービス施設『みんなの家・野に咲くすみれ』でお年寄りに、「氣田尋常高等小學校 増新築記念繪葉書」を見てもらいました。「私が通っていた学校」「私だって、気田小だに」と話に咲きました。

 絵葉書は、磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集のもの。「昭和十年六月」に発行された8枚組み。「設備大要」まで付いています。

 「これが講堂だね」「A校舎とB校舎の間に池があったよね」「池の形が、春野の形になっていたじゃん」「奉安殿の前を通る時には、頭を下げたよね」「大きな学校だったよねえ」「昔は、王子製紙やダム工事関係の人がいて、生徒がおおぜいいたでね」。

 「これは、教室?」「これは、あんた、作法室じゃん」と言っていましたが、絵葉書の説明によれば「理科室」とのこと。黒板には「コールターの製法」と書いてあります。男子は洋服ですが、女子は全員着物姿。「コールター」って、コールタール(coal tar)のこと。その製法って、小学生が勉強することだったんですね?

 そして、最後には全員そろって「懐かしいね~」。

 現在の校舎は、更に建替えられたもの。校門だけが、昔のまんまで残されています。

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 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

2009年5月15日 (金)

繪葉書で振り返る北遠④―「氣田村」

 磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集の「絵葉書で振り返る北遠」の④。8枚組み『氣田村 繪葉書』です。

 橋は「宮川橋 縣道犬居氣田線」となっていますが、現在の「宮川橋」は平成3年に完成していますので、それまで架けられていた旧「宮川橋」だと思われます。特徴のある橋脚の形と中路式のトラス橋は、同じ気田川に架かる「秋葉橋」とよく似ていますね?鳥瞰風景は、気田発電所が写っていますので、現在の気田川橋付近のようです。

 寺は「眞言宗戒光院(勝坂不動)」、トンネルは「豊岡隧道」となっていますが「小石間隧道」のことではないかと思います。線路は見えずに、自転車を引く男性の姿が見えます。森林鉄道が敷設される前の風景なのでしょうか?

 子どもたちが遊ぶ学校は、「氣田尋常高等小學校」。現在の「気田小学校」です。昭和4年に操業が開始された「中部電力氣田發電所堰堤」と「中部電力氣田發電所」は、ほぼ現在の風景。「出力二千四百基」と書かれているのは「出力2400kW」の意味のようです。

 それにしても、「氣田村」の絵葉書なんて、誰が何のために買っていったのでしょうか?

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 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

尻尾を丸めた明光寺峠の「お犬様」

Yamainu  「山犬信仰」は、全国各地にその面影を見ることができますが、中でも私たちの北遠には、「お犬様」と呼ばれる春埜山の「大光寺」、水窪の「山住神社」を控え、様々な言い伝えが残されています。

 代表的な言い伝えはというと… 

 [その1] 狐などの憑き物が憑くと、加持祈祷とともに山住山か春埜山へお犬様のお影を借りに行く。四足が跡をつけてくる音がするが、それはお犬様がついて来ているからなので、後ろを振り返ってはならない。お影が近づくと、憑かれている病人は脅え出し、屋内を逃げ回ったりするという。そのお影を祀ると、1週間くらいで病人は治る。

 [その2] お犬様がいるから、山住神社の周りには猪がいない。

 [その1]で言われる「お影」は、掛け軸か何かでしょうか?また、山道でふと「ヤマイヌ」の姿を刻んだ石塔を見かけることもあります。

 写真は、明光寺峠に立つ「お犬様」。お座りした姿が多い中で、尻尾を丸め四肢を地に着けて立っている「お犬様」は珍しいと言われています。自動車道の脇に祀られていますので、ぜひ、お立ち寄りください!

 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
 ●昔、この部落では害獣が出て困窮致し「のんで川」の名犬シロを奉りました…

 ● 「浜」とは海岸の浜と同じように、天竜川の川端の呼び名…
 ●「塩の道・八丁坂」を知らせる標識の横に、たくさんの白い小さな花が…
 ●天竜川にも船が往来し、さまざまな物資が運ばれていたころ…
 ●「浜背負い」と呼ばれる女性たちが、荷揚げされた米や塩などを背負い子に…
 ●西渡(にしど)から明光寺峠へと続く「八丁坂」…
 【関連記事】今も残るかつての塩問屋「達摩屋」
 ●「塩の道」は、「八丁坂」を登り「明光寺峠」を越して…
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2009年5月14日 (木)

レトロなホーロー看板、4枚発見!

Kanban1_2  またまた、佐久間で見つけたレトロなホーロー看板の紹介です。

 「品質本位 アデカ石鹸」―なぜか、捨てられたような状態でしたので、立てかけて写真を撮りました。大正6年(1917)創業の「旭電化工業」は、「アデカ」ブランドで化学品事業を展開。平成18年(2006)、社名もADEKAに変更しました。「アデカ」とは、「旭電化」の、旭の「ア」、電の「デ」、化の「カ」の頭文字等を取ったものだそうです。そう言えば、見たことがあるような…。洗濯物を洗濯板で洗っていた時代ですね。

Kanban2_2  「子宮病 血の道 薬 中将湯」―「中将湯」は、「ツムラ」創業以来100年以上の長きにわたって販売され続けているロングセラー商品。「中将湯本舗 津村順天堂」の看板をかかげたのは、明治26年(1893年)のことでした。

Kanban3  「Y.K.K. ファスナー」―昭和9年(1934)、ファスナーの加工、販売を始めた「サンエス商会」が、後に「有限会社吉田工業所」と名称を改め、「YKK」ブランドが誕生したのは、戦後間もない昭和21年(1946)。平成6年(1994)、「YKK株式会社」に社名を変更しました。

Kanban4  「日本石油株式会社 カルテックス石油製品」―「何?ホーロー看板を探してるの?じゃあ、河内(こうち)に行けばあるよ」と教えられて見つけたのが、この看板。昭和26年(1951)、日本石油がカルテックスが所有する全株式を取得し、この赤い星の看板が生まれました。

 どうですか?ノスタルジーに浸ってくれましたか?喜んでいただけるようでしたら、また探してみます。

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 ●写真のホーロー看板は、佐久間町西渡の「舟戸(ふなと)商店街」で…
 ●春野町長蔵寺で見つけた「三菱かつらエンジン」のホーロー看板です…
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 ●4枚の農業系ホーロー看板の1枚として紹介した「東亞化成肥料」の青い看板は…
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 ●天竜区熊で見つけた、赤地に白文字「蛇の目ミシン」のホーロー看板です…
 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…
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「気田川」が「日本一きれな川」を名乗る訳

Ketagawa  「春野町」は清流の町。「気田川」を中心に大小合わせれば、何と182本もの川が流れています。平成2年、国からの指導もあって何かに一つ「日本一を目指そう!」と話し合い、「日本一きれいな川のまちづくり」計画が策定されました。

 この計画は、鮎釣り、キャンプ、カヌーなど、多くの人々で賑わう「気田川」を環境保全のシンボルと考え、水質浄化と河川環境の保全整備を図ることを目的として組織された「気田川環境保全協議会」の活動支援を実施するもの。また、生活廃水の流入を防ぐための基盤整備とともに町民の意識改革を進め、毎年、ボランティア清掃「気田川リバークリーン」を開催して川の清掃にも取り組んでいます。

 これが、「気田川」が「日本一きれいな川」を名乗る理由。「気田川」の堤防には、春野町が「日本一きれいな川のまちづくり」を目指していることを全国に発信するため、 サツキの株で描かれた「日本一きれな川」の文字がくっきりと浮かんで見えています。

 この文字は、決して思いつきで書かれたものではありません!

 ●清流として知られる気田川では、カヌー遊びも大人気…
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 ●東海地方が梅雨に入りましたが、この季節の北遠は、やっぱり「鮎釣り」でしょう…
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2009年5月13日 (水)

「玄馬稲荷大神」と「遊郭」

Tourou  佐久間町浦川地区出馬(いずんま)の「玄馬稲荷大神」のお社は新しく建てられたもの。以前は、もう少し高いところに鎮座していたと聞いていました。だったら、神社の裏山には、何か興味深いものが残っているかも知れません。登ってみることにしましょう。

 …と言うわけで、「玄馬稲荷大神」の裏山探索レポートです。

 まったく、予備知識のない探索でしたが、すぐに落葉に半ば埋もれた灯籠を見つけました。これは、おそらく参道に何基か建てられていたものだろうと思います。小さ目なのですが、火袋や中竿部が、数セット分残っています。

 そこからは、参道と思われる山道を登ります。次に見つけたのは、常夜燈の中竿だったと思われる石柱。注目すべきは、石に刻まれた文字です。「一廣楼松枝徳次郎 豊橋市遊郭 昭和十二年十月」。昭和12年(1937)、豊橋の遊郭「一廣楼」が金を出し、常夜燈を奉納したと言うのでしょう。

Yuukaku  浦川地区は、もともと愛知県とのつながりの多い地区。再建された「玄馬稲荷大神」の石の囲いの柱にも、豊橋の信徒の名が多く見られます。かつての社が建てられていたと思われる辺りには「徳廣稲荷」と刻まれた石碑が立っていますが、裏にはやはり「豊橋」の信徒が建てたとの文字が。

 「稲荷信仰」には、現在のような商売繁盛以前には、子授け・夫婦和合の神としての信仰がありました。「稲荷神」はまた、性器に対する信仰でもあったところから、遊郭関係者の信仰を集めたのではないでしょうか?現在の社の脇にも、奉納者が「助産婦」と刻まれた常夜燈の中竿も立っています。これもまた、同様の信仰からのような気がします。

 「商売繁盛」などと言うよりも、もっと深刻な不安。性病の恐れから逃れるための信仰だったのかも知れません。

 ●「玄馬稲荷大神」は、浦川地区の出馬(いずんま)の県道沿い…
 ●さて、出馬(いずんま)の「玄馬稲荷大神」についての続きですが…

2009年5月12日 (火)

佐久間にもあった!レールで作られた「火の見櫓」

Kamiichiba  春野では珍しくないレールで組まれた「火の見櫓」「半鐘台」ですが、佐久間ではどうでしょう?佐久間に「森林鉄道」は走っていませんでしたので、ちょっと考えられませんね?鉄道との関連がある「火の見櫓」「半鐘台」については、すでに飯田線の送電鉄塔を流用した例を紹介しましたが、実はレールを使って組んだ「半鐘台」があるのです。

 写真左は、浦川上市場のもの、左下は、佐久間のもの。そして、右下は、川合の山の斜面に立っています。一体このレールは…?

Kawai  佐久間で鉄道を使った例としては、久根鉱山の鉱石搬出用トロッコですが、それよりは太い感じです。では、これは飯田線のレールかと言われると、それほど太くはありません。他に考えられるのは、佐久間ダムの建設工事の時の、資材運搬用のレール?久根鉱山からの引込み線?あるいは、隣県を走っていた「設楽森林鉄道」のものかも知れません。

Sakuma 答えは、分からないままです。佐久間には56基の「火の見櫓」「半鐘台」があるそうです。そのうちの何基かは、確かにレールを流用したに違いないということです。

 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
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 ●「気田森林鉄道」は廃止されたのは、昭和34年(1959)…
 ●この日の目的は、春野に残された森林鉄道のレールで造られた半鐘台探し…
 ●昭和34年(1959)まで、春野の山里を走っていた「森林鉄道」…
 ●春野町領家和田之谷の半鐘台は2脚…
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絵葉書で振り返る北遠③―「周智隧道」

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 磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集の「絵葉書で振り返る北遠」の③です。

 旧「周智トンネル」の絵葉書です。昭和34年6月10日発行「周智隧道開通記念」(周智隧道開通推進協力会)。うまく、スキャンできず、荒れた写真になってしまいました。

 最初の1枚は、絵葉書のカバー。何枚組みであったのかは不明ですが、カバーの路線図には、国鉄二俣線の他に、袋井から森町に通じていた静岡鉄道の軌道線(路面鉄道)が描かれています。通称「石松電車」は、昭和37年(1962)に廃止されましたので、昭和34年には運行されていたわけです。

 「周智隧道」は、周智郡森町と旧周智郡春野町とを結ぶトンネル。現在は、すぐ東側に新しい「周智トンネル」が開通しています。

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 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

 ●北遠など山間地域などをドライブしていて思うこと…
 ●以前、「隧道(ずいどう)」と「トンネル」について書いたことがありました…
 【関連記事】「大地野隧道」を抜けると「夏冷沢」?
 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
 【関連記事】短いトンネルランキング第4位「岩井戸隧道」
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 ●前回は2月に通った「岩井戸隧道」を、もう一度…

2009年5月11日 (月)

150段の石段を登って―柏古瀬の「南宮神社」

Nangujinja  佐久間町浦川の柏古瀬(かしわごせ)に祀られる「南宮神社」にお参りして来ました。

 さて、柏古瀬に「南宮神社」があるとは聞いていました。ところが、実際どの辺りにあるのかは知りませんでした。そこで、相川の翁草の世話をしていた女性たちに聞いていました。「あの~、南宮神社って、どの辺りにあるんですか?」。

Kinpara 「南宮神社って、柏古瀬の?」「そうです。そう聞いています」「ここは、柏古瀬じゃあないに」「それは、分かっていますが…。柏古瀬のどの辺りですか?車で行けますか?」「柏古瀬は、知ってるら?近くまでは車で行けても、あとはだいぶ歩くに。近くに行ってから、聞いてみな」。

 仕方がないので、近づいてから聞いてみました。「あの~、南宮神社って、どこでしょうか?」「何?登るの?ここを行って、左に曲って細い路を登って行くと石段が見えてくるから、そこを登った上だけど、石段がきついでね。150段あるで」。

 「ありがとうございました。行ってきます」。言われた通りに道を辿り、人家の横の坂道を登ったら、天まで続く石段が見えてきました。石段の看板には、確かに「百五十段坂」の表示。でも、これはきっと大袈裟でしょう。この手の名前に「誇大表示」は付き物です。

Yatakahi 途中、鳥居の立つ踊り場を過ぎて見上げてみましたが、まだかなりあります。1段1段数えながら登った結果は、きっちり150段。これには、ビックリ。登り切った石段の右脇で、明治34年(1901)に建てられた『金原明善君紀念碑』が迎えてくれました。

 「南宮神社」の祭神は「金山彦命(かなやまひこのみこと)」。つまり、「金山」(かなやま、鉱山)を司る神です。となると、その昔ここ柏古瀬には、鉱山や鍛冶など、金属に関わる人々が暮していたのでしょうか?

 また、境内には郷土の偉人―「暴れ天竜」と戦った矢高濤一(やたかとういち)翁の顕彰碑、『矢高翁碑』も建てられていました。

 【関連記事】「浮森」とは?―暴れ天竜と闘った矢高濤一
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 ●天竜川治水に全財産を投じた「金原明善」の名は…
 ●「暴れ天竜」と戦った矢高濤一(やたかとういち)翁…

牧野の茶畑に立つ「半鐘台」

Makino  すでに、11基を紹介した「森林鉄道」のレールを再利用した春野の「半鐘台」―13基目の「半鐘台」とは牧野(まきの)の茶畑で出会いました。

 ある調査によれば、春野には71基の「半鐘台」があるのだとか。旧浜松市とほぼ同じ面積を持つ春野に立つ「半鐘台」の数の多さは、半端ではありません。そのうちの、いくつがレールで作られているのでしょうか?

 すでに17%がそれに当ることが分かったのですが、これはかなり特殊なことだと思います。そのほとんどは3脚スタイルですので、最近では遠目にもそれと判るようになりました。

 戦時中の供出により一旦姿を消した「火の見櫓」や「半鐘台」の再建時期が、ちょうど「森林鉄道」の廃止時期と重なっていたのでしょう。集落のシンボルの「半鐘台」が立ち、青年たちは年齢が来ると「消防団」に入り、この櫓を登って半鐘を叩いたのでしょうね?かつては、時報を知らせるために叩いたという話も聞いています。

 山里の茶畑に立つ「半鐘台」の鐘の音は、山々にこだましながら、隣りの集落までも届いたのでしょうか?

 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
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 ●春野町領家和田之谷の半鐘台は2脚…
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2009年5月10日 (日)

絵葉書で振り返る北遠②―「龍頭山戒光院」

Kaikouin  磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏収集の「絵葉書で振り返る北遠」の②です。

 春野町豊岡山路(さんろ)の「龍頭山戒光院」。正式には「龍頭山戒光院(りゅうとうざんかいこういん)」と称し、大正末に竜頭山から移築されたとのこと。この絵葉書では、「遠州氣田勝坂不動龍頭山戒光院」とされています。

 遷座後の絵葉書であることは分かりますが、いつ頃の写真でしょうか?「本堂」の写真には、2個の砲弾が写っています。「節分會」の写真に写っている参詣客の多さに驚かされます。デイサービス施設『みんなの家・野に咲くすみれ』のお年寄りによれば、「稚児行列だね」とのこと。下の絵葉書の写真は「籠もり」をした宿坊だそうです。

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 ●春野町の小学校の古い写真が手に入りました…

2009年5月 9日 (土)

『栗崎園』さんで守る「シャモジ様」とは?

Syamoji  以前、「相月諏訪神社」のコメントの中で、「ミシャグチ神」について書いたことがあります。

 「ミシャグチ神」に漢字を当てると、「御左口神」「御社宮神」「御社宮司」「三社口神」「社宮司(シャグジ)」「社御司(シャゴジ)」から「おしゃもじ様」までたくさんの書き方があります。つまりこれは、日本人が文字を使い始める以前の神だという証拠。

 諏訪神社ゆかりの神様で、天竜川流域には8社(県神社誌)あるとされています。本来は、池の神、農業神として自然や木や石を祀ったものです。

 そんな「ミシャグチ神」だと思われる祠と、春野町宮川の『栗崎園』(053-989-0765)さんで出会いました。

 それは、『栗崎園』さんのすぐそばの国道362号の下。小さな石碑には「奉建立沙母子尊○○」と彫られているようです。ご主人の話では…

 道路建設の時に、この「シャモジ様」を動かしてくれと言われたんだが、あちらこちらに相談した結果、動かさない方が良いと言われ、今みたいに道路が上を跨ぐように通ることになったんだ。これって、何だろう?

 「沙母子」は「サモジ=シャモジ」と読むことができます。となると、先に述べた、諏訪神社ゆかりの農業神ではないかとピンと来ましたが、皆さまはいかがお考えでしょうか?

 春野の民俗行事「つなん曳」は、洪水で村の堤防が決壊寸前、諏訪神社の祭神が大蛇となって堤防に横たわり村を守った、との言い伝えによります。であるなら、同じ宮川に「ミシャグチ神」が祀られていても、何の不思議ではありません。普段は、穏やかに流れる気田川や杉川ですが、いざ大雨が降れば、あっと言う間に水かさが増し、一気に氾濫しました。

 そんな自然相手に畑や田を耕し、穀物や野菜を作る農業。頼るところは、神様です。検地の際の用済みの縄は「ミシャグチ神」の祠に収めるという風習もあったそうです。つまり、測量の神でしたので、集落の地境に建てたのでしょう。多分、『栗崎園』さんで守っている「シャモジ様」とは、この「ミシャグチ神」だろうと思います。

 集落の境界だとのことですので、境界を塞ぐ「賽の神」「道祖神」の一種なのかも知れませんが…。

 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…

2009年5月 8日 (金)

ペラペラと剥離する「結晶片岩」

Kessyouhengan  緑色の岩石が薄くペラペラ剥がれて崩れています。佐久間の山道でしばしば見かける光景。これが、「結晶片岩」。佐久間の多く見られるのは、緑色を帯びた「結晶片岩」=「緑色片岩」です。

 「中央構造線」の内側、つまり南側の「三波川変成帯」は、低温高圧型の変成帯。古生代後期~ジュラ紀に堆積した岩石(泥岩・砂岩・玄武岩質凝灰岩・チャート)が、プレートの沈み込みにより地下20~30キロメートルの深さに潜り込み、温度200~300度、圧力600~700気圧のもとで変成され、形成されたのだそうです。この圧力は、郵便切手の面積に10トンの重さがかかったものと同じとか。

 「結晶片岩」が板状に剥離しやすいのは、その想像を絶する力の影響です。

 すべてが、こんなにペラペラと剥がれるわけではありませんが、板状に割れやすいため、板状の石碑の造立には、しばしばこの「緑色片岩」が使われています。また、傾斜地の多い佐久間では、畑や敷地のための平地を作る石垣にも「結晶片岩」が使われています。

 ●佐久間周辺には、中央構造線による断層によって作られた…
 ●中央構造線を境に東側には三波川帯の…
 ●この「佐久間耳寄りブログ」で私が「火山」と書くと…
 ●「中央構造線」とは日本最大の逆断層…
 ●佐久間を横切る「中央構造線」は、日本最大級の断層…

2009年5月 7日 (木)

千の手と千の眼を持つ仏―「千手観音」

Senju  故米田一夫氏が「中日ショッパー」に連載した連載企画『遠州の野仏を追って』をまとめた同名の出版物が手元にあります。原稿書きに当っては、私も多少手伝わせていただきました。その中に「経典のすすめ―千手観音」の項があります。

 ずーっと遠い昔、一人の仏がこの世に生まれました。釈迦(しゃか)はこの仏をたいそう可愛がって、もろもろの衆生のための広大な教えを説き、金色の御手で頭をなでながら言います。「おまえは、この教えを持って未来悪世のすべての人々を救済しなさい」と。

 初めて世に現れ、尊い教えを聞いて感激した彼は、心を躍らせて答えます。

 「世尊よ。もし私に世の人を益し、安楽ならしめる力があるとお考えでしたら、たった今、私の身に千の手と千の眼を下さい」

 言い終わるや否や、たちまち彼の体に千の手と、その手に一つずつの眼が生じ、千手観音が誕生します。

 「千手観音」の誕生話―『千手千眼観音経』の経文を米田氏独特の語り口で紹介しています。

 感動的に誕生した「千手観音」ですが、いざ石に彫るとなると、実に厄介です。もちろん、千もの手を彫ることなど不可能。そのせいか、石仏の中に「千手観音」を見かけることは意外と少ないのですが、「瑞雲院」の山門前に佇むこの石仏は「千手観音」に違いないと思います。

 ヒントは、台座に彫られた「四」の文字。「西国三十三箇所」の4番札所、大阪府和泉市の「施福寺」の本尊は「千手観音」。手は4本だけ彫られています。

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 ●「瑞雲院鐘楼堂」は、弁柄(べんがら=紅殻)塗りの赤い鐘楼…
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 ●「2月6日(金)午後1時 駒形稲荷大明神祭典」の貼り紙を…
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カグラサンで巻き上げた「二本杉峠新道碑」

Kyudou  県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって大正15年(1926)に完成しました。それまでの旧道の入口は写真の通り。こんな山道が、二本杉峠手前のパノラマ展望台の辺りまで続いています。

 佐久間出身で現在千葉県にお住まいの夏目さんが編集した『羽ヶ庄の歴史と民話』(平成20年11月20日作成)の中に、「原田新道」に関する細澤義広氏のこんな記述がありました。

 大正14年頃までは佐久間から峠を越すのには大変でした。道とは名ばかりの水のない沢でも思わすような道でした。

Shindouhi 道路も着々工事が進み開通の運びとなり、原田翁が道路の出来方を検証に来られたので中部まで迎えに行き、その時は背中に○の中に原田と染め抜いた揃いのはっぴで翁を駕籠で担いだのです。

 道路もでき、記念碑もできてきたので台石を中野寅造氏前の沢から、その石を道路まで出すのに十人工(く)かかり、道路からソリに乗せ、前でカグラサンで巻き、後ろで2、3人が、テコでこじ、峠まで運搬するのだが、時々ソリがつぶれては又、作り石屋の音頭で「ヨイトマケ、ソレマケ、マイタ、マイタ、マイテトルのが糸屋の娘だ。ソレマケ、ヨイトマケ」の掛け声に合わせて数十人が巻き上げるのだ。一日中巻いてもなかなか進まず、何日も何日もかかって、ようやく峠まで巻き上げたのです。

 …と書かれています。

 「二本杉峠新道碑」は、「カグラサン」で巻き上げたもの。昭和45年の道路工事で、現在の場所に移転しています。「カグラサン」とは、重いもの引いて移動するときに使われた人力ウィンチ。新道開通が、地元の人々にとって、いかに大事業であったかが想像できます。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
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 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
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2009年5月 6日 (水)

絵葉書で振り返る北遠①―「佐久間ダム」

Sakumadam  磐田市にお住まいのコレクター・佐口行正氏から、北遠の古い絵葉書を貸していただくことができました。使用の許可もいただきましたので、何回かに分けて紹介させていただくことにします。

 何せ、絵葉書は旅先の思い出。地元に残るよりも、遠方に流出する運命のお土産品。佐口氏が全国から収集した貴重なデータです。

 第1回は、工事中の「佐久間ダム」。何枚組みであったのかは分かりませんが、5枚が揃っていますので、ご覧ください。(*スキャナーで取り込んだものですので、画像が荒れているのはお許しください。)

Sakumadam097_3 佐久間ダム全景堰堤高さ150メートル 点線が頂部270メートル 左岸トンネルは仮排水路出口
日本一発電所建設された佐久間村殿島部落の全景 Sakumadam098_2
Sakumadam099_2 上部展望台から見下した堰堤高さ150メートル重力式日本一位世界二位と云う 点線は頂部
完成近き三十五万キロ發電能力ある佐久間發電所 Sakumadam100_2
Sakumadam101 下部正面より見上げた佐久間ダム 完成すれば諏訪湖の水量二倍半を越える

 重力式コンクリートダム「佐久間ダム」は…
 遠州灘海岸の浸食対策とダムの氾らんを防ぐため…
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 ●先日、全5門からの放水の記事と写真を紹介…
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 ●長野県の諏訪湖から遠州灘に注ぐ天竜川水系で今後約30年間…
 ●「佐久間ダム」は、昭和28年に着工。アメリカの重機や…
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 ●佐久間ダムの下にあるのだから、きっと発電所だろう…
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2009年5月 5日 (火)

北遠の「五月節供」は「天神様」と「朴葉餅」

Tango  私は、「さくま郷土遺産保存館」の第4コーナー「くらしの歳時記」が大好きです。かつて行われていた習俗が、目に見える形で展示されていますので、あるものは懐かしく、またあるものは私たちに知ることの楽しさを感じさせてくれます。

 「五月節供=端午の節供」の展示には、学問の神様「天神様」が飾られています。解説ボードによると…

 5月5日の端午の節供は、3月の雛節供と並んで、子どもたちにとって親しみ深い日です。

Tangonosekku この日は菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒に指し、鯉幟・武者人形を飾り、粽(ちまき)や柏餅を食べる習わしです。古くはこの日は、女たちがある家に集まり、物忌の生活を送っていたといいますから、女性と関係の深いものでした。後に3月に入れ替わって、5月節供は男の児の領分のように考えられるようになったのです。

 武者人形の始まりは、神送りをする神の形代であり、幟は神を招くための招ぎ代(おぎしろ)の変化か、あるいは忌籠りする家を標示するものであったといいます。

 また、私たち「天竜川・杣人の会」会員・今村純子さんが「遠州の常民文化 創刊号」(遠州常民文化談話会編)に発表した「遠州の食文化」の中に「北遠の食事―行事食」の項がありました。

 5月5日には、米の粉か黍(きび)の粉の皮に小豆餡を入れ、朴の葉に包んだ柏餅を作る。

 「朴の葉に包んだ柏餅」とは、端午の節句やお盆に作られた柏餅のようなもの。朴の葉は一枝に6~8枚、手の平を広げたようについています。朴の葉に餅を包み、蒸したりあぶったりして食べます。餅に朴葉のすがすがしい香りがつき、夏でも日持ちが良いとのこと。朴の葉を枝ごと使って餅を包んで作るところもあるようです。

 …となると、どうやら北遠風の「五月節供」は、「天神様」に「朴の葉に包んだ柏餅」で決まりです。

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2009年5月 4日 (月)

懐かしい「農協マーク」発見!

Noukyou  戦後復興と民主化は、GHQの指導の下で、「財閥解体」「労働三法の成立」「農地解放(改革)」の3本柱で進められました。

 3本柱の1つ「農地解放」は、『全人口のほとんど半分が農耕に従事している国において、長い間、農業機構を蝕んできた甚だしい害悪を根絶しようとするもの』という趣旨の下で、小作と地主の関係を代表とする封建的な弊害を解消するために実施。GHQは、日本政府に「農業協同組合」を作り上げるように指導していきました。

Noukyou  「農協」は、既存の農業会を改組する形で、昭和23年(1948)に誕生しました。同時に決められたのが、「協」の字と麦の穂とを図案化したあの「農協マーク」。平成4年(1992)4月、「農協」から再び「JA」に改組された時に、「農協マーク」は「JAマーク」に変えられ、あんなに見慣れていたはずなのに、あっという間に姿を消してしまいました。

 写真上は、佐久間町大井で見かけた懐かしの「農協マーク」。1階にはCDが並んでいますが、元は「農協」の倉庫だったのでしょうか?写真下は、春野町農協農機事業センターの「農協マーク」。「農協マーク」―レトロな雰囲気が、いいですね~。

「山香ふるさと村」発行のミニコミ紙『ふるさと』

Furusatomura2  佐久間町山香地区大井の「山香ふるさと村」(053-964-0074)発行のミニコミ紙『ふるさと』(平成19年春号)の中に、こんな記事を見つけました。

 今年に入ってから、何匹もの猿が、「ふるさと村」の上の方、元久根鉱山の社宅跡辺りに住み着いて、集落の畑へ頻繁に出て来るようになったのです。

 「ふるさと村」から見上げますと、大木が2、3本枝を伸ばしているのが見えますが、猿たちは、ここで遊んでいるのです。親らしいのが手足を長く伸ばして枝を渡り歩くと、何匹かの子猿も後を追うようにして遊んでいます。「ふるさと村」のおばちゃんたちも「まるで猫柳の膨らんだのみたいだね」などと面白がって、この子猿の遊びを見ているのです。猿たちは、木の枝にいて、木の皮を剥いては食べるので、木の上の方はすっかり裸に白く光っています。

 ここで遊んでいるだけでしたら、これも愛嬌と思って眺めるのですが、この猿どもは近くに人影のないのを確かめると、素早く畑に入り込んで、ダイコン、ニンジン、ネギ、ホウレンソウなど、何でも食べ散らかすのです。人に追われると、また元の木や藪の中にもぐり込んでスキを狙っています。

 …と、こんな調子です。

 先日、明光寺峠を越えた辺りで、キキッと鳴く猿の声を耳にしました。道路には、食べ散らかしたタケノコが数本転がり、声の主はまだ近くにいる様子です。その後も、キキッと私を脅しているように鳴くのですが、その姿はとうとう見られませんでした。

 こちらは興味本位なのですが、猿にとっては人間は敵なのでしょう。車を停めて、しばらく猿の姿を探してみたのですが見つかりません。静かな山道に、キキッと鳴く鋭い声が響き渡るばかりでした。

 このミニコミ紙『ふるさと』には、実に丹念に取材された地元の記事が、きっちりとした文体で綴られています。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●春を迎えた「山香ふるさと村」では、味噌作りが…
 【関連記事】元気でたくましく育て!山香っ子
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2009年5月 3日 (日)

春野では「茶園」「茶畑」のことを「茶原」と呼ぶ

Chabara  春野では、「茶畑」「茶園」のことを「ちゃばら」と呼びます。漢字を当てると「茶原」らしいのですが、この方言、どうやら静岡方面で使われているようです。浜松市とは言いながら、東は川根本町や島田市と接する春野町。秋葉道を通って伝わってきた文化は、東を向いたものであるのも当然。

 ところが調べてみると、愛知県には「茶原」の字(あざ)名が見られます。「知多市八幡字茶原下」「一宮市萩原町富田方字茶原」「一宮市今伊勢町宮後字郷中茶原」。一体どんな人の移動があったのでしょうか?

 さらに、春野では「茶工場」のことを「茶部屋(ちゃべや)」と呼ぶのだそうです。これも、特徴的ですね?

 ところで、皆さんは、「茶寿」という言葉をご存知ですか?「茶」の字を分解すると「十+十+八十八」。「10+10+88=108」と言うことで、108歳の長寿の祝いを「茶寿」と呼びます。日本では、もともと茶は嗜好品というよりも薬用としてもたらされました。緑茶には殺菌効果があり、茶に含まれているカテキンには高血圧や糖尿病を防ぐ効果もあるとのこと。

 美味しいお茶を飲んで、「茶寿」を迎えるまで長生きしましょう。

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2009年5月 2日 (土)

「二本杉峠の大杉」伐採の図

Nihonsugi018  以前、「浜松だいすきネット」からの引用で、佐久間の民話『二本杉峠の大杉』の最後は、こう終わっていました。

 世の中が変わって明治10年ごろ、この木は切られたということです。切られた木を測ってみると、なんと木の回りが東側の木で20m、西側の木で19.7mもあり、高さもどちらの木もおよそ50mはあったと言われています。

 そんな木ですから、枝も太く、一番下の枝で幅が1mもあり、長さ3.6mの板が9枚もとれたということです。(「浜松だいすきネット」より)

 この「二本杉」に関しては、「地面にさした二本の箸が大きく育った」ということになっています。おそらく、杉は自生のものではなく植樹されたもの、という言い伝えではないでしょうか?

 この話には、後日談があります。

Nihonsugi017  杉の値段は、ずいぶん高く、当時のお金で200円もしたそうです。当時、お米1俵(60㌔)50銭くらいだと言われていますから、驚くほどの値段になりますね。切った人は、天竜市(現・浜松市)の人だと言われています。その家には、2本の杉を切っている様子を描いた掛け軸が、今も残っているそうです。

 その絵によりますと、杉の木の回りに大きな足場を作り、上の方から板目に引いて(木挽き)、だんだん下の方に降りて来たことが分かります。切られた杉は、ここから天竜川に運ばれて下り、掛塚から東京へと向かいました。しかし、途中、嵐にあって遠州灘に沈んでしまいました。

 この杉は巨木であるために、不思議な力が宿っているだろうと想像した人々は、杉の根を掘り取って薬として服用しました。特に、虫歯に効くと言われたそうですが、杉と虫歯とはどんな関係があったのでしょう。不思議な力だったのでしょうね。(『羽ヶ庄の歴史と民話』夏目琴美編集・発行)

 写真は、羽ヶ庄(はがしょう)の細澤忠良氏が撮影した掛け軸の写真。二本杉はあまりに大き過ぎて下からの伐採ができないため、櫓(やぐら)を組んで上から伐った様子が描かれています。(*写真は2枚とも、クリックすると拡大して見ることができます)

 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線を佐久間からホウジ峠に向かう途中の峠…
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2009年5月 1日 (金)

縦と横―「みやこ染」ホーロー看板の比較

Miyakozome  写真のホーロー看板は、佐久間町西渡の「舟戸(ふなと)商店街」で見つけました。

 以前、浦川で見つけたホーロー看板を紹介しましたが、その時の1枚が「家庭染料 みやこ染」のもの。「みやこ染」は、大正からある布用染料で、会社名は「桂屋ファイングッズ株式会社」でしたが、浦川のものと違いこちらは縦長レイアウトです。2枚を並べてみました。

 ずり落ちかかっていますので、看板の下部が見にくくなっていますが、縦長の方は「みや古(こ)染」の文字の上に、洗面器で布を染めているイラストが描かれています。「特約店」はありませんが、「家庭染料」の文字は同じように書かれています。

Miyakozome2  同じように?同じですか?これって、どこか違いますよね?

 実は、横長の「家庭染料」は「左→右」に書かれ、縦長のものは「左←右」へと書かれています。「左→右」の横書きは戦後一気に普及したと言われていますので、「左←右」の看板は戦前のものである可能性があります。もし、戦前のものだとすれば、ご覧のように傾いて今にも落ちそうなのが気がかりです。

 探し始めると見つかるホーロー看板。今後も、のんびりと探してみたいと思っています。

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2009年4月30日 (木)

巨大な力と長大な時間が作り出した「断層粘土」

Dansounendo  佐久間を横切る「中央構造線」は、日本最大級の断層です。断層の内側(北側)は、高温低圧型変成を受けた「領家変成帯」、外側(南側)は、低温高圧型変成を受けた「三波川変成帯」。その結果、佐久間では、「領家変成帯」の代表的な岩石である花崗岩と、「三波川変成帯」の代表的な岩石の緑色片岩や黒色片岩の両方を見つけることができます。

 これらの石は、天竜川の河原に普通に見られますので、その河原石を積んだ石垣にも、白っぽい花崗岩と黒っぽい黒色片岩が混在していたりします。

 強い力が加わった断層面では、硬いはずの岩石も砕かれてしまいます。ここが「断層破砕帯」と呼ばれ、さらに破砕が進むと最後には「断層粘土」と呼ばれる細粒になってしまいます。

 佐久間のホウジ峠で見られる粘土は、「中央構造線」が作った「断層粘土」。私たちの想像をはるかに超えた巨大な力と長大な時間が作り出した「断層粘土」です。そこには、旧佐久間町と佐久間町観光協会が立てた次のような説明札が立っていました。
 
 「ここに示されている粘土は「断層粘土」といい、断層によってできた破砕帯の中の一部です。これらの破砕帯が中央構造線そのものです。」

 ●佐久間周辺には、中央構造線による断層によって作られた…
 ●中央構造線を境に東側には三波川帯の…
 ●この「佐久間耳寄りブログ」で私が「火山」と書くと…
 ●「中央構造線」とは日本最大の逆断層…
 ●緑色の岩石が薄くペラペラ剥がれて崩れ…

2009年4月29日 (水)

茶摘みを前にした春野の「ちゃばら」

Haruno  いわゆるゴールデンウイーク、大型連休が始まりました。穏やかな晴天に恵まれ思い付いたこと。「そうだ!茶摘みが始まっているかも知れない」。そこで、春野町の茶畑を見に出かけて来ました。

 「茶摘み、始まりましたか?」。砂川(いさがわ)の「ちゃばら」で腰に籠を付けた人に声を掛けてみました。「少し、摘んだでみたけど、5月に入るまで待つかな」。茶の芽は、もうかなり伸びているのですが、こちらでは機械摘みになるとのことで、もう少し伸ばすのだとか。

 と言うことで、茶摘み風景とは行きませんが、春野の「ちゃばら」風景をグラフで紹介することにします。砂川共同製茶組合に加盟している、砂川と和泉平の茶農家では、茶の有機栽培を進めています。

 *ちなみに「ちゃばら」とは茶畑のこと。春野では、茶畑のことを「ちゃばら」と呼びます。「どんな字を書くんですか?」と聞いたところ「平仮名だら」との答えでした。

Dscf0019 Dscf0017
Dscf0035 Dscf0038
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2009年4月28日 (火)

「蛇山」に祀られる「竜王大明神」とは?

Suwajinja  「相月諏訪神社」について、佐久間出身のMさんから、次のようなメールが届きました。

 相月諏訪神社の「蛇道」の件です。幼い頃から、話には聞いていましたので、個人的に一番馴染みのある民話だったのですが、肝心の「蛇道」と云われる穴は見たことがありません。

 実のところ、今までは「言われてみれば、気になるかな…」程度で、探そうとした事もありませんでした。地元の人は案外、同じような感覚ではないでしょうか?

 今回の記事に「ハッ!」とさせられ、自分でも気になってきましたので、少し調べてみたのですが、紹介された穴は、いずれも違うような気がしました。

 諏訪神社は元々「蛇山」という所にあって、現在地に移ったのは比較的新しい時代のようです。「蛇山」は島地区と切開地区の間を通っている国道152号線沿いにあるそうで、水窪川に突き出た岬のような地形の所です。城西浄化センターの対岸と言ったら分かり易いでしょうか?高所から見ると、まるで蛇のように細長い形をしていることから「蛇山」とか。

Jayama  確かに、「相月諏訪神社」については、次のようなデータが公開されています。

 信濃国諏訪郡諏訪大社より遠江国山香郡綾着村字蛇山に勧請鎮座せしを、その後当社地へ御遷座の記録は詳かでないが、神社に現存する最古の棟札によれば永享7年11月12日としてあり約560年の昔である。八幡宮、天満宮は、小相月に鎮座せしを明治維新の改革により、当社の境内社として御遷座、その後明治45年本殿に合祀す。「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」

 …となれば、「蛇山」に出かけてみるしかありません。「城西浄化センター」の対岸ですね?

 現地に訪れると、「蛇山」と呼ばれる場所を示す看板は意外と簡単に見つかりました。「蛇山 竜王大明神鎮座 ◎大生き神さま故 春から秋までの入山には氣をつけて下さい←」と、小さいけど赤い色の目立つ看板。「大生き神さま?」。そこで車から降り、ぬかるんだ山道を歩いてみました。

 すると、右上の少し上ったところ、木立の中に祠が見えてきました。これだ!祠の前には、「蛇山 諏訪神社 竜王大明神鎮座」と書かれた表示杭が立っています。現在の「相月諏訪神社」は、永享7年(1435)以前は、ここに祀られていたのでしょうか?注連縄も飾られています。

 なるほど、水窪川は、突き出る地形の蛇山の下で大きく蛇行しています。まさに「蛇渕」の雰囲気。だとしたら、佐久間の民話『相月諏訪神社の不思議』として語り伝えられている話も、元はと言えば、この「蛇山」で語られたものだったのかも知れません。現在の地での言い伝えがミックスして、あの「蛇道」や「蛇穴」の話に膨らんだような気がします。

 それにしても、あの道路脇にあった看板の「大生き神さま」が気になります。突然、その意味が分かりました。「生き神さま」って、もしかしたら、蛇のこと?マムシかも?しかも、「竜王」となれば「大蛇」。だから、「大生き神さま」。これは、いけません。「春から秋までの入山には氣をつけて下さい」とのことです。怖い、怖い!注意してお立ち寄りください!

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…
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 ●「相月(あいづき)」は、佐久間町城西地区の集落です…
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2009年4月27日 (月)

白井鐵造の翻訳ノート 見つかる

Sumire4  宝塚歌劇を象徴する歌「すみれの花咲く頃(ころ)」を日本に伝えた宝塚歌劇団の演出家、白井鐵造氏(本名・虎太郎、明治33-昭和58年)の同歌の翻訳ノートが、大阪府池田市の図書資料館「池田文庫」で見つかった。もとになった「リラの花咲く頃」の仏語詞と和訳が並び、後のページにはリラを日本人に親しみやすい「すみれ」に変え、大幅に書き換えた現在の歌詞も。同文庫は「いまなお歌い継がれる名歌のルーツをたどる貴重な資料」としている。

 白井氏は、戦前から戦後にかけ、計5回欧米を視察。タップダンスや多くのシャンソンを日本に紹介し、独特の「宝塚レビュー」を完成させた育ての親でもある。

 見つかったノートは白井氏が昭和3年から2年間の仏留学を終え、持ち帰った資料やノート類の1冊。仏製ノートの表紙に「Les chansons populaires(流行歌)」と書かれ、当時のパリの流行歌18曲の仏語詞と和訳が書かれている。

Sumirekahi  この中の1曲に「Les lilas(リラの花咲く頃)」がある。「春! 春!(中略)白きリラの花再び咲くとき、人も再び心を悩ます、人の心酔はし、綺れいにするのはそれは春だ」と直訳が書かれ、近くに「すみれ咲きはじめ春を告げるを人は待つ」とアレンジの形跡が残る。後半には、仏語詞にある官能的な表現を、初恋の思い出の歌に変えるため、何度も手直しを加えた跡があった。

 原曲は1928(昭和3)年、オーストリアのフランツ・デーレが作曲し、パリでも大流行した。留学中だった白井氏も気に入ったらしく、昭和5年の帰朝公演「パリゼット」で、「すみれ-」を主題歌に据えた。

 本場仕込みのレビューは大評判を呼び、白井氏は「日本のレビューを完成させた」と言われる。今回見つかったノートは帰朝公演のいわばネタ帳で、主に同公演で使われた歌曲が並んでいる。

 ノートは、同文庫の学芸員、田畑きよ子さんが発見した。田畑さんは白井氏の遺族から寄贈された約90冊のノートの分析を続けており、「ノートからは、白井氏の頭に常に宝塚化の視点があり、本場レビューを変貎(へんぼう)させたことがうかがえる。『すみれ-』はまさに白井氏を通じて解釈がうまくいった好例ではないか」と話している。

 今回のノートなど、白井氏のコレクションからみた宝塚とパリの関係について、田畑さんは発売中の「近代日本の音楽文化とタカラヅカ」(世界思想社)で考察を発表している。(「2006年5月7日付「産経新聞」より)

 白井鐵造氏は、大正10年(1921)、宝塚少女歌劇団に入団。昭和5年(1930)に作詞した主題歌「すみれの花咲く頃」が大ヒット。宝塚歌劇団発展に大いに貢献しました。そんな白井氏は、旧周智郡犬居村に生まれた郷土の先輩です。

Sumire_2

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2009年4月26日 (日)

「子生タワ」の「タワ」とは「凹み」の意味

Koumitawa2  明光寺の山で見た「子生石(こうみたわ)」については、すでに紹介しました。ただし、どうして「タワ」と読むのかは不明とさせていただきました。その後も、「子生石」について気にはしていましたが…。

 柳田國男(1875~1962)は、わが国の民俗学を確立した功労者。その柳田が『山の人生』の中で、明光寺の「子生石」に触れていますので紹介します。

 遠州奥山郷の久良幾山には、子生タワと名づくる岩石の地が明光寺の後ろの峰にあって、天徳年間に山姥ここに住し、三児を長養したと伝説せられる。

 竜頭峰の山の主竜築房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祭られるのみか、しばしば深山の雪の上に足跡を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。

 これが、柳田が記した「子生石」に関する記述です。天徳年間とは西暦957~960年。今から1050年ほど昔のこと。柳田は「タワ」をカナで記しています。

 となると、「タワ」とは一体、何のことでしょう?柳田がカナ書きした「タワ」の意味について考えてみました。

 先ず「石」と書いて「タワ」と読ませるにはムリがあります。普通に考えれば、「タワ」とは「たわむ」と同じように、「鞍部」「凹(へこ)み」の意味でしょう。

 つまり、山姥の爪痕と言い伝えられる、あの不思議な「凹み」を意味しているのが「タワ」ではないでしょうか?「子生タワ」とは「石」を示しているのではなく、「子生みの時に残した爪痕の凹み」の意味?

 あるいは、「タワ」とは「凹んだ箇所」―「子生石」の下に広がっているらしい「穴」の意味?

 柳田國男の記述をヒントに、「子生タワ」の「タワ」について考えてみました。みなさんは、どう考えますか?

 ●柳田国男の民俗学を政治思想史的にとらえる常民大学運動の合同研究会が…
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 ●全国各地に残された言い伝えによれば、「山姥(やまんば)」は…
 【関連記事】お地蔵さまの「よだれかけ」
 ●秋葉山表参道の山道に立つ、穴の開いた柄杓を供える「子安地蔵尊」…
 【関連記事】春野の伝説「秋葉の山うば」
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2009年4月25日 (土)

ホウジ峠・榜示峠・北條峠

Hoyujitouge  平安時代末期から鎌倉時代(荘園時代)に旧勢力(天皇方・荘園領主)と新勢力(武家方・地頭)が下地(土地)争いをしたとき、その下地を折半(下地中分)するという形で紛争を解決した際、この峠に「杙(くい)」を立てたことから、「榜示峠」という。

 地名では、天皇方を「領家」とか「奥領家」といい、武家方を「地頭方」という。因みに、この地の字名は「奥領家」である。

 北條・鎌倉時代に北條家ゆかりの者がこの地を通って信濃に逃れたという伝承があったことから、その末裔がこの地を訪れたとき、「榜示」を「北條」に当て字して「北條峠」と呼んだといわれている。なお、明治時代には、四囲と峻険の別天地のため、赴任した官吏がこの峠に立って驚愕し、辞職を申し出たことから「辞職峠」とも伝えられている。

 榜示/杙(くい)または石などによって、領地、領田の境界の標示としたもの。かたわら、近くのところ。(広辞苑)

 佐久間の地名「ホウジ峠」については、いつからか「北條」もしくは「北条」の文字を当てるようになっていました。佐久間観光協会城西支部によって「民俗文化伝承館」の前に建てられた高札には、こんな説明書きが記されていました。

 以前、私も推察したように、これが、真実だと思います。地元には、どうもモヤッとしていた人たちがいたと思いますが、これでスッキリしましたね。「ホウジ峠」は「榜示峠」です。

2009年4月24日 (金)

「裏鹿(うらが)」の名が残る橋

Uragabashi 佐久間の「浦川」は、現在では「うらかわ」と呼ぶのが正しいようですが、地元の人たちは未だに「うらが」と発音しています。応永6年(1399)の室町幕府管領奉書には、「遠江国西手山香内裏鹿村」と表記されているように、昔は「裏鹿」と書いて「うらか・うらが」と読んだと書いたことがありました。その後、「裏鹿→浦河→浦川」の変遷を経て、読み方も「うらが→うらがわ→うらかわ」と変って来ているようです。かつては、「円光寺」裏の「城(じょう)」と呼ばれる小高い山に「裏鹿城(うらがじょう)」があったとも伝えられていますが、「裏鹿」の表記は、もはやどこにも残っていないのでしょうか?

 いえ、ありました。矢高濤一翁が陣頭指揮で完成させた「相川掘割」に架けられた橋の名が「裏鹿橋(うらがばし)」。平成9年(1997)に竣工した全長38.5メートルのコンクリート橋には、「裏鹿橋」のプレートが埋め込まれてていました。

 「か」も「が」も、元は場所を表す言葉。地域によって「山香(やまか)」のように「香」となり、「掛川」や春野の「砂川(いさがわ)」や「金川(きんがわ)」のように「川」になります。漢字の表記がこれほど違っているということは、わが国で漢字が使われるようになる以前からの古い地名である可能性があります。

 もしかしたら、「裏」や「鹿」の文字にも、地元の人たちだけが知っている歴史的な意味があったのかも知れません。それが、現在の「浦川」に変ったのだって、その時代なりの理由があってのことでしょう。

 現在「なかべ」と呼ばれるようになっている「中部」に架かる吊り橋が、「なかっぺはし」とされていることは、以前紹介させていただきました。初めて眺める「裏鹿橋」の文字からも、地元の歴史を後世に残したいとの気持ちを汲み取ることができたような気がしました。

 ●かつては、まゆ市場、木材の取引きなどで栄えた浦川の町には…
 ●江戸時代の「浦川村」に関する記述を見つけました。それによると…
 【関連記事】「裏鹿(うらが)」→「浦川(うらかわ)」
 【関連記事】絵葉書で振り返る北遠⑧―「北遠浦川風景」
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昭和7年「時局匡救事業」に学ぶ

Kousatsu  昭和7年時局匡救事業について

 昭和のはじめは世界的な大不況で我国も大変な不景気な経済状態でした。

 当里原住民も、まゆ、茶など農産物物価額低落により生活は苦しく外に現金収入の途もなくて毎日暗い生活が続きました。

 子供達も親の苦労を見て出来る限り手助けをしてこの不況を乗切ることに懸命でした。政府も農村の経済復興自力更生等いろいろな施策を行いましたが、一朝一夕には改善されませんでした。

Kyukyujigyojpg  その時の救済事業がこのコンクリート製の台に書かれている昭和七年時局匡救事業で里原用水路の改修と幹線道路の拡張によって住民に現金収入のみちをはかりました。今日の繁栄も苦しみに耐えて努力された先人達のご苦労があればこそと思いをあらたにしたいものです。

 これは、春野町里原(さとばら)の「天神神社」横に立つ高札の内容(*写真をクリックすると拡大されて文字が読めるようになります)です。昭和4年(1929)政界大恐慌が勃発し、日本では相次ぐ不況のために疲弊していた農山村を救済する目的で、昭和7年から9年までの3ヵ年、農業土木事業を主とする「時局匡救事業」が帝国議会で打ち出されました。

 100年に1度の経済危機と言われる現代の対策は「定額給付金」。どちらが良い政策かは一概には言えないかも知れませんが、以後の波及効果としては、「時局匡救事業」の方が優れていたような感じもします。

 窮迫している農山村地域では、土地代を必要とせず、しかも労務費の割合が大きいところから、道路工事、防砂工事なども各地で行われました。この財政支出拡大策については、ファシズム 軍国主義化への手助けになったとする評価もありますが…。

 昭和7年(1932)、上海戦線にて陸軍一等兵3名が爆弾筒を抱え相手陣地に突入し爆死した、かの「爆弾三勇士」事件が起きたのは、この年のことです。

 【関連記事】里原―「天神」さまの白梅
 【関連記事】文字が刻まれた石―里原用水路に関わる話

2009年4月23日 (木)

天竜川の輸送を担った帆掛舟

Hokake2  かつて「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されていました。そのため、精錬の煙が草木を枯らすなどの鉱害問題が深刻化し、足尾銅山の古河市兵衛が買い取ってからは、鉱石を西鹿島まで運び、そこから鉄道輸送によって足尾に運び、足尾で精錬することにしたのです。

 その時、鉱石を満載して西鹿島まで天竜川を下ったのが「鉱石船」と呼ばれる帆掛船。その数250艘、船頭600人、1艘で約4トンの鉱石が積まれたとのこと。さぞや壮観な眺めだったことでしょう。

Kune2  流れに乗って下るのは良いのですが、鹿島から久根へと川を遡るのが大変。春からは南風を帆に受けましたので、約5時間。冬ともなると、北からの逆風となり、「センドウヅナ」で引き上げて13時間を要し、聞いた話では、川への転落事故も多かったそうです。

 昭和9年(1934)、三信鉄道が開通してからは、久根から「中部天竜」駅ま空中索道で1日100トンの鉱石を運び、このため「鉱石船」は廃止。「川に生きた」船頭たちは、鉱山従業員になったり、岐阜などの出身地に帰って行きました。

 帆掛船に見る「栄枯盛衰」。さらに言うなら、昭和45年(1970)久根鉱山の閉鎖は、一企業のこととは言え、地域の存亡までをも左右する大きな出来事でした。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●「道がクネクネと曲がりくねっているから、『久根』?」…
 ●明治初年まで「片和瀬鉱山」と呼ばれた「久根鉱山」の始まりは…
 ●国道473号から天竜川方面を見晴らすと、「久根鉱山」選鉱所跡が…
 ●佐久間の「大鏡山明光寺」境内で、「じん肺物故者慰霊碑」を見つけました…
 ●「久根鉱山」での、鉱石採掘は昭和45年(1970)まで続き…
 ●佐久間町西渡で「久根鉱山」の沿革に関する資料と「鉱業所の全景」の写しを…
 【関連記事】「久根鉱山」の「名合支山」とは?
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 ●久根の鉱石を満載して天竜川を下ったのは「鉱石船」と呼ばれる帆掛船…
 【関連記事】帆掛け舟の連なる壮観―「鉱石船」

「壁掛けポスト」4ヶ所目は長蔵寺で…

Post 「郵便差出箱2号」と呼ばれる、壁掛けポスト。マニアの間では、絶滅危惧種とまで言われているこの壁掛けポストですが、きっと、春野にはあるに違いないと信じて…。

 …と書いて、約2ヶ月後、春野町熊切地区の長蔵寺(ちょうぞうじ)で見つけました。

 このタイプが登場したのは、昭和26年(1951)。すでに3ヶ所で見つけた壁掛けポストの写真を紹介していましたので、この長蔵寺のものが4ヶ所目。この分だと、まだ見つかるかも知れません。収集時刻は、8時30分と15時30分。もちろん「ころ」と付いています。

2009年4月22日 (水)

「庚申待ち」の名目で徹夜の飲み会

Koushin2  十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん=かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が睡眠中に体から抜け出して、帝釈天に人の罪行を報告して命が奪われるという信仰があります。

 「それは、たまらん。だったら眠らなければ良いだろう」と、寝ずに夜を明かすのが「庚申待ち」。そんな信仰の主尊とされたのが「青面金剛(しょうめんこんごう)」です。

Koushin  「青面金剛」の一般的な造形は一面三眼六臂とされ、6本の手で法輪・剣・弓矢などを持ちます。写真の「庚申塔」に彫られた「青面金剛」は、比較的よく似た造形。ともに春野で見つけたものですが、2体とも童子も姿をしています。

 「庚申信仰」が庶民の間に広まったのは室町時代と言われていますが、江戸時代になると「申(さる)」との関連から「青面金剛」と一緒に「三猿」が彫られることが多くなり、「三猿」だけを彫ったものも造られました。

 以前にも書いたように、大仰に「庚申信仰」と言っても、所詮は徹夜の飲み会。娯楽の少ない時代には、「庚申待ち」の名目で60日に1度、飲み明かしていたようです。

 ●「庚申(こうしん)塔」と呼ばれる石塔が見られます。ここに彫られている像は…
 ●「庚申(かのえさる)」は、十干十二支に基づき60日ごとに…
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 ●水窪の竜戸(りゅうと)集落の祠の中、他の石仏たちと並び、庚申の本尊「青面金剛」石像が2基祀られていました…

2009年4月21日 (火)

緞帳の原画は佐久間出身の画家・竹内雅明氏作

Doncho  大観先生、魁夷先生の偉大な画業の延長線上に故郷の澄み渡る空気、山並みの霧雲の流動感を受け、「佐久間歴史と民話の郷会館」の緞帳(どんちょう)「青山」は完成された。

Masaaki  これは、佐久間町中部出身の日本画家・竹内雅明氏が、「歴史と民話の郷会館」大ホールの緞帳について書いたものです。

 竹内氏のお母さんとは旧「中部小学校」で、偶然出会いました。その後も何度か顔を会わせる機会があり、お母さんは私とのことを「不思議な出会い」と呼んでいます。2月22日に開かれた中部日本放送(株)会長・夏目和良氏による「まちづくり講演会」に時には、私のために「美味しいお茶を入れて来たから…」とポットに詰めて持って来てくれました。私が「行く」と、どうして分かったのでしょう?不思議?「来るような気がした」とのこと。不思議?不思議?不思議な出会いです。

 緞帳の写真は、その日に撮ったものです。竹内雅明氏は今、私の故郷、北区細江町に住んでいます。これも、また不思議?

 ●佐久間町出身の日本画家・竹内雅明の日本画展が…
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「プロペラ船」を見守った西渡の「馬頭観音」

Batou  写真は、実に素朴な彫りの「馬頭観音」。佐久間町山香地区、川の港として栄えた西渡(にしど)大井橋のたもとに立っています。両手で「大の字」か「人形(ひとがた)」と見えるものを支えていますが、その理由は分かりません。ただ、「馬頭観音」の文字が刻まれていますので、頭上にあるのは「馬の頭」だと分かります。

 向かって左には建立年月が刻まれていました。「大正十一年三月」と…。

Peroperasen  この大正11年(1922)、瀞八丁(とろはっちょう)から船頭を呼んで西渡~鹿島間を「プロペラ船」の航行が始まりました。木造船に飛行機エンジン、直径2メートルのプロペラが爆音を上げて飛ぶように水上を航行していました。上り3時間30分、下り2時間、普通の船の半分の時間。この「プロペラ船」は、航路を今の佐久間町中部から西渡までに途中変更し、昭和15年(1940)まで運行されていました。

 もちろん、天竜川には船の遡上を妨げるダムなどなかった時代です。帆掛け舟に代わり人々を運んだ最先端の「プロペラ船」も、開業時に転覆事故を起こして死者12名が出たり、西渡の大火の影響もあり廃業。

 西渡の「馬頭観音」は、果たして当時の「プロペラ船」の力強い音や、その盛衰を覚えているのでしょうか?

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2009年4月20日 (月)

「導水トンネル」って?J-POWERに聞きました。

Syusuikou  「佐久間ダム」は発電施設ではありません。ダムで堰き止めた水は、導水トンネルを通り発電所に送られます。そこで、発電用のタービンを回して電気を作っているのです。導水トンネルへの入口となっているのが、レトロな外観が人気の取水口。この取水口から取り入れられた水は、導水トンネルを通って「佐久間発電所」に送られています。

 実は、先日ふと出会った人から質問されたことがありました。その問いは「導水トンネルって、どうやって造ったの?導水パイプを通すだけか?トンネル掘削機で掘ったのか?それとも…?」。地図を広げれば、「佐久間ダム」から「佐久間発電所」だけでなく、「佐久間第二発電所」の落差を稼ぐため戸口の放水口の長いトンネルが破線で描かれています。はてさて、どうなっているのでしょう?

Syusuikou  「佐久間ダム」を管理している「電源開発株式会社(J-POWER)」に電話を入れて訊ねてみることにしました。すると…。

 「佐久間ダム工事の時代、日本ではトンネル掘削機はまだ使われていなかったのです。じゃあ、どうしたのかと言うと、発破ですね。ダイナマイト発破を繰り返し、掘って行くしかなかったのです」との返事。「ダム工事と言えば、もちろんあの巨大な堤体の建築も難工事でしたが、崩落の危険が高い中央構造線近くに造った直径10メートルの導水トンネル工事も大変だったのです。掘ってはコンクリートで壁を固める繰り返し。形は、鉄道用などでよく見られる馬蹄型です」。

 驚きました。他の発電施設で見かけるような導水パイプを、徐々に送り込みながら掘り進むのだろうと考えていました。そうではなかったのですね?質問に丁寧に答えてくれた「電源開発」さん、ありがとうございました。おかげさまで、昔流行った「地下鉄漫才」の「地下鉄の電車はどこから入れたの?」ではありませんが、「それを考えたら夜も寝られない」状態から抜けられました。

 疑問に思ったら、何でも聞いてみるものですね。

 重力式コンクリートダム「佐久間ダム」は…
 遠州灘海岸の浸食対策とダムの氾らんを防ぐため…
 ●大雨でダム湖の水位が上がった浜松市天竜区佐久間町の佐久間ダムが…
 ●先日、全5門からの放水の記事と写真を紹介…
 ●「佐久間ダム」の大放水―2008年6月21日となっていますので…
 ●長野県の諏訪湖から遠州灘に注ぐ天竜川水系で今後約30年間…
 ●「佐久間ダム」は、昭和28年に着工。アメリカの重機や…
 ●毎年、10月の最終日曜日に開かれる「佐久間ダムまつり」…
 ●佐久間ダムの下にあるのだから、きっと発電所だろう…
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2009年4月19日 (日)

安産を願い、底を抜いた柄杓を供える

Hisyaku2  秋葉山表参道の山道に立つ、穴の開いた柄杓を供える「子安地蔵尊」を紹介したことがありました。同様な安産を願う信仰は、全国各地に残っているようです。

 私たちの春野町と同じ地名を名乗る高知県の春野町には、四国霊場34番札所「本尾山種間寺」の境内にある観音堂のまわりには、やはり安産祈願の底を抜いた柄杓が奉納されているそうです。

 また、「諏訪大社下社秋宮社殿」の左脇に柄杓が奉納され、「子安社(こやすしゃ)=お子安さまの呼び名で親しまれている縁結び・安産・子育ての神様で、底を抜いた柄杓は、水が支えず軽く抜けるが如くに楽なお産ができるようにとの願いから…」との解説板が立っているそうです。

 つまり、柄杓の底を抜くことと、胎児が滞ることなく産み落とされ、胞衣が下りて来る様子とを重ね合わせたものだと思われます。この他、「箪笥の引き出しを少しずつ全部開くと出産する」とか、「ふた物のふたを取り除くと出産する」などの言い伝えもあります。穴の開いた柄杓ではなく、「薄板を丸く輪にしたもの」を奉納するところもあるようです。

 私たち「天竜川・杣人の会」会員・今村純子さんが「遠州の常民文化 第2号」(遠州常民文化談話会編)に発表した「天竜川流域お産の習俗」の一節に…

 1988(昭和61年)私共が手がけた「女性農業者農作業実態調査」の中でも「農作業は休みましたか」
   産前 休まない人 50.3%
   産後 2週間 12.7% 1ケ月 48.1%
 という結果が出ている。

 これが、山里の農家のお産の実態でした。「出産はすべて女性の責任」「お産は棺に片足」と言われることもあった時代は、そんなに昔のことではありません。過酷なお産の実態が、穴の開いた柄杓を供える「子安地蔵尊」信仰を生んだのは間違いありません。

 ●柳田国男の民俗学を政治思想史的にとらえる常民大学運動の合同研究会が…
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2009年4月18日 (土)

お地蔵さまの「よだれかけ」

Jizou  仏教では釈迦の死後、56億7千万年後に、人々を救済する弥勒菩薩という仏が現れると言われています。お地蔵さまは、その弥勒菩薩が出現するまでの仏の無い世にあって、人間界を含む「六道」に赴いて衆生の救済に当るとされています。

 その「六道」とは…

・地獄道=死後、一番罪の重い者が行く世界
・餓鬼道=欲に溺れた者の、飢え満たされぬ世界
・畜生道=人間以外の生物の、弱肉強食の世界
・修羅道=人を許せぬ者の、永遠の戦いの世界
・人道=私達の住む唯一六道を断ち切れる世界
・天道=善き者が行く、不安救う極楽の世界

 「六道」に苦しむ衆生を救うのですから、6体のお地蔵さまが必要と考えたのが「六地蔵」です。そのほとんどは江戸時代に建てられたもので、大衆には親しみやすく人気があったようです。

 お地蔵さまといえば、赤い「よだれかけ」が頭に浮かぶびます。

Mizukojizou  親より先に死んだ子、中絶や流産した赤ん坊の救済を託したのが「水子地蔵」。お地蔵さまの姿は、そのまま赤ん坊に重なります。母親は、「三途の川」で石を積み、鬼にいじめられている我が子を哀れみ、極楽浄土に導いてほしいとお地蔵さまにお願いすることにしました。亡き子の匂いの残る「よだれかけ」をお地蔵さまに託したのが、お地蔵さまの「よだれかけ」の起源だそうです。

 女性が子を産み育てる日々の中で不安を解消してくれる、各地の「子安地蔵」や「子安観音」を頼ってお参りし、お地蔵さんに赤い帽子やよだれ掛けをし、臨月になるとお燈明をあげて安産を願う。そうして自然の目に見えない力を頼って女の大仕事を成せるための日々の努力は、いつの世もだれもが何かのカタチで願わずにはいられない事である。*「天竜川流域のお産習俗」(「遠州の常民文化 第2号)より一部引用

 「天竜川・杣人の会」会員・今村純子さんの論文の一節です。

 何気なしにながめていた、お地蔵さまの「よだれかけ」。時代は変わっても、お産や子育ては大変な仕事です。「赤」は太陽の色であり、生命の起源も表わしているとのことであり、この世に生れて来れなかった水子の再生も願った色だそうです。

 ●柳田国男の民俗学を政治思想史的にとらえる常民大学運動の合同研究会が…
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王子製紙中部工場の写真が届きました。

 佐久間町羽ヶ庄(はがしょう)出身で千葉県にお住まいの夏目さんから、「王子製紙」中部工場の操業時の写真が届きました。いずれも、「紙の博物館」(東京都北区王子)の資料をコピーさせていただいたものとのことです。

 画像はさらにスキャナーで取り込みましたので、かなり荒れていますが、それでも当時の様子を窺い知るには十分です。

 中部工場の操業開始は明治32年(1899)、閉鎖は大正13年(1924)。わずか25年間の栄華でしたが、「下界は蜂の巣をつついたようだったらしい」とは夏目さんのコメントです。工場跡地は、佐久間ダム工事の作業員飯場や資材置き場となりました。

Ouji1

中部工場創業当時の内部
右端に立つのは女性従業員

明治37年当時の従業員たち Ouji2
Ouji3 煙をたなびかせて稼動する工場
工場全景
(当時の天竜川の川幅の広さに驚かされる)
Ouji4
Ouji5 製紙工場全盛期(明治37年頃)
跡形もなく地ならしされた工場跡地
(昭和27年頃)
Ouji6

 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は明治8年…
 【関連記事】遠州街並み遺産 Vol.39は春野町「旧王子製紙製品倉庫」
 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は…
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 【関連記事】「王子製紙株式會社氣田分社機械部 紀念撮影」

2009年4月17日 (金)

「相月諏訪神社」の「蛇道」はこっち?

Jamichi  佐久間の民話『相月諏訪神社の不思議』の中で、大蛇が「相月諏訪神社」の「お池」と諏訪湖とを行ったり来たりする通り道「蛇道」を探した話をさせていただきました。そして、その中で、茶畑脇のコンクリートで固められた箇所を「蛇道」と推測しました。

 ところが、地元の別の人に再度確認してみたところ…

 「いやあ、蛇道はあれじゃあないぞ。ちょっと付いて来てみ」と案内してくれました。「あそこに、土管が見えてるら?あれを一遍塞いでしまったんだけど、何だか悪いことが起きるとか、起こるとかで穴を開けたんだよ」「え~?あれですか?あれじゃあ、大蛇は通れないでしょう?」。

 水路の壁から突き出た土管。こんなところを大蛇が通れるはずがありません。少し上に生活排水用の土管がありましたが、ほとんど同じ太さです。これでは、子どもが落ちるなどという事故が起きるはずもありませんし、何と言ってもイメージが…。

 しかし、「蛇道」は前回紹介させていただいた箇所ではなく、こちらが正解のようです。多少のイメージの違いはさて置いて、「蛇道」が元通り通れるようになったことを、先ずは喜ぶことにしましょう。

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…
 【関連記事】かつては身近にいたはずの「神様」について考える
 【関連記事】「相月諏訪神社」の「蛇道」を探す
 ●「相月諏訪神社」について、佐久間出身のMさんから、次のような…
 【関連記事】見つけました―大正15年の「相月諏訪神社」
 ●「相月(あいづき)」は、佐久間町城西地区の集落です…
 【関連記事】相月の「イセコサマ」とは…?
 【関連記事】水窪「次郎兵衛様」=相月「治郎兵衛霊神」
 【関連記事】相月には「庭天白」が祀られています。
 【関連記事】地芝居、5年ぶり復活へ 佐久間・諏訪神社

「山姥(やまんば)」は「山の神」?

Yamanba  全国各地に残された言い伝えによれば、「山姥(やまんば)」は、一度にたくさんの子を産むとされています。

 長野県の伝説によれば、猟に出た3人の「山の神」の兄弟が、お産に苦しむ「山姥」に出会います。下の2人は助けを求める「山姥」を無視しますが、長兄オホヤマツミノミコト(大山積神、大山津見神、大山祇神)はこれを助け、「山姥」は7万8千もの子を産み、そのお礼に猟運を授けたとされています。

 また徳島県では、一度男の肌に触れただけで8万近くの子を妊娠した「山の神」の伝説が残されています。宮崎県では、「山の女神」が1200人の子を産み、産後飢え苦しむ女神の助けを、大摩という猟師は断わり、小摩という猟師は聴いてやったため、小摩は一生猟に恵まれた、と言われています。

 「山の神」「山の女神」と聞けば、鋭くつり上がった眼と、耳まで裂けた口、長く伸びたぼさぼさの白髪姿の「山姥」のイメージとは、ずいぶんと違ってきますが、「山姥」とは、もともと「山の神」のことだとか、「山の神に仕える巫女」だとかの言い伝えもあるようです。

 …と、分かってくると、西渡(にしど)に建つ「山姥大神」の石碑は、実は「山の神」と読み替えることができるのかも知れません。ただし、「山姥」の異常なまでの多産と、難産―この言い伝えの背景には、人々のどんな考えが潜んでいるのでしょうか?

 ●今から千年ほど前のお話です。和泉から福沢へ行く途中の倉木山の山奥に「やまんば」が…
 ●『さくま昔ばなし』の中では、佐久間の民話「やまんば物語」の機織りについて…
 ●「今からおよそ一千年ほど前、やまんばはこの一心滝を中心に…
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「あっちだよ」と道を教える地蔵尊

Michishirube  とってもオシャレな道しるべを見つけました。春野町静修(旧・小奈良安)の意昌庵(もみじ寺)の境内です。

 石に彫られているのは、地蔵尊。左手には願いを叶えてくれる如意宝珠を持ち、右手で緩やかにカーブした錫杖(しゃくじょう)を握っています。そして、向かって左に刻まれた文字は、「左秋葉山道」。

 なぜか、錫杖の頭の形が、ハートを逆さにした形になっているのに気づきませんか?これって、「矢印」のように見えませんか?「錫杖の矢印が指す方向に進むと秋葉山道ですよ」と優しく言っているようです。偶然でしょうか?

 地蔵尊が錫杖を持っているのは、常に行脚しながら救済活動を行っているからだと言います。その錫杖で「あっちだよ」とさりげなく目指すべき方向を教えているなんて、オシャレだと思いませんか?

 おそらく、元々は、道の分岐に建てられていたものだと思います。

 *写真をクリックすると拡大され、文字や錫杖の矢印が良く見えます。

 【関連記事】ヤマザクラの古木が残る旧「静修分校」跡

Sumire_2

2009年4月16日 (木)

「飯田線」の鉄塔→「火の見櫓」

Shimottaira_2 春野の半鐘台には「森林鉄道」で使われなくなったレールを再利用したものが、数多く見つかりました。佐久間では、どうでしょう?

Hagasyou 後日、お伝えする予定ですが、浦川の「上市場」と「川合」で、レールで造られた半鐘台と出会ってはいます。ただし、そのレールがどこで使われていたものかは特定できません。その代わり、飯田線の電線用鉄塔を流用したらしい「火の見櫓(やぐら)」を見つけました。

 左の写真は「下平(しもったいら)」、右のそれは「羽ヶ庄(はがしょう」の「二本杉峠」に立つものです。ともに最上部に半鐘が吊るされ、番人が立つ台も造られたフル装備。ある資料によると、この「火の見櫓」が、元は飯田線の鉄塔として線路脇に立っていたらしいのです。

 集落の高台に立ち、人々の安全を見守る「火の見櫓」は、地域のシンボルです。佐久間の人たちにとって「飯田線」もシンボルなら、不要となった鉄塔を再利用する気持ちは、十分に理解できます。

 詳しい経緯は分かりませんが、先ずは報告しておきます。

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 ●「気田森林鉄道」は廃止されたのは、昭和34年(1959)…
 ●この日の目的は、春野に残された森林鉄道のレールで造られた半鐘台探し…
 ●昭和34年(1959)まで、春野の山里を走っていた「森林鉄道」…
 ●春野町領家和田之谷の半鐘台は2脚…
 【関連記事】「金川稲荷大神」の半鐘台もレールの再利用
 ●すでに、11基を紹介した「森林鉄道」のレールを再利用した春野の「半鐘台」…
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 【関連記事】赤錆びたレールの山―佐久間町相月
 【関連記事】元は「森林鉄道」のレールです。
 【関連記事】「仙郷橋」に集合した5台の機関車―「気田森林鉄道」
 【関連記事】これが「気田森林鉄道」を走った機関車です。
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 ●森林鉄道の写真は、春野町気田の「大原屋商店」の鈴木さんからお借りした…
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 【関連記事】自信と誇り―気田営林署「熊切森林鉄道」
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 【関連記事】これが「森林鉄道」のジオラマです。
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 【関連記事】廃校跡に残る「森林鉄道」の廃レール
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 ●昭和42年(1967)に廃止された「水窪森林鉄道」の廃レールは、ここ水窪でも半鐘台となって再利用…
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早川家に残された原田久吉翁揮毫の扁額

Niraku2  「羽ヶ庄(はがしょう)」の早川家に残る扁額の画像を送っていただきました。「省事延年(事を省いて年を延ばす)」と書かれているようです。で、書いたのは「九十一翁 二楽」―つまり、あの原田久吉翁のことです。

 「省事延年」とは、おそらく「生きていく上で必要最小限のこと以外はやらずに、長生きしています」と、実にへりくだった言い方だろうと思います。新道を築き、小学校を建て、神社や寺を再建し、橋を架けてきた原田久吉翁が、「必要最小限」しかして来なかったなどとは、謙遜以外の何ものでもありません。

 偶然ですが、早川家から出た方が、私の自宅のすぐそばに住んでいました。Kさんとおっしゃるその人の回想によれば、実家にはこの扁額の他、白髭をたくわえた原田翁の写真もあったとのこと。「原田翁は、早川家の親戚に当る」と聞いて育ったそうです。

 もしも、原田翁の先祖が「羽ヶ庄」の出だったとすれば、「中部(なかべ)」出身の原田翁が「二本杉新道」造成にお金を寄付した理由が分かってきます。「二本杉新道」の開通式の日、早川家の先祖が先導を務めたと言われる理由も分かってきます。

 「九十一」となると、まさに「二本杉新道」開通の年。郷土の英雄、原田久吉翁は、輿に乗って二本杉峠にやって来たそうです。

 【関連記事】これが、あの原田翁揮毫の扁額です。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
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 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
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2009年4月15日 (水)

台座に彫られた「九」の文字―「不空羂索観音」

Fukukensaku  「瑞雲院」の山門外に並ぶ観音石像。「西国三十三所巡礼」と読める供養塔が建っていましたので、観音さまだとは分かるのですが、さまざまに姿を変えて現れる観音さまの中で、一体あなたは誰でしょう?

 そのヒントは、台座に彫られた「九」の文字。「西国三十三所」の第九番札所は、奈良市の興福寺「南円堂」。ご本尊は「不空羂索(ふくうけんさく)観音」です。

 「不空羂索観音」は、多面多臂の変化(へんげ)観音。この石造は多面八臂のようです。「羂索(けんさく)」「錫杖(しゃくじょう)」「払子ほっす)」「蓮華(れんげ)」などを持つとの説明通りの持物を持っています。右の上の手が持っているのが「錫杖」、真中の手が持つのが獣の毛などを束ねて柄をつけた大きな筆のような形の「払子」。左手の上が「蓮華」、真中の手が持つのが鳥獣魚を捕らえる縄「羂索」。まさに、まさに「不空羂索観音」です。

 もう少し詳しく調べると、「羂」は網、「索」は魚の釣り糸のこと。網を張って鳥をとらえ、糸を垂れて魚を釣るように、人々を救うのだそうです。この観音を拝むと病や水火の難を逃れるなど20種の利益(りやく)があるとか。

 「四国八十八所」に比べれば、近いのですが、それでも、「西国霊場」を完歩すれば、その一番(和歌山県「那智山寺」)から三十三番(岐阜県「谷汲山」)まで、札所を巡る巡礼道だけで約1000㌔。さらに往復の距離がプラスされる気の遠くなるような長旅です。苦労覚悟で出かける「巡礼行」は、どうやら物見遊山だけではなさそうです。

 今後の人生の中で、私が巡礼に出かける機会はないかも知れませんが、せめていつかは巡りたいと願い、両手を合わせることにしました。合掌!

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2009年4月14日 (火)

神仏混淆の名残り―「随身門」前に立つ常夜燈

Eitai  写真は、「秋葉神社」の「随身門」前に立つ数基の常夜燈の一つです。

 竿の正面には「永代常夜燈」の文字が彫られています。建立は「寶暦九己卯十一月」となっていますので西暦1759年のこと。参州寶飯郡前芝村の山内善左衛門が願主となっていました。

 まあ、そこまでは普通なのですが…。

 この常夜燈、火袋下の中台の飾りが変っているとは思いませんか?これって、どうみても神社には似つかわしくない蓮華座です。

Eitai2  常夜燈を細かくチェックしていきますと、最上段にはお約束の宝珠が乗り、笠にも細かい模様が彫られています。丸みを帯びた火袋には「月日星」の窓が開き、その下が問題の中台です。蓮の花を模った如来や菩薩の台座としておなじみのデザインです。となると、これは、まさしくお寺の常夜燈。

 現在は「秋葉山本宮秋葉神社」として知られていますが、神仏分離令前には神仏混交(混淆)の修験の山。「随身門」として残る神門も、神仏混淆の時代には「秋葉寺」の「仁王門」だったとのこと。そんな時代の名残りを、「随身門」前の常夜燈で見つけました。

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佐久間・浦川で出会ったホーロー看板

Miyakozome  実は、佐久間でも、ホーロー看板を探していたのですが、なかなか見つかりませんでした。出会いは、ちょっとした偶然。浦川の路地に黄色い看板を発見!「少し前までは、もう少しあったんだけど、外しちゃったみたいね」と、お向かいの奥さんが話してくれました。残念!

 「家庭染料 みや古(こ)染 特約店」―「みやこ染」は、大正からある布用染料。会社名は「桂屋ファイングッズ株式会社」です。つまり、色落ちした服を家庭で染め直した時代。少し前までは、上の子のお下がりを下の子が着るのは当たり前でした。母親が染め直してくれた時に使われた染料は「みやこ染」だったのかも知れません。

Oronain1 もう一つは、「美肌・外傷・皮フ病に オロナイン軟膏 特約店」。もちろん「大塚製薬株式会社」の殺菌用消毒剤の軟膏の広告です。その昔は「琴姫七変化」の「松山容子」、「浪花千栄子」「香山美子」などが次々とCMに使われました。同じ会社の「オロナミンC」は「頓馬天狗」の大村昆のCMが大ヒット。「小さな巨人です!」のフレーズが長く続いていましたね。思い出しましたか?

 探してみれば、まだ見つかるのかも知れません。私は決してマニアではありませんが、見つけた時の嬉しさは良く分かります。「レトロ」「ノスタルジー」―いいですね~。

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2009年4月13日 (月)

「相月諏訪神社」の「蛇道」を探す

Jaana  佐久間の民話『相月諏訪神社の不思議』を覚えていますか?その中で、大蛇が諏訪神社の「お池」と諏訪湖とを行ったり来たりする「蛇道」について、次のように語られていました。

 諏訪神社の裏は、淵になっているところから、蛇淵と言われ、大蛇が住んでいると言われていました。蛇淵からは、蛇道と言われる穴が信州諏訪湖まで続いていると言われていました。

 ある時、この近くで工事をしていた人が、コンクリートで、蛇道とは知らず、その穴をふさいでしまいました。すると、数日後、工事をしていた人が、わけのわからない病気にかかってしまいました。病院でみてもらいましたが、いっこうになおりません。ねぎ様におがんでもらいましたら、「蛇道をふさいだたたり」ということでした。さっそく、蛇道を元の通りに開けると、病気はすぐになおったと言うことです。

Daija  先日、「諏訪神社」を訪れた時、「蛇道」の跡を探してみたのですが、残念ながら確認できませんでした。そこで地元の渥美さんに、地元の古老からの聞き取りをお願いして再訪しました。「分かった。分かったよ。一度、舗装で塞いでしまたんだけど、悪いことが起きたんで、今はコンクリートで囲んであるんだって…」とのこと。神社脇の護岸された流れに沿った道路を歩いてみました。

 ちょうど神社の対岸辺りの茶畑の横に、写真のようなコンクリートで囲まれた箇所を見つけました。きっと、ここだ!道路が舗装される前には、穴が開いていて、その穴に落ちた子どももいたそうです。「諏訪神社」の大蛇は、この「蛇道」を通り長野県の諏訪湖にまで行ったり来たりしていたのでしょう。

 ところで、「神社脇の大岩が大蛇の頭に似ている」と話すお子さんのことがコメントで寄せられました。下の写真がそれです。どうですか?とても大きな岩なのですが、右向きの蛇の顔に、確かに似ていると思いませんか?形が似ているだけでなく、裂けた口まで大蛇を彷彿とさせます。その昔、ここ「諏訪神社」に住んでいた大蛇も、こんな大きさだったのでしょうか?

 「相月諏訪神社」の「例大祭」は7月26日に行われます。

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
 ●「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに…
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2009年4月11日 (土)

かつては身近にいたはずの「神様」について考える

Yamanokami  佐久間町相月(あいづき)で出会った渥美さん。「相月で生まれて、相月で育った」と言います。「昔は、私たちのすぐそばに神様がいたはず。それなのに、今では神様の前を通っても挨拶さえしない。どうして、こんなふうになってしまったんでしょう?」。

 「一昔前までは、山神様だって祀っていたのに…」と、話してくれたのは「相月諏訪神社」の石段の下。実は、この諏訪神社の境内社には「山之神社」が祀られ、「山の講」が行われたと思われる御幣も残っていました。

 御幣が立つのは、「奉齋大山之神」と彫られた石碑の横。石碑には注連縄が張られ、赤錆びた両刃の剣(つるぎ)が2本供えられています。この石碑の後ろは「ミヤサマ」と呼ばれる丘状地。7月の例祭では、「御射山祭」と呼ばれる諏訪大社と同じ祭事が執り行われているそうです。

 「神社で遊んでいる子どもたちを叱ってはいけないんだって。それは、神様が子どもたちを遊ばせているから…」「相月では、『山の講』が行われているようですね?」「相月ではね。でも、ほとんどしなくなっちゃいましたよね?林業の不振で『山の講』が行われなくなったんじゃあなくて、身近にいたはずの神様から、私たちが遠ざかってしまったからだと思うけど…」。

 あなたは、渥美さんの言っていることを、どう考えますか?「山の神」は山の精霊であると同時に、「山の民」にとっては先祖霊。「特定の信仰を持つべき」と言うのではありません。ついこの間まで「身近にいたはずの神様」から遠ざかってしまったのは、誤った近代化だったような気がしますが…。

 *「奉齋(ほうさい)」とは、神様を「謹んでお祀りする」という意味です。

 ●相月には諏訪神社という…
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懐かしい「キンチョール」のホーロー看板

Kincho  さあ、さあ、昭和ノスタルジー!―懐かしい「キンチョール」のホーロー看板です。春野町の杉川を遡った辺りで見つけました。

 「金鳥=KINCHO」の看板は、青い「蚊取り線香」のものと、白い「キンチョール」の物が有名。子どもの頃には、しょっちゅう見ていた気もしますが、いざ探してみようとすると、近頃ではなかなかお目にかかれません。

 「ヨクキク」の下に鶏のマーク。その中に「○に上山」とあるのは、創業者の名前だとか。「家庭用殺虫剤 キンチョール」の商品名の下で逆さになっているのは、今では見ることも少なくなったハエです。そう考えてみると、時代が分かりますね?近頃、ハエを見ましたか?

 ちなみに、「金鳥」とは商品名で、社名は未だに「大日本除虫菊株式会社」。看板だけでなくて、社名までもレトロです。

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気になる黄色い花「ヤマブキ」

Yamabuki  この時期、山道を走っていて気になる黄色の花。「タンポポ」「ヘビイチゴ」「キンポウゲ」「キツネノボタン」…と、いろいろありますが、この花にはかないません。バラ科ヤマブキ属の「山吹(ヤマブキ)」。学名「Kerria japonica」、英名「Japanese rose」と、正真正銘の「made in Japan」です。

 「ヤマブキ」の名前の由来は、花の色が「蕗」の鮮やかな黄色い花に似ているところから。「おぬしも相当悪よのう」の悪代官がニンマリ眺める大判小判は、この「山吹色」。

 「ヤマブキ」と聞けば思い出されるのは、「太田道灌(おおたどうかん)」。その話は、こんな内容ですが…

 太田道灌は鷹狩りにでかけて夕立に遭い、みすぼらしい家に駆け込みました。「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか」と声をかけると、年端もいかぬ少女が出て来て黙って差し出したのは、蓑ではなく「ヤマブキ」の花一輪。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない」と怒り、雨の中を帰って行ったのでした。

 その夜、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに『七重八重 花は咲けども山吹の(実) みのひとつだになきぞかなしき』という歌があります。娘は蓑一つなき貧しさをヤマブキに例えたのではないでしょうか?」と言いました。道灌は己の不明を恥じ、歌道に精進するようになったといいます。

 …ですが、山道で見かける「ヤマブキ」は、ほとんどが一重。八重の「ヤマブキ」には実が付きませんが、この一重の「ヤマブキ」には実が付くそうです。

2009年4月10日 (金)

「桜色のモクレン」の本名は「サラサモクレン」

Mokuren3  「モクレン」って、地球上最古の花木と言われていて、1億年以上前から、今の姿だったらしい…。へ~、そうだったんだ。

 知らないことを手軽に教えてくれるのが、ネットの便利さ。羽ヶ庄(はがしょう)に咲く、「桜色のモクレン」についても調べてみました。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「モクレン」によれば…

 モクレンとハクモクレンの雑種はサラサモクレン(更紗木蓮、Magnolia x soulangeana)と呼ばれ、やはり街路樹などに用いられる。樹高は6~10mと変化に富む。花の形はハクモクレンに似て丸い。花の色は両種の中間に相当するピンク色が基本だが、やはり白から紫までの変化に富む。開花時期はハクモクレン、サラサモクレン、モクレンの順である。

 どうやら、あの「モクレン」の本名は、「更紗木蓮」のようです。

 「更紗」とは、インド起源の木綿地の文様染め製品の総称ですが、この「桜色のモクレン」の名前に「更紗」が付いた理由は、はっきりとはしません。もしかしたら、白でもない紫でもない中間の美しさを「更紗」と表現したのかも知れません。ちなみに「サラサドウダンツツジ」も「サラサウツギ」も、同じように美しい桜色の花を付けます。

 羽ヶ庄で咲く、この「サラサモクレン」の見頃は、まさに今週末。今見逃すと、来年まで見られませんよ。

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供出で身ぐるみ剥がれた「五の鳥居」

5torii  火防の神「秋葉山」表参道の山道は、「三の鳥居」跡から始まっていました。やがて「四の鳥居」跡を経て、「秋葉寺」の先に「五の鳥居」跡が。説明書きの小さな高札によれば、いずれも「銅鳥居」であったと書かれています。

 …と言うことは、「秋葉神社」の「随身門」や「秋葉寺」の「仁王門」などを除き、ほぼすべてを消失してしまったと記録される、あの昭和18年の大火の際に類焼してしまったと言うのでしょうか?

 いやいや、違うようです。どうやら、戦時下の「供出」により、鳥居に巻かれた銅板だけが剥ぎ取られてしまったようです。

 「供出」と言われる「金属類回収令」では、マンホールの蓋、ベンチ、鉄柵、灰皿、火鉢等の鉄製品から、金銀杯、時計側鎖、煙管(きせる)、置物、指輪、ネクタイピン、バックルなど、金属という金属が根こそぎ回収されたのです。寺の梵鐘や半鐘に止まらず複線の線路は単線に変えられ、二宮金次郎像まで持って行かれました。

Hashira  「銅鳥居」だって例外ではありません。浜北区小松の「二の鳥居」は石製のため現在まで残っていますが、中区田町にあった「一の鳥居」はもちろん、「三の鳥居」「四の鳥居」「五の鳥居」の銅板はすべて、人を殺すための武器に再生されてしまいました。

 かつて鳥居の立っていたそれぞれの場所には鳥居を支えた基礎の跡が残り、寛政10年(1798)建立の「五の鳥居」跡の脇には、身ぐるみ剥がれた鳥居の柱と思われる2本の丸太が苔むして転がされています。

 私たちにとっては「当たり前」と見える神社の鳥居すら、「当たり前」に立ってはいられなかった時代が少し前にありました。あの鳥居たちを覆っていた金属板は、不幸にもどこで誰を殺傷してしまったのでしょうか?後戻りのできないのが時間の流れ―鳥居の丸太が語り掛ける言葉に耳を傾け、2度と、2度と、過ちを繰り返さないことを誓わなくてはなりません。

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2009年4月 9日 (木)

農業や山仕事を捨てて働く―「久根鉱山」

Kune3  鉱山で働くことによる弊害は、公害被害だけではありませんでした。『下平山諸事書留』には、次のように記されているそうです。

 「鉱山採鉱および製煉事業起り、人民各々本業たる農事を怠り、その事業に従事せり。しかるにこの事いつの頃か中止するに及びて、人民一時に生業の途を失い、大困難をきわめ、はじめて農業を怠りたることを悔いたるもすでに遅く、此の頃戸数五十六戸中、二十六戸は絶家となり、他所に移住せり…」

 「下平山」とは、「天竜区龍山町下平山」のことで、ここに書かれている「鉱山」とは峰之沢鉱山」のこと。人々は農業や山仕事を捨てて鉱山で働くようになりましたが、潮が引くように鉱山景気が去ってからは、二度と元の仕事には戻らず、集落を出て行ったと書かれているのです。

Kune2  明治33年(1899)に古河鉱業が経営に乗り出した「久根鉱山」の当時の人員は、抗夫と雑夫を合わせて22人。その後、増加の一途をたどり、大正5年(1916)には、抗夫3000人、職員200人を数えました。これが久根全盛の時代です。

 戦後は昭和35年(1960)の950人をピークにして人員は減少し、閉山された昭和40年(1965)にはわずか130名。そしてついに、二度と発破の音が山に響くことはありませんでした。

 今まだ、久根の山には廃坑跡がそのまま放置されています。先日、旧「山香小学校」に通っていたと話すお年寄りと出会いました。「私たちも佐久間を離れてしまったけど、もっと遠くに行ってしまった家族もたくさんいる。同窓会をすると言っても、何人も集まらないね」と、寂しそうに話してくれました。「『恨みの山』でも、故郷は故郷。懐かしいから、こうしてたまには来たくなる」。

 あの建物跡や施設跡を、放置したままで良いのでしょうか?しかるべき保存の方法を検討していただきたいと願っています。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●「道がクネクネと曲がりくねっているから、『久根』?」…
 ●明治初年まで「片和瀬鉱山」と呼ばれた「久根鉱山」の始まりは…
 ●国道473号から天竜川方面を見晴らすと、「久根鉱山」選鉱所跡が…
 ●佐久間の「大鏡山明光寺」境内で、「じん肺物故者慰霊碑」を見つけました…
 ●「久根鉱山」での、鉱石採掘は昭和45年(1970)まで続き…
 ●かつて「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されて…
 ●佐久間町西渡で「久根鉱山」の沿革に関する資料と「鉱業所の全景」の写しを…
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2009年4月 8日 (水)

「潅仏会」には「とじくり」を供える

Tojikuri  4月8日(本来は旧暦)はお釈迦様の誕生を祝って「灌仏会(かんぶつえ=花まつり)」という行事があります。

 お寺では花で飾った小さな「花御堂」をつくり、その中に甘茶をたたえ、水盤の上に、お釈迦様を安置して、「天にも地にも俺ひとり」と、歌いながら、米粉によもぎ、くちなし、紅で色つけして花びらのようにまとめた草だんごをふるまいます。

 また「とじくり豆」といって、昔は残飯を乾燥させて糖蜜で固めたものを「花供」と言って、仏様に供えたり、子どもに与えました。

 水窪では、今でも、炒り大豆に米粉や、そば粉、さとう、塩等入れて、お釈迦様の頭のようにまるめた「とじくりだんご」が人気で、今では、いつでも食べられます。(Posted by 今村純子)

 次は、「さくま郷土遺産保存館」の掲示です。

 卯の花、お釈迦花をとってきて、トジクリ餅とともに仏様にまつります。

 お寺ではお釈迦様の誕生を祝い、「潅仏会」を催します。「花御堂」で甘茶を献じ、甘茶をいただいて帰ります。また甘茶を飲むと病気をしないといわれます。また甘茶で墨をすり、「ちはやぶる、卯月八日は吉日よ、カミサケ虫を成敗する」と半紙に書き、便所に逆さに貼っておくと虫よけになると信じられています。(「さくま郷土遺産保存館」)

 貴重な米と砂糖を使って作った素朴なお菓子「とじくり」。作り方には家庭により若干の違いはあるようですが、おおむね以下の通りです。

1.大豆を、焦げ目がつくまで炒る。
2.生米を、焦げ目がつくまで炒る。
3.(1)と(2)を熱湯の中に入れて、砂糖大さじ3、塩少々加えてグツグツ煮る。
4.煮立ってきたら米粉を入れ、熱湯を加えながらまぜる。
5.粘り気がでてきたら、火を止め、あら熱をとる。
6.(5)をラップに包み、団子状に丸める。

 これなら、できるかも?ぜひ、作ってみてください。

 ●「とじくり」という名前のお菓子をご存知ですか?…
 ●①まず、お米を洗いざるに入れて乾かしておきます…
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2009年4月 7日 (火)

11の顔を持つ異形の仏―「十一面観音」

11men 「十一面観音」は、顔の上に顔が乗った変化観音(へんげかんのん)。私たち人間の姿に近くて美しい聖観音(しょうかんのん)と比べると、明らかに異形の仏です。「あらゆる方角に顔を向けた仏」を意味する「観自在菩薩」から、頭上に10、あるいは11の顔を持つ観音が誕生しました。

 御手は2本で、聖観音と同じように蓮華を生けた花瓶を持っていますが、古代インドのバラモン教の荒神の色合いを残した「十一面観音」は、決して日本人好みとも思えません。しかし、「西国三十三箇所」の札所のご本尊の中では、「千手観音」の15ヶ寺に次ぐ多さの7ヶ寺を数えています。

 石仏で、11もの顔を並べるのは大変。でも、1つ2つでは、話になりません。3つ4つでは、誰も「十一面観音」だとは信じてくれません。中には私のように、数えてみる人だっています。5つ6つ7つ8つ…、石工泣かせの「十一面観音」。

11men 本来は、頭頂に仏面、頭上の正面側に菩薩面(3面)、左側(向かって右)に瞋怒面(3面)、右側(向かって左)に狗牙上出面(3面)、拝観者からは見えない背面に大笑面(1面)の約束事もあるようですが、「そんなこと言われたって…」。結局できるのは、この月見団子のような11の顔。よく見れば、この人間離れをしたお姿には、いかにもご利益がありそうです。

 写真はともに、「瑞雲院」に立っている石仏です。右の写真は、台座に「十七」の文字が刻まれた「十一面観音」像。「西国三十三箇所」巡礼17番札所「六波羅蜜寺」の本尊は「十一面観音」ですので、この石仏はその「写し」ということになります。(*写真をクリックすると拡大して、「十七」の数字や、寄進者を表す「砂川村」などの文字などが読めるようになります。)

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2009年4月 6日 (月)

「秋葉山町石」に残された「明善翁」父君の名

Choseki2  秋葉山の表参道、「九里橋」から山頂に至る50町の1町ごとに建てられたのが、「町石」と呼ばれる石柱です。嘉永5年(1852)に建てられたものと推定され、笠の乗ったものもあれば、笠を失い「丁」字形だけのものもあります。すべてが現存するわけではありませんし、倒れたままのものもあれば、高さが低くなっているものもあります。移設されたものもあるらしく、実際の距離とは若干のズレがあるようです。

 13町目付近に立っているのが、写真の「町石」です。高さは1メートルちょっと。笠はなく、竿の正面には記号のような文字の下に「常夜燈」、左面には「嘉永五壬子二月開帳日」と刻まれています。ただし、注目していただきたいのは右の面。「当国安間村 金原久右衛門」の刻銘が2行書きで残っています。(*写真をクリックすると拡大され、文字が読めるようになります)

Choseki1  「金原久右衛門」とは、一体何者でしょう?「当国安間村」は、現在の浜松市東区安間町…?

 答えが分かりましたか?安間町の金原さんとは、実はあの金原明善翁の父君のことなのです。金原明善翁の父君が、この秋葉山の参道に「町石」を寄進していたのです。まさか、秋葉山の山道の路傍で、この名前を見かけることになろうとは…。でも、分かってみれば、親しみが倍増する「町石」。

 耳を澄ませば、「暴れ天竜」を静めるために植林を進めた郷土の偉人・金原明善翁の父君の声が、157年経った今でも聴こえてくるようです。秋葉古道の終点に近い辺り、少しへばり始めて足を引きずり歩く参詣者たちの背中を「さあ、もうひとがんばり!」と優しく押すように、その「町石」は立っていました。

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2009年4月 5日 (日)

穴の開いた柄杓を供える「子安地蔵尊」

Koyasujizouson_2  私たち「天竜川・杣人の会」会員・今村純子さんが「遠州の常民文化 第2号」(遠州常民文化談話会編)に発表した「天竜川流域お産の習俗」の一節に…

 家族は舅と夫だけで、特に夫からのそれらしい配慮もなく産み、後始末まで全部自分でした。上の子はいるし、農作業にも早くつかなければならないし…と。気を遣って過ごす産後だった人もいる。また、主人が出征中時々帰還し、その間に二人生まれたが。肝腎な出産にはいつも留守というその時代ならではの思いをした方もいた。

 …と、栄養も不足しがちな生活の中で、無事に分娩を済ませ、健やかに育つことを願うのが「子安観音」。産科医学が進歩した現代でさえ、すべての望まれた妊娠が、無事の出産を迎えるとは限りません。さらに遡れば、もっとも悲しい「間引き=子殺し」さえ行われた時代。女性が心細い生活の中で頼るのは、「子安地蔵」であったとしても不思議ではありません。 

Hisyaku  それは、秋葉山表参道の山道をかなり登った辺り。「秋葉三尺坊十二誓願の一つ 女人分娩の難を除く為安産祈願をして大願成就の暁に底を抜いた杓を奉納する」と書かれた高札が立てられています。

 その「子安地蔵尊」には、高札の通り底に穴を開けた柄杓が数多く供えられていました。柄杓で掬った水が、スルリと下に抜けるようにとの思いだったのでしょうか?どことなく滑稽さも感じさせられる「穴の開いた柄杓」ですが、厳しい農作業と流産は隣り合わせだった山里の女性たちの、心の底からの切なる願いが、この柄杓に託されたのだろうと思います。

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2009年4月 4日 (土)

常夜燈に刻まれた「江戸三河町」とは?

Jyouyatou  いざ、秋葉山の参道を登り始めようかと覚悟を決める場所(領家坂下)に、寛政7年(1795)の大きな「常夜燈」が建っています。竿には「常夜燈」、竿と台石との間の基礎部には、「江戸三河町壱丁目 講中」の文字が、深く刻まれていました。

 さて、「江戸三河町」とは一体、どこでしょう?三河ですから、お隣、愛知県でしょうか?

 「江戸三河町」は、現在の千代田区内神田1丁目と神田司町2丁目、神田美土代町付近にあった町名。徳川家康に帯同して江戸に移った三河出身の武士たちが住んだとされる最も歴史のある町の一つ。一心太助や半七親分が住んでいたとされる町としても知られています。

 電話やインターネットで絶えず連絡が取れる今でも、進学や就職での東京暮らしには、親の心配がつき物です。ましてや、400年も前の江戸。「三河から江戸へと移り住んだ者たちは、どうして暮しているだろうか?」「参詣者が集まる秋葉山に行けば、あるいは噂が聞こえて来るかも知れない」。

 家康の入府は天正18年(1590)、「三河町」は慶長10年(1600)にできたとのこと。この常夜燈が建てられたのは、その195年後。故郷、三河国のすぐ隣り、遠江国の名高い火防の神「秋葉山」。「俺たちは、徳川さまと同郷の者。どんなもんだい。江戸でも立派に暮しているぜ」―秋葉山参道の登り口の一番目立つところ、同郷の者に胸を張って近況を知らせるために建てた常夜燈ではなかったでしょうか?「心配しなさんな!」。

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2009年4月 3日 (金)

日本と朝鮮との平和を願った「記念碑」

Chonichi  佐久間ダム湖岸広場に近い場所に、日本と朝鮮との平和を願った「記念碑」が立っているのをご存知でしたか?
 
 第二次世界大戦で多くの若い労働力を失ったわが国の戦後復興の一時期には、朝鮮人労働者は欠かせない存在でした。佐久間ダム工事も例外ではありません。着工は昭和28年(1953)、完成は昭和31年(1956)。着工からわずか3年でのスピード工事を支えたのも、大型機械の導入と彼らの存在でした。

 朝鮮戦争が勃発したのは、昭和25年(1950)。朝鮮人民共和国が誕生し、朝鮮人の帰還事業が始まったのが昭和34年(1959)。「記念碑」は、まさにその1959年に建てられたものです。

 「記念 朝日両国民の恒久平和と友好親善の為 佐久間地区朝鮮人帰国者集団 西暦一九五九年十月二十八日建之」

 これが「記念碑」に刻まれた文字。ダム工事が終った後にも、佐久間の小学校にも、朝鮮人の子どもたちが通っていたとも言います。帰国の時には、涙を流して別れを惜しんだとも聞きます。あの時の涙を忘れたまま、両国の「恒久平和と友好親善」は、半世紀が過ぎた今でも実現できないままです。

 まさか、彼らの国のミサイルが、日本を狙っているなどとは信じたくありません。でも、伝えられるニュースでは、北朝鮮の人工衛星と称したミサイルは、まもなく発射されると言うではありませんか?こんな不安な気持ちが続くのでは、この「記念碑」に刻まれた文字の意味を、信じたくても信じられません。

 1954年と言えば、私も小学生でした。おそらく、私もあなたたちとほぼ同世代のはず。教えてください!ダム工事に汗を流した、お父さまは元気ですか?お母さまは元気ですか?そして、佐久間で子ども時代を過ごしたあなたたちも、今、かの国で元気に暮しているのでしょうか?いつか再び、あなたたちと手を携えて、この「記念碑」の前に笑顔で立てることを願っています。

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2009年3月31日 (火)

神聖な土地―相月諏訪神社の「お池」

Oike  「相月(あいづき)諏訪神社」の前の水田跡の傍らに、小さな楕円形の草地があります。地元に人たちが「お池」と呼んでいるように、かつては池だったと伝えられています。ここは、人が足を踏み入れることはもちろん、草を刈ることも禁じられた神聖な土地なのです。

 現在の様子は写真の通り。特に変っているわけでもありませんし、池だったにしては、底が浅く感じられますので、湿地程度だったのかも知れません。

 「相月諏訪神社」に関しては、佐久間の民話『相月諏訪神社の不思議』『梵天様の大蛇』で語られているように、大蛇の言い伝えが残っています。大蛇は諏訪神社の「お池」に棲み、諏訪神社の裏の蛇淵は信州の諏訪湖まで続いているのだそうです。日照り続きの年に、諏訪様のお告げに従って草刈りをすると、見る間に雨が降ったとも語られているのですが…。

Gyouja  つまり、大蛇はこの池に棲み、蛇淵を通って諏訪湖と相月を行ったり来たりしていたようです。また、「お池」は「くろがね=金物」を嫌いますので、日照りの時には池に鎌などを投げ込んで雨乞いをしたとも伝えられているそうです。

 「諏訪神社の裏手に目の不自由なお坊さんが祀ってある」と聞いて覗いてみましたが、祀られていたのは「役の行者」。「相月諏訪神社」にも、北遠の修験道の痕跡が残されていました。

 ●相月には諏訪神社という…
 ●「相月諏訪神社」の境内の大きな岩の上に…
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 ●「相月(あいづき)」は、佐久間町城西地区の集落です…
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2009年3月29日 (日)

文字が刻まれた石―里原用水路に関わる話

Satohara3 里原用水路に関わる石について

 里原用水路は文化二年、旱魃に苦しんだ百姓住民の発意によって開削せられたと聞きますが、気田川河床低下により取水難となり明治十八年に取水口を現水路に開削し、以来八町余歩の水田に灌漑致し、里原農民の生活を維持してきました。

 この間百八十余年のうちには用水路の大修理等あり、村民総力を結集して困難にうちかち努力してきましたが、これらの行蹟を偲ぶものもすくなく、この石に刻まれた文字は当時の住民が村中安全と五穀豊穣を祈る気持を後世に託したものと思われます。

 春野町制施行三十周年記念
 昭和六十二年八月一日建之
 里原自治会

Satohara4  これは、春野町里原(さとばら)の「天神神社」横に立つ高札の内容(*写真をクリックすると拡大されて文字が読めるようになります)です。下に置かれた石に刻まれた文字は、石工が彫ったものと言うより、鉄釘の先のようなもので、石の表面を何度も擦るようにして書かれたらしく、大変読み取りにくいのですが、日にちを示すらしい数字や名前のような文字。石は、三波川変成帯(さんばがわへんせいたい)の特徴的な石「結晶片岩」だと思われます。石垣にも使われる硬い石に刻まれた文字は、一体、何を語っているのでしょうか?

 里原とは、荒野を開墾して里を作ったことに因むとは、『気田村誌』に書かれている地名の由来。「元禄年間(1688~1703)以降、耕地の開発はほとんど見られず、10町9反余の耕地のうち田は27%」とのデータも残っています。

 水田に欠かせない水の確保には、集落を挙げての事業が行われました。今から200年以上も前の文化2年(1805)、気田川の流れを里原の水田に引き込むため、当時の農民が総力を挙げて水路を掘ったと言うのです。その後も、修理、修理を繰り返し、私たちの暮らすこの時代の礎(いしずえ)を作ったと言うのです。

 これは、当時の人々の記録と言うよりも、後世の私たちへの時代を超えたメッセージではないでしょうか?大きな障害に立ち向かい、勇気を持って事を成し遂げることの大切さ。100年に1度の大不況なんて、200年前の大地を削る大事業に比べれば、たいしたことはありません。私たちは、曲がりなりにも食べていけます。200年前の農民は、食べるための米を作るために、用水路を掘ったのです。さあ、私たちは力を合わせて、何をしましょうか?

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2009年3月28日 (土)

森林のまち童話大賞 仲井さん(浜松)受賞

 浜松市は27日、森林をテーマに童話を公募する「第3回森林のまち童話大賞」の審査結果を発表した。全国676作品の中から、大賞に浜松市中区の市職員仲井英之さん(39)の「森のてんぐ屋さん」が選ばれた。作品は挿絵を付け、10月ごろにポプラ社(東京都)から出版される予定。

 天竜川や浜名湖など同市の豊かな自然を発信するコンクールとして、平成14年度から3年に1度実施している。「森のてんぐ屋さん」は物売りの天狗に姿を変えた森の精が幼い女の子の家を訪れるというストーリー。作家の立松和平さんや那須田淳さんら5人が審査を行い、「さりげなく自然の大切さを伝えていて、ほほ笑ましく示唆に富んだ内容」と評価を受けた。

 このほか、審査員賞に池ケ谷政男さん=同市南区=の「月夜の森に海が来る」、佳作に加藤位知子さん=同市中区=の「まちにみどりを。ふしぎな森の種」など11作品が入賞した。(「静岡新聞」より)

 3年前には応募したこともあるのですが、今回は応募しませんでした。旧天竜市の事業を浜松市が引き継いだものですが、もっと注目されても良いと思っています。

2009年3月25日 (水)

川の流れを変えた「矢高濤一相川直流掘割之址」の碑

Yataka  「暴れ天竜」と戦った矢高濤一(やたかとういち)翁。その昔、浦川村は、大千瀬川と相川のたびたびの洪水に見舞われ、村を捨てる者さえ出る有様。矢高翁は名主となって以来、堤防の新築、修築を繰り返したのですが、浮森地区の水害だけは解決されませんでした。

 そこで、何と曲った川の流れを真っ直ぐにしようと「掘割り」工事の必要性を訴え、苦労の末に完成させたのが、矢高翁だったというわけです。

 「掘割り」と一言でいっても、それは固い岩盤を割って掘るという難工事。火を燃やして岩盤を熱くし、水をかけて岩を割る工法を繰り返したというのです。

Horiwari2  そのかいあって、相川は流れを変え、大千瀬川は真っ直ぐに流れるようになりました。さらに旧河道には新田が造成され、70余戸の村民に公平に分け与えられたのです。
 
 その矢高濤一翁の功績を讃えるのが「矢高濤一相川直流掘割之址」の碑。昭和32年(1957)、矢高翁の60年祭の年、相川掘割り脇のこの地に建てられました。

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2009年3月24日 (火)

「信濃畑」の「シナ」の意味するものは…?

Dscf0045  春野町長蔵寺の小字名、「信濃畑」と書いて、「しなんばた」と読みます。

 気田川の支流、熊切川の中流域にある6戸の集落とその土地の小字名。万葉の時代、「しな」は「階段」の意味があり「しなの」は『階段のような山に囲まれた土地』と解釈する研究者もいる。眺めればその通りの山里である。名の由来は、今では定かではないが、近くに、約3000年から1300年前の晩期縄文遺跡『塩沢(しょうざわ)遺跡』が在ることを考えると、「信濃畑」は大昔から、肥沃で暮らしに適した土地であった事が想像できる。

 これは、『春野陶房』の吉田克秀氏が送ってくれた「信濃畑 ニコ二胡コンサート」のチラシに書かれていた文章です。

 信濃には、「埴科」「更科」「蓼科」「立科」「穂科」「倉科」など、「科(シナ・級)」のつく地名が実に多い謎はよく知られています。「科」の意味に関しては、布の繊維を取った植物の名に由来しているとの説もありますが、実際に「信濃畑」の地に立ってみると、吉田氏が書いているように、階段状の土地を表していると解釈するのが正解のような気がしてきます。

 調べてみると、『角川地名大辞典22静岡県』(昭和57年10月編集発行)の春野町の字名の項には、「長蔵寺」には「シナノバタ」のほか、「シナノハタ」「シナノ向」のよく似た字名が見られます。

  また、信濃畑に住む尾上さんの話によれば、熊切川を挟んだ対岸の山が「七夕豪雨」の時に、広い範囲にわたって崩れ落ちたとのこと。今では、まさに河岸段丘の様相を呈しています。つまり、山の斜面だった部分が崩落し、「平(たいら)」の地名が付くような平坦な段丘ができ、人々はそこに住居を建てて集落を形成してきたような気がします。

 ただし、その地は、大雨が降ると再び崩落の危険性が高い土地。その危険性を肝に命じるために、地名として語り継いで来たのではないでしょうか?ちなみに、長蔵寺にはかつて、崖を表す「タケノサワ」「タキ山」、崩れた跡を表す「アダテラダイラ」「カヤノ平」「コウ平」「エノキ平」などの小字名があったようです。

 この「シナ」の付く地名。長野県には多く見られるのですが、「木曽川、天竜川水系にはほとんど見られない」との報告もありますが、春野の「信濃畑」は数少ない北遠の「シナ」地名なのかも知れません。

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2009年3月20日 (金)

「瑞雲院」に建つ「無尽燈」とは?

Mujintou  「瑞雲院」の入口に立つ大きな常夜燈。寺社を照らす左右1対の常夜燈の竿には「献燈」「奉献」などと刻まれていることが多いのですが、この常夜燈には、「無盡燈」と彫られていました。「無盡(尽)燈」?「無尽燈」とは一体、何のことでしょう?

 「無盡燈」とは、「尽きることのないともし火」の意味で、『維摩経(ゆいまきょう)』という大乗経典の中に説かれる寓話の一つです。

 その寓話は、仏法を知った天女たちに維摩が諭したとされる話ですが…

 仏法を人から人へと語り伝えるということは、あたかも真っ暗闇のなかで、ともし火を次々と点火するようなもの。ある人が仏法というともし火を他の人に伝えても、もとの人の法のともし火の明るさはけっして減るわけではなく、それどころか一層明るくなります。それと同じように、仏法は語り伝えていくことにより、尽きることのないともし火となり、自己と世間をますます明るく照らすのです。

 …と、こんな話です。

 話は難しいようですが、何となく分かるような気もします。私たち「天竜川・杣人の会」も、このウェブサイト「だいすき!北遠」の場で、大いに北遠の魅力を語っていきたいと思っています。語っても語っても、魅力が少なくなるのではなく、ますます明るく輝きを増すことを願っています。そう、「無尽燈」のともし火のように。

 ●「瑞雲院鐘楼堂」は、弁柄(べんがら=紅殻)塗りの赤い鐘楼…
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2009年3月19日 (木)

居眠りポーズの仏―「如意輪観音」

Nyoirin  片膝を立てて、頬杖(ほうづえ)をつくように右手を頬に当て、何とも言えずなまめかしいお姿。「如意輪(にょいりん)観音」さまです。頬に当てた居眠りポーズ、いやいや、考えるポーズの手を「思惟手(しゆいしゅ)」と呼び、「如意輪観音」の特徴の一つ。「西国三十三所霊場」の札所、1番「西岸渡寺」、7番「龍蓋寺」、13番「石山寺」、14番「園城寺観音堂」、18番「頂法寺」、27番「圓教寺」の本尊が「如意輪観音」となっています。

 「如意輪」とは「意の如く福徳を得られる珠と法輪」の意味。下ろされた左手に「如意輪」を持っているように見えます。「春眠暁を覚えず」。目は半眼に閉じられていますので、春の暖かな陽射しに照らされて、居眠りをしているみたい。

 江戸時代になると民間に「月待ち」という宗教行事が流行しました。「お月見」とは別に「十五夜」を過ぎて徐々に欠けていく月が出るのを待つ「講」ができ、無病息災を祈る「二十二夜」の「月待ち」の主尊とされたのが「如意輪観音」です。

 写真の「如意輪観音」は、「瑞雲院」の山門脇に並ぶ「西国三十三所巡礼」供養塔として居並ぶ観世音菩薩のうちの1体ですので、この石仏が「月待ち」と関係があったとは言い切れませんが、夜空がきれいな春野なら、考えられないこともありません。ちなみに、今日3月19日の月齢は22日。「二十二夜」の月の出は、深夜1時過ぎになります。なるほど、居眠りポーズの理由が分かりました!

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2009年3月17日 (火)

二本杉峠に育つ「シラカンバ」

Shirakaba_2   「♪白樺 青空 南風~」―故遠藤実さんが作詞した名曲『北国の春』の出だしの1節。「シラカバ」は、「シラカンバ」を略した呼称だそうです。

 「シラカバ」は、長野の「県の木」。私たち静岡県人にとっては、信州の高原に楚々として立ち並ぶ白い幹はなんとも魅力的。「シラカバ」の立木を見ると、「あ~、長野に来たんだ」と感じ、日当たりの良い林に並ぶ白い紙がはがれかかったような幹に、あこがれさえ感じさせられます。

 ところが、実際には「シラカバ」の南限は静岡県とされていますので、「天竜スーパー林道」沿いでも見かけることがありますね。写真は、佐久間の「二本杉峠」で写した「シラカバ」です。

 「二本杉峠」は、長野県の娘さんたちが、豊橋や浜北の製糸、紡績工場で働くために越えた峠と言われています。この「シラカバ」は、誰がどんな事情で植えたものかは知りませんが、長野を代表する「シラカバ」には、そんな女工たちの悲しい歴史を思い出させてくれる何かを感じてしまいました。

 「シラカバ」は、美智子皇后の「お印」にもなっていますが、北海道では、花粉症の原因ともなっているようです。

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 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線を佐久間からホウジ峠に向かう途中の峠…
 ●佐久間の山には、「峠」と付く地名がたくさんあります…
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 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
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 ●佐久間町中部(なかべ)出身の偉人「原田久吉翁」の写真を…

2009年3月16日 (月)

花粉症には「紅ふうき」―春野の『栗崎園』

Benifuki  春野町宮川の『栗崎園』(053-989-0765)。「2007世界緑茶コンテスト」で「最高金賞」を受賞した、あの『栗崎園』さんで栽培されている「紅ふうき」を体験しました。

 「紅ふうき」って、ご存じですか?私のような花粉症の改善に効果があると言われている「紅ふうき」は、紅茶向きの品種とのことで、やや渋みを感じます。『栗崎園』では、花粉症に効果があるといわれる成分(メチル化カテキン)がなくなってしまうので、蒸し製法で揉んでいるのだそうです。

 「美味しいですね」「美味しいでしょう」「渋みもクセになりそう」。

 「花粉症ですか?」「花粉症です」。「じゃあ、これも飲んでみて。熱いお湯に溶かして飲んでもらえば…」といただいたのは、パウダータイプの「紅ふうき」。「こちらも、試してみて」と、今度は「べにふうき茶飴」。もちろん、すぐに試してみました。

Beni  帰路の車の中で飴をなめ、夕べ寝る前にパウダータイプを飲んで就寝したのですが、朝起きてみてビックリ。鼻もすっきり!口中もすっきり!本当に楽になったのです。「えっ?こんなに効くの?」。

 「紅ふうき」には、ティーバッグや「べにふうき茶羊羹」も。これは、驚きです。花粉症の方、是非おためし下さい!

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2009年3月13日 (金)

「富」の象徴―オシャレな土蔵

Dozou  オシャレな土蔵を見つけました。佐久間町中部(なかべ)です。

 以前、土蔵の壁を飾る「折れ釘」と呼ばれるL字型の和釘について説明したことがあります。土蔵の修理の時の足場かけなどに利用されたとも言われていますが、「折れ釘」の台座は「乳釘」とも呼ばれるようにお椀を伏せた形がほとんど。ところが、写真の「折れ釘」は「花菱」の形をしています。オシャレです。

 そればかりか、窓の飾り板が、青地に白の漆喰の鏝絵(こてえ)を見てください。外側に夫婦鶴(めおとつる)、内側には花菖蒲(はなしょうぶ)。季節は違いますが、ともに水辺にあるところから、火防(ひぶせ)の願いを込めた図柄と見受けました。これも、なかなかオシャレです。

 中部は、多分にもれず大火に見舞われた歴史があります。大切なものを保管するには、住居とは別に火災に強い土蔵が必須だったのでしょう。ならば機能重視で良いはずですが、見栄えも気になります。「成功する」=「蔵が建つ」。世間に対する「富」の象徴ですから、例え屋根の上に100人乗れるとはいえ、現在の画一的なデザインの倉庫とは大違いです。

 *写真はクリックすると拡大します。

 ●かつては、まゆ市場、木材の取引きなどで栄えた浦川の町には…
 ●あなたの字が、「折れ釘のような字」と言われたことは…

紙幣に使われる「ミツマタ」―満開です。

Mitumata2  ジンチョウゲ科ミツマタ属―北遠の山道で「三椏(ミツマタ)」の花に出会うことがあります。樹皮は和紙の原料となり、楮(コウゾ)とともに日本の紙幣に使われていることで知られています。元々は、中国南部から渡来したものが半野生化したとか。普段はあまり目立たない「ミツマタ」ですが、開花の季節にはすぐにそれと気づきます。冬の間から蕾を付け、今咲くか今咲くかと待ち続け、春の訪れとともに黄色い花を開きます。

 「ミツマタ」は、その枝が必ず3つに分かれるところから名付けられ、「三枝」「三又」とも書くそうです。写真をよく見てみると、3つに分かれた枝が確認できると思います。

Mitukmata  「黄色い花」と書いたにもかかわらず、写真の「ミツマタ」の花は濃いオレンジ色。どうやらこれは、園芸種の「アカバナミツマタ」のようです。

 「春されば  まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあれば 後(のち)にも逢はむ な恋(こ)そ吾妹(わぎも)」 柿本人麻呂

 *「春になりミツマタが咲くように、元気でいればきっと逢うこともできるでしょう。あまり恋に心を苦しめなさるな、わが妻よ」の意味だそうです。『ホワイトデー』のプレゼントに、ミツマタの花はいかがですか?

2009年3月 8日 (日)

「山姥」を祀る「山姥神社」

Yamanba  能『山姥』は世阿弥作と言われています。あらすじは、およそ次の通り。

 舞の名手と呼ばれた有名な都の遊女『百万山姥(ひやくまやまんば)』が、善光寺参りの途中、上路(あげろ)の山中で本物の「山姥」に出会います。「山姥」は「本当の山姥を御存じないのに山姥の曲舞を舞われるとは…」と言い、その正体を見せ、舞の奥義を示しつつ、名残りを惜しんで去って行きます。

 …と、これが謡曲「山姥」のあらすじ。

 全国には、「山姥」の伝説が残された地域がいくつかあります。そして、それぞれに「山姥神社」なるものが祀られています。「秋葉山本宮秋葉神社」の境内社の中にも「山姥社」があります。

Yamanbasya  左上の写真の碑は、佐久間の「山姥」伝説の地、西渡に残されたもの。2度の大火の後に建てられたとのことで、「大正9年」の建立となっています。もしも石碑の大きさが信仰の強さを示すとするなら、地元での「山姥」への畏敬は、相当なもの。子どもを食べたりもしたと言う「山姥」ですが、ただ単に悪霊や穢れを封じるための神社にしては、「山姥神社」の石碑は大き過ぎるような気がします。

 「山姥」への信仰は、「山の神」信仰であると同時に、安産や子宝への祈り。先に紹介した「山姥の爪痕」に見られる子安信仰が、形を変えて伝えられていると言うのは、私の考え過ぎでしょうか?

 *石碑のすぐ下一帯の杉の木が焦げていました。ごく最近、火災が起きたようです。火は神社の手前で止まったようですが…。

 ●今から千年ほど前のお話です。和泉から福沢へ行く途中の倉木山の山奥に「やまんば」が…
 ●『さくま昔ばなし』の中では、佐久間の民話「やまんば物語」の機織りについて…
 ●「今からおよそ一千年ほど前、やまんばはこの一心滝を中心に…
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 ●全国各地に残された言い伝えによれば、「山姥(やまんば)」は…
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2009年3月 7日 (土)

原田久吉翁について、もっと知りたい⑥

Nakabemurasindouhi  「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と、佐久間町中部の平賀さんが教えてくれました。「ええ?どこにあるんですか?」「佐久間と中部の境の辺りの道路脇のネットの中」「ありがとうございます。探してみます」。

 何となく、あの辺だろうと想像した通り、国道473号沿い「歩危(ほき)洞門」を抜けた辺りの山側の道路脇に、その石碑はネットにもたれ掛かるように立っていました。すでに、先端の一部は欠けた状態。文字は、独特の篆書体で「中部邨(むら)新道碑」と刻まれていたようです。

Harada 碑文はすべて漢字だけで書かれていますので、正確な意味は読み取れませんが、その漢字の中に「原田久吉」の文字を見つけました。

 どうやら、原田翁は「原田橋」「第二原田橋」「中部小学校」「天白神社」「二本杉新道」のほか、この「中部新道」にも、私財を建設資金として投じていたようです。

 この先人の功績を顕彰した石碑の存在を知っている人が、一体どれだけいるのでしょうか?もしかしたら、佐久間の町民、いやいや中部の住人でも、ご存知ない人がいるのかも知れません。知ってください!もっと知ってください!

 佐久間出身で千葉県在住の夏目さんがくれたヒントが、「原田久吉翁」をここまで追いかけさせてくれました。知れば知るほど、次々と「もっと知りたい」が広がって来ました。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 【関連記事】早川家に残された原田久吉翁揮毫の扁額
 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
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2009年3月 6日 (金)

六観音の一つとして建つ「馬頭観音」

Batou  戦国時代には戦さに使われた馬でしたが、江戸時代に農家で飼われた馬はもちろん農耕馬。街道の往来が盛んになり、駄賃馬として借り出された馬が路傍で力尽きることも多かったことでしょう。そんな愛馬の冥福を祈って建てられた「馬頭観音」が佐久間には多く残されていました。

 ところが、春野の「馬頭観音」は違います。

 写真の観音石像は、「瑞雲院」の山門前に並んでいる苔むした石仏の1体です。台座の部分に刻まれた数字を読んでください。何と読めますか?「十九」?いえ、「廿九」と書いてあります。「廿九=29」、つまり「西国三十三所霊場」の29番札所、京都府舞鶴市の「松尾寺」。ご本尊は「馬頭観音」です。(*写真をクリックすると拡大されて文字が読めるようになります)。

 これは、佐久間の馬の冥福を祈って建てた「馬頭観音」とは違い、あくまでも六道の一つ「畜生界」を済度する「馬頭観世音」として建てられたものです。頭上の馬頭が「馬頭観音」の証し。お顔は「馬頭観音」の特徴である憤怒(ふんぬ)の相を表してはいませんが、何となく馬の口を模した「馬頭印」という印相を結んでいるようにも見えます。

 民間信仰の「馬頭観音」とは違う六観音としての「馬頭観音」。珍しいと言えば、珍しい石仏です。寄ってみてください!

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「久根」の過去へと続くレール

Rail  「久根鉱山」での、鉱石採掘は昭和45年(1970)まで続き、坑道から出る水を処理する施設が稼働しているだけで、鉱山は文字通り「廃鉱」となっています。その鉱山跡を訪ねてみましたので、何回かに分けてお伝えします。

 まずは、道路に残されたレールの話。以前、お話したように、柵や表示の支柱などに再利用されたレールは何ヵ所かで見ることができますが、一部には、写真の通り、レールが2本、当時のまま残されています。手を開き指を広げて測ってみると、その幅は両手分よりやや広い約60センチ。この2本の鉄の道の上を、重い鉱石を満載した箱が鉄の車輪を軋ませて、走っていたのだろうと思われます。走るというよりも、鉱夫たちの手で押されたり引かれたりしていたのでしょうか?それは、一体どれくらいの大きさのものだったのでしょう?

Track  その答えが、道の脇に転がっていました。廃棄されたトロッコのものと思われる、朽ちた木枠のままの車輪。小さな、小さな台車です。私の頭の中で、鉄の擦れる音が聴こえたような気がしました。鉄と鉄とが擦れる悲鳴のような音。重い鉱石と鉱夫の息遣い。将来の夢と、今夜飲む一杯の酒の楽しみまでも満載したトロッコにしては、想像していたよりも、はるかに小さな鉄の車。

 この「久根鉱山」の遺物を、このまま、朽ち果てさせてしまって良いのでしょうか?このまま、忘却の彼方に流してしまって良いのでしょうか?私の「もっと、知りたい!」という気持ちは、少しずつ大きくなってきました。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
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2009年3月 2日 (月)

『まるふく』の五平餅はショウガ風味

Goheitate  「御幣(ごへい)」とは、神道の祭祀(さいし)で用いられる幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串(へいぐし)に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)とも言う。

 これは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「御幣」の説明。分かりますか?単語の1つ1つに、新たな説明が知りたくなります。

 かつて、神に布帛(ふはく)を奉る時には木に挟んで備えていましたが、それが変化したのが今日の「御幣」である。その由来から、元々は神に捧げるものであったが、後に、社殿の中に立てて神の依代(よりしろ)あるいは神体として、あるいは祓串(はらえぐし)のように参拝者に対する祓具(はらえつもの)として用いるようになった。

Marufuku  「御幣」「幣帛」「紙垂」「幣串」「幣束」「幣」「布帛」「依代」「祓串」「祓具」…。と、まあ、説明はこんなに難しいのですが、「御幣」とは要するに写真のようなものです。

Marufuku  「御幣」に似ているから「御幣餅=五平餅」。佐久間町浦川の人気店、五平餅『まるふく』(053‐967‐2750)は、浦川小の前、「いわしん」さんの向かい辺りです。

 『まるふく』の五平餅は少し柔らかく焼かれています。これは「冷めてから食べても美味しくいただけるよう」との配慮。味噌はショウガ風味でたっぷりと塗られ、表面に振ったゴマが香ばしさを増しています。営業は午前8時~午後5時、月曜休。1本230円。留守の時には、隣の美容室に声を掛けてください!

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2009年3月 1日 (日)

いよいよ今日、気田川の渓流解禁

Ebisu  「エビス完全飼料」のホーロー看板は、森町田能と春野町静修の境辺りで見つけました。どうやら、人気の農業系レトロ看板のようです。「完全飼料」とは混合飼料のことだろうと思いますが、キチンとした定義があるのかどうかは分かりません。

 「完全飼料」のロゴもレトロなら、エビス顔もレトロです。一体、「恵比寿」と農業には、どんな関係があるのでしょう?

Ketagawa  「恵比寿」は、七福神に数えられる唯一日本古来の神様です。以前、石打松下の「蛭子神明神社」の項で紹介したように、釣竿を担ぎ鯛を抱えた「恵比寿」は、言わずと知れた漁業の神。どうして家畜の餌「完全飼料」のキャラクターになっているのか…?

 「恵比寿」をカナで書くときに、「ゑびす」とか「ヱビス」とも書きますよね?「ゑ」は「恵」の草体、「ヱ」は「衛」の略字体です。

 そうだ!「恵比寿」が漁業の神で思い出しました。今日3月1日は、気田川の渓流解禁じゃん!気田川の「恵比寿」が抱えるのは、鯛ではなくてアマゴかな?

  気田川の「渓流釣り遊漁料」は、1年間6,500円、日釣り1,300円。期間は9月30日まで。(友釣りは、1年間7,000円、日釣り1,500円で、解禁は6月1日です。ニジマス釣りは通年OK)。詳しいお問い合わせは、気田川漁協(053-985-0211)まで。

 ●静岡県内の多くの川で1日、渓流釣りが解禁となった…

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 ●「ホーロー看板」って、ご存知ですよね?…
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 ●写真のホーロー看板は、佐久間町西渡の「舟戸(ふなと)商店街」で…
 ●またまた、佐久間で見つけたレトロなホーロー看板の紹介…
 ●春野町長蔵寺で見つけた「三菱かつらエンジン」のホーロー看板です…
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 ●「三和シヤッター販売店」のホーロー看板は、縦と横の2タイプ…
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 ●マニアの間では金融系に分類される「第一證券」のホーロー看板…
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 ●黄色いホーロー看板は「完全配合飼料 ニップン飼料」のものです…
 ●軍配印「農薬 肥料 石灰窒素 電気化学」のホーロー看板です…
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 ●4枚の農業系ホーロー看板の1枚として紹介した「東亞化成肥料」の青い看板は…
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 ●「うまい酒 清正」のホーロー看板は、愛知県半田市にあった「田中酒造」のもの…
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 ●「電球はナショナル」のホーロー看板で思い出されるのは…
 ●天竜区熊で見つけた、赤地に白文字「蛇の目ミシン」のホーロー看板です…
 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…
 ●「自動模様編機の開発メーカー アルス編機 編物教室」のホーロー看板…
 ●「一ばん良い ナショナル電球」の横長ホーロー看板は、水窪町での撮影です…
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 ●「春野町」は清流の町。「気田川」を中心に大小合わせれば、何と182本もの川が…

2009年2月28日 (土)

短いトンネルランキング第4位「岩井戸隧道」

Iwaidozuidou  思い出してください。以前、「トンネル」と「隧道」に違いがないことを解説しました。おそらく、建設された年代の違いではないかと…。

 佐久間の「隧道」と言えば、熊から佐久間に抜ける「大地野隧道」。そしてもう一つ見つけました。「岩井戸隧道」―これです。「岩井戸隧道」は、天竜川の東岸を走る県道285号大輪天竜線、大輪から名古尾、大萩に抜ける途中にある小さなトンネルです。

 写真でお分かりのように、少し斜めの角度からも、トンネルの向こう側出口が見えます。これは、相当短いトンネルです。データによれば、なんと全長わずか24.4メートル。静岡県内では短いトンネルランキングの第4位。いつものように国道152号を走っていたのでは、対岸のこのトンネルには気づきません。たまには、いつもと違う道を走るのも楽しいものです。

 あっと言う間に抜けてしまいましたが、トンネルの上には、ほら!「岩井戸隧道」と書かれていました。

 ●北遠など山間地域などをドライブしていて思うこと…
 ●以前、「隧道(ずいどう)」と「トンネル」について書いたことがありました…
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2009年2月27日 (金)

大工さんとの知恵比べ―「鎌継手」

Kamatsugi  写真は、「秋葉山本宮秋葉神社」上社「随身門」の柱です。束石(つかいし)に接する元の部分が経年劣化し、良い部分だけ残して補修したものと思われます。

 さて、ここで、2本の柱を接合している「継手」をよく見ていただけますか?これって、どうなっているのでしょう?まるで、蛇の鎌首のようにエラの張った凸部と、反転した形の凹部とで接合しています。「ほぞ」と「ほぞ穴」の組み合わせの「継手」がこの形では、どう考えても縦方向では入りませんよね?どう考えても入りませんが、実際入っています。じゃあ、どうやって?「入らない」ものを「入れる」。ここで、大工さんとの知恵比べ。答えが分かりましたか?

 これは、「鎌継手」と呼ばれる「継手」です。縦方向に継ごうと考えると不可能ですが、水平方向、横に滑らせると考えれば…。

 もともと、建物の柱を補修する場合には、一度高く上げて下から補修部分を差し込んで下ろすなどという方法はできません。横から補修するしかないのです。それが、この「継手」。逆三角形に接合する「蟻継手」の方法もありますが、強度の他にも、大工さんの腕の見せ所でもあったのでしょうか?昭和18年の秋葉山の大火による消失を免れた「随身門」の柱。キョロキョロ♪してたら、足元にも、こんな見所がありました。

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 ●秋葉山本宮秋葉神社の少し奥の山道を下った辺り…
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2009年2月26日 (木)

原田久吉翁について、もっと知りたい⑤

Niraku1  原田久吉翁(1837-1929)の号(別名)は「二楽」。原田翁の揮毫には、「久吉」ではなくて「原田二楽」と書かれています。「二楽」とは、一体どんな意味でしょうか?

 「二楽」はともかく、「三楽」と言えば、有名な孟子の「三楽」があります。

 「父母ともに存し、兄弟故(こと)なきは一楽なり。仰いで天に愧じず、伏して人に怍(は)じざるは二楽なり。天下の英才を得て、これを教育するは三楽なり。君子に三楽あり。しこうして天下に王たるは、あずかり存せず(尽心篇)」

Kyukichi  これが、孟子の「三楽」。原田翁は、ここから自らの号を取ったのでしょうか?「仰いで天に愧じず、伏して人に怍(は)じざるは二楽なり」とあり、すなわち「天から咎めだてされることもなく、誰からも後ろ指を指されることのない自己の道徳的完成」が「二楽」。まさに、原田翁が理想とした人物像なのかも知れません。

 しかし…

 横浜市、港区にある「東向山西福寺」は原田翁の寄付を受け、移転。原田翁の号を取って「二楽山西福寺」と山号を変更しました。その「西福寺」の解説では、「二楽」とは、「亡くなった後の成仏の楽しみと今現在の生きる楽しみ」となっていました。

 さて、原田翁の「二楽」とは、どちらの意味でしょうか?あるいは、まったく別の意味でしょうか?旧「中部小学校」跡にも、原田翁の遺徳を顕彰する石碑が建っていました。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
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 【関連記事】これが、あの原田翁揮毫の扁額です。
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2009年2月25日 (水)

原田久吉翁について、もっと知りたい④

Dscf0066  「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され、信頼を集める人を意味しますが、 日本の近代化の一時期、この「名望家」が地方行政と自治に参加し、地域社会の体制と秩序を支えたのです。

 「横浜開港資料館」のHPで、館報「開港のひろば」のバックナンバーを見つけました。その内容によると…

 議員の選挙・被選挙権は、住民のなかで年齢や性、納税額など一定の要件を満たした「公民」だけに限られ、更に有産者に有利な等級選挙であった。町村会から選ばれる町村長も無給の名誉職で、ともに地方公民としての義務とされた。このような人望と財産ある多くの「名望家」が、地方行政と自治に参加し、近代日本の地域社会の体制と秩序を支えたのである。

 …とのこと。さらに…

 総持寺再建には、広大な敷地の買収・諸堂宇の建築など膨大な資金を要し、そのため東京芝公園内に再建事務本部を設け、1万を越える全国各地の末寺の檀家総代や世話人を勧募委員に任命し、広く浄財の寄付を募ることにした。本覚寺は、幕末期最初のアメリカ領事館が設けられたことでも知られる。当初は総代3名だけを届けたが、再調査のうえ6名を加えて再提出したのだという。彼らは、勧募委員を委嘱するに相応しい檀家中の「名望家」と考えられる。檀家には、関内の貿易商や市街地で手広く土地経営を営む地主など、裕福な者も多く、6名中の5人は『横浜成功名誉鑑』(明治43年)に掲載された紳商・紳士であった。届書に、原田久吉は申込み額千円のところ既に部分納入済みとあり、明治32年暮れに全焼した同寺の再建費用の大半は原田が寄付したという。

 …と、ここに「原田久吉」の名前を見つけました。あの佐久間町中部出身の原田久吉翁(1837-1929)のことです。「総持寺」とは「曹洞宗大本山總持寺」のこと。能登の「總持寺」が明治31年(1898)にほとんど消失したのを受け、明治44年(1911)横浜市鶴見に総本山を移しました。

 この時の再建費用の大半を、原田翁が出したというのです。「總持寺」のデータによると火災が発生したのは「明治31年4月13日」となっていますが…。

  「名望家」の「名望家」たる資格は、資力だけではない。一定の資産や教養に加え、人望を集め得る「名望家」こそが真に地域の近代化や振興に指導的役割を果たし得る。(「横浜開港資料館」資料より)

 まさに「名望家」の中の「名望家」原田久吉翁。今は廃校となった旧「中部小学校」も、原田翁の寄付によって建てられました。「龍頭山宥泉寺」の南、「水巻城」があったとされる高台です。かつては、写真の立派な台座の上に、原田久吉翁の銅像が建っていたそうです。その銅像は、戦時中に供出されたとか。中部の平賀さんからの情報です。

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2009年2月23日 (月)

「セツブンソウ」が見当たらない!どうして?

Setsubunsou3  先日に続き、気になっていた「節分草(セツブンソウ)」を見に行って来ました。前回、咲き始めたと報告した佐久間町浦川・上市場です。

 白い可憐な花を期待して行ったのですが、あっちを見てもこっちを探しても、何と「セツブンソウ」は1株も見当たりません。え~、どうして~?どうしたと言うのでしょう?もう花の季節が終ったのでしょうか?それとも、心無い人が、根こそぎ持ち去ったのでしょうか?

Shikanofun  「セツブンソウ」の代わりに、気になるものが見つかりました。それは、フキノトウの横に散らばる浜納豆のようなもの。おそらく、ニホンジカの糞(?)と思われます。果たして、シカは「セツブンソウ」を食べるのでしょうか?

 分からない、分かりません。でも、まったく1株も咲いていないというのは、何か変です。すぐ近くの別の自生地では、かなりの株が花を咲かせていました。花の時期は、結構長いはず。まだ、花の季節が終ったとは思えません。どうして、「セツブンソウ」の花が見つからなかったのでしょうか?誰か教えてください!

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 ●「ここは『きれいな花』の咲くところです。ゴミを捨てないで」…
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久根鉱山が残したもの―「じん肺物故者慰霊碑」

Jinpai  佐久間の「大鏡山明光寺」境内で、「じん肺物故者慰霊碑」を見つけました。

 「じん肺」とは、鉱山やトンネル掘削作業で発生する粉塵を多量に、長期間吸い込み続けることによって発症する病気。肺機能を損ない「肺がん」などを発症する場合も多いようです。ただし、発症までに時間がかかる場合もあり、「久根鉱山」のケースも、多くは閉山(昭和45年11月)、離職後の発症となったため、認定が難しかったのです。

 「久根鉱山」は、足尾鉱山の鉱害(公害)に学び、鉱害のない鉱山を目指してスタートしたはずだったのですが…。

 全国初の金属鉱山集団じん肺訴訟となった「遠州じん肺訴訟」は、昭和53年(1978)に開始され、平成元年(1989)2月10日、東京高裁において和解が成立。石碑では「すべての訴訟に勝利的和解を獲得した」と刻んでありました。何と、10年を超す長い法廷闘争の末の和解。原告団、弁護団、久根支部自治会連名の慰霊碑。

 比較的新しい歴史ですが、知らずに過ごして来てはいませんでしたか?「明光寺」からは、ヤマで栄えた西渡を流れる天竜川が見下ろせます。鉱害に倒れた人たちの魂は、今どんな思いで眺めているのでしょうか?二度と繰り返してはならない歴史です。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●「道がクネクネと曲がりくねっているから、『久根』?」…
 ●明治初年まで「片和瀬鉱山」と呼ばれた「久根鉱山」の始まりは…
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 ●かつて「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されて…
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2009年2月22日 (日)

原田久吉翁について、もっと知りたい③

Kazutumite  出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた、旧中部小学校跡でのことです。

 ちょうど、近くにお住まいの竹内さんと出会いました。私が、原田久吉翁の話をすると「じゃあ、ついて来て!」と案内してくれたのは、少し遊歩道を下った辺りの踊り場。何と、そこには、ピカピカに磨かれた石碑が建ち、「大正十三甲子仲秋 八十八翁 原田二楽」と読める文字が…。「原田二楽」すなわち原田久吉翁の「米寿」祝いに詠んだ歌が刻まれていました。

 「何て書いてあるんだろうね?」と竹内さん。「何て書いてあるんでしょう?」と私。しばらく碑文を眺めていたら、何となく読めて来ました。

 「数つ美(み)て ほ古(こ)らぬ穐の 米俵」

 読みやすく直すと「数積みて 誇らぬ穐(あき)の 米俵」だろうと思います。「穐」は「秋」のこと。「火」の字を嫌い、めでたい「亀」の字を使うようになったのだとか。原田翁の出身地、中部には大火に見舞われた歴史があります。そんな大火の記憶が「穐」の字を使わせたのでしょうか?「米寿」と「米」をかけた歌。いかがでしょうか?

 大正13年(1924)に自らの「米寿」を祝って詠んだ歌です。「第二原田橋」の竣工が大正12年(1923)、「二本杉峠新道」の完成が大正15年(1926)ですので、「米寿」を迎えたのは、ちょうどその間。歌碑は、郷土を見渡せる場所に、竹内さんをはじめとした地元の人に守られて立っていました。

 「ご飯食べていかんかね?」「え~、いいんですか~?」。碑面に映っているのが、心優しい竹内さんです。「ご馳走さまでした~」。

 *歌の読みについて、佐久間町羽ヶ庄出身で千葉県在住の夏目さんの手元に残る資料を参考にさせていただきました。「数へみて…」と読む人もいるようです。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
 【関連記事】早川家に残された原田久吉翁揮毫の扁額
 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
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2009年2月19日 (木)

「久根鉱山」選鉱所跡が…

Kune  国道473号から天竜川方面を見晴らすと、「久根鉱山」選鉱所跡が見えます。「久根鉱山」を紹介する記事中でしばしば見かけるこの姿。天竜川の向こう岸からかな?と思っていたのですが、偶然、こちら側確認できる場所に出くわしました。

 少しだけ歩いてみました。すると…

 道の脇に建てられた赤錆びた柵―H字鋼を柱にしてあるのだと思いましたが、よく見るとこれがレールの再利用。写真を見ると、断面の形が良く分かると思います。片側が太くてやや幅が狭くて、この形はあきらかに鉄道に使われたレールの形。

Rail  「久根鉱山」の鉱石運搬を狙った鉄道には、以前紹介した「旧国鉄佐久間線」の計画もありました。また、JR飯田線「中部天竜」駅の構内には、「久根鉱山」専用のプラットホーム跡も残っているようです。しかし、このレールはそんなものではありません。あくまでも、専用線。おそらく、鉱山で採掘された鉱石は、トロッコに乗せて運ばれ、川べりのあの選鉱所に運ばれ選別。そこから、船に積まれて天竜川を下って行ったのだろうと思います。

 「久根鉱山」での採掘は昭和45年(1970)まで続きましたが、その後、選鉱所もトロッコも役割を終え、未だに坑道から出る水を処理する施設が残っている以外は「廃墟」となっています。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●「道がクネクネと曲がりくねっているから、『久根』?」…
 ●明治初年まで「片和瀬鉱山」と呼ばれた「久根鉱山」の始まりは…
 ●佐久間の「大鏡山明光寺」境内で、「じん肺物故者慰霊碑」を見つけました…
 ●「久根鉱山」での、鉱石採掘は昭和45年(1970)まで続き…
 【関連記事】農業や山仕事を捨てて働く―「久根鉱山」
 ●かつて「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されて…
 ●佐久間町西渡で「久根鉱山」の沿革に関する資料と「鉱業所の全景」の写しを…
 【関連記事】「久根鉱山」の「名合支山」とは?
 【関連記事】あの頃の写真が語る「久根鉱山」
 ●久根の鉱石を満載して天竜川を下ったのは「鉱石船」と呼ばれる帆掛船…
 【関連記事】帆掛け舟の連なる壮観―「鉱石船」

2009年2月18日 (水)

田舎暮らし情報を集約 浜松市、新年度に事務局

Cafe  あこがれの田舎暮らしを実現して―。浜松市は新年度から、中山間地域への移住や現地住民との交流を希望する市民向けの情報を集約する「(仮称)浜松田舎ぐらし推進事務局」を天竜区役所内に設置する。情報提供の総合窓口となるほか相談員の配置や体験ツアーの企画などを進め、潜在的なニーズに応える。

 市は昨年、市域の3分の2を占める中山間地域の魅力を広く発信するためのネット上の地域SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を開設。今回は専用のホームページを作り、田舎ならではのイベントや体験メニューなどの情報を一元化する。

 すでに移住している人や地域住民ら“田舎暮らしの先輩”を相談員に委嘱し、実際の生活経験に基づき具体的な相談に乗ってもらう。相談員が聞き出したニーズや課題は地域住民に情報提供し、受け入れ側の意識向上や体制づくりに役立てる。

 手軽な交流体験としては、住民の暮らしぶりに触れる「交流体験ツアー」を企画。そばうちやアユのつかみ捕りなど地域資源を生かした体験プログラムと併せて、住民との触れ合いや交流の場を積極的に提供する。

 定住を決めた人の現実的な相談にも対応するため、空き家の提供など受け入れシステムを研究する委託事業にも乗り出す。

 市担当者は「田舎暮らしに興味はあっても不安を感じている人は多いはず。情報を幅広く集め、夢のある話も大変な部分もあるということをアドバイスできるようにしたい」(地域自治振興課)と話している。(「静岡新聞」より)

 記事中で書かれているHP「浜松ほくえんCAFE」からリンクの申し入れがありました。私たちも、この「だいすき!北遠」を通して北遠に興味を感じる人、実際に足を運んでみる人、地元の人や文化と交流してみる人が、1人でも増えることを願っています。SNSに関しては運営の難しさが発生しそうですが、目的は私たちと一緒。期待しています。

2009年2月17日 (火)

「火気に注意」―秋葉山の防火看板

Hinoyoujin2  秋葉山と言えば、全国にその名を知られた火防(ひぶせ)の霊山。「秋葉神社」「秋葉寺」のお札をいただき、それぞれの家に貼ってさえおけば火事は防げます。そんな霊験あらたかな秋葉山ですから、この山で火事なんて…。

 ところが、ところがです。秋葉山は昭和18年の山火事により、「秋葉神社」の「随身門」や、「秋葉寺」の「仁王門」などを除き、山頂の建物のほとんどは灰となってしまったのです。やはり、火の注意を怠れば、大事を招くことになります。

Hinoyoujin_2  そこで、参道の坂道には「火防のお札」ではなくて、こんな「火気に注意」のホーロー看板が提げられていました。看板の他にも、消防団が書いたという「歩きタバコ禁止」「禁煙」などの文字があちこちに見られます。ところどころに残された、当時の山火事で焼けたと思われる大きな杉の根には、焼け焦げらしい黒い炭化の痕も見られます。

 昨日(16日)には、風速5~8メートルもの風が吹いていました。一瞬の火の不始末が大火につながります。これは、もちろん秋葉山だけに限りません。いつでも、どこでも「火の用心」。肝に銘じてください!

 ●「秋葉山本宮秋葉神社」下社に翻る「正一位秋葉神社」の幟…
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 ●秋葉山本宮秋葉神社の少し奥の山道を下った辺り…
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 ●「エビス完全飼料」のホーロー看板は…
 ●「ホーロー看板」って、ご存知ですよね?…
 【関連記事】懐かしい「キンチョール」のホーロー看板
 【関連記事】佐久間・浦川で出会ったホーロー看板
 ●写真のホーロー看板は、佐久間町西渡の「舟戸(ふなと)商店街」で…
 ●またまた、佐久間で見つけたレトロなホーロー看板の紹介…
 ●春野町長蔵寺で見つけた「三菱かつらエンジン」のホーロー看板です…
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 ●「三和シヤッター販売店」のホーロー看板は、縦と横の2タイプ…
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 ●マニアの間では金融系に分類される「第一證券」のホーロー看板…
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 ●黄色いホーロー看板は「完全配合飼料 ニップン飼料」のものです…
 ●軍配印「農薬 肥料 石灰窒素 電気化学」のホーロー看板です…
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 ●4枚の農業系ホーロー看板の1枚として紹介した「東亞化成肥料」の青い看板は…
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 ●「うまい酒 清正」のホーロー看板は、愛知県半田市にあった「田中酒造」のもの…
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 ●「電球はナショナル」のホーロー看板で思い出されるのは…
 ●天竜区熊で見つけた、赤地に白文字「蛇の目ミシン」のホーロー看板です…
 ●佐久間町と愛知県との県境付近、川上で見つけた「酒はシキシマ」の横型のホーロー看板と「清酒 敷嶋 シキシマ 伊東醸」の縦型看板…
 ●「自動模様編機の開発メーカー アルス編機 編物教室」のホーロー看板…

2009年2月16日 (月)

原田久吉翁について、もっと知りたい②

Tenpaku  原田久吉を探るシリーズ②です。

 佐久間の「馬背神社(ませじんじゃ)」の境内には、「脇社」と呼ばれる神社が並存しています。その中の一つが「天白神社」。ここで、原田久吉の名前が書かれた木札を見つけました。「天白神社本社及拝殿再建 横濱市宮嵜町 原田久吉 大正六年八月十五日」(*写真をクリックすると拡大されて文字が読めます)とあります。あの、中部(なかべ)出身の原田久吉翁だと思います。

 原田翁(1837-1929)は、横浜で西洋建築の勉強をし、事業を成功させたと聞いていましたが、大正6年(1917)には「横濱市宮嵜町」、現在の横浜市西区宮崎町に住んでいたのでしょう。「原田橋」が竣工したのが大正4年(1915)ですので、その2年後、80歳の時に、この「天白神社」再建のために寄付をしたことになります。

Mastumo  「天白神社」は、「馬背神社」の右奥。建物はやや小さめですが、拝殿の飾りなど「馬背神社」のそれを上回るような立派な造りです。原田翁は、横浜市のお寺「二楽山西福寺」にも寄付し、その号「二楽」の名を山号に残しています。

 境内で偶然出会ったお年寄りに教えていただくことができました。「原田久吉は、この松茂神社に祀られているんだよ」。え~、「馬背神社」の隣りに建つ、この神社にですか~?「郷土の偉人だからね」。

 「松茂神社」も本社と拝殿を備えた造り。拝殿前に建つ2基の献燈の意匠がオシャレなのは、原田翁と西洋建築との関わりを彷彿とさせてくれます。背面に刻まれた名前が「原田○○」となっていますので、原田家ゆかりの人による奉納でしょうか?

 「学校では、原田久吉のことを教えていないようだ。子どもたちにも、郷土の偉人の名前と功績を伝えていかなくては…」。「この下に、原田久吉が寄付して建てた中部小学校があるから、見ていくといいよ」と、にこやかに指差してくれました。廃校となった旧中部小学校のお話は次の機会にいたします。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
 【関連記事】早川家に残された原田久吉翁揮毫の扁額
 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
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2009年2月14日 (土)

1時間に10ミリ前後の雨が降っています。

 佐久間のアメダスです。夕べから今朝にかけて強い雨が降っているようで、1時間雨量が10ミリを超えた時間帯もあります。気象庁では「強い雨」の定義を「1時間に20ミリ以上30ミリ未満」としているようですが、実際には5ミリの雨でも「強い雨」と感じるほどですので、10ミリを超す雨では、とても外に出る気にはなれません。

 取水制限の「佐久間ダム」には、水が貯まりましたかねえ?

時間 気温
(℃)
降水量
(mm)
風向
(16方位)
風速
(m/s)
日照時間
(分)
積雪深
(cm)
14日
(土)
6時 15.2 9.0 東南東 1 0 ---
5時 16.1 8.0 西南西 1 0 ---
4時 15.5 12.5 東北東 1 0 ---
3時 14.5 10.0 東北東 2 0 ---
2時 13.9 9.5 2 0 ---
1時 13.6 10.0 東北東 2 0 ---
0時 13.4 7.5 東北東 2 0 ---
13日
(金)
23時 12.7 5.5 東北東 2 0 ---
22時 12.0 4.5 東北東 3 0 ---
21時 10.9 4.0 東北東 2 0 ---
20時 10.0 2.5 西 1 0 ---
19時 9.2 2.0 2 0 ---

2009年2月12日 (木)

原田久吉翁について、もっと知りたい①

Haradabashi  佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号、中部と川合の間に架かる吊り橋。そして、もう1本は、県道290号(水窪羽ヶ庄佐久間線)、河内川に架けられています。

Nihonsugi どちらの橋も「原田橋」だそうですが、大正4年(1915)架橋の天竜川に架かる「原田橋」に対し、かつては「第二原田橋」とも呼ばれた橋は、大正12年(1923)。そうです。この2本の橋はともに、中部出身の原田久吉翁(1837-1929)の寄付によって完成したものです。

Niraku  原田久吉翁は、水窪羽ヶ庄佐久間線の新道建設にも尽力しました。「二本杉峠」に建てられた顕彰碑に、原田久吉の功績が刻まれていました。文字はすでに風化が進み、はっきりとは読み取れませんが、「二本杉峠新道碑」の文字の横には、「九十一歳二楽」と原田久吉翁の号と落款が刻まれていましたので、この文字も久吉翁本人の手になるものでしょう。満92歳で長寿を全うした久吉翁にしてみれば、「九十一歳」とは満年齢では90歳。「大正十五丙寅年十月」とありますので、新道開通は「第二原田橋」架橋の3年後になります。

 このあとも、原田久吉翁については、数回に分けて紹介させていただくつもりです。ご期待ください。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の…
 ●原田久吉を探るシリーズ②です…
 ●出会いは偶然でした。原田久吉翁の遺徳を偲ぶために訪れた…
 ●「名望家」。聞きなれない言葉です。多くの人びとから尊敬され…
 ●原田久吉翁(1837-1929)の号は「二楽」。原田翁の揮毫には…
 ●「原田久吉翁の功績を記した石碑が、もう一つあるよ」と…
 【関連記事】早川家に残された原田久吉翁揮毫の扁額
 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
 【関連記事】「二本杉峠新道碑」除幕式の思い出
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 【関連記事】これが、あの原田翁揮毫の扁額です。
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2009年2月10日 (火)

海から遠く離れた「えびす様」―「蛭子神明神社」

Hirukojinja  春野町石打松下の「蛭子神明神社」。「蛭子」は「ひるこ」と読みます。『古事記』で国産みをしたと伝えられた伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が、はじめに産んだのが「蛭子命」。ところが、この「蛭子命」は、両手足、目鼻などがない不具の子として生まれます。

 この「蛭子命」は船に乗せられて流されてしまいます。流された「蛭子神」が流れ着いたという伝説は日本各地に残っていて、昔から、漁民の間では海獣の死体などの漂流物を「蛭子(えびす)神」と呼ぶ風習がありました。

Kamiike 「蛭子」は、「恵比寿」「夷」「戎」「胡」等の字が当てられますが、これらは、すべて海の向こうから来た異民族を表す漢字と同じ。春野の「蛭子神明神社」が、どんな縁起かは調べてありませんので、どんな霊験があるのかも分かりません。

Tsurugashiwa 鳥居をくぐると拝殿の脇に、錦鯉が泳ぐ小さな「神池」がありました。立て札に書かれた池の由来によると…。

 「昔、ある人が、身体全体に腫物ができ、あれこれと治療を加えたが、治らず困った末に、このお宮の生きた魚に願掛して平癒を願ったところ、神のお恵みあってか、快方に向い全治したという。そこでこのお宮には病気平癒の神として遠くまで知られ、信仰厚く参拝者も多く、氏子の人達が池を奉納したと伝えられています」

Ebisu  不具の子「蛭子命」と「神池」の言い伝え。海から遠く離れた山里に祀られた「蛭子命」の謎を解く鍵は、もしかしたら「雨乞い」にあるのではないか…と、これはあくまでも推測です。拝殿に張られた幕に描かれていたのは「丸に蔓柏(つるがしわ)」の神紋。恵比寿さまと同じですね。

 下の写真は、「佐久間民俗文化伝承館」に展示されている「鯛抱き恵比寿」の土人形です。

 ●「エビス完全飼料」のホーロー看板は…

2009年2月 9日 (月)

里原―「天神」さまの白梅

Ume  「天神」とは、菅原道真を祭神とした天満宮のこと。九州の大宰府に流された道真の怒りを鎮めるための怨霊信仰の代表例と言われる神社です。

 道真は「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の歌を詠み、道真を慕った梅が大宰府まで空を飛んだとされる「飛梅伝説」が残るほど、「天神」と梅との関係は強く、神紋にも「梅鉢紋」が使われています。

 立春も過ぎ、梅の花も珍しくはなくなって来ていますが、梅の花なら「天神」のものをとの思いから、春野町里原(さとばら)の「天神神社(てんじんじんじゃ)」の梅の写真を掲載します。「どこの梅だって、変わりっこないじゃん!」。そう言わずに、春野(春の野)の「天神」さんの梅。これが、日本の梅の代表選手です。

Michizane  「天神」さまの神使は、今年の干支の「牛」。今、受験シーズンの真っ最中となれば、「学問の神様」菅原道真のこの記事を読むだけでも、受験生にはご利益があるかも…。

 もちろん、この「天神神社」の神紋も、「梅鉢紋」でした。

 下の写真は、「佐久間民俗文化伝承館」に展示されている菅原道真をかたどった土人形です。

 ●3月初めは暦の上では厄日だったため、お祓いのために…

 【関連記事】文字が刻まれた石―里原用水路に関わる話
 【関連記事】昭和7年「時局匡救事業」に学ぶ

2009年2月 8日 (日)

「山の講」の御幣を見つけました。

Yamanokou  昨日、2月7日は「山の講」。検索辞書『大辞泉』によれば、「山で働く人たちが、初春と初冬の二度行う山の神の祭り」とあります。だったら、探してみよう!

 …と、言うわけで、春野の山道を走ってみました。

 小さな祠に飾られた赤と緑で折られた逆三角形。どうやら、これが「山の講」の御幣です。春野町豊岡で見つけました。

 「山の講」というのは、もともと「山仕事の仲間の集り=山の神の信仰集団=講」。山の神信仰は、古代山村住民の原始素朴な民間信仰として生まれ、発展継承されてきたものです。つまり、集団で執り行われるものだったと思われますが、現在では、個々の山主が祀っているようです。

 「この山の神の祭り日には、いかなる事情があろうとも、なんぴとも山中へはいることは許されない。もしこの禁を犯して山へゆくと、必ず大変事が起こる。山崩れに遭って圧死するとか、倒れ木の下敷きとなって大怪我をする」との言い伝えが…。

 山の神を信じるかどうかは、各自の心の中の問題。しかし、長年伝えられて来た山の習俗が、次第にその色を薄めつつあるのをこのまま見過ごして良いのでしょうか?林業の衰退と歩調を合わせて、大切な日本人の心まで失くしてしまったような気がします。北遠の「山の講」は、誰でも知っている山の行事ではなくなってしまったようです。

 【関連記事】「山の講」と「針供養」
 ●2月8日は「コト八日」の送り神…
 ●これも、春野で見つけました。神社の裏山に立てられた「山の講」の…
 ●2月7日に行われた「山の講」の御幣の形は…
 【関連記事】今日は「山の講」―山の神へ供える御幣

 【関連記事】2月7日「山の講」―「おはぎ」販売
 【関連記事】2月7日は「山の講」―『月花園』でおはぎ限定販売

2009年2月 2日 (月)

川根から続く秋葉道―田河内の常夜燈

Tangouchi  春野は浜松市と合併しましたが、熊切川を遡った辺りの集落、田河内(たごうち=地元では「たんごうち」と呼んでいるようです)から一山越せば、そこはもう川根町。大井川水系の文化が残る川根から続く秋葉道の路傍に、木造の「秋葉山常夜燈」は立っていました。

 Kawara この常夜燈は、「龍燈(りゅうとう)」と呼ばれる遠州地方独特の形。本来は、常夜燈の灯りを雨や風から守るために覆った「鞘堂(さやどう)」とされ、中に石造の常夜燈が残っている場合もあるのですが、田河内の常夜燈の中には、埃を被った電球が…。江戸時代に建てられたと伝えられ、以前には菜種油に火打石で火を灯す当番が決められていたそうです。

Kawara2 切妻の大きな屋根と連子窓。裾の緩やかに広がるフォルムは、中東遠に多く見られる形。棟瓦には「秋葉山」の文字と、火防(ひぶせ)信仰と関係の強い龍の図柄が焼かれ、隅瓦には秋葉神社の神紋とされる「七葉紅葉」に良く似た天狗の団扇のような形です。ただし、「秋葉山」の文字が、左から右へと書かれていますので、建立当時のものではなく、修復されたものと思われますが…。

 私が知る限り、これが春野に残る唯一の「龍燈」。川根から秋葉詣に向かった人は、この常夜燈に灯る明かりを見つけ、「秋葉山はもうすぐか?」と先を急いだのだろうと思いますが、いやいや、なかなか…。秋葉山はおろか、熊切の旅籠まででも、まだまだ距離がありますよ。

 【関連記事】秋葉山常夜燈―城西地区「芋堀」
 ●佐久間町浦川で、秋葉山の常夜燈を見つけました…
 ●浦川地区川上で、秋葉山常夜灯を見つけました…
 ●路傍に建つ「秋葉山常夜灯(燈)」も灯籠なら、神社や寺院に建つ…
 ●「新宮池」に到着する最後のコーナー。「和泉平(いずみだいら)」の道路脇と茶畑の中に一対の石灯籠が…
 ●春野町勝坂、赤い吊り橋「勝坂橋」を渡りきったところに立つ「常夜燈」…
 【関連記事】「左あきは道」―「瑞雲院」の常夜燈
 ●春野町領家和田之谷の天王社の石段の途中、少し崩れかけた秋葉山の「常夜燈」が…
 【関連記事】「弘化5年」に建てられた「秋葉山常夜燈」
 ●春野町平木の路傍に建つ常夜燈。火袋下の中台、右から左に「御大典紀念」…
 ●春野町豊岡植田(うえった)の高台に鎮座する「八幡神社」の石段脇にある常夜燈が…
 【関連記事】気田川の流れを見つめ続けた野尻の常夜燈
 ●春野町静修、秋葉道の分岐に建つ常夜燈…
 【関連記事】常夜燈に刻まれた「江戸三河町」とは?
 ●「秋葉山常夜燈」、春野町砂川(いさがわ)の東(ひがし)の茶畑で出会いました…
 ●佐久間町佐久間の「佐久間神社」のすぐ下に、常夜燈の基壇と台石が…

2009年1月29日 (木)

廃校に立つ「二宮金次郎像」に学ぶこと

Miyakawa1.柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり
 親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し
 兄弟仲よく孝行つくす
 手本は二宮金次郎

2.骨身を惜まず仕事をはげみ
 夜なべ済まして手習読書
 せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ
 手本は二宮金次郎

3.家業大事に費(ついえ)をはぶき
 少しの物をも粗末にせずに
 遂には身を立て人をもすくう
 手本は二宮金次郎

Toyooka  作詞・作曲ともに不詳ながら、「文部省唱歌」として明治44年(1911)から「尋常小学校」の2年生で歌われた『二宮金次郎』です。

 「代々同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれた村民ではないか。死ぬのを黙って見ている道理はあるまい。貧乏人の中には怠けてそうなった者もおり腹が立つだろうが、それでもなお銭一文を施し、米ひとすくいを与えるのが人情というものだ。未来の実りを信じて今こそ飢餓を救うのだ」―と、これは金次郎が余裕のある農民たちに語った言葉だとか。

 2基とも廃校となった小学校跡に佇むもの。両手で本を持つのが「旧宮川小学校」で、左手で背負子の肩紐を握るのが「旧豊岡小学校」。

 「代々同じ村に住み、同じ水を飲み、同じ風に吹かれた村民ではないか…」。

 「派遣切り」「内定取消し」「契約打切り」「途中解雇」―100年に1度と言われる経済危機の厳しい年の初めを迎え、学校は廃校となりながらも「勤勉」「努力」の象徴として校庭に立ち続ける「二宮金次郎像」を、私は、私なりの思いで眺めてみました。

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2009年1月19日 (月)

仇山地区「山栄社」の屋台「ヨイソリャ!」

 毎年10月、気田地区の南宮神社で開催される祭典で引き回される屋台の動画を見つけました。「山栄社」のものとのこと。

 屋台は真っ直ぐに引かれずジグザグに引かれます。掛け声が「ヨイソリャ、ヨイソリャ!」と、これは同じ周智郡だった森町の屋台と同じ。掛川の掛け声にもちょっと似ています。浜松市に合併しましたが、「オイチョ、オイチョ!」の浜松とは大違い。

 田河内の秋葉山常夜燈「龍燈」の形も裾が広がっていて、実はこれも中東遠に多い形。一言で「北遠」と括ってしまいがちですが、文化的なつながりは地域ごとにさまざま。こんなところにも、磐田郡ではなくて周智郡だった歴史が、ちょっとだけ垣間見えますよ。そんなことを感じながら、動画を見てください。

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2009年1月17日 (土)

「錦橋」に私財を投じた「四門 錦」

 Kinbashi  「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の「島中」と「柏古瀬」の間に架かり、鮎で有名な大千瀬川を渡る橋。

 …と、ここまでは以前紹介したことがあります。地元では「きんばし」ではなく、「おきんばし」と呼んでいること、その「おきん」とは、この橋を架けるに当り私財を投じた、四門 錦(よつかどきん=四ッ門きん)という女性の名前に由来することを、佐久間中学校の校長先生から伺いました。

 そして、後日、橋のたもとに立つ「錦橋の碑」を見つけました。その碑の脇には、由来を説明した解説板が立っていましたので、ご紹介します。

Kinmashinohi  明治36年(1903年)(当時)大千瀬川には橋がなく、川合・島中・小田敷方面との往来には、渡船が利用されていました。渡船は川の水量が少しでも増すと、渡場は閉ざされて利用できなくなるのが実情でした。

 この状況を見かねた(当時)小田敷区在住の四門 錦(よつかどきん)さんは奮起し、実に2,480余円の私財を投じてこの地に橋をかけたのです。

 ○橋梁起工 明治36年8月
 ○竣   工 明治37年6月
 ○橋の延長 40間(約73メートル)
 ○  幅    6尺(約1.8メートル)

 この時、村人は歓呼し、大いにその竣工を喜び合いました。

 四門 錦さんの恩恵に浴する多くの人々が集い、錦さんの遺徳を偲び、その業績を後世に伝えんと、大正3年(1914年)4月吉日 ここに在る「錦橋の碑」を建立したのです。(以下略)

Kinbashi2jpg  …と、これが、その内容です。

 しかし、現在の「錦橋」は3代目とのこと。以前の「錦橋」は吊り橋だったらしく、よく見ると、すぐそばには、ワイヤーの錨留の遺構も残っていました。当時の2,480余円が、現在のいくらに当るのかは分かりませんが、莫大な金額であったことは想像がつきます。「原田橋」は原田久吉翁、そして「錦橋」は四門錦媼(1842~1906)によって架けられたもの。佐久間の人たちは、その名前を守ることで先人の功績を語り伝えようとしています。

 ●「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋…
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…

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2009年1月16日 (金)

「大井橋」塗装工事―3月10日まで

Ooibashi  国道473号、佐久間町大井に架かる「大井橋」では、橋梁の塗装工事が行われています。期間は、3月10日までの予定。期間中は、片側交互通行となっています。週末は大丈夫かも…。だって、18日(日)は「さくま新そばまつり」ですからね。

2009年1月12日 (月)

旧熊切小の門は「紀元2541年」建設

Mon  春野の熊切小学校は、明治6年(1873)11月に「石打松下学校」として開校されましたので、今年で何と135年。その後の昭和44年(1969)、熊切小、花島小、田河内小が統合され、現在に至っています。

 写真は、熊切小学校の昇降口に保存されている旧熊切小の玄関に建てられていた木製の門。昭和54年に古い校舎が解体された時に、現在の位置に移されたそうです。ちなみに、明治17年、当時の周智郡長蔵寺村の大工・宮本八十八が建て、龍の彫刻は気田村(原文のまま)の彫物師・天野松五郎が作ったとの解説板が掲げられていました。

Ryu  この素晴らしい龍を見てください。小学校の門と言うよりも、まるで、神社やお寺の門のような豪華さ。しかも、「明治17年」と並んで「紀元2541年」との表記も。これは、もうただものではありません。

 ご存知ですね?明治5年以降、日本では西暦ではなく「皇紀」を使用していました。「皇紀」とは、神武天皇が即位したとされる日本の建国(西暦で言えば紀元前660年)から数え始めた紀年法のことで、「紀元」とも言いました。キリのいい紀元2550年(明治23年=西暦1890年)には、神武天皇が即位した場所に「橿原神宮」が創設 されました。

 長引く戦争で国民生活が悪化し始めた皇紀2600年(昭和15年)、幻の東京オリンピックが開催される予定だったのが、この年です。一般にゼロ戦としてよく知られている大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」は、この年に採用されたことに因んだ名称だということは、よく知られたところです。どうですか?「皇紀=紀元」を思い出しましたか?

 はい、思い出しました!さすがに歴史が息づく町、春野です。

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2009年1月10日 (土)

明善記念館で「矢高濤一」と対面

 Yataka 天竜川治水に全財産を投じた「金原明善」の名は百年後の今も語り継がれています。天保3年(1832)、現・東区安間町に生まれた翁は、「あばれ天竜」を治めるため、明治10年(1877)、治水事業に私財63,516円(当時、米1俵1円50銭)の寄付を申し出ました。「治水には治山が必要」と林業にも目を向け、植林にも尽力。

 幕末、維新、維新後の当時、天竜川中流域の村々では、東京木材市場での遠州材の高騰により、林野の盗伐が目に付きました。これが洪水発生の原因であると考えた金原明善は、調査の結果、旧・瀬尻村付近の河内奥の官林が、将来土砂崩れの危険性が高いと判断。土砂の流出を防ぐために、スギ苗240万本、ヒノキ苗30万本を植林したのです。これが、現在「天竜美林」と讃えられる北遠の森林の始まりです。

 この時の調査や作業に当る人集めなどに協力したのが、幕末期に浦川村で堤防や水路工事を敢行した「矢高濤一(やたかとういち)」。「矢高」は、明善の考えに基づき計画を練り上げ、東奔西走。「矢高」からの準備が整ったという報告を受けた「明善」は、植林着手の予定を一年繰り上げて、明治19年(1886)から実施することができました。

 そんな「矢高濤一」の写真を、安間町の「明善記念館」で見つけました。例え偉大な「金原明善」であっても、「天竜美林」は決して一人の力で出来上がったものではありません。「矢高」の他にも、名もない多くの人々の力が合わせられてこそできた「美林」。私たちは、この森林を、今よりもっと美しい森林にして、次の世代に申し送りたいものです。

 【関連記事】「浮森」とは?―暴れ天竜と闘った矢高濤一
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2009年1月 7日 (水)

神が宿る木―「木+神=榊」について

Sakaki  「蛭子神明神社(ひるこしんめいじんじゃ)」は、春野町石打松下に祀られています。赤い欄干の小橋を渡り、鳥居をくぐって拝殿の前に立つと、左右に2本の「門榊(かどさかき)」。門松もあるにはあったのですが、背の丈よりも大きな青々とした「榊(さかき)」が、正月の神社を清めるように立っていました。神霊の依代(よりしろ)?「榊」?「木+神=榊」?以前から気になっていましたので、ちょっと調べてみました。

 「榊」は、ツバキ科サカキ属の常緑小高木。神道の神事には欠かせない植物。古来、神の宿る木、栄える木と言われ、神事の時に供える「玉串(たまぐし)」は、この「榊」に紙垂(しで)や木綿(ゆう)をつけたものです。

 神を迎える、あるいは神を導く植物を「依代」といいます。常緑樹が多く使われ、その代表的が「榊」。ところが、気温が低くて「榊」が育たない地方では、「榊」に代えて、コナラ、ソヨゴ、マサキ、カシ、笹、ナンテン、マツ、ウメ…なども使われるようです。

 神事の席で神職から「玉串」を渡され、困ったことはありませんか?先の人のやり方を見て予習。ところが、いざ自分の番が来ると、横目でチラチラと隣を見て…。

 神前に「玉串」を捧げて拝礼することを「玉串奉奠(たまぐしほうでん)」と言います。この際、「玉串」の捧げ方を覚えることにしましょう。

 ①神職から「玉串」を渡された時は、右手で「玉串」の根元を上の方から持ち、左手で葉先を支えるようにします。このとき、左手(葉先)の方が高くなるように。
 ②「玉串」を捧げる案(あん=机のこと)の前へ進み、一損(いっちゅう=軽いおじぎ)し…。
 ③「玉串」の根元が自分の方向に向くように右手を引きます。こうすると、葉先が神前に向かうことになります。左手も根元に持ち替えて、祈念します。
 ④右手で「玉串」の葉先を持ち、時計回りに「玉串」をクルリと回して、根元が神前に向かうようにします。
 ⑤「玉串」を案の上に置き、二礼二拍手一礼をし、再び一揖して元の席に戻ります。

 これが、「玉串奉奠」の正しい作法。何となく知ってはいても、どこか自信がなかった人も、これでもう大丈夫。覚えてくださいね?

2009年1月 5日 (月)

「随身」に守られた「随身門」

Zuijinmon  「秋葉山本宮秋葉神社」の少し奥の山道を下った辺り、入母屋造りの「随身門」が建っています。色はあせかかっていますが、屋根下には彫刻の獅子飾りなどがあしらわれた豪華な造り。昭和18年の大火の被災を免れた唯一の建物だとのこと。さて、「随身」あるいは「随神」とは一体、何のことでしょう?

 「随身(ずいじん、ずいしん)」とは、平安時代以降、貴族の外出の警備のため随従した官人で、今で言えば「SP」みたいなもの。そのため、「神門」の左右に、神を守る者として安置されることも多くなりました。門の両脇の金網越しによく見れば、あれあれ、どこかで見たことがあるぞ?

Shishikazari そうです。確かではありませんが、これは、雛飾りでおなじみの「左大臣」と「右大臣」と同じものでしょう。「大臣」とは、君主の家来の最高位の官。あまりに権限を独占し過ぎてしまい強力になっていたので、「左大臣」と「右大臣」に分け、「左大臣」を「右大臣」の上位としました。その「左大臣」と「右大臣」が、しばしば神を守る「随身」「随神」となって、「神門」の警護に当っているのです。

 さて、では、これが「左大臣」「右大臣」だとしたら、どちらが「左大臣」で、どちらが「右大臣」でしょう?

Sadaijin  答えは、向って右が「左大臣」で、向って左が「右大臣」。これは、本殿から見ての位置で決まりますので、こうなります。雛飾りの場合も、同じように飾られる場合が多いですね。

 余談ですが、「大臣」とは君主の家来の意味ですので、現在の「大臣」の名前がふさわしいかどうかについては議論があります。代わりに使われるのが「相」の言葉。これも皇帝の補佐官を意味する言葉だということですので、「相」が「minister」の訳語にふさわしいかどうかについては…?

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2009年1月 4日 (日)

「火の用心!」―秋葉神社に奉納された纏

Matoi  空気が乾燥していますが、皆さんの家の火の元は大丈夫ですか?

 秋葉信仰が全国に広がったのは、江戸時代の中期。火災による焼亡から守ってくれる「火防(ひぶせ)信仰」として、爆発的な人気を集めました。そんな「秋葉山本宮秋葉神社」上社には、火消しの纏(まとい)が奉納されていました。

 纏は火消しのシンボルとして、消防団にも引き継がれたようですが、おおむね、上部には組を表す「頭」があり、「馬簾(ばれん)」と呼ばれる房飾りがついています。写真のものは、左から「二俣町」「熊村」「光明村」「下阿多古村」「上阿多古村」「竜川村」と木札が立てられていますので、おそらく昭和31年、1町5村が旧「二俣町」に合併した当時のものと思われます。

Pomp  「火の用心!チョンチョン♪」。冬になると、以前でしたら拍子木を打ちながらの夜回りでしたが、この頃では鐘を鳴らしながら消防自動車が回って来ます。「火の用心!」。今でも消防団は、集落各戸の代参として、「秋葉神社」「秋葉寺」の護符を貰い受け、配って歩く習慣が残っている地域もあります。「火の用心!マッチ1本火事の元!チョンチョ~ン♪」。

 2009年、春野町の消防出初式は1月4日(日)。午前9時30分より、春野中学校体育館で行われます。

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2009年1月 2日 (金)

「初夢」―もしも悪い夢を見てしまったら…

Fuji  新年2日の夜に見る夢を「初夢」と言い、誰もが好い夢を見て「正夢」になることを願います。良い夢の代表は、「一富士、二鷹、三茄子」。その起源については、諸説あるようですが…。

 しかし、誰もが良い夢を見れるとは限りません。悪い夢を見てしまった時に対処法について、「さくま郷土遺産保存館」で勉強しました。

 解説板によると…

 紙で二双船を作り、「ナカキヨノトオノネフリノミナメサメナミノリフネノオトヨキカナ」と書いて川に流すと良いと言われています。

 「長き夜の、遠(とお)の眠り(ねぶり)の皆目覚め、波乗り舟の音の良き哉」。前から読んでも、後ろから読んでも同じに読める「回文歌」になっています。意味ははっきりとはしませんが、呪文とはそんなものでしょうか?七福神を描いた宝船の絵に、この「回文歌」を書いて枕に敷いて寝ると、良い初夢が見られるとも言われています。

 また、南天の木にホゲ(息)を3回かけ、「ユメミタリヤユメケヤシ、マクラノシタノ、タマテバコ、アケテミレバナニゴトモナシ」と唱えると、夢消やしになると言われています。

 …とも。

 こちらの意味は分かりやすいです。「夢見たりや夢消やし、枕の下の玉手箱、開けて見れば何事もなし」の意味でしょう。これによく似た呪文は、他でも聞いたことがあります。

 いずれにしても、こんな呪文の必要のない1年を過ごしたいもの。どなたも、今年1年が良い年になる「初夢」を見ましょう。

「おみくじ」は結んできましたか?

Omikuji  初詣に出かけましたか?「おみくじ」を引きましたか?運勢はいかがでしたか?金運はどうですか?「おみくじ」は結んできましたか?

 「おみくじ」は、神社や仏閣で吉凶を占い「籤(くじ)」のこと。「みくじ」は、「籤(くじ)」に尊敬の接頭語を付けたものですので「御+籤(みくじ)」となり、「おみくじ」となると、さらに「御」が付き「御+御+籤」となります。何だか、バカ丁寧で変ですね?そのため「お御籤」とか「お神籤」とか「お仏籤」とか、いろいろに書かれています。

 運勢は、「大吉・中吉・小吉・吉・凶」で表されますが、これも決まりはなく「大吉・中吉・小吉・吉・半吉・末吉・末小吉・凶・小凶・半凶・末凶・大凶」のほか、「大大吉」や「大大凶」のある「おみくじ」もあるとか。「大大吉」は嬉しいですが「大大凶」でも出たら、もう最悪!立ち直れそうにありませんね?

 さらに、探し物・待ち人・健康・金運・生活等の個別の運勢が文章で記されていて、これもなかなか気になるところです。

 引いた後の「おみくじ」を境内の木の枝に結ぶ習慣がある寺社もあります。これは「結ぶ」が「縁を結ぶ」に通じることから、江戸時代から行われてきました。しかし、最近では木の生長に悪い影響があるとの理由で、木と木の間に紐を渡し、その紐に「おみくじ」を結ぶようにするところが増えています。「大吉」だけは持ち帰るという話を聞いたことがあります。写真は、秋葉山本宮秋葉神社下社で撮りました。でも、どうしましょう?あなたは、結んで帰りますか?それとも、持ち帰りますか?

2009年1月 1日 (木)

参拝の作法「二拝二拍手一拝」

Hairei  お正月です。初詣に出かける人も多いのでは?神社での参拝には、「参拝の作法」があります。今さら聞けない「参拝の作法」―調べてみましたので、この際、覚えておきましょう。

 神社の鳥居をくぐる時には、神殿に向かってまず一礼。鳥居をくぐって参道を歩く時は、中央(正中といいます)は避けて、右側か左側を歩くのが礼儀です。

 神社には、必ず手水舎(ちょうずしゃ、てみずしゃ)があります。参拝をする人は、参拝前に口をすすぎ、手を洗うことで、心身を清めます。

Hatsumoude  <手水の作法>

 ①まず、姿勢を正して一礼をしましょう。
 ②右手に柄杓で水を汲み、左手にかけて洗います。
 ③柄杓を左手に持ち替え、同様に右手を洗い清めます。
 ④再び柄杓を右手に持ち、左手の平に水を受け、その水で口をすすぎます。このとき、柄杓に直接口をつけてはいけません。口をすすぎ終わって、もう一度左手にすべての水を流します。
 ⑤最後に柄杓を立てて、残った少量の水を柄杓の柄に流して清めてから、元の位置に伏せて正しく置きます。
 ⑥すべてが終わったら、また一礼。

 <二拝二拍手一拝>

 身も心も清浄になったところで、神前に向かいますが、ここでも正中を避けて歩きます。神前に近いところで、中央に立ちます。神社には、賽銭箱があります。また、鈴を掛けています。普通、賽銭を投げ入れて鈴を鳴らしてから、拝礼します。

Ema  神社に参拝する時の拝礼の作法は、「二拝二拍手一拝」あるいは「二礼二拍手一礼」。2回礼をし、2回手を叩き、1回礼をします。

 ①まず、軽く礼をします。これからお参りさせていただきますという気持ちを表すもので、これは「二拝」には含みません。
 ②直立の姿勢から深々と90度に身体を折り、頭を下げます。これを2回行います。これが、「二拝」です。
 ③次に手をパンパンと2回打ちます。両手を胸の高さできちんと合わせ、右手を少し引いて拍手を打ち、再びきちんと合わせて願いを込めます。これが、「二拍手」です。
 ④最後に、両手を下ろしてもう1回深々と90度に頭を下げます。これが「一拝」です。
 ⑤軽く45度の礼をして終わります。

 以上、「参拝の作法」を心得て、さあ、初詣にお出掛けください。「秋葉山本宮秋葉神社」は、火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工場発展の霊験あらたかな神社。元日午前0時から「開運祈祷祭」、午前6時から「歳旦祭」が執り行われ、境内が賑わいます。100年に1度の経済危機なんて、吹き飛ばしましょう!「祈祷」は終日行われます。

 ●「秋葉山本宮秋葉神社」下社に翻る「正一位秋葉神社」の幟…

2008年12月31日 (水)

除夜の鐘を聴く「明光寺のカヤの木」

Kaya1  「大鏡山明光寺」のカヤの木は、平成14年7月、旧佐久間町により「天然記念物」に指定されています。根廻り約4.2メートル、樹高約21メートル、推定樹齢300年との「佐久間町教育委員会」の立て札が立っていました。

 ところが、静岡県の環境影響データベース内では、「明光寺のオンコ」として、「オンコ(イチイ)」、幹周囲3.2メートル、樹高20メートルとなっている巨木が報告されています。

 さて、この「カヤ」と「オンコ(イチイ)」とは、同じものでしょうか?それとも…?

Myoukouji  「カヤ」はイチイ科カヤ属の常緑針葉樹。「イチイ」は、イチイ科イチイ属で別名「アララギ」。アイヌ語では「オンコ」とも呼ばれるのだそうです。となると、「カヤ」と「イチイ」とは、見た目ではさほど違っていないようです。となると…。

 申し訳ありません。結局、よく分からないままですが、静岡県では「イチイ」と思っていた木を、佐久間町では「カヤ」と判定したのかな?とにかく、静岡県内では樹種最大木のようです。

 今夜、「大鏡山明光寺」でも、除夜の鐘が撞かれるそうです。

 ●「瑞雲院鐘楼堂」は、弁柄(べんがら=紅殻)塗りの赤い鐘楼…

 【関連記事】「巨樹」「古木」の「目通り」「樹齢」とは

2008年12月29日 (月)

「水窪川電力工事殉職者」供養碑

Jynsyokuhi  「西渡発電所」は水窪川で取水。切開(きいなま)に堰堤(ダム)があり、そこから送水されて「中部電力」の4,600kWの発電機を回しているのだとは、すでに書いたとおりです。国道473号沿いに「殉職之碑」が建っていました。

 碑は「水窪川電力工事殉職者」の名前を刻み、「昭和貳年拾貳月廿九日」とあり、1927年12月29日、つまり今から81年前の今日、建てられたもの。福澤桃介が率いる「天竜川電力」により、天竜川水系の電源開発が開始されたその年です。実は、この年に完成したのが「西渡発電所」。お花が供えられていましたので、地元の人にとっては、忘れるわけにはいかない歴史の証人だと言えるでしょう。

 現在のJR飯田線、当時の「三信鉄道」が発足したのもこの年。先に紹介した「三信鉄道建設工事殉職碑」と同じように、碑の裏側には工事により命を落とした9人の名前が刻まれていましたが、中には朝鮮の人らしい名前も見られました。これは、佐久間ダムの工事でも同じこと。わが国近代化の礎(いしずえ)は、決して日本人だけの力で成し遂げられたのではない、ということを教えているような気がしました。忘れないようにしたいと思います。

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2008年12月28日 (日)

ペッタン♪懐かしい餅つきは「臼と杵」

Usu  もうすぐ新しい年を迎えますが、お正月の準備は済みましたか?しめ飾りは?門松は?お餅はつきましたか?

 写真の「臼と杵」は、「さくま郷土遺産保存館」に展示されているものですが、木の臼と「縦杵」。自宅で餅つきをするという家庭でも、ほとんどが槌型の「横杵」を使っていると思いますので、この「縦杵」も、ウサギの餅つきの絵の中くらいでしか見られなくなりましたね。でも、実は「横杵」が登場したのは江戸時代。それ以前、「杵」と言えば「縦杵」のことでした。

Kine_02  近頃「臼と杵」と言えば、餅つきと相場が決まっています。いや、門先で餅をつく年末の風景すら、すっかり見かけなくなりました。もともと「臼と杵」は、餅つきに限って使われた道具ではありませんでした。かつては、脱穀、精米、製粉のすべてが「臼と杵」で行われていました。米の栽培が難しかった佐久間の山里では、「臼と杵」は餅つきよりも、稗つきに使われたものかも知れません。

 餅つきに使われる「杵」は、めでたい図柄。家紋にも使われていますが、こちらはもっぱら「縦杵」。画像は「丸に並び杵」と呼ばれている家紋です。ペッタン、ペッタン♪餅つきの音が懐かしいですね?昔から、餅つきは28日か30日。29日は「苦餅」といってお餅はつきません。

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2008年12月27日 (土)

北遠の山里で、白壁の土蔵に出会う

Dscf0091  あなたの字が、「折れ釘のような字」と言われたことはありませんか?「折れ釘のような字」とは、どんな字でしょう?角ばって直線的な字?力が入り過ぎて、優雅さに欠ける字?「折れ釘」とは「折れた釘」。でも、釘がそんなに簡単に折れるものでしょうか?いやいや、鉄の釘が曲ることはあっても、ポキリ♪と折れることは滅多にありません。

 「折れ釘」については、以前紹介しましたが、土蔵修理の時の足場かけなどに利用されたと言われています。鍛造して作る時に、釘の頭を折り曲げたものです。

 写真の土蔵には、佐久間町中部の裏道で出会いました。漆喰の白壁には、折れ釘が5本、バランス良く並んでいます。どうですか?この配置が実用的なものとは思えませんよね?オシャレです。

 ちょっと歩くだけでこんな風景に出会えるのが、北遠の山里。「さあ、出かけよう!北遠へ」。耳を澄ませば、餅を搗く杵の音が聴こえて来るかも知れません。北遠の山里は、正月を迎える準備の真っ最中です。

 ●かつては、まゆ市場、木材の取引きなどで栄えた浦川の町には…
 ●オシャレな土蔵を見つけました。佐久間町中部(なかべ)です…

2008年12月25日 (木)

「もったいない」水の再利用「佐久間第二発電所」

 Dainihatsudensyo 佐久間小学校のところの「飯田線」のガードをくぐって先に進むと、金網越しに見えてくるのが「佐久間第二発電所」です。すぐ近くの「佐久間発電所」で使用した水がそのまま「佐久間第二発電所」に流れ込みます。つまり、水の再利用。「佐久間発電所」の「立軸単輪単流渦巻フランシス水車」4台に対し、「横軸円筒カプラン水車」2台。昭和57年に運転開始されました。

Housuisyo  「佐久間発電所」の水をそのまま使いますので、最大使用水力は同じ毎秒306㌧。ただし「佐久間ダム」からの落差を利用している「佐久間発電所」の有効落差133.49㍍に対して12.3㍍。したがって、「佐久間発電所」の最大出力350,000kWに対して、「第二発電所」は32,000kWと10分の1以下。それでも、少しでも落差を得ようと、排水は「戸口」まで送られて、このコンクリート建造物の下から、その水が流れ出しています。

 「32,000kW」とは、どれほどの発電量なのでしょうか?同じ天竜川に作られている「船明ダム」での発電量が、同じ「32,000kW」。派手なダムはないし、水の再利用だし、見てくれは地味だし…ですが、この「もったいない」精神の「佐久間第二発電所」は、どうしてどうして、あなどれない能力を持っています。

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2008年12月24日 (水)

スーパー林道・天竜線(林道天竜線・野鳥の森線)の冬期通行止め

Akiha  浜松市から「スーパー林道・天竜線」通行止めが発表されました。

 これは、路面凍結や落石等による事故防止のため、毎年冬季に実施されているもので、今回の通行止め期間は、平成20年12月28日(日)~21年3月31日(火)の94日間の予定。秋葉山本宮秋葉神社上社の第2、第3駐車場から水窪ダムまでの43キロメートル。ただし、東雲名起点から、秋葉神社までは通行できますので、初詣には支障ありません。

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発電所ではなくて「開閉所」?

 Kaiheisyo うっかりすると「佐久間発電所」と勘違いしそうなのが「開閉所」。奥にある発電所よりも手前にあるので、先ず目に付く広大な施設です。「これが発電所なんだ~」と思っていたら、フェンスには「開閉所」の説明板が…。「開閉所?聞いたことがないけど、何?」。はい、説明板を読んでみましょう。

これは発電機で起こした電気をいったんここに集め、ここから天竜川対岸へと張られている送電線にそれぞれ電力を送るために設備です。ここには、しゃ断機、開閉器、計器用変成機などの装置が並んでいます。

 …だそうです。

Toguchibashi  「開閉所」とは電力を送り出すための中継基地。パチパチと音がしているのは、この聞き慣れない「開閉所」の施設からのようです。それにしても「佐久間開閉所」と書くと、「間」「開」「閉」と「門構え」の文字が3つも並びます。鉄骨で組まれた「開閉所」の見た目も「門」の字がズラリと並んだような感じ。

 佐久間の風景をカメラに収めようとすると、必ずと言っていいほど送電線が邪魔をします。何も知らずに私たちが使っている電力は、山里のこんな施設から送り出されていたのですね。そういえば、今夜はクリスマス・イブ。そう、「はままつ冬の蛍」のあの巨大クリスマスツリー・イルミネーションの電気だって、実は佐久間の山里から送られているんですよ~。

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2008年12月23日 (火)

佐久間からの帰りは東栄町経由で

Kakesoba  NPOの店『いどばた』(053-965-0141)では、温かい「手打ち蕎麦」をいただきました。「これから、帰るの?どっちから?」と聞かれました。どっちから?どういう意味でしょう? 「ここからだと、来た道を帰るのと、愛知県を通って帰るのと、ちょうど同じくらいかな~」ですと…。

 思い出しました。先日、浦川中学校を訪れた時にも、校長先生から同じようなことを言われました。「ええ?東栄町を通って行くの?」「そう、川上を通って東栄町に入り、新城、鳳来寺、山吉田、引佐…。三方原聖隷に行く時なんかは、絶対にこっちの方が速い。道もいいしね」「でもね、愛知県経由って遠そうだけど…」「何言ってるの。愛知県って言うから、遠そうに聞こえるんじゃん。佐久間と三河は、同じようなもんだよ」。

 一口に「三遠南信」と言ってはいても、どうやら佐久間は三河とのつながりが強いようです。「三河弁で『おいでん』とか言う人もいるしね」「『おいでよ』の意味だよね。『食べりん』とかは?」「『食べりん』は聞かんね」。

 …というわけで、県境の橋「静愛橋」を渡り、東栄町経由で帰って来ました。小旅行気分で、時間も気になりません。途中、引佐で遊んで来ましたので、正確な時間は計っていませんが、確かに同じくらいかな?

 「中部(なかべ)の人は、どっちで行こうか迷うけど、浦川の人なら迷わず県道1号から国道151、東栄町経由だよね」とのこと。あなたも、試してみてください。中部はどっちをまわっても同じくらい。だから、「中部」なんですね。

2008年12月22日 (月)

戦後復興示した金字塔―佐久間ダム

Sakumadam  トンネル続きの山道の先に、巨大な姿が現れた。人間なら52歳。堤頂部の高さ155.5メートル、長さ293.5メートルというコンクリートの塊は1956(昭和31)年の完成当時、日本一の大きさだった。

 大きさだけではない。「日本の復興を世界に示した金字塔」「戦後土木技術の原点」――。戦後復興の電力不足を補う国策として建設された佐久間ダムは、さまざまな形容詞で語られた。

 全長213キロメートルの天竜川は長野県の諏訪湖から流れ出し、遠州灘に注ぐ。現在の浜松市天竜区佐久間町と愛知県豊根村にまたがる建設地は、地形の険しさに加え、洪水期の流量の多さや河床の堆積物の厚さなどから、「在来工法では10年かけても無理」と言われた。

 当時としては異例の国際入札を採用し、パワーショベルやブルドーザー、ダンプといった、今では当たり前になった大型機械を米国から導入。着工から3年半で完成させる「奇跡」を起した。

 この成功体験は、奥只見(新潟・福島)、田子倉(福島)、黒部(富山)など、相次ぐ巨大ダムの建設に受け継がれた。何より、萎縮していた戦後の日本人に自信を与えた。建設の記録映画は計約580万人を動員したという。

 「完成当時は観光バスがひっきりなしに通い、ダム湖に遊覧船が浮かびました」。電源開発(Jパワー)佐久間電力所所長代理の中川武さんは話す。

 時代は移り、新ダム建設には厳しい目が向けられる。佐久間ダムでも約300戸が水没し、天竜産材のいかだ流しという風景も消えた。そして今、ダム湖の堆砂や遠州灘(浜?)の侵食を防ぐため、山腹にバイパストンネルを開けて土砂を下流に流す計画が進む。(2008年10月28日付「朝日新聞」わがふるさと遺産「佐久間ダム」より)

 少し前の新聞企画記事ですが、「天竜川のダム再編事業費」が全額認められるというニュースが報道されたタイミングで紹介させていただきました。

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2008年12月21日 (日)

「天竜川のダム再編事業費全額認められる」NHKニュースより

 国の来年度予算の財務省原案が、20日各省庁に内示され静岡県関係では、天竜川のダム再編事業に要求していた、9億6500万円の全額が認められました。

 県西部を流れる天竜川では、浜松市にある発電専用の佐久間ダムに土砂がたまり続けていて、将来、ダムの機能が損なわれるおそれが出ています。

 また、下流に土砂が流れないため、天竜川の河口がある、遠州灘海岸の浸食が進む原因になっています。このため、国土交通省は、ダムに土砂をためずに下流に流す施設を整備したりダムの底を掘って洪水を調節する機能を持たせたりする事業の事前調査を平成16年度から今年度まで続けてきました。

 来年度は、工事用の道路の建設に着手することにしています。

 このほか、早期実現を目指している富士山の世界遺産登録に関連して広報活動費や海外への研究調査費などとして全国枠で、今年度よりも2000万円多い、7200万円が認められました。

 国の来年度予算案は、今月24日に閣議決定される予定です。(「NHK静岡のニュース」より)

 昨日の「静岡新聞」に続く「NHKニュース」です。内容はダブりますが、紹介させていただきました。この工法に関しては、賛否それぞれの意見があると聞いていますが…。「天竜川のダム再編事業」の詳しい内容については、こちらへ。

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2008年12月20日 (土)

浦川小学校に掲げられた「榎本武揚」の扁額

 Urakawagakkou 11月末、浦川小学校を訪ねた時に撮影した「浦川学校」の扁額。函館五稜郭の戦いで知られる幕臣「榎本武揚(えのもとたけあき)」の名前と落款が刻まれていました。

 校長先生の説明によれば、額の裏に「金原明善氏の紹介に依て揮毫を請願し矢高濤一翁寄付す」 と、「金原明善」「矢高濤一」の2人の郷土の偉人が関係していることを示す文字が書かれているとのこと。しかも、原本が校長室に残っているとなれば、これは、ただ事ではありません。

Enomoto そもそも「榎本武揚」とは、東京生まれの幕臣、政治家。安政3年(1856)長崎海軍伝習所に入所、文久2年(1862)オランダ留学。明治元年(1868)海軍副総裁となりました。江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で官軍に抵抗するが降伏。黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。7年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任し、現在の「東京農業大学」の前身「政治家徳川育英会英學農業科」を設立したことでも知られています。

 その「榎本武揚」と「金原明善」「矢高濤一」との関係については調べてみますが、浦川小学校には大変な「お宝」が掲げられていました。

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2008年12月19日 (金)

国道473号「県界橋」と「豊川用水」

Kenkaibashi  県道1号の県境「静愛橋」については、以前紹介しましたが、今度は国道473号の「県界橋(けんかいばし)」。大千瀬川に架かる「錦橋(きんばし)」の西側を右折。少し北西に進んだところです。山から大千瀬川に流れ込む小さな流れに架かる小さな橋。橋の向こうは、もう東栄町西薗目。あっけなく県境を跨いでしまいました。

Yousui  さらに進むと見えて来たのが、大千瀬川を渡る巨大な金属のパイプ。佐久間ダムの水は、県境を越えて14.2㌔、この長い導水路で愛知県へ運ばれて行きます。佐久間ダムからの水は、農業用水の他に、水道用水や工業用水にと多目的に使われる、いわば天竜川からの応援団。国道473号とともに県境を越えて遡る大千瀬川は、振草川へと名前を変え、何と佐久間ダムの水も県境を越えて流れていました。

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2008年12月18日 (木)

下社に翻る「正一位秋葉神社」の幟

Nobori  「秋葉山本宮秋葉神社」下社に翻る「正一位秋葉神社」の幟。各地の秋葉社でも、しばしば見かけます。 「正一位」って、何のこと…?

 「正一位」とは、「位階」や「神階」の一つで、最高位の「正一位」の下が「従一位」と続き、神社には「正六位」以上の神階が授けられています。じゃあ、「正一位」がどれほど偉いのか?人臣に授けられた位階では、豊臣秀吉は「従一位」。「征夷大将軍」を名乗った徳川家康でさえ「従一位右大臣」ですので、「従一位」止まり。「正一位」とは、それほど高い位なのです。

 ただし、「神階」は原則として格下げられることがなく、また、神には寿命はありませんので、年を経るごとに多くの神社が「正一位」となってしまいました。もともと「神階」は、神社に対して授けられるもので分祀先には引き継がれないのですが、律令制の崩解とともに分祀先でも元の「神階」を名乗るようになり、お近くの秋葉社でも、「正一位」の幟を立てるようになったというわけです。

 「秋葉の火まつり」の催された12月15日~16日。「正一位」は朝廷の宣旨(せんじ)によるもの。下社に立てられた「正一位」の幟に、「秋葉山本宮」の誇りを感じさせられました。

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2008年12月17日 (水)

北遠の山里を4MINIツーリング

Bike  佐久間に限らず北遠に出かけると、ツーリングを楽しむバイクのグループをよく見かけます。この日も、「原田橋」を渡ろうとしたところで、写真のようなバイクの縦列を見つけました。あれ?よく見かけるツーリング族のバイクとは、ちょっと違うぞ…?

 この小型のバイクを「4MINI」と呼ぶのだそうです。どのバイクもピッカピカ♪「光ってるね~」と声をかけると「サングラスをかけないと、目を痛めますよ」と嬉しそう。地図を広げて、行き先を話し合っているようでした。

 「友だちなの?」「友だちです」「バイク仲間?」「そう、バイク仲間」。女性ライダーも交じり、年齢もバラバラ。「ツーリングには、北遠がサイコー。行きたいところがたくさんあって…」と、私も見慣れた観光マップを広げていました。「ここにしよう!ここ!」。そこが、どこなのかは聞きませんでしたが…。「さあ、行くよ!」と出発の準備。私も、そろそろ行きましょう。「お互い、気をつけてね!」。どちらからともなく出た、別れの挨拶は、同じ言葉。北遠が好きな者同士、やさしい言葉が行き交います。

2008年12月16日 (火)

「浮森」とは?―暴れ天竜と闘った矢高濤一

Ukimori  11月28日、「緑の募金事業」の一環として間伐材で作ったフラワースタンドを届けるため、佐久間町の浦川小学校を訪れました。校舎の廊下に「浮森の丘に咲く花」の掲示を見つけました。「浮森(うきもり)って何ですか?」。

 その「浮森」に関する記述を見つけました。それは暴れ天竜と闘った「矢高濤一(やたかとういち)」に関するもの。校長先生の話の中にも、「縦横に川が流れていたので、この地区が島のように見えた」との説明がありました。以前、そば畑を訪ねた時にも、浦川の洪水の歴史について聞いたことがありました。そこで、「矢高濤一」について、「郷土の発展につくした人々」佐久間町教育委員会/「佐久間町史 下巻」より引用させていただきます。

 本州のほぼ中央、海抜759メートルの諏訪湖から太平洋の遠州灘に注ぐ全長213㌔の川、それが天竜川です。その急流ゆえに「暴れ天竜」と呼ばれ、流域に暮らす人々の歴史は水害との闘いでもありました。その流域の村の一つ浦川村(現在の佐久間町)に生まれたのが矢高濤一(やたかとういち)です。人々のために暴れ天竜と闘って現在まで語り継がれてきた人の一人です。

 濤一は天保9年(1838)18歳で家督を弟にゆずり、地位も財産も捨てて江戸に向かいました。そこで幕末の剣聖とうたわれた人物の道場で剣道の修行を始めたのです。その後7年間の修行で免許皆伝となり故郷に帰り、安政6年(1859)に39歳で名主(村の最高責任者)になりました。

 当時、浦川村は天竜川に注ぐ大千瀬川と、さらにその支流相川が村じゅうを流れ、たびたびの洪水に村は疲弊し、村を捨てる者さえ出ていました。

 そのため、濤一は名主となってすぐに水防問題に取りかかりました。藩の援助も受け、不足の分は私財を投じて、総延長520間(約946メートル)におよぶ堤防の新築、修築をしたのです。

 しかし、浮森(うきもり)地区の水害だけは、まだ解決されていませんでした。これを是が非でもなくしたい。濤一は決意しました。工事準備に取りかかったのは、明治2年(1869)でした。濤一は、相川が浮森山(うきもりやま)にぶつかる高さ20間(約36メートル)、長さ50間(約91メートル)、幅10間(約18メートル)の鞍部(低くなったところ)を掘り割り、迂回する部分をなくして、川水を直流させようと計画したのです。しかも、干上がった迂回部には掘り出した土砂を埋めて、新田をつくろうという当時としては画期的な大事業です。

 現在のようにダイナマイトも、ブルドーザもなく、わずかの鍬、のみ、金てこや荷車ぐらいしかない幕末のことであり、資金についても、貧しい山村の力ではどうすることもできない状態で、あまりの大工事に完成を危ぶむ村人が多かったのです。

 濤一は、この計画の許可と資金の援助を願いに見付(磐田)役所に何回も往復しました。こうした奔走によって工事着工のめどが付くようになると、二の足を踏んでいた村人も進んで工事に協力するようになりました。

 1年、2年の間は工事は順調に進みました。ところが、3年目に入ると、掘割り部分は次第に岩盤部に入り、工事の進み方は目に見えて遅れてきました。工事の最大の難所にぶつかったのです。

 濤一を信じ、ひたすら工事の完成を願っていた村人のなかからあきらめの会話が交わされるようになりました。

 濤一は村人を集め、この工事が遠い将来まで村の利益になることを熱心に説き、工事を続けるように頼みました。

 また、岩盤を割るためさまざまな苦心を重ね、石を刻んで細工をする経験豊かな専門家たちの意見を取り入れました。火を燃やして岩盤を熱くし、そこに水をかけて急に冷やして割る方法を考え、工事の能率を上げるようにしたのです。

 一時動揺を見せた村人も意を強くし、工事も順調にはかどって掘割りは川の形を次第に整えました。この間、濤一は施工者として監督する一方、名主としての役目を務め、暇さえあれば現場に出て、村人とともに働くため、誰からも尊敬されました。

 着工以来四年の歳月を費し、浮森山の開削工事は完成しました。相川は流れを変えて、大千瀬川にまっすぐに流れるようになり、浮森地区の水害の心配は少なくなったのです。

 また、干上がった旧河道には3町歩(約3ヘクタール)の新田が造成され、この新田は就役した村民70余戸に4畝(約396平方メートル)ずつ分け与えられました。濤一自身は1坪(約3.3平方メートル)も所有しませんでした。(以下略)

 …と、これが「浮森」と「矢高濤一」の話。川の流れに浮いているように見えたのが「浮森」と呼ばれる所以だとか。表記は読みやすいように改めさせていただきました。

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2008年12月12日 (金)

佐久間小では「クジャク」を飼っていました。

 校長先生の話によれば、以前は何羽か飼っていたのだそうです。横山小学校から教師の異動に伴い、やって来たのだとか。何が?佐久間小学校の鳥小屋で飼われているものは、さあ、何でしょう?

 インコ?アヒル?それとも、ウサギ…?これは、難問中の難問。正解は、まず考えられませんので、答えを教えます。写真を見ればお分かりのように、答えは「クジャク」。「クジャク」を飼っている小学校って、日本中探しても、そうは見つからないと思いますよね?

 「春までは、♀と一緒だったんですけどね…」と校長先生が話してくれました。「餌をあげると、♂が邪魔をして♀に食べさせなかったんですよ。イジメと言うか、何と言うか…」。

 「そのくせ、♀が死んでしまったら、寂しがって元気をなくしちゃったんです。そんなくらいなら、一緒にいるときに仲良くしてあげれば良かったのにねえ。たくさん飼っていた頃には、繁殖もしていたんです」。Kujaku

 金網の中をのぞいてみました。それまで、しゃがみ込んでいた「クジャク」が立ち上がり、カメラを構える私に関心を示していました。ホントだ!「クジャク」です。ハイ、ポーズ!間違いなく「クジャク」ですよ。「クジャク」!佐久間小学校では「クジャク」を飼っていました。

 隣の小屋には、ウサギがいました。

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2008年12月11日 (木)

南アルプスが「日本ジオパーク」に認定

Chuoukouzousen  長野、静岡、山梨県の10市町村でつくる南アルプス世界自然遺産登録推進協議会は9日、南アの一部が科学的に貴重な地質や地形を持つ自然公園「日本ジオパーク」に認定されたと発表した。中央構造線が通る飯田市、下伊那郡大鹿村、伊那市、諏訪郡富士見町にまたがる約千平方キロが対象。認定を生かし、地球規模の自然を実感できる学習の場としてPRを強める方針だ。

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が支援する国際機関「世界ジオパークネットワーク」(本部・パリ)は、これまでに世界で計57カ所をジオパークに認定。日本で認定された所はない。日本ジオパークは国内版として5月に発足した日本ジオパーク委員会(事務局・茨城県つくば市)が認定した。来年度以降の「世界」認定には、「日本」認定が前提になるという。

 推進協のジオパーク推進部会事務局、伊那市政策推進課によると、南アの認定地域は、日本列島の骨組みの形成過程でできた断層など、数億年単位の大地の動きを実感できる場所が豊富といった特徴がある。日本ジオパーク委事務局は、大鹿村中央構造線博物館や飯田市美術博物館を中心に研究が進み「継続的な学習活動が期待できることも高く評価された」としている。

 推進協は4月の総会で世界遺産登録に向けジオパーク認定を目指すと決めていた。ほかにアポイ岳(北海道)、室戸(高知県)など6地域が日本ジオパークに認定された。(「信濃毎日新聞」より)

 「中央構造線」の露頭が「日本ジオパーク」に認定されました。記事中にもあるように「南アルプス世界自然遺産登録推進協議会」には静岡県も加わっています。

佐久間のマンホールの蓋は「佐久間ダム」

 Manhole マンホールは、下水道管の点検や掃除をするための出入り口。下水管の曲がるところと交差するところに設けられているのだそうです。蓋は一般的に鋳鉄製で、直径60㌢。いつ、誰が、どこで始めたのか知りませんが、マンホールの蓋には、地域のシンボルが描かれています。

 さあ、「佐久間町」のマンホールの蓋の図柄は何でしょう?先ずは「佐久間ダム」。その両側には「杉」。下にあしらわれているのは「ツツジ」?浜松市と合併する前の旧佐久間町の「町の花」が「ツツジ」でしたから、「ツツジ」なんでしょうね?でも、「石楠花」のような細長い葉っぱです。

 上を向いて歩くと、抜けるように青い佐久間の秋空。下を向いて歩いたらマンホールの蓋が目に付きました。

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2008年12月 7日 (日)

佐久間中のポストが西尾市の公園へ

Post2  抹茶の特産地として知られる愛知県西尾市の井桁屋公園に17日、抹茶色の丸型ポストが設置され、明治時代の郵便職員の制服姿の小学生がはがきを投函(とうかん)した。設置の式典で中村晃毅市長は「おもてなしの心を、手紙を通じて世界に向けて発信していきたい」とあいさつした。

 郵便事業会社東海支社によると、抹茶色のポストは全国で初めて。「おもてなし・まごころポスト」と名付けられた。実際に郵便ポストとして使われる。

Sakumachu  西尾市の画家斎藤吾朗さんが、丸型ポストの撮影を続けている名古屋市北区の写真家庄司巧さんから、「浜松市の廃校になった中学校に緑色の丸型ポストがある」という話を聞いたのがきっかけ。このポストを譲り受け、抹茶の特産地らしく抹茶色に塗り直した。

 西尾市内の工場では、かつて丸型ポストが生産されていた。斎藤さんは「丸型ポストの歴史があり、抹茶どころの西尾市に設置できてうれしい。これを一つの契機にして、まちの活性化につなげていきたい」と話している。(2008年2月20日付「朝日新聞」より)

 この「浜松市の廃校となった中学校」というのが、旧佐久間中学校です。2008年3月末で廃校となり、旧浦川中学校とともに佐久間高校との中高一貫教育・新佐久間中学校へと統合されました。佐久間に立っていた丸型ポストが、ポストのふるさとに里帰りして、実際に使える「郵便ポスト」として現役に復帰していました。

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2008年12月 4日 (木)

「それいけ!飯田線」―走れ!佐久間っ子

Kakeashi  「それいけ!飯田線」―これは、飯田線の線路のそばに立つ、佐久間小学校に掲げられている「かけ足」の記録板です。

 児童に「かけ足」を通しての体力づくりを奨励するために設けられ、走った距離だけ「飯田線」を進み名札を移動します。始発駅は、もちろん「中部天竜」。ここから、「下川合」→「早瀬」→「浦川」→「出馬」と佐久間町を進み、「東栄」で愛知県に入ります。「池場」→「三河川合」→「柿平」→「三河槙原」→「湯谷温泉」…で、終点が「豊橋」。たくさん走れば、それだけ先に進みます。無事に「豊橋」に到着した児童は、また「中部天竜」に戻って走り始めるのだとか。走れ!走れ!

 2008年3月で佐久間中と浦川中が廃校となり、新たに佐久間高校の中に新生「佐久間中学校」が開校。中高一貫教育が行われています。佐久間小を卒業すれば、次は佐久間中。佐久間の子どもたちは、次の時代を目指して走り続けます。

 「『それいけ!飯田線』は、『飯田』や『辰野』方面には行かないんですか?」と聞いてみましたが、返事は「?」。どうやら、佐久間の子どもたちが目指す都会は、「豊橋」みたい。さあ、寒い日も、走れ!走れ!元気な佐久間っ子!

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2008年12月 1日 (月)

佐久間小の青色ポスト

Post  日本の郵便制度は明治4年に始まりました。初期の「郵便ポスト」は、黒かったのだそうです。ところが、「郵便箱」の文字を「垂便箱」と勘違いされたり、夜間に目立ちにくくて評判が悪く、目立つ色ということで赤色が採用されました。それ以来、「郵便ポスト」といえば原則赤。確かに速達用として青色、大型の集配所では国際郵便用の黄色のポストもあるにはあるようですが…。

 ところで、佐久間小学校の運動場の脇に立つこのレトロな丸型ポスト、どうして青色なのかは分かりません。でも、妙に印象的。以前は、校内の「こども郵便」用に使っていたとのことですが、現在は使われていません。目立つといえば、赤色ポストよりもずっと目立っているかも知れませんね?特に、真っ赤に紅葉したドウダンツツジと並ぶと、この秋空のような青色が爽やかに目立っています。

 ちなみに、アメリカの「郵便ポスト」はもう少し濃い青色ですよ~。 

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2008年11月30日 (日)

「夢の超特急」初代新幹線「0系」引退

0kei  1964年にデビューし「夢の超特急」と呼ばれた初代新幹線「0系」が30日午後、営業運転から引退する。

 最後の運転は岡山発博多行き「こだま」で、午後2時51分に岡山駅を出発し、午後6時21分に博多駅に到着。両駅でセレモニーが開かれる。

 0系は東海道新幹線の開業とともに登場。世界一の最高時速210㌔で、東京-新大阪を3時間10分で結んだ。老朽化などから新型車両への移行が進み、現在は山陽新幹線でのみ運行している。(「日刊スポーツ」より一部引用)

 今日(11月30日)は朝から、新幹線「0系」引退の話題で持ちきり。「佐久間レールパーク」にも、お客さんが来ているだろうと思い、立ち寄ってみました。

 ご存知「B型鉄橋」の「中部大橋」を渡り、JR飯田線「中部天竜」駅に併設されているのが「佐久間レールパーク」。「0系」の前では、子どもが2人。おじいちゃんのカメラにポーズをとっていました。「この列車は0系と言ってね…」と、おじいちゃんの話し声が聞こえてくるようです。「おじいちゃんの子どもの頃の、憧れの列車だったんだよ」。

 その0系の引退とともに、この「佐久間レールパーク」も来年11月までとのこと。佐久間で、あの懐かしいダンゴ鼻、0系と会えるのもあと1年です。

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2008年11月29日 (土)

日本一の年間発電量「佐久間発電所」

 Hatsudensyo 電力は、「佐久間ダム」で作られていると勘違いしている人はいませんか?「佐久間ダム」はあくまでも水を貯めておく施設。「佐久間ダム」から落差は133㍍を一気に下った水が4基のタービンを回し、最大35万kWの発電をしているのが、ここ。年間発電量日本一を誇る「佐久間発電所」です。(*見えているのは、変電施設。発電施設ではありません)

 Dscf0026 ここで作られた電力が首都圏及び中京圏へと供給され、戦後復興期の電力需給逼迫を救い、高度経済成長を支える原動力の1つとなりました。水力発電の規模としては決して大きいとはいえませんが、そんな発電所が日本一になっている一番大きな理由には、雨が多いという気象条件が功を奏しているようです。

 「佐久間発電所」の発生電力量は石油火力発電所における石油消費量に換算すると約30万㌧、二酸化炭素(CO2)排出量は約90万㌧に相当。耳を澄ますと聞こえる、低いタービンの唸りとパチパチという高圧線の音が、膨大な石油消費を抑制する働きをしているとも言えます。

 「佐久間発電所」の下には、「佐久間ダム」から落ちて発電用タービンを回した水が再び「佐久間第二発電所」へと送られる「放水路」が見下ろせました。説明によれば、最大出力で発電している時の水の量は、毎秒306㌧。これは、ダンプカー50台分に相当するそうです。毎秒ですよ、毎秒。想像出来ないほどの膨大な水量ですね。「第二発電所」でもう一仕事してから、天竜川の本流へと帰っていきます。

 重力式コンクリートダム「佐久間ダム」は…
 遠州灘海岸の浸食対策とダムの氾らんを防ぐため…
 ●大雨でダム湖の水位が上がった浜松市天竜区佐久間町の佐久間ダムが…
 ●先日、全5門からの放水の記事と写真を紹介…
 ●「佐久間ダム」の大放水―2008年6月21日となっていますので…
 ●長野県の諏訪湖から遠州灘に注ぐ天竜川水系で今後約30年間…
 ●「佐久間ダム」は、昭和28年に着工。アメリカの重機や…
 ●毎年、10月の最終日曜日に開かれる「佐久間ダムまつり」…
 ●佐久間ダムの下にあるのだから、きっと発電所だろう…
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2008年11月25日 (火)

「佐久間湖」は「ダム湖百選」

100sen  「佐久間湖」は、財団法人「ダム水源地環境整備センター」により「ダム湖百選」に選定されています。では、その「ダム湖百選」とは…?

1.ダム湖百選の趣旨
 私たちの生活を水害から守り、用水や電力の供給を行っているダム湖は、四季を通じて美しい景観を見せたり、水や自然の学習と上下流交流の場となるなど人々にさまざまな恩恵をもたらしているものが多くあります。 ダム湖百選は、そのような地域に親しまれ、地域にとってかけがえのないダム湖を選定、顕彰することによって、より一層地域に親しまれ、地域の活性化に役立つことを願って認定するものです。

2.ダム湖百選認定
 当センターでは、ダム湖百選を認定するため、学識経験者によるダム湖百選選定委員会を設立し、平成17年2月21日に同委員会で65ダム湖が選定されました。当センターでは、選定されたダム湖について、平成17年3月16日、推薦された市町村長あてに認定通知を発送しました。
 なお、今後、ダム湖百選に関心が高まり、さらに認定の要望があれば時期をみて再募集し、追加していく予定です。

3.選定の経緯
 ダム湖百選の選定は、ダム湖の所在市町村長から応募要領にもとづき推薦を受け、ダム湖百選選定委員会で審議のうえ選定しました。
(1) 応募対象ダム湖は、高さ15m以上のダムを持つダム湖のうち、砂防、治山、鉱滓ダムを除くもので、ダム湖の所在する市町村長から推薦のあったものです。
(2) 募集期間は、平成16年10月1日から同年12月15日としました。
(3) 応募数は、165市町村長から165ダム湖の応募がありました。
(4) 選定に当たっては、ダム湖百選選定委員会により、以下の選定項目を総合評価し、地域に親しまれ、地域にとってかけがえなのないダム湖を選定しました。
 1.好ましい景観
 2.生態系への配慮
 3.歴史的な価値
 4.人と自然とのふれあい
 5.上下流の交流
 6.学習の場としての利用
 7.地域の人々の関心
 8.その他

 以上が、「ダム湖百選」の詳細です。

 ところで、『わたしが選ぶ―新・浜松の自然100選』の締め切りが、11月30日に迫っています。「ダム湖百選」に選ばれた「佐久間湖」なら、当然「新・浜松の自然100選」にも選ばれるでしょう。私たちの心の古里「北遠の里」には、心に沁みる自然がたくさん守られています。その景観を未来へと引き継ぐため、「新・浜松の自然100選」にご応募ください。

 ※詳しくはPDFをご参照ください。  お問い合わせは、浜松市緑化推進本部(財団法人・浜松市公園緑地協会内 053-411-6687)へ。

 ●「浜松市公園緑地協会」で『わたしが選ぶ―新・浜松の自然100選』を募集します…

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2008年11月24日 (月)

「清流めぐり利き鮎会」で「気田川」の鮎が「準グランプリ」

Granprix  2008年9月26日、高知県で開催された「第11回清流めぐり利き鮎会」で、「気田川」の鮎が「準グランプリ」を受賞しました。「気田川」の受賞は第5回に続いて2回目。審査は姿、香り、わた、身、総合で行われ、最後まで河川名を隠すという厳正さ。そんな大会での「準グランプリ」となれば、かなりのお墨付き。

 鮎は川に生える苔を食べて成長するために、河川環境そのものが鮎の味となって現れてきす。環境の良い川の鮎は香り高く、身も締まっています。酒やワインと同じように河川ごとに味があり、季節によっても変化するのです。鮎が高い評価を得たということは、取りも直さず「気田川」の環境と、その環境を守る春野の人たちが評価されたということ。「はるの産業まつり」会場のテント内に、額入りの「証明書」が飾られていました。

Suyaki  子持ち鮎の塩焼きが香ばしい匂いを漂わせるテントの中に、藁で縛った素焼きが吊るされていました。鮎は、素焼きにし風通しのよいところで乾燥させれば、かなり保存が利きます。昆布巻きにしたり、甘露煮にしたり…、正月用にご利用ください。

2008年11月11日 (火)

杉の皮で屋根を葺く

 Tsukimi 昨日は「杉落葉」の利用法を紹介しましたが、今回は「杉皮」―杉の樹皮の利用です。

 「杉皮」は、乾くと水を通しにくくなりますので、屋根材として一般的に使われました。「さくま郷土遺産保存館」の「お月見」の展示をご記憶でしょうか?

 この「お月見」のお供えは、上から見下ろす位置に展示されていますので、ピンと来ませんが、実は屋根の上なのです。箕(み)が乗っているのが屋根。その屋根が「杉板」で葺かれていますので、よくご覧ください。屋根の上に乗っている石は、軽い「杉皮」の屋根が風で飛ばされないようにする工夫です。

Kawamuki  Yane 杉はまれにみる良質の建築材ですが、「もったいない」の元祖である私たちの先祖は、その皮までも無駄なく使ったというわけです。「さくま郷土遺産保存館」には、「杉の皮」を剥く「皮剥鎌(カワムキガマ)」の展示がありました。柄の長いものと、短いもの。形は様々でしたので、それぞれ使いやすい形を選んだのでしょう。

 Kawamuki 伐木したばかりの杉の皮は、意外と剥きやすいものです。ただし、乾燥すると丸まっKawamuki2てしまいますので、一定の大きさに切り分け、積み重ねて錘を載せます。これを重ね合わせるようにして屋根に敷きました。それを竹や木の枝で押さえて石を載せます。これが「杉皮葺き」。同じ「さくま郷土遺産保存館」に展示されている「ヨオイ小屋」の屋根も、「杉皮」で葺かれていました。お気づきでしたでしょうか?

 ヒノキの皮は「桧皮(ひわだ)」と呼ばれ、こちらは格式が高い家柄や寺社専用だったとか。伐木だけでなく、立ち木のまま皮を剥ぐ方法もあったそうです。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
 ●「さくま郷土遺産保存館」は、山の暮らしや文化を…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階には…
 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
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 ●岡谷市教育委員会は26日…
 ●「さくま郷土遺産保存館」には「三信遠鹿うち神事分布図」なるものが…
 ●少し前までの日本では、既製服とは別に、ミシンを踏んで…
 ●葛飾北斎の描く「冨嶽三十六景 遠江山中」―巨大な材木に乗って…
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 ●昭和8年の三信鉄道の折に発掘された「半場(はんば)遺跡」からは…
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 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階は「佐久間のあけぼの」コーナー…
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2008年11月 8日 (土)

発電所ではなくて「佐久間周波数変換所」

Hendensyo  佐久間ダムの下にあるのだから、きっと発電所だろう…、とあまり気にすることもなしに通り過ぎてしまうのがここ。実はここは、「佐久間周波数変換所」です。

 普段の生活ではあまり気にすることもありませんが、日本の電力は富士川を境に、東日本が50Hz、西日本が60Hzの周波数に分かれています。これは、明治初期に東京電灯(現東京電力)がドイツ製の50Hz発電機を導入、次いで大阪電灯(現関西電力)が米国製60Hz発電機を設置したのが原因。東と西に分かれる現在の形になりました。電化製品によっては、電源周波数が異なると使用できないものもあるので、周波数の異なる地域へ引っ越す際には注意が必要です。

 電源周波数の違いは、電力会社にとっても時に厄介な問題。電力会社は、電力負荷の変動に応じて広域に電力を融通し合うことがありますが、周波数が異なると当然ながらそのままでは相互融通することができず、周波数変換の必要が生じます。

 50Hzと60Hzの送電線がつながる電力所では「周波数変換設備」を使い、異なる交流電力を変換して相互に送電できるようになっています。佐久間病院の道を挟んで反対側、山寄りにあるこの施設が、「電源開発佐久間周波数変換所」。「佐久間ダム」建設時に利用されたセメントサイロの跡地に作られました。

 27万5,000ボルトの交流を一度12万5,000ボルトの直流に変換、再び交流に戻す方法で、最大30万キロワットの電気を変換できます。しかし現在、国内にある変換施設は、新信濃変電所とここの2カ所しかなく、最大変換電力は計90万キロワット。これは全国の最大電力のわずか0.5%に過ぎません。いざ、西か東のどちらかの地方で電力供給不足が発生した場合、東西の壁を越えて電力を補完する能力には不安が残りますね。

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2008年11月 7日 (金)

「亥の子祭り」は「居残り様」?

Inokomatsuri  旧暦(陰暦)10月、全国の八百万(やおよろず)の神様が打ち合わせのため出雲大社に集まるそうです。ですから、その間は出雲地方を除いて神様がどこにもいない「神無月(かんなづき)」。恵比寿(エビス)、金毘羅、荒神、道祖神が留守を守ります。

 恵比寿様はもともとは漁神でしたが、中世のころから商業の神様に、福神信仰の盛んになった室町時代には「七福神」に繰り入れられました。農村では「田の神」、山村では「山の神」としても信仰されています。「恵比寿講」とは、留守を守る恵比寿様をお祭りする慣わし。私が子どもの頃、恵比寿様は足が不自由なので出雲に行けず、「居残り」にされていると聞かされました。居間の高いところに飾られた恵比寿様の祭壇に、本来は鯛を供えるべきなのでしょうけど、生きた鮒を供えた記憶もあります。

 また、同じく旧暦10月の最初の亥の日(2008年11月7日)が「亥の子祭り」の日。この日、「亥の子餅」を食べると万病を防ぎ長寿を保って子孫繁栄につながるといわれ、農家では「亥の子祭り」は収穫祭です。

 「亥の子祭り」については、すでに説明済みでしたが、「さくま郷土遺産保存館」で、この二つの習俗が合わさった解説を見つけましたので紹介します。

 その解説によると…

 「イノコマツリ 十月の初亥の日」イノコ、イノコリサマといい、全ての神が出雲に出掛けたあと、留守を守る恵比寿様に芋ボタ餅や、ソバノカイ餅等を供えます。十一月朔日出雲から帰った釜の神は、恵比寿様に「俺の留守にたんとごちそうしてもらっただろう」というと、恵比寿様は「一度だけイノコボタモチを食っただけだ」というと、釜の神は納得したという伝承があります。
 また、この日山で猪が山であばれるといいます。
(原文のまま*写真をクリックすると拡大して文字が読めます)

 お気づきでしょうか?「亥の子祭り」の「イノコ」が、「居残り」の「イノコ」と解釈されています。う~ん、何と自由でのびのびとした解釈。お米が貴重な山里では、お供えするのも「芋」や「ソバ」のボタ餅。「もう、こんなことをする家は、ほとんどないかも知れんけどね…」。これは、「さくま郷土遺産保存館」の説明員のおばちゃんの話。佐久間の山里は、おおらかでいいですね?大好きです!

 ●農耕民の間では、春になると「山の神」が山から降りて「田の神」となり…

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
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2008年11月 6日 (木)

赤と緑の三角形―焼畑に立てた「御幣」

Nusa  かつての佐久間の農耕は「焼畑」が中心。山を焼く時には、「山を焼くぞう、飛ぶものは飛んでいけ、這うものは這っていけ、生命あるものは逃げて行け」と叫びながら火を入れをしたのだとか。また、「焼畑」には火災の発生を恐れ、豊作を祈念して「御幣(ごへい)=幣(ぬさ)」を立てたのだそうです。

 写真の三角形の紙が、その「御幣」。赤は「火の神」に「これから山を焼きますが、山火事になりませんように」の意味。緑は「水の神」に「山焼きが済んだら、粟や稗を作るから、雨を降らせてください」の意味だそうです。上の2つの「御幣」の竹の棒は、三角形の途中で止まっています。下の2つは竹が上に突き抜けています。

 上の「幣」は、これから「焼畑」を始めますの合図。下の「御幣」は「輪作」終了の意味だそうです。

 以上は、「さくま郷土遺産保存館」で聞いた話ですが、2色の意味を「山神」と「水神」と説明したものもあり、この説にも説得力があります。なぜなら、山を焼く時には同時に「正一位秋葉神社 火災鎮護」の護符も立てたとのことですから。

 「焼畑」が途絶えた佐久間では、この色鮮やかな「御幣」を見るには「さくま郷土遺産保存館」を訪ねるしかありません。ぜひ、お立ち寄りください。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
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2008年11月 1日 (土)

「筏」に命を託し川を下った男たち

Ikada  信州や佐久間の山から伐り出された木材のほとんどは、「筏(いかだ)」に組んで河口まで運ばれました。前日に伐り出した木材を翌朝までに組み上げ、掛塚や中野町まで、天竜川を下ったというのです。

 「筏」を組むのは川岸です。伐採した木材を川岸まで運ぶのは、「木馬(きんま)」や牛車でした。手際よく組まれる木材の量は、ざっとトラック1台分。「筏師」たちは2人で1隻の「筏」に乗り込み、「筏」に命を預け次々と川を下って行きました。

 Fuji 男たちが命を託す天竜川の「筏」は、針金よりも「藤づる」で組まれました。鉄線を使うよりも安上がりで、岩にぶつかっても切れることがなく、ゆるみもないとのこと。そのため、「筏師」たちは「藤づる」を求めて遠くまで買い付けに出かけたほど。例えば西渡(にしど)で使われた「藤づる」は、主に都田(みやこだ)辺りで採取されたものだったそうです。

ハー筏つないだ ヨーホホイサッサ
藤蔓さえもヨ
切れりゃ気になる エエ
切れりゃ気になる夫婦岩
ホンニアレワイサノサ 夫婦岩

 長野県の民謡「天竜下れば♪」の3番の歌詞です。この歌詞からも、木材を「筏」に組むのに使ったのは「藤づる」だったことが分かりますね。

Kuyoutou  佐久間で見つけた「藤づる」には、実がなっていました。「藤」はマメ科ですので、大きな豆の莢(さや)が下がっていました。初夏に薄紫色の花の房をつける「藤」ですが、その「蔓(つる)」に「筏師」たちは命を託しました。写真の「筏師」のレリーフは「豆こぼしトンネル」の南口のもの。天竜川の難所「豆こぼし」から「筏→藤→豆」との連想は、ちょっと飛躍し過ぎでしょうかね?

 流れの中で命を絶った「筏師」たちも、少なくはなかったと思います。そんな歴史を物語るかのように、道端で見かけた石塔には「溺水死神霊供養塔」と読める文字が彫られていました。

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2008年10月31日 (金)

「切り絵」で飾られた「湯蓋」―川合花の舞

 Yubuta 「花の舞」が舞われる「舞処(まいど)」の中央には、鼎(かなえ)に載せられた湯釜が据えられ、湯釜を覆うように吊るされる「天蓋」―中央の湯釜の上のものを「白蓋(びゃっかい)」、四隅を覆うものを「湯蓋(ゆぶた)」と呼んでいます。

 呼び名については、地域によって多少の違いがあり、室内の狭い区域で舞われる場合には「湯釜」の上に「天蓋」が1つだけのことがあります。これを「湯蓋」と呼んでいる地域がありますので、元来は「湯釜」を覆う「天蓋」を「湯蓋」と呼び、ある程度の広さがある時には、中央の白い「カイダレ」を垂らしたものを「白蓋」、それ以外を「湯蓋」と分けて呼ばれるようになったのではないでしょうか?

 写真は「川合花の舞」の「舞処」に飾られた「湯蓋」です。

 「湯蓋」は田の字に木を組み、それぞれに切り絵が飾られていますので、1つの「湯蓋」に12枚。何ときれいではありませんか。この切り絵の原画も代々伝えられていて、絵柄は、鳥や動物、野菜の他、鳥居や神社名など。それぞれ、決められた人が小刀で絵柄を切り出すのだそうです。

 写真で見る限り、絵柄のバリエーションを探ってみると…

 「鶏」「鶴」、「キュウリ」「茄子」「松竹梅」、「八坂神社」「花まつり」の文字と「鳥居」…。後は「おかめ」の面でしょうか?紙の色は、縁起の良い五色(青赤黄白黒)かと思ったのですが、どうやら「青」と「黒」がなく、その代わりに「緑」が使われているようです。

 これが神楽が舞われる「舞処」。二間四方の神聖な区画です。

 *「今田花の舞」は11月8日開催です。

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2008年10月30日 (木)

「舞処」を彩る、これが「白蓋(びゃっかい)」

 Byakkai2_2 三遠南信の農村、山村には、現在でも古代・中世からの信仰を反映した祭りが残されています。佐久間に伝えられている「花の舞」も、その一つ。宮中の「湯立て」の神事・神楽が山間の村にまで伝えられ、民間信仰である「山の神」の祭りと出会い、現在の形にまとめられ伝えられ続けてきたものと考えられています。
 
 「花の舞」は神社で奉納される神事なのですが、この神事を伝えた修験者同様、長い歴史の間に「神仏混淆」の影響が残るものへと変わって来たようです。「川合花の舞」に、その痕跡を探してみると…

 神楽が舞われる「舞処(まいど)」の上には、中央の釜の上に「白蓋(びゃっかい)」、四隅には「湯蓋(ゆぶた)」と呼ばれる「天蓋(てんがい)」が吊るされます。「天蓋」とは、天にかかる蓋という意味で、仏像などの頭の上に懸垂された蓋を指します。インドの日差しが厳しく、説法の時には直射日光を避けるために使った傘が変化したものと言われています。お寺のご本尊や人が座る場所の頭上に、天井から吊り下げられた豪華な金色の飾りを見たことがあると思います。あれが「天蓋」。「天蓋」は本来、仏教で用いられるものなのです。

 また、神事であるのなら、注連縄(しめなわ)につける「カイダレ」と呼ぶ紙片は白いのですが、「花の舞」の「舞処」を区切る注連縄や中央の「白蓋」に付けられた「カイダレ」は、私たちがよく知っている「白幣」だけでなく、赤、白、緑、黄色と4色の幣が飾り付けられています。これも明らかな「神仏混淆」の痕跡ですね。以前、小さな画像で紹介した「白蓋」―これが、「びゃっかい」です。

 釜から立ち上る湯煙に霞む「舞処」を彩る「天蓋」や「カイダレ」。「花の舞」が伝えられた集落の夜は、興奮と熱気の中に更けて行きました。

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2008年10月29日 (水)

堅くて木目が美しい「ケヤキ」

 Keyaki 私が子どもの頃の話です。祖父が、「高く売れる」と欅(ケヤキ)の端材を買い込んできました。「高く売れる。高く売れる」と、夢を抱いた祖父は死に、農家の長屋はケヤキの板で埋まったまま。やがて埃をかぶり、ケヤキがケヤキとも分からなくなるままに放置されました。それでも、端材とは言え「ケヤキはケヤキ」。木目の美しさが、今でもはっきりと記憶に残っています。

 箒を逆さにしたような整った樹姿で街路樹としてもおなじみのケヤキは、木目が美しいだけでなく磨くときれいなツヤが出てきます。堅くて磨耗にも強いので、家具や建具にも使われ、建築用材としても用いられました。

 このケヤキについて、フリー百科事典『Wikipedia』では…

 伐採してから、乾燥し枯れるまでの間、右に左にと、大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えない。特に大黒柱に大木を使った場合、家を動かすほど反る事があるので、なかなか大工泣かせの材料である。また、中心部の赤身と言われる堅い部分が主に使われ、周囲の白い部分は捨てられるので、よほど太い原木でないと立派な柱は取れない。

Keyaki …とのことで、庶民にはすっかり高嶺の花となっています。

 今年の夏、佐久間を訪れた時、地元に住むS氏が「うちはケヤキの柱。自慢みたいに聞こえるかも知れんが…」と嬉しそうに話していました。おそらく、佐久間の山にも、杉やヒノキの植林が進む前までは、年数を経た太いケヤキが自生し、建築用材として使われていたものと思われます。このケヤキを伐採して数年寝かし、堅い木を手ノコで挽いて柱や板にし使ったものと思われます。「ヒノキより堅いし木目もきれいだからね」とS氏。それなら、私も知っています。

 写真は、「御室屋敷長屋門」。風雨にさらされて250年。しかし、今でも、ご覧のようにその美しさを保っています。

 ●「御室屋敷長屋門」は、正面中央に両開きの…
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2008年10月28日 (火)

赤いトラス橋「戸口橋」

 Toguchibashi R473号で西渡の「大井橋」を過ぎると、「榎橋」の表示が…。「ああ、あの赤い橋が『榎橋』なんだね?」。

 違います、違います!「榎橋」はR473号に架かる小さな橋。天竜川に架かる赤い橋は、広域基幹林道佐久間線「戸口橋(とぐちばし)」です。以前にも紹介した西渡(にしど)郵便局の「風景印」にデザインされているのは大井橋ではなくて、この「トラス橋」みたい。

Stamp009_2  橋などでよく見かける、三角形を組み合わせたようなこんな構造を「トラス」と言います。つまり、四角形は力が加わるとひし形に歪みますが、三角形は変形しません。とても強い構造なのだそうです。

 「戸口橋」を渡ってみました。振り向くと山にへばりつくような家々が…。あれが、「久根鉱山」で賑わった「西渡」の集落。佐久間地区の天竜川に架かる橋は、下流から数えると「大輪橋」の次が「戸口橋」です。形が少し違いますが、ともに昭和45年竣工。アーチと「トラス」を組み合わせた工法もよく似ています。

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2008年10月27日 (月)

「原田橋」は原田翁の名前から

Dscf0110  「原田橋」は、国道473号、「中部(なかべ)」と「川合(かわい)」の間に架かる吊り橋。この橋の真ん中辺りから、上流の佐久間ダム方面を望む景色が好きです。下流方面を見ると、大きな石が転がる少し先で大千瀬川と合流しています。

 実際の橋は「大型車はすれ違いできません」の表示の通り、Haradabashiさほど大きくはないのかも知れませんが、何せ両岸の山が迫っていますので、赤い吊り橋がとても大きく感じられます。

  旧「原田橋」の竣工は大正4年(1915)。「大日本帝国」も連合国の一員として参戦した「第一次世界大戦」の真っ最中。日本が大きく変わって行った時代です。そんな時代の佐久間は、明治32年(1899)に古河市兵衛が「久根鉱山」を買収、同年に「王子製紙」の中部工場も操業を開始していましたので、まさに繁栄の時代。

 「原田橋」の「原田」は地名ではありません。中部出身の原田久吉翁(1837-1929)が、多額の寄付をして建設されたので「原田橋」と名付けられたとのことです。平仮名の表示板には「はらだばし」。橋の平仮名表記は「ばし」と濁るのを嫌い、「はし」と書かれることがありますが、「原田橋」は「はらだばし」となっていました。

 現在の「原田橋」は昭和28年の竣工となっています。

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2008年10月26日 (日)

車両番号「クハ118-5002」

 Dscf0001 昨夜(10月25日~26日)「川合花の舞」が開かれた「下川合」駅近くの踏み切りに差し掛かったところ、ちょうど列車がやって来ました。そこで、デジカメを取り出してシャッターを押したのですが、タイミングがずれてご覧の写真。ただ、車両番号「クハ118-5002」が写っていましたので、少し勉強をしてみました。 列車の番号は車両ごとに異なり、それだけでその列車がどんな車両なのかが分かる「名前」となっていると言うのですが…。

 まず、車両番号「クハ118-5002」の最初のカタカナは車両の「機能」を表します。「ク」は、「運転室のある車両」ですがモーターはありません。次のカタカナは「設備」を表し、「ハ」は「普通車」。最初の数字は「電気方式」を示し、「1」は「直流電車」。次の数字が「用途」で、「1」は近郊型ですから、「運転席のある普通車で、直流電気でのみ動く近郊型の列車」となります。「クハ118」は飯田線の主力車両「119系」に分類され、旧型車両ばかりだった飯田線には昭和57年に投入されました。その後、他でも活躍したのですが、今はまた飯田線だけで見ることができる車両です。

 実は、この「クハ118-5002」の後ろで、少しだけ写真に写っているのが「クモハ119-5003」のようです。「クモ」の「ク」は「運転席」で「モ」は「モーター」で「ハ」は「普通車」ですから、「クモハ」は「モーターがあり運転席もある普通列車」となり、2両連結のこの車両は、1両目が2両目を牽引しているのではなく、2両目の「クモハ」が1両目の「クハ」を押していたことになります。

 かつての飯田線車両は、天竜川の水をイメージしてスカイブルーにアクセントの灰色ラインでしたが、現在では白いボディーにオレンジのラインの「JR東海色」。飯田線らしい個性が薄くなり、少し残念ですネ。

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2008年10月25日 (土)

県境に架かる橋「静愛橋」

 Sizuaibashi Kenkyo 浜松市は広域合併により、愛知県と長野県との接することになり、市域に県境を持つことになりました。その一つがここ。相川に架かる「静愛橋」です。

 佐久間町「川上」と「東栄町」を繋ぐのがこの橋。静岡の「静」と愛知の「愛」を足して「静愛橋」―足して2で割ったような何という安易さ。「県境」と言うよりも「県橋」と言った方が似合いの名前です。名前の望みの通り、以前には、この県境をまたぐ国鉄路線バス「遠三線(えんみせん)」が走っていたそうですが、今は廃止。文化や暮らしの結びつきは、県境には妨げられませんでしたが、時代の流れには逆らえなかったようです。

Kenkyou2_2   見上げれば、確かに「静岡県」「浜松市」の表示。「ここまで浜松市になったんだ」と実感できます。「静愛橋」の手前には「川上変電所」があり、鮎が踊る観光案内のモニュメントが。三差路を左折、南下すると「吉沢」を過ぎ「大地野隧道」を通って「熊」に通じています。ここら辺りで、「はて?」―自分が向っている方角が分からなくなりますので、ご注意を!

 【関連記事】国道473号「県界橋」と「豊川用水」

2008年10月24日 (金)

民話が伝えるもの―「野田」が「のた」と読まれる理由

 「ぬた」(饅)は膾(なます)の一種。ネギ、ワケギなどの野菜類、マグロ、イカなどの魚類、青柳などの貝類、ワカメなどの海藻類を、酢味噌やからし酢味噌で和えた料理。味噌のどろりとした見た目が沼田を連想させることからこの名がついた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 みなさんは、佐久間の民話『大沼の大蛇』を覚えていらっしゃるでしょうか?そのお話の最初は「むかし、野田に『大沼』と呼ばれる大きな沼があり…」です。思い出していただけましたでしょうか?「野田」にある「大沼」―ここでは「野田」の地名由来について考えてみたいと思っています。

 佐久間町城西地区の「野田」は、「のだ」と読みたいところですが「のた」と読まれています。ところが、山中の「野田」に、「田」の文字がどうにも不釣合い。隣りの集落「今田(いまだ)」(*こちらは「だ」と濁ります)には、現在も田があるのですが、「野田」には…?

 以前から私は、「野田」は「沼田」の転じたものではなかろうか?だとすれば、「ぬた」と呼ばれた歴史もあるのではないか?と思っていました。そのため、佐久間に住む何人かに「ねえ、『野田』のことを『ぬた』と呼ぶお年寄りはいませんかねえ?」と聞いたことがあります。ところが、答えはすべて「ノー!」「聞いたことないね!」。

 「野田」が「野の田」の意味だとすれば、例え「山田」であっても「稲田」の意味になります。その場合には、長い間には、おそらく「のだ」と濁って発音されるようになるのが自然ではないでしょうか?「のた」と濁らずに発音される以上、沼や湿地を意味する「沼田=ぬた」が地名の由来のような気がしていました?例え、「『ぬた』なんて聞いてないね!」と言われても、『大沼の大蛇』の民話を読む限り、その可能性は捨て切れません。

 とうとう、その可能性を見つけました。『角川地名大辞典22静岡県』(昭和57年10月編集発行)の「佐久間町 沿革」の項です。その中に「町内の縄文遺跡として南野田(みなみぬた)、切開(きいなま)、佐久間、平沢、上市場などで土器、石器が発見されている」とあり、少なくとも「南野田」には「みなみぬた」と読みが振られていたのです。

 これは、私にとっては大発見。「やっぱ、『ぬた』って読むじゃん!」と…。「だから、どうした?」と言われても、それまでですが、『大沼の大蛇』で語り伝えられたものは、「野田」の「田」は稲穂が頭を垂れる「田」ではなく、「沼田」のことだよ、との地名の由来だったのではないでしょうか?あ~、スッキリした!

 蛇足になりますが、イノシシが泥浴を行う場所も「沼田場(ぬたば)」と呼ばれます。「苦しみもがく様」を表現する「ぬたうちまわる(のたうちまわる)」の言葉はここから来ているそうです。

 ●むかし、野田に「大沼」と呼ばれる大きな沼があり…

2008年10月23日 (木)

あっちにも、こっちにも「落石注意」の交通標識

Rakuseki  山道でよく見かける交通標識―三角形の崖から、ゴロゴロゴロゴロ♪と4個も石が転がり落ちています。「落石注意」。

 「注意しろ!って言われても、どうやって注意すればいいの?」。確かに、私もそう思いました。崖の上を見上げながら運転するわけにもいかないし、運よく見つけたとしても、車の上に落ちてくる石を避け切れる自信はありません。「じゃあ、どうしろって言うの?こんな標識、意味ないじゃん!」。

 Rakuseki_2「広辞苑」によれば、「落石」とは「山などで、上から石が落ちてくること。また、その落ちた石」と定義されています。どうやらこの標識は、「落ちてくる石に注意するように」と言うよりも、「路上に落ちている石に注意してください」との注意喚起のようです。「ふ~ん。まあ、それならね…」。

  Rakuseki この標識は佐久間の久根で撮ったものですが、実際、雨上がりの路上には、木の葉や枝に交じって、小石がゴロゴロ転げていました。道路の左側が崖で、標識は崖側に立ち、図柄の石も左上から右下に転げています。だから、図柄は現場の雰囲気を伝えてはいますが、これが、反対車線ではどうなると思いますか?ちょっと考えてみてください。道路が崖と崖の間を通る場合でしたらこのままで良いのですが、佐久間のように片側が崖、反対側が天竜川や水窪川だとしたら…?変ですよね?

 実は、左右が反転した図柄のものがあるのです。佐久間に行けば、こんな逆パターンの標識もたくさん立っていますので、探してみてください。おっと!もちろん、路上の落石に気をつけて、交通事故など起こしませんように、十分ご注意を!やっぱ、危ないから、探さない方がいいかな…?ホラ、危ない!そこに石が転がってる!

 【関連記事】「がけ崩れ注意」の看板
 【関連記事】「落石注意」―北遠の道路は注意が必要

2008年10月21日 (火)

10000アクセス突破!ありがとうございます!

Acces  「耳寄りブログ だいすき!北遠の里」のアクセス数が、本日午後「10000」を超えました。ブログ開設以来、約6ヵ月。正直に言って、これほど早く、区切りの数字をクリアできるとは思ってもいませんでした。

 NPO法人「天竜川・杣人の会」が「緑の募金」のサポートを得て、私たち浜松市の新しい財産である北遠の魅力を発信しようと、先ずは「だいすき!佐久間」から始めました。この後、「だいすき!春野」に進もうと考え、「耳寄りブログ」は先行して「だいすき!北遠の里」へと衣替えをしました。

 Acces2 「頑張ってるね」「読んでるよ」の声を聞き、「え~、読んでくれてるんですか?」。「まち」に住む者が「やま」を語るなんて、「何も分かってない!」「いらんお節介だ!」とのお叱りも覚悟していましたが、反応は「逆」。佐久間出身の人、佐久間に暮す人からも、励ましの声を掛けてもらいました。こんなに嬉しいことはありません。

 ただ、私が書けることは、たかがこんなものです。そこで、皆さんの投稿をお願いしたいと思います。写真だけでも結構です。北遠が大好きな皆さんの考えなら、どんな内容でもOKです。お話を添えていただければ、なおさら嬉しいです。メールで送ってください。

 ご愛読、本当にありがとうございます。今後も、引き続きよろしくお願いいたします。(編集子)

2008年10月20日 (月)

「○心と秋の空」―刷毛で掃いたような「すじ雲」

Sujigumo2  「○心と秋の空」と言われますが、写真の秋空は、あっと言う間に空全体を覆う雲に隠されてしまいました。青空に刷毛で掃いたような雲―「巻雲(けんうん)」と言いますが「絹雲」と書かれることもあり、「すじ雲」などとも呼ばれます。

 高度1万㍍以上の上層に現れ、「しばらくは好天が続く」と書いているものもあれば、「下り坂」としている情報もあります。どっちなの?要するに、どっちになるのかまさに「○心と…」ですね。

 「すじ雲」についての、お天気ことわざを調べてみると…

 「すじ雲を見ると天気が変わりやすい」―じゃあ、雨じゃん。
 「すじ雲があると晴れる」―ええ、晴れなの?
 「すじ雲が出ると2~3日天気が崩れる」―もうすぐ、「川合花の舞」(10月25日)なのに…。

 …と、まあ、よく分かりません。

 それでも、秋空を代表する雲。思わず車を止めて、空を仰いでしましました。

 【関連記事】「うろこ雲」が出ると雨?
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鳥居をくぐって入る「大光寺」

Daikouji  「神仏混淆(神仏習合)」とは、簡単に言えば日本古来の神道や民間信仰が仏教と結びついたもの。今でこそ、神は神社、仏はお寺と、はっきり区別されていますが、明治維新まではその区別が必ずしも明確ではなかったのです。

 「神仏混淆」の寺として有名なのが愛知県の「豊川稲荷」。「稲荷」 というから神社かと思えば、「妙厳寺」 というれっきとした曹洞宗の禅寺なのです。皆さんもご存知の通り、「妙厳寺」はお寺ですので鐘楼もありますが、「豊川稲荷」は神社ですので鳥居もあります。

 「春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)」も、よく似ています。お寺なのに鳥居があり、守護神は「太白坊大権現」という天狗。明治の神仏分離令も、ここまでは及ばなかったようです。

 あの「秋葉山」が「秋葉神社(あきはじんじゃ)」と「秋葉寺(しゅうようじ)」とに分けられた同じ春野町にありながら、「大光寺」にはいまだに堂々と鳥居が建っています。鳥居の脇では、すでに紅葉が始まった「ドウダンツツジ」の葉が真っ赤に燃え上がっていました。

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 ●春野町花島の「大光寺(だいこうじ)」は曹洞宗の…
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2008年10月19日 (日)

「木馬(きんま)」を背負って運ぶ

Dscf0174  伐り出した木材を下まで下ろすのに使われた「木馬(きんま)」。「子どもの頃、親父が使うのを見たことがある。うちにはまだ残ってるよ」と言う人の話を聞きました。

 「だいたいが、ソリの部分は硬い樫で作り、あとは軽いスギを使っていたと思うよ。腰に油の入った壷をぶら下げて、重い時には、油を垂らしたもんだ。木材を下まで下ろしたら、今度は木馬を上まで背負ってあがらなくてはいけないので、軽くて小さくないと取り扱いができないんだよ」。

 あんなに大量の木材を運ぶにしては、簡単な作りで小さいので、なぜだろう?と思っていたところでした。「そうか。また上まで背負って上げたんだ!」。

 「木挽き衆も、ノコギリが硬くなると油を塗ってたね。真っ直ぐに挽くには、あんなに大きなノコギリが必要だったんだから、今での製材からは想像できない苦労だよね」。

 「釘だって、1本1本鍛えて作っていたんだから、1本だってムダにできない。神社仏閣に釘を使っていないのだって、金物を使いたくても高価過ぎたっていうのもあるんじゃあないかなあ?」。

 「…」。こう話してくれたのは、掛川の大工さん。家に山があって、子どもの頃には「山仕事」の手伝いもしたとのこと。「『さくま郷土遺産保存館』は懐かしいものがいっぱいあって、興味深いよね」と、熱く話してくれました。

 「佐久間民俗文化伝承館」の外にも、「木馬」が掛けてありました。くれぐれも「もくば」とは読まないように…。

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2008年10月18日 (土)

飯田線の鉄橋の数はいくつ?

Dscf0022  「鉄橋」とは?「鉄道橋」―鉄道を渡すための橋梁を「鉄橋」と言います。「鉄製の橋」を「鉄橋」と言うこともありますが、「鉄道橋」のすべてが鉄製とな限りません。コンクリートで出来ていても「鉄橋」は「鉄橋」です。

 Dscf0023 さて、飯田線全長195.7㌔には、鉄橋がいくつあるでしょう?1㌔に1本だとしたら約200本?さあ、どうでしょう?ヒントとしては、トンネルは138本ありますが…?

 答えは「410」。何と全線で410本もあるのです。佐久間に何本架けられているのかは調べてありませんが、長い「鉄橋」、短い「鉄橋」合わせて410本です。

 一番長い「鉄橋」は「渡らずの鉄橋」の愛称でおなじみの「第6水窪川橋梁」の401㍍。写真は『よれいね茶の子』さん(053-987-1130)のすぐそばの「鉄橋」ですが、第○水窪川橋梁の○の数字が分かりません。先に書いたように、コンクリート橋ですが、これだって「鉄橋」です。

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2008年10月17日 (金)

「芋掘」じゃあなくて「芋堀」ですよ

 Imohori 以前、遠鉄のバス停が「芋堀」ではなくて「芋掘」になっていたと書いたことがあります。その時には、写真がなかったのですが…。今度はちゃんと写真があります。はい、これが証拠。ねっ?「堀」じゃあなくて「掘」になっているでしょう?

 「芋掘り長者」の話は、金沢の地名の由来ともなっている「芋掘り藤五郎」が有名ですが、中区鴨江に伝えられている「鴨江寺縁起」にも、よく似た話があります。それは…。

 昔、奈良の都に替売臣(かわるめのおみ)という豪商がいました。

 その豪商に娘がいました。娘は幼い頃から観音菩薩を信仰し、付近の観音堂へ、雨の日も風の日も朝夕に参詣してあっという間に10年が経過しました。熱心な信心が通じたのかある日の夜、観音様が枕元に現れて「汝は、我を念心信仰している感心な娘である。これから伊勢神宮へも参詣せよ」と言って消えました。

 言われたように、伊勢神宮に参詣しお籠もりをしたところ、今度は老僧が夢に現れ、娘の左の裾へ錦の袋で包んだ金の玉を入れました。そして、「今からすぐに東海道を下向せよ。しからば幸福あるべし」とのお告げがありました。夢から覚めて左の裾を探してみるとまさしく錦の袋に金の玉がありました。そこで娘は、お告げを信じて東下りをしました。そして、ここ遠江国、引馬の里(浜松)で偶然にも筋骨たくましく、精悍な斧を背負った若者と出会いました。

 この若者は、山芋を掘り、落ちた木の実を拾い、生活していました。いろいろ話をしているうちに、この若者もまた金の玉を持っているとのことを知りました。世にも不思議な縁により二人は結ばれたのです。

 若者と娘は力を合せて助け合いました。娘は知恵を授け、若者は懸命に働きました。やがて、夫婦は大金持ちになり、人々はこの夫婦を「芋掘り長者」と呼ぶようになりました。(柳原新聞店「まい~か浜松」より一部加筆)

 …と、これが、鴨江寺に伝わる「芋掘り長者」のあらすじ。この「芋」が「鋳物」を表し、金属精錬の技術を持った集団についての言い伝えではないかと言われています。

 城西地区の「いもほり」が、この伝説による地名だとするなら、「芋堀」は「芋掘」で良かったはず。どこでどう変わってしまったのかは知りませんが、でも、ここは「芋堀」。「芋掘」は間違いですよ。遠鉄さん!

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2008年10月16日 (木)

在来の蚕「山繭(ヤママユ)」

Yamamayu  9月の中頃、飯田線「相月」駅の時刻表で見つけた大型の蛾について調べてみました。

 「翅をひろげたら10㌢を超える大きな黄茶色の蛾」。その通りです。15㌢くらいありました。「4枚の翅には、それぞれ1つずつの目立つ紋があり…」。そうそう、確かに目玉模様の紋があります。「黒白2色の筋がある」。これだ!間違いありません。どうやら「山繭(ヤママユ)」と呼ばれる種類だったようです。

 「山繭」は、「天蚕(てんさん)」とも呼ばれる日本在来の代表的な野生の蚕(かいこ)。幼虫はブナ科のクヌギ、コナラ、クリ、カシなどの葉を食べて育ち、4回の脱皮を繰り返し鮮やかな緑色の繭(まゆ)を作ります。この繭一粒から、長さ約600~700㍍、1000粒で約250~300㌘程度の絹糸が採取されるそうです。

 つまり、養蚕として飼われている蚕は、ミツバチなどと同じように家畜化された昆虫。「家蚕(かさん)」と呼ばれます。一方、「山繭」は在来、つまり野生の蚕ですので「野蚕(やさん)」と呼ばれ、「家蚕」が1500㍍ほども糸を吐くのに対して、前述のように600~700㍍と半分以下。ただし、通常の蚕から得られる絹糸よりも光沢に優れ、よく伸び、織物にすれば丈夫でシワになりにくく、暖かく、手触りが良いとのこと。「天蚕糸」とも呼ばれ珍重されているのだそうです。その希少価値と併せて「繊維のダイヤモンド」と例えられることもあるのだとか…。

 へ~、そうだったんですか?そんなVIPが「相月」駅にいたなんて…。「相月」の地名は「綾付(綾着)」から転じたものとのことでしたが、もしかしたら「相月」の人たちは、養蚕が始まるずっと以前に「山繭」から絹糸を得ていたのかも知れませんね?

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2008年10月14日 (火)

決して涸れることがない「新宮池」

 Singuuike 「新宮池」は春野町和泉平(いずみだいら)の山頂668㍍にあり、周囲約500㍍。池の水は、夏でも決して涸れることがないとのこと。この日も満々とした水をたくわえて、私たちを迎えてくれました。

 山の麓ならいざ知らず、山頂に近いこの場所で、これほど大きな池を見るだけで驚きです。池の底から湧いているとのことですが、池の水が涸れないのは、諏訪湖の水が通じているという言い伝えもあるのだそうです。まさに、「和泉平」の地名そのまんま。水は澄んではいませんでしたが、水面に秋の青空と白い雲、緑の杉林が映っていて、いかにも神秘的。「新宮池」には「竜蛇伝説」がある、とは聞いていましたが…。

 伝説によれば…
 
 昔々、「新宮池」に1匹の乱暴な大蛇が住んでいました。大蛇は畑や山を荒らし、村人を困らせていました。村人たちは幾度となく頼みますが、大蛇は聞き入れてくれません。村人は協力して、焼き石を「新宮池」に投げ入れて大蛇をこらしめました。さすがの大蛇も、とうとう逃げ出して行ったそうです。
 
 …と、こんなあらすじです。

Shinguuike_2   この他にも、田んぼに住む大蛇が暴れた時に、大きな池ができた、との伝説もあるようですが、諏訪神社にまつわる竜や大蛇が登場する伝説は、全国各地にたくさん伝えられています。佐久間の「相月諏訪神社」に伝わる民話も、まさにそんなモチーフ。実は「新宮池」の底で諏訪湖とつながっているのではなく、人々の心の奥底で諏訪神社の信仰と深いつながりがあった、と言った方が正しいのだろうと思います。

 それにしても、こんなに大きな池を「Hello Navi静岡」では「小さな池」と紹介しています。な、バカな!きっと、「新宮池」に行ったことがないのでしょうね?(*画像をクリックすると、拡大されて文字が読めます)

 私が見る限りでは、池に流れ込む川がないばかりか、流れ出す川も見当たりませんでした。はてさて、これは一体どういうことでしょう?大きな錦鯉が泳ぐ池の畔に、「新宮神社」が鎮座していました。

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2008年10月13日 (月)

神仏混淆の修験の山「春埜山大光寺」

Komainu  春野町花島の「春埜山大光寺(はるのさんだいこうじ)」は曹洞宗の古刹。神仏混交(混淆)の修験の山として知られています。春埜山は秋葉山と対になり、奥の院である「山住神社」の里宮であったという説もあります。明治の神仏分離令のときにも神仏習合を通し、鳥居をくぐって境内へと入る不思議な寺です。

 「大光寺」の本堂前には、狼神社として名高い水窪の「山住神社」と同じように、阿吽一対の狼の狛犬が控え、地元の人たちから「お犬様」と呼び親しまれています。「犬」とは、つまり「山犬=狼」のこと。少し尻尾が太く、キツネのようにも見えますが、ピンと立った耳、引き締まった表情とアバラの浮き出た姿には、野生の犬の神々しい風格が。「大光寺」がただのお寺ではないことを感じさせてくれます。

 Daikouji ここで、連想されるのが「犬居」の地名です。天野氏の居城「犬居城址」でも知られる「犬居」―方角を表す「乾(戌亥)」の意味との説がありますが、どこから見ての方角なのかには諸説あるようです。ここは、一つ、素直に「犬」を「狼」と読み替えて考えた方がふさわしい気がしますが、いかがでしょうか?

 実は、「春野」の町名は、昭和31年、犬居町と熊切村が合併した際、旧熊切村の春埜山にある「大光寺」に犬が祀られているたところから、双方の和を願って「春野町」と命名されたとのことで、その翌年、気多村との合併の際にも、その名を継承しました。「犬居」には、犬のお座りのポーズの意味もあり、「大光寺」の狛犬の姿勢は、まさに「犬居」。「大光寺」の「お犬様」と「犬居」とは、そんな縁でも結ばれていたのです。

 樹齢1300年と伝えられる「春埜杉」は、本堂前から少し下がった場所に聳えています。季節によっては、霧が多く発生するとのことで、久保田氏提供の霧に霞む本堂の写真を使わせていただきました。

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2008年10月12日 (日)

収穫の秋の喜びを伝える「鍬」

Kuwa  「金+秋=鍬」―「すき」と読むこともありますが、ここでは「くわ」。収穫の秋の喜びが伝わってくるような漢字です。写真は「浜松市博物館」で撮ったものです。「鍬」の主な種類が展示されていましたので、ご覧ください。

 左から「備中鍬」。私には一番なじみのある「鍬」で、「三本鍬」と呼んでいました。三方原の粘り気の強い赤土を耕作するには、「これ!」と言える「鍬」です。

 奥にあるのが「風呂鍬」と呼ばれるもの。「平鍬」の一種で木部に鉄板を差し込む形になっています。使ったことはありませんが、おそらく風呂なしのものよりも軽くて扱いやすいのだと思います。

 手前は「窓鍬」。先述の「備中鍬」は、この「窓鍬」の一種とも。その右は「鋤簾」。現在、土木用に使われているものと違い、元々はこんなふうに編まれた「簾」がついていたので、この名前が付いたのでしょう。後ろ向きに展示されているのが「唐鍬」。「さくま郷土遺産保存館」に多く展示されているのが、この「唐鍬」。木の根の多い山間の耕作地には、これが必要です。

 「鍬」は用途によって、さまざまに進化しました。山を開墾し、畑をならし、畝を作り、土を寄せ、草を除き、いよいよ収穫の秋。ここでも、喜びの中で力を発揮するのが「鍬」です。だから、「鍬」の字は「金+秋」。ちなみに、「金」+「春」「夏」「冬」の漢字はありません。城西地区には「御鍬神社」もあります。

 「使っている鍬は光る」とは、「毎日使われている鍬は錆がつく間もなく、いつでも光っている」の意味。勤勉を鍬に例えた諺(ことわざ)です。

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おススメの店『いどばた』

Idobata  静岡新聞の連載されている『秋葉街道』の26回目「佐久間ダム」(10月6日付)に、NPO法人「がんばらまいか佐久間」のお店『いどばた』が紹介されていました。

 その記事によると…

 ことし6月開店した食事どころ「いどばた」は女性活動委員会が営む。午前11時の開店前、「できたかねえ」と食品保存容器持参で病院帰りや近くの高齢女性らが訪れる。総菜は煮豆やサラダなど10品目余でほとんどが1皿100円。「作ってもいいが一人暮らしでは余る。ちょうどいい分量」と常連のおばあちゃん。代表の高橋淳子さんは、「手探り状態だが高齢者の食の支援は予想を上回る。前日に仕込み、当日午前中に調理とてんてこまい」と忙しく動く。

 …と、紹介しています。

 私が伺う時間は、いつも決まって開店直後の大忙しの時間。次々とお客さんがやって来ます。邪魔をしてるみたいで申し訳ないのですが、揚げたてのてんぷらと「手打ち蕎麦」(500円)が美味しいので、ついつい寄ってしまいます。高橋さんをはじめお店の皆さん、いつもスミマセ~ン!

 皆さんも、佐久間に出かけて食事の時間になったら、ぜひ、寄ってみてください。絶対におススメです。場所?店は「佐久間病院」のすぐ隣り。交番で聞くのもいいですが、聞くより先に後ろを振り向けば、ホ~ラ、そこが『いどばた』(053-965-0141)です。

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雑木林を代表する木―「コナラ」

Konara  葉っぱの鋸歯と葉柄の長さからみて、「小楢(コナラ)」だと思います。枝に付いているものもあれば、すでにドングリコロコロ♪状態のものも。ブナ科コナラ属ですが、ちょっと細長い砲弾型。スマートなドングリですね。

  「コナラ」は、家庭用の燃料として薪や炭にされた、里山の雑木林を構成する代表的な樹種。伐った痕からよく萌芽をしますので、その成長を待って、また伐採するということを繰り返して来たのです。

 Konara2雑木林は、私たちの暮らしと密接に関わっていました。つまり、管理されていたのです。それが今や、放置されて荒れ放題。常緑樹と落葉樹が競争すれば、勝負は明らかです。伐られた「コナラ」が再び目を覚ます頃には、常緑樹の日陰になっています。日が当らなければ光合成もできません。光合成ができなければ、生長できず、明るかった里山は、いつの間にか薄暗い林となってしまいました。

 人間と自然との共生、人間と自然との約束を破ったのは、私たち人間の方。最近は椎茸のほだ木として活用されるくらいです。夏なら、カブトムシがいるかも知れませんけどね~。

 枯れ葉に交じって転げているのは、鋸歯のない葉から見て「マテバシイ」のようですね?

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 ●材の色が白っぽいのが「シラカシ(白樫)」なら、赤褐色なのが「アカガシ(赤樫)」…
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2008年10月11日 (土)

遠州街並み遺産 Vol.39は春野町「旧王子製紙製品倉庫」

 静岡新聞に連載された『遠州 街並み遺産』のon lineページをご存知ですか?10月8日のVol.41は佐久間の「御室屋敷の長屋門」でしたが、9月24日のVol.39は春野町の「旧王子製紙製品倉庫―木材パルプの発祥地」でした。

Machinami  内容は…

 明治の欧風文化の象徴の赤レンガの建物が、浜松市天竜区春野町気田の春野中敷地内にたたずむ。明治22年、同所で創業を開始した旧王子製紙気田工場の製品倉庫で、県指定有形文化財建造物になっている。

 旧王子製紙気田工場は、モミやツガを原料とした日本最初の洋紙(木材パルプ)工場で、赤レンガの製品倉庫近くには「木材パルプ発祥之地記念碑」が建つ。

  同校の渡辺新五校長は「赤レンガの製品倉庫は、外壁をれんがと木造の二重構造にして空気の層を設けるなど、当時の新しい洋風建築の中に、山間地の寒暖差対策を取り入れた大工の苦心の跡がうかがえます」と話す。

 最盛期には300人ほどの従業員がいたが、大正12年に同工場が廃止。その後、昭和22年に工場跡地に当時の気多村立気多中の校舎が建設された。長い間風雪に耐え今も残る「赤レンガ」は、木材パルプ発祥の地を示す地域の誇りとなっている。(9月18日静岡新聞朝刊掲載)

 …と、なかなか魅力的な写真と解説です。懐かしくて、楽しい企画。ぜひ、チェックしてみてください。

 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は明治8年…
 ●わが国最初の製紙会社「王子製紙」の創業は…
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 ●春野町野尻で「赤煉瓦」の塀と出会いました…
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2008年10月 8日 (水)

連載企画「秋葉街道」22は「浦川歌舞伎」

  Kinbashi 「錦橋」と書いて「きんばし」と読みます。国道473号の「島中」と「柏古瀬」の間に架かり、鮎で有名な大千瀬川を渡る橋。その「錦橋」の東側で、静岡から来たというご夫婦と出会いました。

 「静岡新聞に連載されている『秋葉街道』の連載企画を読んで、興味が湧いて…」、佐久間を訪ねて来たとのこと。先ずは「西渡(にしど)」に寄って来たので、これから「浦川(うらかわ)」を散策したいと話してくれました。片手にデジカメをぶら下げて、「古い街道の風情が残っているのがいいよね」とニッコリ。

 その『秋葉街道』の22回目「浦川歌舞伎」(9月8日付)の記事には…

 郷土研究小冊子「かしの木塾」の伊東明書さん(75)が「佐久間町史」も取り上げていPoisuteると前置きして忠臣蔵四十七士にちなんだユニークな姓を持つ集落の話をしてくれた。大石内蔵助の大石は一般的としても、堀部安兵衛の堀部は保里に、大高源吾の大鷹、神崎与五郎の仙崎、武林唯七の竹林など。明治初め、一斉に苗字(姓)を付ける際、当時の戸長が決めたという。ひょっとしたら歌舞伎好きだったのかも。

 木材や繭の集積地、三信の物資中継地で栄えた浦川の町。芸者置屋が五軒、芸妓も二十人はいたという。通りで出会ったおばちゃんは「音曲がよく聞こえ、にぎやか。きれいな芸者にはあこがれたもんだ」。笑いながら答えてくれた。

 静岡から来たご夫婦は、こんな浦川の名残を求めて、「錦橋」を渡って行きました。「じゃあ、お気をつけて!」。こんな風に、山間の地「佐久間」の魅力を求めて訪れる人が増えることを願い、手を振りました。*地元では「おきん橋」と呼んでいるようです。

 ●かつては、まゆ市場、木材の取引きなどで栄えた浦川の町には…
 ●江戸時代の「浦川村」に関する記述を見つけました。それによると…
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三信鉄道の測量を指揮―アイヌの測量技師「カネト」

 現在のJR飯田線の元になった三信鉄道の測量を指揮し、工事の現場監督も務めた川村カネトの半生を描いた合唱劇「カネト」(中日新聞社など後援)が14日、飯田市の飯田文化会館で公演された。総勢129人がつくり上げた迫力ある舞台が、詰めかけた約1100人の観客を感動させた。

<中略>

 物語は、北海道旭川に生まれたアイヌの長の息子カネトが、幼いころからあこがれた鉄道測量技師となり、あまりの危険性に誰もが二の足を踏んでいた三信鉄道天竜峡-三河川合間67㎞を測量。工事を完成させるまでを描いた。

 カネトは、アイヌへの民族差別に遭いながらも、「人間は姿形ではなく、少年の日の夢と希望、誇りで生きるのだ」という。不屈の精神で命を賭して偉業を成し遂げるカネトの姿が、観客の心を揺さぶり、目元をぬぐう観客が絶えなかった。

 フィナーレは出演者全員の大合唱。大きな感動を呼び、拍手がしばらく鳴りやまなかった。飯島町の寺岡亜希子さんは「カネトは差別されても人のために役立つことに一生懸命。そういうふうに生きなきゃね」と目を潤ませていた。(2007年10月16日付「中日新聞」より)

 1937年の飯田線の全通までには、長い年月と多くの人々の努力と犠牲がありました。なかでも一番の難工事だったのが三信鉄道(「天竜峡~「佐久間・現中部天竜」間)の敷設。天竜川の流れに沿って計画された線路は、測量するにも急な断崖絶壁、天竜川に流れ込むいくつもの支流を渡らなければならなかったのです。アイヌ測量隊を率いてこの難所の測量にあたったのが、アイヌ人測量士川村カネト(カ子ト)でした。

 この区間は急峻な山岳地帯が続き、地盤は非常に脆く難工事となりました。山地での測量技術に長けた川村カネトが建設の指揮にあたり、多くの被害を出しながらも最後の「大嵐(おおぞれ)」~「小和田」間が開業。現在の飯田線が全通したのは、最初の区間だった伊那電気鉄道(「辰野」~「天竜峡」間)が開業してから40年後のことでした。

 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道博物館…
 ●トロッコファミリー号について調べてみました…
 ●初代新幹線「0系」や「湘南カラー」と呼ばれるオレンジと深緑の列車など…
 ●「渡らずの鉄橋」とは、もちろん通称。正式には「第6水窪川橋梁」と言います…
 ●出馬 - 上市場 - 浦川 - 早瀬 - 下川合 - 中部天竜 - 佐久間 - 相月 - 城西…
 ●2006年、惜しまれながら営業運転を終了したトロッコ列車「ファミリー号」の…
 ●以前、「JR飯田線『中部天竜』駅の変遷」の項で…
 ●飯田線の「渡らずの鉄橋」は、「城西」~「向市場」間に架けられた…
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 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道車両博物館で…
 ●「三信鉄道建設工事殉職碑」は、佐久間小学校の奥…
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 ●「第貮大千瀬川千参径間六十呎桁送出シ図」と裏書された写真…
 ●「第四相川橋梁 六十呎鉄桁送出作業」と書かれた3枚の写真…
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 ●飯田線「大嵐駅」―水窪町奥領家にあり難読駅名として有名…
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 ●モノクロの1枚は「嶋中峠隧道上ヨリ早瀬方面ヲ望ム」とされる、「三信鉄道」建設当時の古い写真です…
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 ●「水窪駅」と「大嵐駅」との間にある「大原トンネル」は、飯田線最長のトンネル…
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 ●古い絵葉書―三信鉄道の列車の写真を使った珍しい絵葉書です…
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 ●飯田線「下川合駅」は、「中部天竜駅」と「早瀬駅」の間…
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 ●飯田線最長のトンネル「大原トンネル」―長さ5,063メートル…
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2008年10月 7日 (火)

浦川のソバ畑は田んぼの跡

 4honguwa 三方原台地の外れで生まれ育った私にとって、鍬と言えば「三本鍬」。赤土と呼ばれる粘り気の強い土を起すには、刃先の分かれた「備中鍬」を打ち下ろすようにして使いました。「さくま郷土遺産保存館」に展示されている「唐鍬」を見て、「田んぼのない佐久間では、備中鍬を使わないのかな?」と考えたことがあります。でも、佐久間で実際に使われている「備中鍬」―しかも、「四本鍬」が使われているところを初めて目にすることができました。それは…。

 浦川のソバ畑を訪ねた時、隣りの畑のおばちゃんが農作業をしていました。「おはようございま~す」と声を掛けると、鍬の柄の頭に両手を乗せて顔を上げて一服。「ソバの写真を撮りに来ただかね?」と答えてくれた足元には、先が四本に分かれた「四本鍬」がありました。

 Sobabatake 「それって四本鍬ですね?」「軽くていいに~」「え~、四本鍬って軽いんですか?」。私は、細身の「三本鍬」を使っていましたが、「三本鍬」より1本多い「四本鍬」の方が当然重いと思っていたのです。「だって、刃が細いら」「ちょ、ちょっと持たせて」「やってみるかね」。私は、昔の田んぼの跡だという畑に下りて、鍬を借りてみました。「ねっ、軽いら?」「ホントだ。ああ、これは軽い」「だんだん、体力がなくなってきたで、軽くないとエライでね~」。

 「この辺は、田んぼだったんですか?」「そう、ダムができる前までは川が氾濫することが多かったらしく、向うにあるのが堤防。あんたが来た道だって、内側の堤防だっただよ」「今じゃあ、田んぼをしてる人はいないの?」「田んぼはエライでねえ。あんたが手伝ってくれりゃあいいけど…」。おばさんの足元には、稲藁のようなものが敷いてあります。「これは?」「こりゃあ、ススキじゃん。田んぼをしなくなった跡に、ススキがいっぱい生えて…」。

 この東栄町から嫁いで来たというおばちゃんの話は、まだまだ続きましたが…。ソバの白い花が秋風に揺れていました。ねっ、いい景色でしょう?

 ●あなたは、鍬(くわ)について考えてみたことがありますか?…

 ●浦川地区の水田跡で、ソバの花が満開…

「乳金物」についてもう少し…

Ishikawamon  以前「御室屋敷長屋門」の「乳金物(ちちかなもの)」について書いたことがありました。その後、「乳金物」のキーワードでのアクセスが多いので少し驚いています。

 私が通った大学は、金沢城内にありましたので、重要文化財「石川門」を毎日(?)くぐっていました。その「石川門」でも「乳金物」が飾りに使われていましたが、その頃には、土蔵の外壁の乳型の漆喰に「折れ釘」を打ち込んだ「乳釘(ちちくぎ)」と混同して覚えていました。

 Chichikanamono 一番古い和釘が残っているのは法隆寺の金堂だとか。和釘が使われてたのは、法隆寺が建立された飛鳥時代から明治初期まで。たかが釘とはいえ、日本刀などと同じように「釘鍛治」と呼ばれる専門の職人が1本1本鍛造で作り上げていました。土蔵に使われている「折れ釘」のように頭が折れていたり、巻かれていたり。鉄道のレールを固定する「犬釘」のような形と言えば、思い出していただけるでしょうか?

Wakugi  その和釘の頭をオシャレに隠すのが「釘隠し」と呼ばれる金物。「四葉」だったり「六葉」だったり「家紋」をデザインしたり…。長押(なげし)などで見かけたことがあると思います。

 そんな「釘隠し」の中でも「乳金物」は、城郭や寺社など格式のある建物の門の目立つ場所に使われています。今の住宅のように、釘やビスを好きなだけ使うわけにはいきませんでしたので、貴重な釘をここぞという場所に打ち、それでも見た目の良さにこだわって配置良く「乳金物」で飾ったのでしょう。

 「遊び」と言えば「遊び」、「ゆとり」と言えば「ゆとり」…。しかし、私たちは、こんな繊細なこだわりを、時代の彼方に忘れて来てしまっているのかも知れませんね?

 ●「御室屋敷長屋門」は、正面中央に両開きの…
 ●「御室屋敷」の土蔵の腰から下には、「なまこ壁」…
 ●山香地区に立つ「御室屋敷」の有形文化財「長屋門」…
 ●佐久間の「御室屋敷」の読み方について、人により…
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2008年10月 5日 (日)

三遠南信自動車道―「ハーフインター」とは?

Sanennanshindo  三遠南信自動車道の佐久間-東栄間(6.9㌔)に、新たにインターチェンジを設ける計画が明らかになった。浜松市天竜区佐久間町の「浦川ハーフインター(仮称)」で、東栄インターから長野県に向かう側に下り口を取り付け、国道473号に接続する…

 先日紹介した8月20日付「中日新聞」の記事の一部です。その後、「ハーフインター」を検索ワードにしたアクセスが何件かありました。多分、「ハーフインター」の意味が分からず、調べてみようとしたのだと思われます。「ハーフインター」とは…

 高速道路や自動車専用道路と一般道との連絡のために建設されるインターチェンジは、一般的には上り線出口・入口、下り線出口・入口の4つの出入口が考えられ、これらを全て満たすとフルインターチェンジ。これらに対して建設費用や立地条件等により、いずれかの出入口または複数の出入口を欠く場合に、ハーフインターチェンジ(ハーフIC)と呼ばれることになります。

 「三遠南信自動車道」には、すでに川合地区に「佐久間IC」(フルIC)ができることが決まっています。加えて、柏古瀬地区に入出口をつけようという記事ですが、「下り口」と書かれているために、「上り車線(愛知県に向う側)」なのか「下り車線(長野県に向う側)」なのかが分かりにくくなりました。記事をよく読むと分かるのですが、先ずできるのは「長野県に向う側の出口」だそうです。

 写真は、川合地区に建てられた「三遠南信自動車道」の看板。地元の期待は日に日に大きくなっています。

 ●三遠南信自動車道の佐久間-東栄間(6.9㌔)に…
 ●三遠南信道路の概要は、図のとおりです…
 ●浜松市天竜区水窪町に「三遠南信自動車道」の県内初区間として94年開通した「草木トンネル」が…
 【関連記事】着手済み区間は事業継続の方向 三遠南信道
 【関連記事】三遠南信道・青崩峠道路の予算削減 中部整備局が方針
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2008年10月 4日 (土)

「裏鹿(うらが)」→「浦川(うらかわ)」

Urakawaeki  以前、テレビのニュース中、浦上天主堂のある長崎県の「浦上」のことを「うらがみ」と発音したとしてネット上で取り上げられたことがありました。正しくは「うらかみ」。地元の人のしてみれば、大きな違いというわけです。

 佐久間の「浦川」については、昔は「裏鹿」と書いて「うらが」と読んだと書いたことがありました。応永6年(1399)の室町幕府管領奉書には、「遠江国西手山香内裏鹿村」と表記されているそうです。弘治3年(1558)の松井蔵人某書状には「尚以浦川か河井ニ有之板之内ニて可被遺候」と「浦川」と表記されています。また「浦河」と表記されたこともあるようですが、どう発音されたのかは定かではありません。

 そこで、地元の人たちの会話に耳を澄ませてみました。すると、明らかに「うらが」あるいは「うらがわ」と「か」を濁って発音しているのです。「今、『が』って言いましたよね?」と聞いてみたのですが、「そう?」とつれない返事。別の人は、「『うらが』じゃなくて『うらがわ』だら?」とアドバイス。「今、『が』って言いましたよね?」と聞いても、やはり「そう?知~らんや~」。

 「か」も「が」も意味に違いはありません。「か」は「鹿」と書いても、「山香」のように「香」と書いても、「場所を表すことば」。大した違いはありませんが、地図などが漢字表記になっていると、読み方が伝わりにくく、いざ災害時には、別の集落との誤解を受ける可能性もあります。「浦」は「裏」であっても、ペリー来航の「浦賀」のように川の入江を表す地名だったのかも知れません。以前は「が」と発音されていたのが、何かのきっかけで「か」と澄んだ読み方に統一することになったのだろうと思います。

 飯田線「浦川駅」のプレートには「URAKAWA STATION」の表記。「うらかわ」でも「うらが」でも問題はなさそうですが、どうやら地元の人の記憶の中には、未だに「うらが」の音が強く残っているように感じました。

 ちなみに「掛川」の人は、「かけがわ」とは言わずに「かけが~」と言っていますよね?意味は「逆川に面し、崖が欠けた土地」とのことですが、この「が」も、もしかしたら「川」を指すよりも「場所を表すことば」だったのかも知れません。

 ●かつては、まゆ市場、木材の取引きなどで栄えた浦川の町には…
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2008年10月 1日 (水)

木材を運ぶソリ―「木馬(きんま)」

Kinma_2  現代の林業は機械化が進んでいます。『与作』みたいに「ヘイヘイホー♪」とオノやマサカリで木を伐ることはありません。エンジン付きのチェーンソーが唸りを上げて伐木。山に架線を張り、ロープウェイのように吊り上げ、エンジンの力で木材を集めます。林道に待機しているトラックに積み込み…

 ところが、林道らしい林道もなく、トラックや集材機などがなかった時代、木を出す方法として主に使われていたのが木製のソリ。伐り出した木材を乗せ、ソリを滑らすために枕木のように敷き詰めた木の上を引いて降ろしていました。これが、「木馬(きんま)」と呼ばれるものです。

 実物が「さくま郷土遺産保存館」に展示してありました。写真のように人力で引きましたので、きつい山仕事の中でも一番の重労働。少しでも滑りやすくするために、枕木には油を塗ったそうです。

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2008年9月28日 (日)

佐久間に残る「湧水地名」

Ayu  お隣「愛知」の地名の由来をご存知ですか?古代の郡名に「吾湯市(あゆち)」「年魚市(あゆち)」などの表記が見られることから、元は「あゆち」であったであろうと言われています。また「あゆち」の「あゆ」は「湧き出る」の意味だとか。つまり、「愛知=あゆち」とは、湧き水が豊富な土地の意味になります。

 この説を踏まえて、佐久間の地名に当てはめて考えてみると…

 まずは「相川」です。水が湧き出るところの「あゆかわ」は、「あいかわ=相川」に変わることが考えられます。大千瀬川と並ぶ鮎の名所の「相川」が「年魚川=鮎川(あゆかわ)」と表記されなかったのが不思議なくらいです。

 実は「年魚」とは「鮎」のこと。「鮎」は縁起の良い魚とされています。そのため、全国には「鮎」の付く地名がたくさんあります。「鮎釣」の「鮎」は、魚の「鮎」のことを指しているかも知れないのですが、「湧水」の意味である可能性も十分にあると思うのですが、いかがでしょうか?もしかしたら、「相月=あゆつき」も?

 佐久間に残る「湧水」にちなむ地名―山里に暮らそうと考えた人々は、先ずは水の湧き出るところに住居を構えたはず。そう考えれば、佐久間に「湧水」にちなむ地名が多く残されている理由が分かります。

 このところ、地名の話が多くなっています。本当なら「大字」の下の「小字」にまで探りを入れると、もっともっと面白い歴史を垣間見ることができそうなのですが…。地元に住んでいない以上、残念ながらこの辺が限界です。

 ●佐久間には「静岡県の湧き水100」(静岡新聞社)に取り上げられた「大下滝の霊水」「銀冷水」の他…
 ●静岡県の難読地名と言うと、すぐに出てくるのが「出馬」…
 ●「銀冷水」の立て札は、県道1号(飯田富山佐久間線)沿い…
 ●さあ、「スズンダ峠」の地名の由来について考えてみましょう…

2008年9月27日 (土)

「三階松のいっぱい水」は天野氏由来?

Sankaimatsu Amano02  「三階松のいっぱい水」は、北条(ホウジ)峠に抜ける県道沿いの羽ヶ庄(はがしょう)に湧いています。この「三階松」の呼び名について、地元の人に聞いてみたのですが…?「あんた、知ってる?」「さあ、知らんや~」「松が3本あったんじゃあないの?」「…?」。

 松は、古来変わらぬ緑から長寿のシンボルとして尊ばれ、門松などに使われてきました。そのため、松を意匠とした家紋ももちろんあり、「三階松」はその代表。一休さんみたいに座禅は組みませんが、推理を巡らして、この「三階松」の家紋が呼び名の由来ではないかと推理してみました。

 実は、春野の「犬居城」に居城を構えた天野氏の家紋が、「三階松に三日月」だったのです。天野氏は今川氏から寄親の地位を承認され、北遠を代表する国人領主となりました。永禄11年の今川氏滅亡を契機として武田氏・徳川氏の抗争に巻き込まれましたが、その支配地を、信濃と遠江を結ぶ街道が通過し、そのうえ遠江と駿河を結ぶ交通の要衝であったため、武田・徳川の両陣営にとって天野氏は一目置かれる存在でした。

 天野氏は初めは徳川氏につきましたが、その後、武田氏に属したため、徳川氏の攻撃を受けて大敗。やがて犬居山中から退去し、北遠の徳川支配が確立しました。天野氏滅亡の後、子孫は一族のさかえる安芸国福山に移住したり、遠江国で帰農した者もいるとのことです。この佐久間の山里に残る「三階松」の呼び名は、そんな天野氏に由来するものと考えたのですが、いかがでしょうか?

 【関連記事】スーパー林道を行く①一杯水

2008年9月26日 (金)

「はたおりの子を負ひたればあはれなり」

Hataori  「はたおりの子を負ひたればあはれなり」  山口青邨

 さて、この句の意味は?

 「奉公に出された貧しい機織りの娘が、背中に子を背負い子守をしている。いかにも哀れではないか」と、取りたくなるところですが、その解釈ですと「季語」がなくなることになります。この句の「季語」は「はたおり」=「機織飛蝗(ハタオリバッタ)」で、季節は秋。「ハタオリバッタ」より少し小型の「オンブバッタ」の♀が、♂を背中に乗せている様子を読んだもののようです。秋の野原では、「ハタオリバッタ」が跳び回っていました。

 「ハタオリバッタ」が餌にするのは主にイネ科の葉。イナゴやトノサマバッタなどと同じように、実りの秋の風景を連想させてくれるバッタ目バッタ科の昆虫です。「ショウリョウバッタ」が正式の名前ですが、後脚を揃えて持つと体を縦に振るの様が「機織り」に似ているところから「ハタオリバッタ」とも呼ばれるようになりました。また、同じ動作を「米搗き」に見立てた名前が「コメツキバッタ」。キチキチキチ♪と音を出しながら飛びますので♂は「キチキチバッタ」とも。スマートで、大形のバッタです。

 でも、考えてみれば、「機織り」にしろ「米搗き」にしろ、似ていると言われても連想できない時代になってしまいましたね。「米搗き」はもちろん「機織り」も見たことがない人がほとんどです。今後、「ハタオリバッタ」「コメツキバッタ」の名前も「死語」と言われるようになってしまうのでしょうか?

 では、もう一度…

 「はたおりの子を負ひたればあはれなり」

 う~ん。やっぱり山口青邨は、文頭に書いた意味を踏まえて、この句を作ったのだと思います。

 佐久間には「機織淵」の民話が残る滝があります。「機織淵」については、下の関連記事をお読みください。

 ●戦国時代の頃でしょうか。戦に敗れた肥田孫兵衛という侍が…
 ●「機織りが上手で気だての良い優しい娘が…
 【関連記事】「広報はままつ」7月5日号全市版の表紙は佐久間の機織淵

 ●「ハタオリバッタ」「キチキチバッタ」の正式な名前は「ショウリョウバッタ」…

2008年9月25日 (木)

期待ふくらむ「三遠南信道路」

Road_2  三遠南信道路の概要は、図のとおりです。浜松市域の延長は約31㌔。ただし事業が決まっている区間は6.9㌔(佐久間IC~東栄IC)です。

 天竜川流域にある三河・遠州・南信の地域は、同じ根っこを持つ生活と民俗芸能のふる里。地域に今なお息づく霜月神楽(湯立神楽)、田遊び、獅子神楽、鹿追い祭り、念仏芸能などの文化遺産を守り、育んだのは、この地域の古く長い交流の歴史。新しい道は、これらを後世に残し、山の生活文化を発信するなど、この地の魅力をますます輝かせる架け橋としても期待されます。

 早期の完成が待たれます。(Posted by 久保田)

 ●三遠南信自動車道の佐久間-東栄間(6.9㌔)に…
 【関連記事】三遠南信自動車道―「ハーフインター」とは?
 ●浜松市天竜区水窪町に「三遠南信自動車道」の県内初区間として94年開通した「草木トンネル」が…
 【関連記事】着手済み区間は事業継続の方向 三遠南信道
 【関連記事】三遠南信道・青崩峠道路の予算削減 中部整備局が方針
 【関連記事】三遠南信道、県境部事業費3分の1 国交省方針伝達
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「スズンダ峠」は清水が湧き出る峠

 Susunbara さあ、「スズンダ峠」の地名の由来について考えてみましょう。「和山間(わさんま)峠」の別名とされていますが…。「出馬」が「いずんま」と読まれる地域ですので、「すずんだ」の元の読みを「すずだ」と推理して考えてみました。

 まず、「すず」の付く地名語源を調べてみると…

 (1)稲を積んだような形の山のあるところ(2)笹(ささ)が群生しているところ(3)清水が湧いているところ(4)涼しいところ(5)錫が産出されるところ(6)浸食地形などの意味があるようです。三重県の「鈴鹿」は(1)の意味だとか。

 長崎県に「鈴田(すずだ)峠」という、興味を引かれる地名が見つかりました。「角川地名大辞典42長崎県」によると…

 「鈴田峠」の大村側が、鈴田村(江戸期~明治22年の村名)でした。かつては今里村(いまざとむら)と呼んでいましたが、地内の鎮守地主大明神の社脇の田地からかつて鈴が掘出されたことによると伝えられています(大村郷村記=大村藩編集 天和元年1681~文久二年1862完成)。また、鈴は清水・湧き水を意味することから、湧き水が多く水田の広がった地であることによるものとも思われます。

 …とあります。私が注目したのは、「鈴=清水・湧き水」の記述。さらに調べて行くと…

 東北地方では山から湧き出る清水のことを「すず」と呼び、「梅ヶ枝清水(めがすず)」「大清水(おおすず)」「清水谷(すずのや)」などの地名があるようです。これでしょう!

 「スズンダ峠」は、(3)の「清水(すず)が湧き出る峠=清水出峠」の意味に違いありません。「銀冷水」が湧き出る山を「ススンバラ=篠ヶ原」と呼ぶようですが、これも(2)の「笹が群生しているところ」というより(3)の「清水(すず)が湧き出る原=清水原」と解釈できるのではないでしょうか。「佐久間地域自治センター」に問い合わせてみても分からなかった「スズンダ峠」の地名由来を、私なりに勝手に推理させていただきました。「涼んだ峠」の意味だと良かったのですが…。

 ちなみに、すぐ近くの「出馬(いずんま)」が「泉が湧き出る場所」の意味だろうとは、すでに書いた通りです。

 ●佐久間には「静岡県の湧き水100」(静岡新聞社)に取り上げられた「大下滝の霊水」「銀冷水」の他…
 ●静岡県の難読地名と言うと、すぐに出てくるのが「出馬」…
 ●「銀冷水」の立て札は、県道1号(飯田富山佐久間線)沿い…
 【関連記事】佐久間に残る「湧水地名」

2008年9月24日 (水)

佐久間発電所で使われた巨大水車

Suisya  「佐久間ダム」は、昭和28年に着工。アメリカの重機や技術を導入してコンクリートを打ち込み、わずか3年4ヵ月という、当時としては驚異的なスピードで昭和31年に完成しました。下流約4㌔には、佐久間発電所があります。発電所は我が国の代表的存在で、落差133㍍を利用して毎 秒306㌧の水を落とし、4台の大型水車発電機をまわして最大出力35万kWを発電しています…。「ええ?まさか水車?水車発電機?」。

 そうです。ダムはあくまでも水を貯めるための施設。電気は貯めた水の落差を利用して発電所で作られますが、その時、水のエネルギーで発電機を回すのが「ランナ」と言われる水車です。

 佐久間ダムの水を貯めているのが佐久間湖。取水口から水を取り入れ、下流の佐久間発電所で水車が回っています。「佐久間電力館」の外には、平成5年までの37年間、実際に佐久間発電所で使われていた水車ランナが展示してありました。このランナひとつで97,000kWを発生させる力があり、直径は約3.8㍍、重さは32㌧。コトコトコットン♪の水車のイメージからは遠いのですが、あれも水車ならこれも水車。佐久間の水車は、重くて巨大な水車でした。

 今年の「ダムまつり」は10月26日(日)。ぜひ、お出かけください。

 重力式コンクリートダム「佐久間ダム」は…
 遠州灘海岸の浸食対策とダムの氾らんを防ぐため…
 ●大雨でダム湖の水位が上がった浜松市天竜区佐久間町の佐久間ダムが…
 ●先日、全5門からの放水の記事と写真を紹介…
 ●「佐久間ダム」の大放水―2008年6月21日となっていますので…
 ●長野県の諏訪湖から遠州灘に注ぐ天竜川水系で今後約30年間…
 ●毎年、10月の最終日曜日に開かれる「佐久間ダムまつり」…
 ●佐久間ダムの下にあるのだから、きっと発電所だろう…
 【関連記事】山はもちろん、足元も紅葉―「佐久間ダム」「佐久間湖」
 【関連記事】「佐久間湖」は「ダム湖百選」
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 【関連記事】「天竜川のダム再編事業費全額認められる」NHKニュースより
 【関連記事】戦後復興示した金字塔―佐久間ダム
 ●うっかりすると「佐久間発電所」と勘違いしそうなのが「開閉所」…
 【関連記事】「もったいない」水の再利用「佐久間第二発電所」
 ●平年に比べて降水量が少なく、浜松市など県西部の水源になっている天竜川水系の佐久間ダムの貯水率が…
 【関連記事】「佐久間ふるさと特産品フェア」3月21日
 【関連記事】ダム湖のサクラも開花しました。
 【関連記事】佐久間ダムの桜を守るウソのようなホントの話
 ●佐久間ダム湖岸広場に近い場所に、日本と朝鮮との平和を願った「記念碑」が…
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 【関連記事】絵葉書で振り返る北遠⑥―「自然と人工の調和美 佐久間ダム」
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 【関連記事】完成の翌年、昭和32年(1957)10月28日、天皇皇后両陛下は「佐久間ダム」に御臨幸…
 ●「佐久間発電所」で作られた電気が送られる「電線路」の第1歩は、この鉄塔から…
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2008年9月22日 (月)

「大地野隧道」を抜けると「夏冷沢」?

Oochinozuidou  旧天竜市の熊の「くんま水車の里」を抜けて県道9号を北上。地図で見る限り、このルートが佐久間への一番の近道のような気がしましたので、「大地野隧道(おおちのずいどう」を抜けて川上に出てみました。歩いて一人で通るのは少しはばかられるような、全長約187㍍の古く苔むしたトンネル。真っ直ぐなトンネルですので、北口から南口が見通せます。北口に残る表示は読みにくかったのですが、「大地野峠隧道」と「峠」の文字が入っていたような気がします。

 さて、トンネルを抜けると次に目に付いたのは、道路標識の「佐久間町夏冷沢」の文字。さて、何と読むんでしょう。辺りに集落はなさそうだし…。さぞや、夏は涼しいのだろうと馬鹿げたことを考えながら、車を走らせました。

 それでも気になりましたので、NPOの店『いどばた』で聞いてみたのですが…?「かれさわ?」「かんれいざわ?」「知らんやあ」。観光協会でも聞いてみたのですが…?「かれいざわ?確かじゃあないけど…」。

 Kareizawa 1日たっても気になるのが収まらず、佐久間地域自治センターに電話してみました。「あのう、夏冷える沢と書いてあったんですけど…」と問い合わせたところ、「…。少しお待ちください」と時間が空き「お待たせしました。『かれいざわ』と読むようです」との返事。なるほど「か・れい・ざわ」なら文字そのまんまですね。

 登山用語では「水量が少なく流れのなくなった沢。 崖崩れなどによって土の上に岩石がゴロゴロしている不安定な場所」を「枯れ沢」「涸れ沢」と呼びます。「夏冷沢」も、水が涸れたのか、山が崩れたのかのどちらかを留めた地名だと思われます。それにしても「夏冷沢」の文字を当てたのは、きっと夏の涼しさからでしょう。

 佐久間の地名の読み方では、本当に苦労します。でも、楽しいんですけどね…。「ついでにお聞きしたいのですが、スズンダ峠って、どんな字を書くのですか?ススンバラは?」「それは…」「じゃあ、この件は、次回にとって置きます。ありがとうございました」。「涼んだ峠」だったら、これまた涼しそ~♪

詳しい地図で見る

 ●さあ、「スズンダ峠」の地名の由来について考えてみましょう…

 ●北遠など山間地域などをドライブしていて思うこと…
 ●以前、「隧道(ずいどう)」と「トンネル」について書いたことがありました…
 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
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 ●前回は2月に通った「岩井戸隧道」を、もう一度…
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2008年9月21日 (日)

ご飯を炊くと違いが分かる「銀冷水」

Ginreisui    「銀冷水」の立て札は、県道1号(飯田富山佐久間線)沿いですので、すぐに見つかります。細い湧き水が通称・ススンバラと呼ばれる山肌から流れ落ちていました。

 ちょうど、軽自動車が止まり、ペットボトルに水を汲んでいる人がいました。「こんにちは~。おいしいんですか?」「手を出してみな。冷たいら…?」「ホントだ。だから冷水か」。その日は、比較的涼しい日だったのですが、水温は気温と比べてかなり低く、手にヒンヤリと感じました。「かなり、山の深いところを通って湧いているんだろうな~」。

 「おいしいんですか?」「このままでも、まずくはない。でも、この水で、お茶を入れたり、ご飯を炊いたりすると、ホントにおいしいよ。飲んでみりゃあ、いいじゃん」。湯呑も置いてありましたが、手の平を丸めて飲んでみました。「どう?」「うん。水の味だ!」。遠州弁の会話は続きましたが、その人のペットボトルは次から次へと出てきて、なかなか給水が終りそうにありません。

 「じゃあ、ありがとう」と、その場を離れようとした時に見た車のナンバープレートは「三河」。すぐ隣りの東栄町は愛知県。よく考えれば「三河」ナンバーは全然不思議ではありませんでしたが、言葉も遠州弁だとばかり思って話をしていました。遠州弁と三河弁。違っているところもありますが、よく似ています。佐久間の人と話していると、ふと三河弁を感じることもあります。県は違っても、言葉や文化、地域のつながりは県境に妨げられてはいないとつくづく感じさせられました。

 ●佐久間には「静岡県の湧き水100」(静岡新聞社)に取り上げられた「大下滝の霊水」「銀冷水」の他…
 ●静岡県の難読地名と言うと、すぐに出てくるのが「出馬」…
 ●さあ、「スズンダ峠」の地名の由来について考えてみましょう…
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2008年9月20日 (土)

佐久間に自生する「ツメレンゲ」

Banreitou Tsumerenge  「クロツバメシジミ」の幼虫が食べるという「ツメレンゲ」―佐久間に自生していると書いたばかりでしたが、その「ツメレンゲ」を偶然見つけてしまいました。「へ~、これってもしかしたらツメレンゲじゃん」という感じ。ちょっとした驚きでした。

Dscf0040 ベンケイソウ科の多肉植物で、日当たりが良く、乾燥した場所を好むとのこと。場所は明かしませんが、写真を見れば佐久間に詳しい人なら想像がつくところです。「ツメレンゲ」は、「馬頭観音」や「三界萬霊塔(さんかいばんれいとう)」などが立ち並ぶ台座や石垣のあたりに群生。知らなければ見過ごしてしまったでしょうけど…。花の時期には、まだ少し早かったようです。

 ●6月20日(金)午後2時ごろ佐久間高校プール南側の…
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 ●太平洋を望む土佐清水市の断崖(だんがい)絶壁。岩場のあちこちで…
 ●佐久間に行くたびに気になるのが「爪蓮華(ツメレンゲ)」…
 ●気になっていた佐久間の「爪蓮華(ツメレンゲ)」に花が咲きました…
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 ●環境省指定の準絶滅危惧種「ツメレンゲ」。実は、佐久間の…
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 ●ツメレンゲ、ツメレンゲ…。絶滅危惧種の珍蝶「クロツバメシジミ」の食草「ツメレンゲ」…
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2008年9月19日 (金)

「機織淵」にまつわる伝承

Tatebata  「機織りが上手で気だての良い優しい娘が隣の集落へ嫁いだが、子どもが授からず機具(はたぐ)を背負って泣く泣く実家へ戻る途中、木の根につまずき淵の中に沈んでしまった。それからはこの淵から悲しげな機を織るおさの音が聞こえるという。

 …と、これは、龍山に伝わる「機織り淵」の伝説です。

 「むかし、むかし、井伊谷正楽寺と気賀の小野との境にある疣観音は疣を治すに有名で、その側には、はたおり池と言う岸辺には葦の生い茂った古い池が有りました。底の知れない、それはそれは深い池でした。池の底からは、常にチャンチャンカラリ、チャンチャンカラリと機を織る音が聞こえていました。

 時は秋の中頃、静かに澄んだ池の水面に枝を広げた、名も知れない木の花が秋だと伝うのに見事に咲いていました。そして、池からはチャンチャンカラリ、チャンチャンカラリ、と機を織る音が聞こえてきます。

 そこを通り掛かった美少年、井伊谷のおだい(金持)様の奉公人の好太郎は、主人の言いつけで気賀へ鉈を買いに行った帰り道。機織る音、名も無い花の美しさにボーとたたずんでいました。

 しばらく花を眺めていましたが、あまりにも美しいので一枝取ろおと木に登り、鉈を振り上げたとたん手を滑らせて、池に鉈を落としてしまいました。好太郎少年は、木から降りて岸辺に走り来てみると、不思議な事に鉈は池に浮かんでいます。竹竿で引き寄せようとすると、クルクル廻って池の中に沈んでしまいました。

 池の底からは、チャンチャンカラリ、チャンチャンカラリと機を織るきれいな音が聞こえてきます。不思議に思い、池の中をのぞいて見ると、母から聞いたおとぎ話の竜宮城が見えるでは有りませんか。魔法でもかけられたように、好太郎はスルスルと水底深く導かれてしまいました。

 それから三年経ちました。井伊谷のおだい様の家では、三年経っても帰ってこない好太郎の三年忌をやっている所へ、

 『真に申し訳ございませんでした。機織り池に鉈を落としたので、探しに入りましたが底無池で中々見つからず、ようやく見つけ出してただ今も戻って参りました。』

 家の人々はびっくり、そして大喜びでした。三年間を夢で過ごした好太郎少年の気持ちは、今は分からないが、このような話は各地に伝えられています。」(「浜松だいすきネット」より)

 …と、これは引佐に伝わる「はたおり池」の伝承。「イソップ物語」の翻案と浦島伝説の合体です。

 実は、このように機織りが滝や池に身を投げたという話は、全国に伝えられています。また、龍や大蛇の嫁になるために滝壺に入った娘の話もあります。これに対して、下平(しもったいら)に伝わる「機織淵」の言い伝えでは、悲恋の末に身を投げる娘の話。少しずつ異なる伝承の中の共通なエッセンスを伝えた人たち、それもおそらく機織りの特殊技術を持った集団の移動の歴史があったのは確かだろうと思います。

 観光や人集めの必要でない時代に語り告がれたお話は、むしろ他地域の人を近づけないためのものだったのかも知れません。「機織り」の自殺現場だと聞けば、いくらロマンティックに話されたとしても近づきたくはありませんものね?河内川の一つ下流にある「龍王淵」は、「龍王権現」の神域として祀られています。「たっくり淵」に残る怪奇な蜘蛛の伝説も、水源に近づけないための工夫だったのでは…?

 その答えを知りたくて「機織淵」に立ち、耳をすましてみました。「お願いだから、答えを教えてくれ!」。しかし、2段に落ちる水音が響き渡るばかりで、私の耳には、チャンチャンカラリ♪の「機織り」の音すら聴こえてきませんでした。

 ●戦国時代の頃でしょうか。戦に敗れた肥田孫兵衛という侍が…
 ●「はたおりの子を負ひたればあはれなり」…
 【関連記事】「広報はままつ」7月5日号全市版の表紙は佐久間の機織淵

2008年9月17日 (水)

20年後に会おう!アカウミガメ放流 南信の親子80人が遠州灘で

Umigame  特定非営利活動法人(NPO法人)天竜川ゆめ会議による「アカウミガメ放流ツアー」が14日あり、南信地方の親子ら約80人が天竜川河口の浜松市中田島砂丘を訪れ、遠州灘にふ化したばかりのアカウミガメの赤ちゃんを放した。

 同会議は、ダムなどの影響で、河口に運ばれる砂がなくなり、ウミガメが産卵する砂浜が浸食されている実態を天竜川上流に住む人たちにも分かってもらおうと、毎年ツアーを行っている。

 参加者たちは、アカウミガメの保護活動をしている地元の人から「赤ちゃんは約20年をかけて太平洋を一回りして遠州灘に戻ってきて産卵する」などの話を聞いた。

 この後、砂丘に移動し、それぞれが天竜川上流域から持参した川砂をまき、まだ柔らかいアカウミガメの赤ちゃんを海に放し、必死で海に向かう姿に「きっと戻ってくるんだよ」などと声をかけた。(「中日新聞」より)

 参加者の皆さんも、また必ず中田島砂丘に戻ってきてください。過ぎてしまえば20年なんてあっという間です。その時には、今よりももっときれいで豊かな海が広がっていると良いですね?

遠州佐久間の二本杉ごろじ、信濃こいしと葉を返す♪

To_2hiki  旧南信濃村のHP「信州遠山郷」で、面白い記事を見つけました。

 その昔、遠山土佐守が岡崎に出て、徳川家康に初めて謁見した時のこと。土佐守は食事をする時、左手で茶碗を隠すようにして食べ、しかも食事が終わると二本の箸を、茶碗のへりに渡しておきました。家康が不思議に思い尋ねると、「遠山谷の習慣です。遠山は山と谷ばかりで、田が少ないので米がとれません。ですから、上下を問わず領主の私も、麦または粟などを常食としております。それゆえに貴い人の前で食事をするときは、これ恥ずかしく隠してしまう習慣がございます。先ほどはお見苦しい不作法をつかまつり、誠に失礼いたしました」と述べたそうです。

 翌日、家康から「昨日、その方が申し述べたこと如何にも気の毒である。よってこれから上穂領(上伊那)千石を増加し、その方の家紋を、その茶碗のかたちに型どり、このようにいたすがよい」とお言葉を賜りました。面目を果たせた土佐守は、それ以来、丸に二本の線を渡した家紋を使用するようになったと伝えられています

 そして、遠山の盆踊りの唄に、『遠州佐久間の二本杉ごろじ、信濃こいしと葉を返す♪』と言うのがあるそうです。つまり、植えた主(土佐守)亡き後、葬られている信濃の空が恋しくて、風が吹くたび葉を北の方に返すというものです。(*ただし、杉は針葉樹ですので、「葉を返す♪」という歌詞には、別のオリジナルソングがあるのだろうとは思いますが…)

 お隣の南信濃村(飯田市)では、「二本杉峠」いわれの武将を、遠山土佐守として言い伝えているようです。となると、二本杉峠にそびえていたと伝えられる大杉は、家康に謁見したときの箸だったということです。確かに江儀遠山家の家紋は「丸に二つ引」紋。しかも、二本の線が丸の外にはみ出した図柄ですので、まるで茶碗に二本の箸を乗せたようと言われれば…。言い伝えとは、実に面白いですね。言い伝えのほとんどは、とるに足りないものですが、まったくのでっち上げとも言えないと思います。この中に、言い伝えたい何かが含まれているはず。少なくとも南信濃村の庶民の常食が米でなかったというあたりは、真実と考えてよいのではないでしょうか?

 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線を佐久間からホウジ峠に向かう途中の峠…
 ●佐久間の山には、「峠」と付く地名がたくさんあります…
 【関連記事】北条峠と二本杉峠は北遠の「野麦峠」
 【関連記事】「別れの二本杉」
 ●佐久間から野田に通ずる道に、二本杉峠という峠があります…
 【関連記事】二本杉峠に育つ「シラカンバ」
 【関連記事】「二本杉峠の大杉」伐採の図
 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
 【関連記事】「二本杉峠新道碑」除幕式の思い出
 【関連記事】初版・さくま昔ばなし「二本杉峠の大杉」より

「葛」の根、若芽、葉、花の蕾は食用に…

Kuzu3  山野に自生する強靭な蔓草で、葉は三つの円い小葉が集まって一枝の大型の葉となり、その質強くかつ厚く、裏に毛が多い。秋、葉脇から花柄を出し総状に紫赤色の蝶形花を開く。秋の七草の一つとして親しみが多い。

 葛だんご諸病にたたる事もなき
       胃の熱を去り食をすすむる

 「食用部」根、若芽、葉、花の蕾。

 「食用法」若芽、葉、花の蕾は一度茹でて和え物、酢の物、煮物に用いられる。根は細かに切り油炒めにして、煮付けるもよく、汁の実に用いるのもよい。また、くず澱粉に再生して用いるのもよい。この澱粉は貴重な薬効がある。

 『復刻 昭和20年8月 食生活指針―敗戦を生き抜いた知恵』(静岡県作成・今村純子他執筆)には、こんなことが書いてありました。何と、「澱粉」の話は最後のたった1行。私には「葛湯」とか「葛餅」しか思い浮かびませんでしたが、厄介者どころか食用としても利用価値の高い植物のようです。

 ●「葛(クズ)」は秋の七草の一つ。マメ科の多年草で…
 ●「葛」について、もう少し…

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2008年9月16日 (火)

「尾根道」が続くのはなぜ?

Dsc00941  かねてから疑問に感じていたことですが、どうして新しい道は川筋に作られるのに、旧道と言われる道の多くは山の尾根筋を通っているのでしょう?険しい山道を「一山越えて…」行くよりも、グルリと回った方が楽だと思うのですが…。とにかく、塩の道=秋葉道も、かなり尾根に近いところを通る道になっています。

 この疑問に対する解答をネットで見つけました。「山の上を通ると見通しが良いので敵や獣に対して有利である。乾いていて歩きやすい。川沿いの道は、湿地が多く歩きにくい。どうしても大小の川を渡る必要があり、もしも橋が架けられていたとしても、木橋の寿命は7年ほど。しかもたびたび壊れる。履物がわらじや藁でできた靴では始末が悪い。熊・猪・オオカミ・まむし・ヒル・蜂・毒虫などと出会いやすい」とのこと。なるほど、これが尾根伝いに峠を越えた理由です。

 先日「水窪の青崩峠から兵越峠に抜ける道は、ヒルが多い」と聞いたばかり。佐久間の集落が、新道から見上げるような高みに点在するのも、同じ理由からかも知れません。佐久間の盆地の底に暮すよりも、夏の暑さからは解放されます。しかし、望むと望まざるとに関わらず車社会となってしまった現代では、車の通れない峠道は嫌われ、新道が開通したため、山の上に暮していた人たちも街に出やすくなり、かえって廃村となったり限界集落の烙印を押されたりしています。

 かつての道は、隣り合った集落と集落とを結ぶものでした。ところが、経済効率優先の新道は、利害の一致した地域同士を最短距離で結ぼうとします。このために、発展から取り残される集落があろうがお構いなし。これが、近代化という名の過ちでした。「三遠南信自動車道」はどうですか?佐久間の人たちの利用しやすい道路ですか?生活道路と幹線道路との違いと言ってしまえば、そうなのかも知れません。でも、この夢の道路の開通が、ますます過疎化に拍車を掛けるのではないかと一抹の不安を感じています。

2008年9月15日 (月)

「ヨキ」=立木を倒す道具「斧」

Yoki    「さくま郷土遺産保存館」の第2コーナー「天竜美林を育てた人々」には、山仕事で使われた道具がたくさん展示してあります。写真は一般的には「斧(おの)」と呼ばれている刃物。説明には「ヨキ」と書いてありました。「ヨキ」は立木を伐採するときに使う道具で、この「ヨキ」で伐採する方向に受口を切り開き、反対側からノコギリを入れて倒します。

 Ishionoもう一枚の写真は、第5コーナー「佐久間のあけぼの」に展示されている半場遺跡出土の「石斧」です。人間が使うようになった道具の中でも、「斧」はもっとも古い歴史のある道具の一つ。石製の頭部に木の柄をつけて振り下ろす遠心力は、大きな力を生み出します。あるときは力強さの象徴として、あるときは武器としても使われたでしょう。しかし、森を切り開き、木を住まいの材料とした時代には、生活になくてはならない道具でした。

 私たち日本人は長い間、木を材料とする家で暮してきました。そんな暮らしの最初の一歩で使われる道具が、「斧=ヨキ」だと言うことができます。石器と鉄器の違いはありますが、その形や大きさにはほとんど違いがありません。原始的な道具というよりも、理に適った理想的な道具。「さくま郷土遺産保存館」で、「石斧」と「ヨキ」を、もう一度見比べてみてください。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
 ●「さくま郷土遺産保存館」は、山の暮らしや文化を…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階には…
 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
 ●「天竜川」ですか?「天龍川」ですか?…
 ●岡谷市教育委員会は26日…
 ●「さくま郷土遺産保存館」には「三信遠鹿うち神事分布図」なるものが…
 ●少し前までの日本では、既製服とは別に、ミシンを踏んで…
 ●葛飾北斎の描く「冨嶽三十六景 遠江山中」―巨大な材木に乗って…
 ●以前、この「耳寄りブログ」の記事の中で…「さくま郷土遺産保存館」で見た…
 ●昭和8年の三信鉄道の折に発掘された「半場(はんば)遺跡」からは…
 ●あなたは、鍬(くわ)について考えてみたことがありますか?…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階は「佐久間のあけぼの」コーナー…
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 ●かつての佐久間の農耕は「焼畑」が中心。山を焼く時には…
 ●旧暦(陰暦)10月、全国の八百万(やおよろず)の神様が打ち合わせのため出雲大社に…
 ●「綱場(つなば)」という言葉をご存知ですか?「綱場」とは…
 ●昨日は「杉落葉」の利用法を紹介しましたが、今回は「杉皮」―杉の樹皮の利用です…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の壁に「狼のお札」が…
 ●「釜の神様のお帰り(十一月朔日)」―釜の神に供えたツトの柿を…
 ●「筏(「いかだ)」について書いたばかりですが、「さくま郷土遺産保存館」で…
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2008年9月12日 (金)

「みむろ」ですか?「おむろ」ですか?

Omuro  佐久間の「御室屋敷」の読み方について、人により「みむろ」とも「おむろ」とも読まれているようです。「みむろ」だと信じていたのに「おむろ」なの?どちらが正しいのでしょうか?苗字は、もちろん「みむろ」と読んで正解ですよね?ただし、呼称は?

 ネットでこんな問題を見つけました。

  Q.仁和寺のかつての別名「御室」。「御室仁和寺」と、まるで接頭語のように用いることも多いですが、何と読むでしょうか?

〈1〉おんむろ 〈2〉おむろ 〈3〉ごむろ 〈4〉みむろ

 A.答えは「〈2〉おむろ」。「御室桜」でも有名な仁和寺ですが、この寺院は宇多天皇が息子の醍醐天皇に譲位した後、出家して入ったお寺なのです。それゆえに僧房を意味する「室」に御を付けて「御室」と呼ばれるようになりました。「御室」にかつて本社を置いていた旧立石電機は、まず「オムロン」というブランド名をつけ、1990年に社名としました。

 「御室」=「神の降りてくる場所」。結局は「おむろ」とも「みむろ」とも読むようで、「御室」だけでなく「三室」と書くこともあるようです。地元の人たちの間で「おむろ」と呼ぶ人が多い理由は、「何でか分からん」とのこと。ただ、佐久間には他にも「御室(みむろ)」さんがいらっしゃるようですし、「三室(みむろ)」さんもいらっしゃいます。おそらく、本家、あるいは「御室」一族の象徴としての屋敷に敬意を表する意味で、他と分けて「おむろ」と呼ぶようになったのではないでしょうか?

 【参考】御室家の始祖は、後醍醐天皇の皇子宗良親王に従った御室民部卿藤原光資といわれ、慶長19年、元和元年の大阪冬夏の陣に出陣した記録も残る。江戸時代には佐久間村の名主を代々勤め、屋敷は長屋門を持つ堂々とした構えで、石垣もすばらしく、戦国砦のような趣を残している。(浜松市生活文化部生涯学習課・編集「北遠の城」より)

 ●「御室屋敷長屋門」は、正面中央に両開きの…
 ●「御室屋敷」の土蔵の腰から下には、「なまこ壁」…
 ●山香地区に立つ「御室屋敷」の有形文化財「長屋門」…
 【関連記事】「乳金物」についてもう少し…
 【関連記事】遠州街並み遺産 Vol.41「御室屋敷の長屋門―構えに名主の風格」
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2008年9月11日 (木)

佐久間で出土した「管玉」や「ガラスの小玉」

Kudadama  「さくま郷土遺産保存館」の2階は「佐久間のあけぼの」コーナー。石斧などの石器に交じり、弥生時代のものと思われる「管玉」や「ガラスの小玉」の展示を見つけました。ともに紐を穴に通して使う装飾品ですが、当時としては大変貴重なものだったはずです。おそらく、交易によって他地域よりもたらされたものと思われますが、気になるのはその対価です。一体、何で支払ったというのでしょうか?

 弥生時代には、稲作が伝えられています。稲作が可能な地でしたら、米と交換に装飾品を手に入れることができます。しかし、佐久間の山里では焼畑耕作はできても、稲作ができそうな土地はありません。食糧は狩猟や漁業でも得ていたのかもしれませんが、誰が何のために何と交換することで、これらをこの山里の地に残すことになったのでしょうか?

 この「?」を考えてみるだけでも、「さくま郷土遺産保存館」を訪ねる価値があります。観覧料は大人150円、中人(高校生)100円、小人(中学生以下)無料。午前9時~午後4時開館。休館日は月曜日、祝日の翌日、12月29日~翌年1月3日。電話053-965-1585。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
 ●「さくま郷土遺産保存館」は、山の暮らしや文化を…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階には…
 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
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2008年9月10日 (水)

「佐久間」では、すぐ隣りに神がいる

Koushin  「庚申(かのえさる)」は、十干十二支に基づき60日ごとに巡って来ます。「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」がおなじみの十二支なら、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」が十干と呼ばれるもの。10と12の倍数ですので、一回りするのに60日。年に当てはまれば60年となり、これが「還暦」です。大正13年8月1日に開設された野球場が、「甲子(きのえね)」にちなんで「甲子園」と名付けられたのは有名な話です。

 60日ごとに巡って来る庚申の夜、私たちの体の中に住み着いている三尸(さんし)の虫が体から抜け出し、天帝に、その人が犯した罪を告げ口し、その結果、寿命が削られるとかで、「眠ずに夜を明かせば、三尸の虫も出て来れまい」と言うのが「庚申信仰」です。

 「庚申信仰」の対象となるのが、「青面金剛(しょうめんこんごう)」。頭にドクロをいただき、腕が4本または6本。それぞれの手には、三叉戟(さんさげき)・法輪・剣・弓矢などいろんな武器を持っています。

 石に彫られた「青面金剛」は、時代を経て風化が進み、もとの姿を留めているのが難しくなっています。写真は、城西地区・芋堀で見つけたもの。6本の腕と法輪がかろうじて分かります。苔むした足元には「三猿」が彫られていたような…。佐久間の山里では、私たちのすぐ隣りに神さまがいるような気がしました。

 ●「庚申(こうしん)塔」と呼ばれる石塔が見られます。ここに彫られている像は…
 ●十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん=かのえさる)の夜に…
 【関連記事】「庚申仏」が掲げる「法輪」って何?
 【関連記事】三猿が彫られた向市場の「庚申塔」
 【関連記事】「青面金剛」に髪の毛を鷲掴みされる「ショケラ」
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 【関連記事】芸者さんたちが手を合わせた水窪の「庚申様」
 ●水窪の竜戸(りゅうと)集落の祠の中、他の石仏たちと並び、庚申の本尊「青面金剛」石像が2基祀られていました…

2008年9月 9日 (火)

木の根を切断する「唐鍬」

 Touguwajpg あなたは、鍬(くわ)について考えてみたことがありますか?鍬の役割は、まず「溝や穴を掘る」。次に「土寄せ」をする、「畝を作る」「根菜類を収穫する」「草や堆肥を鋤き込む」「草や木の根を切る」など、あの鍬1本でできる仕事はたくさんあり、農作業には欠くことのできない道具です。一般的には刃と呼ばれる金属部と木製の柄とでできています。

 私は、三方原台地を開墾した入植者の子孫になります。独特の赤土と呼ばれる粘り気の強い土を耕すには、「三本鍬」と呼ばれる「備中鍬」を使っていました。備中鍬は刃床部の分岐したもので、歯の数は3本のものと4本のものとがあるようですが、私が使っていたものは、すべて3本刃のもの。やや、細身で軽いものと、幅広で重いものとがあり、刃先はもちろん火入れがされていました。私にとって「くわ」と言えば、この「備中鍬」のこと。刃と刃の間に石ころが挟まる欠点がありますが、「平鍬」に比べて軽く、刃が細いため、小さな力でも深く打ち込むことができます。

 ただし、まだ土が固くて木の根などの残っている場合には「唐鍬(とうぐわ)」を使いました。形は「平鍬」に似ていますが、「唐鍬」は刃を厚く大振りに作ってあります。刃床部は曲面で、その幅が狭く、肉が厚く、堅牢。開墾や根の切断に用いられ、我が家ではタケノコ掘りには「唐鍬」を使っていました。名前に「唐」が付いていますので、もともと中国か朝鮮半島から伝えられた鍬だろうと思いますが、おそらく日本人の使いやすいように改良され、現在に至っているのでしょう。私たちは「とぐわ」と呼んでいましたけどね。(*ラクダさんの「浜松に合併した北遠の言葉」によれば、地元では「トーガ」と呼んでいたようです)。

 「さくま郷土遺産保存館」には、少し小振りの「唐鍬」ばかりが並んでいました。柄も私が使っていたものと比べると短めで、刃と柄との角度が小さくなっていましたので、木の根の多く残る山間地の焼畑に向いた鍬なのかも知れません。ただし、佐久間では「唐鍬」しか使わないのかと思うと、西渡(にしど)の「片桐鍛冶店」には新品の「備中鍬」が並んでいました。

 そう言えば、ほかにも、「鋤簾(じょれん)」に似た「かっさらい」と呼ぶ「草取り鍬」や、「ほぐせ」と呼ぶ「草取り金具」も重宝しましたが、これらは方言でしょうか?

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
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2008年9月 8日 (月)

昔の農家は住居+仕事場「民俗文化伝承館」

Dsc00475  北条(ほうじ)峠にある「佐久間民俗文化伝承館」は、江戸末期に建てられた和山間(わさんま)の種間家の住宅を移築したとのこと。室内には、今では使われなくなった懐かしい民具が数多く展示され、ちょっとした古民具博物館になっていますが、それだけでなく、古民家自体が山里の文化を伝えてくれています。

 玄関をくぐると土間があり、向かって右側の現在厨房として使っているところが厩(うまや)でした。向かって左側の間取りは田の字。普段は障子や襖、板戸で仕切られましたが、冠婚葬祭などの人寄せの際には開け放して広間として使えるようになっている典型的な農家の作りです。

 その昔には、土間で藁を打ち、縄をない、囲炉裏の周りでは蕎麦を挽きました。今では物置として使われている屋根裏では蚕(かいこ)を飼い、縁側では糸を繰り、機(はた)を織りました。昔の農家の住宅は、大家族の住居でありながら、仕事場でもあったのです。

 『峠そば処』は、「野田やまびこ会」により土・日・祝日のみ営業。電話053‐987‐1888。

 ●むかし、南野田と羽ケ庄の境にあるホウジ峠の近くの山に…
 ●「杣人の会」の会員研修ドライブで、佐久間の「北条峠(ほうじとうげ)」に…
 ●佐久間「北条峠(ほうじとうげ)」から戻って…
 ●①まず、お米を洗いざるに入れて乾かしておきます…
 ●以前、「北条(ほうじ)峠の名前の由来について…
 ●この地の昔をよく知る方から、「北条(ほうじ)峠は、悲しい別れの峠…
 ●「民俗文化伝承館」は浦川地区和山間(わさんま)の…
 ●佐久間では、初めて見るものいっぱい…
 ●北条(ほうじ)峠の民俗文化伝承館は、浦川地区和山間(わさんま)の…
 ●「民俗文化伝承館」の座敷と縁側を隔てるものは…
 ●「民俗文化伝承館」は、江戸末期に建てられた古民家を…
 ●「は~い、軒に集まって!カブトムシを配るよ~」…
 【関連記事】「大八車」と「轍(わだち)」
 ●3月初めは暦の上では厄日だったため、お祓いのために…
 【関連記事】「朝じゃ(茶の子)」「朝めし」「昼めし」「夕じゃ」「夕はん」―1日6食
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2008年9月 7日 (日)

「大八車」と「轍(わだち)」

Dscf0014  突然ですが、道路交通法で言われる「軽車両」とは…

 ●自転車(三輪以上のもの、側車付きのもの、電動アシスト自転車も含む。小児用の三輪車などは含まない)
 ●荷車(大八車、リヤカー、屋台など人が引くもの)
 ●そり(馬車、牛車など動物によって引かれるもの)
 ●牛・馬・象などの動物(ただし人が乗って運転している場合のみ軽車両という扱いになり、自転車・馬などから下りて引いている場合などは歩行者の扱いになります)

 …となっているようです。へ~?

 Wadachi…と言うことは、「夜間無灯火」「信号無視」だけにとどまらず、「携帯電話を使用しながらの運転」「飲酒運転」なども、違反になるのでしょうか?「お祭りの屋台も?」「厳密に言えば…」「お酒を飲みながら引っ張ってはダメ?」「…」。

 「民俗文化伝承館」の外に、大型の荷車「大八車」が立てかけてありました。たくさんの荷物を乗せて、幾度となく佐久間の山道を引かれたものだと思われます。車輪も含めてすべて木製(*ただし、車軸や車輪の周りには一部鉄が使われています)。重い荷物を乗せた荷車の車輪が、長い年月を経て、山道にくっきりと轍(わだち)を残しました。

 旧佐久間町の閉町記念誌のタイトル『轍(わだち)』は、そんな山里の49年間の歴史や自然を記録に残すために編纂されました。表紙の写真は、「八丁坂」に刻まれ今も残る歴史の証人―「轍」です。A4、100㌻。

 ● 「浜」とは海岸の浜と同じように、天竜川の川端の呼び名…
 ●「塩の道・八丁坂」を知らせる標識の横に、たくさんの白い小さな花が…
 ●天竜川にも船が往来し、さまざまな物資が運ばれていたころ…
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2008年9月 6日 (土)

別れの「二本杉」

Sugi_01Sugi_02 「別れの一本杉」
  (作詩 高野公男  作曲 船村 徹)

1 泣けた 泣けた
  堪えきれずに 泣けたっけ
  あの娘(こ)と別れた 哀しさに
  山のかけすも 啼いていた
  一本杉の 石の地蔵さんのヨ
  村はずれ

2 遠い 遠い
  想い出しても 遠い空
  必ず東京へ 着いたなら
  便りおくれと 云った娘(ひと)
  りんごのような 赤い頬っぺたのヨ
  あの涙

3 呼んで 呼んで
  そっと月夜にゃ 呼んでみた
  嫁にもゆかずに この俺の
  帰りひたすら 待っている
  あの娘はいくつ とうに二十(はたち)はヨ
  過ぎたろに

 春日八郎が歌った名曲です。ご存知の人も多いのでは…?田舎から都会に向けての「集団就職」という言葉があった時代の歌です。多分、中学を卒業してすぐに東京に向かったのでしょう。その後、故郷に帰ることもなく、見送ってくれた女性のことを思い出しているのです。見送ってくれた女性も、きっと当時は中学生。淡い初恋の思い出ですね。

 佐久間の「二本杉峠」にも悲しい別れの歴史があったことは、すでにお伝えしたとおり。親子の別れ、恋人との別れ…。全国には「一本杉峠」もあれば「二本杉峠」もあります。それぞれの峠で、それぞれの数え切れない別れがあったことでしょう。しかしヒット曲の「別れ」ともなれば、「二本杉」よりも「一本杉」の方が、「馬頭観音」よりも「地蔵さん」の方が似合いだったようです。

 絵は、家紋になっている「丸に一本杉」と「丸に二本杉」です。もちろん「三本杉」だってありますよ。

 ついでに懐かしいエピソードを一つ。1985年、あの豪腕・江夏豊の引退式は「一本杉公園野球場」(東京都多摩市)で執り行われました。もちろん、この名曲『別れの一本杉』に引っ掛けてのことです。

 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線を佐久間からホウジ峠に向かう途中の峠…
 ●佐久間の山には、「峠」と付く地名がたくさんあります…
 【関連記事】北条峠と二本杉峠は北遠の「野麦峠」
 ●佐久間から野田に通ずる道に、二本杉峠という峠があります…
 【関連記事】遠州佐久間の二本杉ごろじ、信濃こいしと葉を返す♪
 ●佐久間には「原田橋」が2本あります。1本は国道473号…
 【関連記事】二本杉峠に育つ「シラカンバ」
 【関連記事】「二本杉峠の大杉」伐採の図
 ●県道290号水窪羽ヶ庄佐久間線、通称「二本杉峠新道」は、原田久吉翁の寄付金によって…
 【関連記事】「二本杉峠新道碑」除幕式の思い出

2008年9月 5日 (金)

佐久間の民話「落城物語 若子城」

 永禄3年3月の頃、奥山能登守の守る城に信州遠山氏が攻め込んできました。

 能登守は信じられませんでした。妻は、遠山の和田河内守より嫁いだ者であり、息子奥山民部少輔貞益の嫁は遠山氏の娘であるからです。

 能登守は、すでに隠居の身であったことから、わずかな家来しかなく、たちまち屋敷は遠山氏にとり囲まれてしまいました。

 家来の多くは、勇敢に立ち向かっていきましたが、ことごとく討ち死にしてしまい、能登守は自らの刃で一命を落としました。

 能登守の命令で、のろしを上げに登った家来も先回りされた遠山勢に討たれ、本城、高根城に急をつげることはかないませんでした。

 高根城主である奥山民部少貞益は、この日熊村の奥山将監の所に出向いていました。そのことを知っていた奥山美濃守定茂は遠山氏と図り、この挙に出たのでした。

 思いもよらない弟美濃守と妻の実家の遠山氏の城攻めに、驚きと信じがたさによって、城中はあわてふためき、城を守るのに大わらわでした。

 美濃守と遠山勢は城中へ火を放ちました。奥方と子供は家来に守られて脱出しましたが、逃げのびる途中、敵に見つけられ、池の平でその命を奪われてしまいました。

 勝ちほこった美濃守と遠山勢は、高根城の出城である奥山加賀守の大洞若子城に押し寄せました。加賀守は家来と共に必死に戦いましたが、山尾根をつたって、山中深く逃げかくれてしまいました。(「浜松だいすきネット」より)

   ◆       ◆       ◆       ◆

 奥山能登守には4人の息子たちがいましたが、兄弟それぞれが領内を分割して独立築城。その頃、今川氏の勢力が減退し、西からは新興の徳川家康が、北からは強豪の武田信玄が北遠を窺うようになっていました。特に武田方の北遠に対する動きは活発で、「兄弟は他人の始まり」の言葉の通り、兄弟は今川の陣にとどまるものと、武田につく者とに別れてしまいました。これが「悲劇」のもと。戦国時代のドラマは、現代にも通じるものがあります。

 ●難読地名その2です。城西地区に「向皆外(むかがいと)」という地名があります…
 ●以前、「向皆外(むかがいと)」の地名について、次のように…
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2008年9月 4日 (木)

「浦川歌舞伎」の定期公演は9月27日

Kabuki  「出雲阿国(いずものおくに)」が「歌舞伎」の原型とも言われる「ややこ踊り」を始めたのが天正9年(1581)。慶長8年(1603)には北野天満宮で興行を行い、同年に御所でも「かぶき踊り」を演じたとのことで、その爆発的な人気の広がりがうかがわれます。その後、幾多の変遷を経て、現在の「歌舞伎」が定着するのですが、それと同時に、全国に地芝居(素人歌舞伎・農村歌舞伎)がが発生したと考えられます。

 全国に保存伝承されている地芝居は約160団体とか。そのうち約20団体がこの三遠南信地域に集中していることが、偶然だとはとても思えません。つまり、他地域に勝る人々の盛んな交流により民俗芸能が伝播したのと同じように、娯楽としての「歌舞伎」も広まり、互いに情報を交換することにより芸の質もより高められたのだろうと想像します。多くは、江戸や大阪の舞台など観たこともない人々の集落に、一体誰が、どのように伝え、教えたのか分からないものですが、浦川歌舞伎だけは、安政5年(1858)に浦川に没した「尾上栄三郎」の関係によるものとの伝承が鮮明である点で、希少価値が高いものとなっています。

 「浦川歌舞伎」の定期公演は、9月27日(土)17:00開場、18:00開演。昨年より会場が変更になり、旧浦川中学校体育館で開催されます。今年は第20回。演目は、第一幕、「元禄忠臣蔵 南部坂雪の別れの場」、第二幕、小学生による演目で「弁天娘女男白浪 稲瀬川勢揃の場」、第三幕「御所桜堀川夜討 弁慶上使の場」の予定。入場無料。

 NPO法人「がんばらまいか佐久間」が企画した体験交流事業「浦川歌舞伎の鑑賞」も開かれます。こちらは、歌舞伎の説明+「歌舞伎弁当」付きで参加費4,000円。あらかじめ申し出れば、化粧など楽屋での写真撮影もできるとのこと。定員30名で、申し込み受付中。申し込み、問い合わせは、電話053-965-1100かEメールで「がんばらまいか佐久間」事務局まで。

 ●「広報はままつ」2008年2月8日号に「歌舞伎ではぐくむ、三遠南信交流」と題する特集が…
 ●浦川郵便局の風景印はこれ!浦川歌舞伎を期待して…
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『船を出すのなら九月』

 山香地区にあり、明光寺の北にそびえるのが愛宕山(801㍍)。山の名前は「平成の名水100選」に認定された「阿多古川」と同じように、「愛宕信仰」に由来するのは明らかなところです。

 「愛宕」と言えば京都の愛宕神社に発祥し、「秋葉」と同じく火防(ひぶせ)の信仰。もちろん、火防は万人の願うところです。しかも、「水田」ではなく「焼畑」を耕作の中心としていた佐久間では、ことさら火防は重要な信仰であったことは容易に想像がつきます。しかし、佐久間の「愛宕山」の名前は、果たしてそれだけだったのでしょうか?

 佐久間と言えばすでにお話した通り、「芋堀(いもほり)」の地名からも推察できる鉱石採掘の地。「久根鉱山」以前から、山砂鉄を原料とした製鉄の技術者たちが住み着いていた地だと考えられます。製鉄には「火」が欠かせません。「鋳物師(いもじ)」たちは、木炭を起こした「火」に文字通り「たたら」を踏んで風を送り、高温の炉で鉱石を溶かし、鉄を取り出しました。「鋳物師」にも「鍛冶(かじ)」にも、火は欠かせないアイテムです。そこで、「秋葉神社」のすぐ隣りであるにもかかわらず、「愛宕」の名前が山に冠されたのではないでしょうか?

 これもすでにお話し済みにはなりますが、「横吹」「福沢」の「ふき、ふく」も「たたら」と関係のある地名です。さらに想像力を働かせれば、「日余(ひよ)」の「日」は「火」を意味し、「余」は「代=工程」のことを表すとすれば、製鉄の「火を使う工程」の意味だったと考えることができないでしょうか?また「舟代(ふなよ)」の「舟」を「鉄穴流し」という工程の水流の早さを調節するための池のこと、「代=工程」だと考えれば、「舟代」は製鉄の「水を使う工程」の意味になります。どうですか?考え過ぎかな?

 「舟代」の「舟」の意味が、水上交通の「舟」の意味でもなさそうだし、谷地形を表しているとも思えませんでしたので、ついこんなことを考えてしましました。今日は9月4日―この項を読むときのBGMは、懐かしい中島みゆきの『船を出すのなら九月』でお願いします。

詳しい地図で見る

 ●「芋掘長者」というお話をご存知ですか?…

2008年9月 3日 (水)

「渡らずの鉄橋」を行く飯田線

 飯田線の「渡らずの鉄橋」は、「城西」~「向市場」間に架けられた鉄道ファンに人気の鉄橋。佐久間ダム建設に伴う線路付け替え時に、中央構造線による断層を避けるために生まれたルートで、川の上に線路は張り出してくるものの対岸へは渡らず、またもとの岸へ戻ってしまいます。

 渡りそうですが、渡らないので「渡らずの鉄橋」。映像では、列車は「向市場」を出て「城西」に向かい、長短3つのトンネルを抜けて約1分50秒後から「渡らずの鉄橋」に差し掛かります。先方に対岸の家並が見え、いかにも渡りそうなんですが、ここで左にターン。約25秒ほどでまたもとの岸へと戻り、何ごともなかったかのように「城西」駅に滑り込みます。2007年5月の撮影ですので、沿線の満開のツツジも彩を添えています。先頭車両からのビュー。さあ、とくとご覧ください。

 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道博物館…
 ●トロッコファミリー号について調べてみました…
 ●初代新幹線「0系」や「湘南カラー」と呼ばれるオレンジと深緑の列車など…
 ●「渡らずの鉄橋」とは、もちろん通称。正式には「第6水窪川橋梁」と言います…
 ●出馬 - 上市場 - 浦川 - 早瀬 - 下川合 - 中部天竜 - 佐久間 - 相月 - 城西…
 ●2006年、惜しまれながら営業運転を終了したトロッコ列車「ファミリー号」の…
 ●「峯トンネル」は飯田線で2番目に長いトンネル…
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 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道車両博物館で…
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2008年9月 2日 (火)

「中部(なかべ)」は天竜川に囲まれた地形

 以前、「JR飯田線『中部天竜』駅の変遷」の項で…

 先ずは「佐久間」の名称で呼ばれました。1935(昭和10)年5月24日には、地元「中部(なかっぺ)」の名を取り「中部(なかっぺ)天竜」と改称されましたが、国鉄に変わる時に「ちゅうぶてんりゅう」と再度改称されたのだそうです。

 …と書いたことがあります。地域名はかつては「なかっぺ」と読み、現在では「なかべ」と読んでいます。しかし、気になるのは、なぜ「ちゅうぶ」ではなく、「なかっぺ」であり「なかべ」なのかです。

 「角川日本地名大辞典22静岡県」で、「中部」の項を見つけました。古い資料では「中辺(なかべ)」とも。

 天竜川とその支流大千瀬川が合流し大きく蛇行する左岸の河岸段丘に位置する。地名の由来は、天竜川に囲まれた中島状の地形による(風土記伝)。

 …とありました。なるほど、東区の「中野町=中ノ町」みたい感じだと分かり、納得しました。

 1983年初夏の「中部天竜」駅付近の画像と言われるものを見つけました。当時の辺りの様子がよく分かりますのでお楽しみください。

 ●浜松市天竜区佐久間町のJR飯田線中部天竜駅構内にある鉄道博物館…
 ●トロッコファミリー号について調べてみました…
 ●初代新幹線「0系」や「湘南カラー」と呼ばれるオレンジと深緑の列車など…
 ●「渡らずの鉄橋」とは、もちろん通称。正式には「第6水窪川橋梁」と言います…
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2008年9月 1日 (月)

「半場(はんば)」の地名は橋場の意味

 Ishiono 昭和8年の三信鉄道の折に発掘された「半場(はんば)遺跡」からは、縄文時代のものと推定される住居跡のほか、約400点にのぼる石斧や60点に近い石棒・石剣類が見つかっています。「さくま郷土遺産保存館」の2階には、これらの発掘品が多数展示されています。

 ところで、「半場=はんば」とは、不思議な地名だと思いませんか?「角川日本地名大辞典22静岡県」によれば…

 橋羽ともいう(風土記伝)。地名の由来は、天竜川対岸中部(なかべ)村との橋場だったことによる。

 …となっています。そうか、「半場」は「橋場」だったんですね。架橋がまだ珍しかった時代には、「橋」は大きな目印。そのため、全国には「橋」の付く地名がたくさん残っています。

 そうだ!東区天龍川町にも「橋羽(はしば)」があったっけ。「橋羽郵便局」やバス停にその名が残っていますが、気になりましたので東区役所に聞いてみたところ、「町名」ではなく「字名」との返事。木橋か舟橋かは分かりませんが、橋が架けられていたことは確かでしょう。

 「半場」は「橋場」の意味でした。決して「飯場」の意味ではありませんし、「ハンバーグ」や「ハンバーガー」とも関係はありません。

2008年8月31日 (日)

「平沢遺跡」の住居跡

Hirasawaiseki_2  以前、この「耳寄りブログ」の記事の中で…

 「さくま郷土遺産保存館」で見た石器類の中には「黒曜石」が見つかりませんでした

 …と書いたことがあり、交易ルートの確立に「?」をつけたことがありました。

 Yajiri ところが、最近見つけた資料の「平沢遺跡」の項に…

 弥生時代後期の集落跡。(中略)土器のほか、石錘・砥石・石製紡錘車や管玉・ガラス小玉・垂玉の玉類、鉄鍬らしい鉄片なども発見されている。土器などから信州地方との交流もみられる。

 …と書かれていました。それなら、先の「?」は考え過ぎだったことになります。写真は「さくま郷土遺産保存館」に展示されている航空写真(中部日本新聞社撮影)。住居数件が集落を作り、柱跡もはっきりと残っています。「石錘」は漁具のものでしょう。「砥石」があったということは「鉄器」が使われていたということです。「紡錘車」は糸を紡ぐもの。当時の暮らしぶりに想像が膨らみます。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
 ●「さくま郷土遺産保存館」は、山の暮らしや文化を…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階には…
 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
 ●「天竜川」ですか?「天龍川」ですか?…
 ●岡谷市教育委員会は26日…
 ●「さくま郷土遺産保存館」には「三信遠鹿うち神事分布図」なるものが…
 ●少し前までの日本では、既製服とは別に、ミシンを踏んで…
 ●葛飾北斎の描く「冨嶽三十六景 遠江山中」―巨大な材木に乗って…
 ●昭和8年の三信鉄道の折に発掘された「半場(はんば)遺跡」からは…
 ●あなたは、鍬(くわ)について考えてみたことがありますか?…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階は「佐久間のあけぼの」コーナー…
 ●「さくま郷土遺産保存館」第4コーナー「ふる里の歳時記」の…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の第2コーナー「天竜美林を育てた人々」には…
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 ●かつての佐久間の農耕は「焼畑」が中心。山を焼く時には…
 ●旧暦(陰暦)10月、全国の八百万(やおよろず)の神様が打ち合わせのため出雲大社に…
 ●「綱場(つなば)」という言葉をご存知ですか?「綱場」とは…
 ●昨日は「杉落葉」の利用法を紹介しましたが、今回は「杉皮」―杉の樹皮の利用です…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の壁に「狼のお札」が…
 ●「釜の神様のお帰り(十一月朔日)」―釜の神に供えたツトの柿を…
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2008年8月30日 (土)

「大鋸=おが」は製材に使われました

  Fugaku017_2 葛飾北斎の描く「冨嶽三十六景 遠江山中」―巨大な材木に乗って上から、あるいは材木の下から大きな鋸(のこぎり)を挽く木挽き職人。鋸の目立てをする職人と覗き込む女房。一体、この「遠江山中」とは一体どこなのでしょうか?富士が見える「山中」とは、掛川の日坂辺りではないか言われています。モチーフは、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の「近世職人尽絵詞」から引用したものとのことですので、真実は蕙斎に聞いてみないことには分からないのかも知れません。

大鋸(おが) この木挽き作業で、寸分の狂いもない板を伐り出すのは、高い技術と良い道具が欠かせません。「さくま郷土遺産保存館」の壁一面、写真のような大きな鋸がびっしりと展示されていました。この鋸は、「前引大鋸」(まえびきおが)―製材用の縦挽き鋸です。北斎の版画で職人たちが使っている大鋸は、おそらく同様のものと思われます。佐久間でも、丸太のままで出荷するだけでなく、木挽き=製材が盛んに行われていたことが伺われます。ちなみに鋸屑のことを『おが屑』『おが粉』と呼んでいるのは、大鋸(おが)で挽いた時にできる切屑だから。これは、物知りの友人から聞いた話です。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
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2008年8月29日 (金)

佐久間に残された「かいと」の地名

 以前、「向皆外(むかがいと)」の地名について、次のように書いたことがありました。

 「かいと」という音には、「海土」「貝戸」「谷戸」「垣内」など、いろんな漢字が当てられていますが、どうやら「開墾した土地」を示しているらしいのです。

 「角川日本地名大辞典22静岡県」(昭和57年10月発行)の中に、今は失われてしまったもの含め、佐久間の「小字」名が収録されています。実に興味深い資料で、カタカナ表記の地名も多く収録されていますので、かなり入念に拾われたものと思われます。驚いたことに「かいと」の付く「小字」名が、「向皆外」以外にもたくさんあったことを知りましたので、紹介することにします。

 【浦川】上垣外、下垣外、中垣外、早瀬垣外
 【半場】ラマ皆外、大皆外、上皆外
 【佐久間】北皆外、下皆外、前皆外、セト皆外、大皆外、上皆外、平名皆外、中皆外、小皆外、内皆外、ヒカゲ皆外、丸皆外、軒皆外
 【大井】大皆外、前皆外、河内皆外、向皆外、日向皆外、長皆外、越皆外、久保皆外、ホツ皆外、横皆外、西皆外、荒井皆外、梶皆外、窪皆外、セリ西皆外、皆外中、上皆外
 【戸口】酒屋皆外、西皆外、横皆外、茴刈皆外、屋峯皆外、上皆外、皆外皆外、内皆外、上手皆外、軒皆外
 【相月】上皆外、皆外、マキタ皆外、長皆外、西皆外、岩皆外、、北皆外、中皆外、皆外平
 【奥領家】向皆外、上皆外、中皆外、東皆外、下皆外、日向皆外

 あまりにも多くて、見落としがあるかも知れません。同じ地区で、同じ「小字」名のものは、本当は別の集落なのかも知れませんが、この中からは抜きました。正確な読みも分かりません。それでも、こんなにたくさんの「かいと=皆外、垣外」があったとは…。現在も残っている集落がどれほどあるのか知れませんが、木を伐り山を焼き、佐久間の焼畑が広がる度に次々と柵で囲まれて行った歴史が、この「かいと」の地名に残されているような気がします。

 *ラクダさんの「浜松に合併した北遠の言葉」によれば、地元では「畑」のことを「かいと」「がいと」と呼んでいるようです。

 ●難読地名その2です。城西地区に「向皆外(むかいいと)」という地名があります…
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2008年8月26日 (火)

「がけ崩れ注意」の看板

Caution  断層が集中していて地質構造も脆弱であり、岩石も破砕されているので地震時の崩壊には十分注意を要する。降雨に対しても脆弱な地盤であるので、地形を変える場合には事前調査を行い十分な注意を払う必要がある。。(「静岡県地震防災センター」ホームページより)

 Rakuseki 地震にしろ大雨にしろ、「佐久間」にとっては、もっともな注意です。佐久間ではあちらこちらで、写真のような「がけ崩れ注意」の「危険箇所指定看板」を見ました。写真の看板が立っていたのは、山香地区、その名も「落井」(*写真をクリックすると拡大されて「落井」の文字が読めます)。崩落地名のような感じもしますが、さて、どうでしょうか?

 最近の集中豪雨は想像を超えた時間雨量を計測しています。雨上がりの道路には、大きな石が転がっていることもあります。事故や災害に備え、とにかく注意をすることに越したはありません。

 「落井」の意味が、字の通り「水が垂れて湧き出る様子を表した地名」であればいいのですが…。

 【関連記事】あっちにも、こっちにも「落石注意」の交通標識
 【関連記事】「落石注意」―北遠の道路は注意が必要

2008年8月25日 (月)

これが「クロツバメシジミ」が食べる「ツメレンゲ」

Tumerenge2 Tumerennge2  太平洋を望む土佐清水市の断崖(だんがい)絶壁。岩場のあちこちで、猫のしっぽのような「ツメレンゲ」が初冬の風に揺れている。

 ベンケイソウ科の植物で、高さ10㌢前後。関東以西、四国、九州で山地や海岸の岩場などに見られるが、乱獲で自生地は減少傾向にあるという。この時季、小さな白い花が上に向かって順番に開花。獣のつめの形をした多肉質の葉が重なり合うさまを、蓮華(れんげ)に見立てたのが名前の由来だ。

 このツメレンゲの葉を食べるのが、チョウのクロツバメシジミの幼虫。環境省はこの双方を準絶滅危惧(きぐ)種に指定している。

 四万十市生涯学習課の杉村和男さんによると、ツメレンゲは3年以上も生きる多年草だが、開花、結実すると枯死する特異な性質を持つ。このため、開花した株を採って移植しても無駄だという。花は今月末ごろまでが見ごろ。(2006年12月2日付「高知新聞」より)

 「ツメレンゲ」は、ベンケイソウ科特有の多肉質の葉を持っています。葉先が尖っていて獣の爪のようだというので、この名が付けられたのだそうです。山地の岩や屋根の上などに生える多年草。山野草の愛好家にも好まれるようで、その数を減らしてしまいました。クロツバメシジミの食草として知られ、 幼虫は葉肉内にもぐり込み、皮だけを残して食べ尽くすのだそうです。

 佐久間には、この「ツメレンゲ」が自生しているとのこと。「ツメレンゲ」と「クロツバメシジミ」を守るためには、今以上に良い自然環境が維持される必要があります。

 ●6月20日(金)午後2時ごろ佐久間高校プール南側の…
 【関連記事】佐久間高でファーブルセミナー 受講者ら故郷の自然“再発見”
 ●「クロツバメシジミ」の幼虫が食べるという「ツメレンゲ」…
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 ●気になっていた佐久間の「爪蓮華(ツメレンゲ)」に花が咲きました…
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 ●環境省指定の準絶滅危惧種「ツメレンゲ」。実は、佐久間の…
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 ●ツメレンゲ、ツメレンゲ…。絶滅危惧種の珍蝶「クロツバメシジミ」の食草「ツメレンゲ」…
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2008年8月24日 (日)

「胸突き八丁」が続く「八丁坂」

 Hachouzaka 西渡(にしど)から明光寺峠へと続く「八丁坂」―「丁(町)」とは尺貫法の長さの単位です。いろいろの変遷がありましたが、1891年のメートル法加入後には、1丁≒109.09㍍とされましたので、それを元に計算すると「八丁」は1㌔弱の距離となります。でも、「八丁坂」の「八丁」が、正確な長さを表しているわけではないことは想像がつきます。

 「八丁堀」「八丁浜」などを見てみると、そこそこの距離を漠然と表しているようです。「八丁味噌」とは、「家康生誕の岡崎城より西へ八丁はなれた八町村、ここにて当家の始祖・久右ヱ門勝久が味噌の仕込みを始めたのが、八丁味噌の起こりと伝えられています」(「合資会社 八丁味噌」のホームページより)とのこと。「胸突き八丁」という言葉は、「山登りのきつい難所」「富士山の頂上付近の険しい道」から転じ、何かを成し遂げようとする時の正念場の意味。急な上り坂が続く「八丁坂」の「八丁」とは、この解釈が一番近いのではないでしょうか?

 とにかく、険しい「八丁坂」。この坂を「浜しょい」さんたちは、重い荷物を背負って登っていったなんて…。

 ちなみに、山や畑の話をしていると、尺貫法の面積単位が出てきます。「さて、どのくらいの広さなのか?」と疑問に思ったことはありませんか?この際、勉強しておいてください。「1町歩の間伐が終った」と言うと3000坪なんです。ちなみに1町歩は約1㌶になります。長さの「丁(町)」と区別するため、「町歩」と言われることが多いようです。

坪≒3.3㎡
畝(せ、ほ)=30坪
反(段)=10畝(300坪)
町歩=100畝(10反・3000坪)

 ● 「浜」とは海岸の浜と同じように、天竜川の川端の呼び名…
 ●「塩の道・八丁坂」を知らせる標識の横に、たくさんの白い小さな花が…
 ●天竜川にも船が往来し、さまざまな物資が運ばれていたころ…
 ●「浜背負い」と呼ばれる女性たちが、荷揚げされた米や塩などを背負い子に…
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 ●「塩の道」は、「八丁坂」を登り「明光寺峠」を越して…
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2008年8月22日 (金)

薪に使うための「木を拾う」

 Ryuboku 「片桐鍛冶店」の片桐さんから聞いた話。片桐さんが小学生だった頃、目の前の天竜川の中でも流れが速いと言われていた「戸口の瀬」と言われる場所を、一人で泳いで下ったのだそうです。それを岸から見ていた女性が、「子どもが流されている」と勘違いし、大騒ぎに。騒ぎの方は、真相が分かり一件落着したのですが…。気になったのは、その女性のことです。

 女性は「川を流れてくる木を拾っていた」と話してくれました。「木を拾う」―何気ない一言でしたが、光景が目に浮かんできました。きっと上流からよどみに流れ着いた小枝や流木を、川岸から手を伸ばし、手や袖を濡らしながら引き上げていたのでしょう。台所での煮炊きや風呂を沸かすには、薪は欠かせない燃料です。燃料の薪に使う木を拾うのは、大切な仕事でした。

 ガスや電気を使う現代の「文化的生活」では、スイッチの操作だけで湯が沸きます。マッチを擦ることができない子どもたちも多いと聞きます。みんなが望んで進んで来た道ですが、果たして本当にこれで良かったのでしょうか?最近の「地球温暖化」の話題の中では、「木質バイオマス」という言葉がキーワードとなってたびたび登場します。「チップ」「ペレット」「バイオエタノール」…。私たち日本人が薪や木炭を燃料としていた時代は、そんなに昔のことではありません。つい、数10年前までは、井戸水を汲み、薪で煮炊きをしていたのです。少しだけ、あの時代に戻ってみたくはありませんか?「木を拾う」―私たちは、大切な何かを、時代の流れの中に忘れて来てしまったようです。

2008年8月21日 (木)

「遠山谷南部の民俗」刊行 飯田市の地域史研究報告

Minzokuhoukokusyo  飯田市が市内各地域で民俗調査をする地域史研究事業の第3次報告書「遠山谷南部の民俗」が刊行された。同市南信濃の和田、八重河内、南和田地区で1年がかりで行った聞き取り調査などの成果をまとめた。

 遠山谷南部では、2006年9月から近畿大名誉教授で伊那民俗学研究所長の野本寛一さんの指導で調査が始まった。同研究所員16人が現地に入り、昨年7月まで250人近い住人(話者)から伝承の聞き取りなどをした。

 野本さんが「環境と民俗」のテーマで▽遠山谷の農耕環境と馬をめぐる民俗▽植物の利用▽景観と信仰-などを話者の口述を随所に織り込んで詳細に記述している。

 このほか、同様の手法でそれぞれの担当者が▽社会組織▽生業▽衣・食・住▽人生儀礼▽年中行事▽神社と祭り・芸能▽民間信仰▽和田商店街の変遷-などをつづり、全15章。

 研究所員の桜井弘人・市美術博物館学芸員は「多くの高齢者などから聞き取った貴重な伝承が盛り込まれ、内容の濃い報告書になった」と話す。

 A4判、462㌻。1冊2000円で一般頒布もする。

 刊行に合わせた報告会は31日に南信濃自治振興センターで、9月23日に飯田市美術博物館で開く。(「中日新聞」より)

 R152号沿い、相月・下日余(しもひよ)の喫茶「Don」に寄ってみました。水道ではなく湧水を使っているというアイスコーヒーをいただきながら、マスターの坂口さんとおしゃべり。「南信濃の『かぐらの湯』まで車で1時間半。飯田までだって2時間。遠いと思ったことはないね」と話していました。もちろん、昔は車なんてありませんでしたので、日帰りでの往来はなかったでしょうけど、だからこそ逆に、文化の伝播がされ易かったのではないでしょうか?天竜川沿いの民俗は、三遠南信でまとめていただきたいテーマですね。

 「カケス」「シジュウカラ」「ヤマガラ」「メジロ」などの野鳥や、タヌキ、サルなどが店の周りに出没するそうです。野鳥は、手の平から餌をついばむこともあるとか。「また、寄ってよ」と、『だいすき みさくぼ』のパンフレットと「かぐらの湯」の割引券をいただきました。「なるほど。佐久間まで来れば、南信はすぐそこ」と感じさせられました。

やまんばの愛した「一心滝」

Isshintaki  「今からおよそ一千年ほど前、やまんばはこの一心滝を中心に左側の倉木山から右側の福沢の里の山を駆け回っていました。

 機織が好きなやまんばは、この一帯に生えている藤づるの皮を細かく裂いて、一心滝上流からの流れにさらしたり、滝壺で行水したり…」

 R152号を水窪に向かい、「龍頭橋」手前を右折。少し車を走らせると左側に見えてきます。ここが、やまんばの愛した「一心滝」。水量は少なめで、やまんばの荒々しさよりも、むしろ優しささえ感じさせてくれる滝です。

 7月28日、NPO法人「天竜川・杣人の会」の環境教室「民話とホウジ峠で結ぶ北遠の森林(もり)」で、「やまんばの会」の高橋淳子さんが話してくれた佐久間の民話「やまんば物語」を聞いた子が、「やまんばって、もういないんだよねえ?死んだんだよねえ?」と今でも聞いてくるそうです。「焼いた石を食べさせて、油を飲ませたんだよねえ?」と、お話をよく覚えているとのことで、「やまんばが、かわいそう…」とも。その気持ちをいつまでも忘れずに持ち続けてくださいね。

 「福沢オートキャンプ場」までは、あと少し。キャンプ場は全15区画。ヤマメかアマゴのつかみ取りもできるとのこと。オートサイトは3,000円、フリーサイトは2,000円。その他、シャワー料金として1人100円(使っても、使わなくても)が必要です。お問合せは電話053-964-0436まで。

 ●今から千年ほど前のお話です。和泉から福沢へ行く途中の倉木山の山奥に「やまんば」が…
 ●『さくま昔ばなし』(佐久間町教育委員会編集)の中では、佐久間の民話「やまんば物語」…
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 ●全国各地に残された言い伝えによれば、「山姥(やまんば)」は…
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 ●明光寺の山で見た「子生石(こうみたわ)」については…
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城西郵便局の風景印は「渡らずの鉄橋」

Hagaki015  以前から、ぜひ入手したいと思っていた「風景印」が、これです。城西郵便局の「風景印」は、飯田線の人気ポイント―「渡らずの鉄橋」。分かりやすい図柄でしょう?ついでに、郵便局の局員さんとお話をしてきました。

 「ねえ、芋堀の『ほり』は土へんでしょう?」「そうそう」「遠鉄のバス停は手へんになっていましたよ」「へ~、気がつかなかったなあ。間違いだね」。

 「地元では、佐久間の御室屋敷は『おむろ』と呼ぶんだよ」「『みむろ』じゃあないんですか?」「同じ字を書く御室(みむろ)さんは、相月にも数軒あるから、そこと区別するために『おむろ』って呼んでいるんじゃあないかなあ?」「三室(みむろ)さんもあるんですって?」「『おむろ』屋敷の周りには、御室(みむろ)さんもあるし三室(みむろ)さんもあるね。屋敷にゆかりのある家だろうな」。

 「苗字と言えば、浦川には変わった苗字が多いよね。御手洗(みたらい)さんとか釣竿(つりざお)さんとか…」「以前、ラジオで聴いたことがあったような…」「それで有名になったんだよ。それぞれ言われはあるらしいけど」。

 「はい。スタンプがきれいに押せたよ」と、渡してくれました。「少し、曲がってない?」「鉄橋が曲がってるから、そう見えるだけ」。そうかなあ?少し右下がりになっているみたいですけど、気のせいでしょうか?

 ●「渡らずの鉄橋」とは、もちろん通称。正式には「第6水窪川橋梁」と言います…
 ● 「遠州大念仏」は、遠州地方の郷土芸能のひとつで…
 ●先日、中区・上島郵便局の「風景印」について書きましたが…
 ●飯田線の「渡らずの鉄橋」は、「城西」~「向市場」間に架けられた…
 【関連記事】「渡らずの鉄橋」を望む「城西大橋」
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 【関連記事】上から、下から…「渡らずの鉄橋」
 ●『広報はままつ』(4月5日号全市版)の表紙写真は「渡らずの鉄橋」…

 ●「御室屋敷長屋門」は、正面中央に両開きの…
 ●「御室屋敷」の土蔵の腰から下には、「なまこ壁」…
 ●山香地区に立つ「御室屋敷」の有形文化財「長屋門」…
 ●佐久間の「御室屋敷」の読み方について、人により…

2008年8月20日 (水)

「戸」のつく地名あちこち

 「角川古語大辞典」によれば「戸」とは、

 ① 出入り口
 ② 山と山とが迫って門のようになっている地形の所
 ③ 岸と岸とが迫って門のようになっている地形の所
 ④ 出入り口・門・窓などに建てるもの

 中区の「木戸」には、浜松城下への入り口「外木戸」が設けられていたとのことで④の意味。青森県の「戸(へ)」地名も④の「柵戸」の意味です。「江戸」の「戸」は①の意味―「江の入り口」と言われています。

 佐久間の「戸」地名の多くは、山と山と言うよりも、おそらく「瀬戸」が代表する③の意味。「瀬戸」のほかにも、「仙戸」「戸口」「舟戸」「岩井戸」など、山香地区に集中して点在します。「西渡(にしど)」の「渡」は渡船場の意味かと思いますが、もしかしたら「西戸=西の入り口」の①の意味だったのかも知れません。

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2008年8月19日 (火)

神社に供える火「献灯」

 Sinzengata Kasugatourou 路傍に建つ「秋葉山常夜灯(燈)」も灯籠なら、神社や寺院に建つ一対の「献灯(燈)」もまた灯籠。起源は仏に灯火(ともしび)を供えたのが始まりと見られ、わが国に伝えられたのも仏教の伝来の同時期と考えられています。
 
 奈良時代を経て平安時代になると、寺院への「献灯」だけでなく、神社への「献灯」にも灯籠が用いられるようになりました。やがて、茶道の確立につれて照明+添景のために建てられるようになり、装飾としての灯籠は、「雪見型」「織部型」「利休型」…など、いろいろなデザインを生みました。

 私たちが「献灯」として良く見かけるのは、「神前型」と呼ばれ、上から見ると宝珠以外が四角形のものです。写真の灯籠は、「馬背神社」(左)のものと、その隣りにある「天白神社」(右)の「献灯」。「馬背神社」の「献灯」は「神前型」ですが、「天白神社」のそれは、宝珠と丸い竿以外は六角形になっていて「春日型」と呼ばれる種類です。火袋は神社の方を照らすように配置され、背面に春日大社の神使である鹿の浮き彫りが施されています。

 刻字はともに「馬背神社」「天白神社」と神社名になっていますが、ただ「献燈」「奉献」とか「常夜燈」とかのみを刻したものもあり、特に決まりはないようです。

 ●「馬背(ませ)神社」は佐久間地区佐久間。延元年間(1336~1340)の創建…
 ●役(えん)の行者は、「修験道」の開祖…
 ●神社にある「御神木」―神社が先でしょうか?それとも…
 ●「馬背神社」の境内には矢場も作れていて、「金的中」(きんてきちゅう)と書かれた額も…

 【関連記事】秋葉山常夜燈―城西地区「芋堀」
 ●佐久間町浦川で、秋葉山の常夜燈を見つけました…
 ●浦川地区川上で、秋葉山常夜灯を見つけました…
 ●「新宮池」に到着する最後のコーナー。「和泉平(いずみだいら)」の道路脇と茶畑の中に一対の石灯籠が…
 ●春野町勝坂、赤い吊り橋「勝坂橋」を渡りきったところに立つ「常夜燈」…
 【関連記事】「左あきは道」―「瑞雲院」の常夜燈
 ●春野町領家和田之谷の天王社の石段の途中、少し崩れかけた秋葉山の「常夜燈」が…
 【関連記事】「弘化5年」に建てられた「秋葉山常夜燈」
 ●春野町平木の路傍に建つ常夜燈。火袋下の中台、右から左に「御大典紀念」…
 ●春野町豊岡植田(うえった)の高台に鎮座する「八幡神社」の石段脇にある常夜燈が…
 【関連記事】気田川の流れを見つめ続けた野尻の常夜燈
 【関連記事】川根から続く秋葉道―田河内の常夜燈
 ●「秋葉山常夜燈」、春野町砂川(いさがわ)の東(ひがし)の茶畑で出会いました…

2008年8月17日 (日)

水を司る神=貴船神社

 Kibune 「貴船神社」の祭神はタカオカミノカミ―「水を司り給ふ」神といわれています。静岡県西部には20社があり、天竜川流域に多く祀られています。

 「貴船」の「船」からの連想から、磐田市掛塚の「貴船神社」は江戸時代の回船業者の崇敬を集めていました。ところが、祭神「タカオカミノカミ」の「オカミ」の字は、「=雨かんむりの下に口を三つ並べ、その下に龍」と書きます。「貴船神社」が水運や回船だけでなく、水神や龍神信仰と深い関わりのあることは、この文字からも伺うことができます。

 「水を司る」とは、雨を降らせたり止ませたりだけではありません。一旦降った雨を地中にしっかりと蓄えて、少しずつ適量を地表に湧き出させていく働き全体を指します。降った雨を地中に蓄えるのは、大地にしっかりと根を張った樹木の役割で、樹木の生い茂る水源の地こそ、水を司るタカオカミノカミが祀られるのに最もふさわしい場所というわけです。「貴船」の語源は「木生嶺」「木生根」だともいわれ、佐久間・大井の「貴船神社」は、ぴったりの場所に鎮座しています。

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 ●山香地区・大井の「貴船神社」に詣でました…
 ●大井の「貴船神社」に由緒書きの高札が建っていました…

2008年8月13日 (水)

「旧暦」と「月遅れ」

 Syouryouuma2_2 Dainenbutsu2 現在、都市部ではお盆を新暦の7月15日にしますが、佐久間をはじめ田舎(?)では「月遅れ」の8月15日にしているところが多いですね?「 月遅れ」とはいったいどうしてできたのでしょう?

 明治の改暦までは、日本の行事は「旧暦=太陰太陽暦」で行われていました。ところが、「新暦=グレゴリオ太陽暦)に当てはめようとすると、季節感がズレるものが出てきました。「旧暦」と「新暦」の誤差は約1カ月。そこで、行事の日程を1カ月遅らせて行うものができ、これを「月遅れ」と呼ぶようになりました。

 8月15日は「旧盆」―しかし、「旧暦」のお盆ではありません。正しくは「月遅れ」のお盆と言うべきところです。お盆には、ご先祖さまが楽に帰ってこられるように、キュウリやナスで「精霊馬(しょうりょううま)」を作ったりもします。となると、現在のように夏野菜の収穫時期が早くなれば問題ありませんが、以前の7月15日では少し早過ぎるところもあったことでしょう。「精霊流し」などの水に関連した行事も、7月よりは8月の方が合っていたのでしょうね。

 佐久間の中部(なかべ)には、新盆の家々が手に手に松明(たいまつ)をかざし、河原に出てお盆飾りを流す「お施餓鬼」の行事が残っているとのこと。もちろん、今でのことですから、川下には回収係が待機しているのだそうです。

 今や「旧暦」で行われるのは「旧正月」くらいなもので、「月遅れ」となると「七夕」や「ひな祭り」なども行われている地域があります。星空を眺める「七夕」行事は、「新暦」だと梅雨の時期だし「月遅れ」でも月齢がまちまちになるし、本来なら「旧暦」で催すのがベストです。「旧暦」や「月遅れ」を「そんなの、時代遅れ」と切り捨てるのではなく、もう一度、暮らしの中で見直してみるのも良いのではないでしょうか?

2008年8月12日 (火)

「庚申塔」は「青面金剛」

 Koushin 「庚申(こうしん)塔」と呼ばれる石塔が見られます。ここに彫られている像は「青面金剛(しょうめんこんごう)」。佐久間の「圓通寺(おそらく『えんつうじ』とお読みするのだと思います)」で見つけたものは、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿を踏まえた「青面金剛童子」のお姿です。さて、「庚申信仰」とは、どんなものだったのでしょうか?

 私が子どもだった頃、父は「今日はオコウシンサマだ」と言って出かけ、あくる朝まで戻って来ませんでした。もちろん、その頃には「オコウシンサマ」の字も意味も分かりません。ただ、夜明かしの行事だということだけは知っていました。

 私たちの体の中には、三尸(さんし)の虫がいて、庚申(かのえさる)の夜、人間が眠ったあと、体から抜け出し天帝に、その人が犯した罪を告げ口するのだそうです。その結果、寿命が削られるとかで、だったら「眠ずに夜を明かせば、三尸の虫も出て来れまい」と言うのが「庚申信仰」。どうやら昔から、「告げ口されて困るような悪い行いなんてしていない!」と言い切れる人はいなかったようです。

 おそらく本来は、こんなに単純なことではなかったのでしょう。しかし本音では、テレビも娯楽もない時代、何だかんだと理由をつけて夜明かしで飲食雑談をしたのではないでしょうか?「青面金剛」と「庚申」の関係も分かりませんし、仏教と関係があるのかどうかも分かりません。三尸の虫の話は中国の道教から来ているとのことです。それにしても、未だに「庚申」行事が続けられている地区があるのでしょうか? 

2008年8月10日 (日)

日本列島誕生のドラマを語る「緑色片岩」

Ryukushokuhengan  「中央構造線」とは日本最大の逆断層。高い圧力や発生した熱により、堆積岩や火山岩だったものが、もとの岩石とは異なった鉱物組成や組織に変化した岩石を「変成岩」と言います。しかも、その変成作用が広域で行われた場合には「広域変成岩」に変わります。

  「中央構造線」の露頭では、水窪の領家からその名を取った「領家変成帯」と、「三波川(さんばがわ)変成帯」が接しているところを見ることができます。内側が白亜紀に高温低圧型変成を受けた「領家変成帯」で、外側が低温高圧型変成を受けた「三波川変成帯」。

 まあ、難しい話はさて置いて、「緑色片岩」は「三波川変成帯」を代表する「変成岩」の一種。写真は、飯田線「中部天竜(ちゅうぶてんりゅう)」駅、「佐久間レールパーク」寄りのネットの前に展示されているものです。大きな圧力が加わり、硬いはずの岩石が形を変えた様子を見て取ることができます。まるで、柔らかくなったチョコレートみたい。静かに耳を傾ければ、日本列島誕生の壮大なドラマを、この緑色の石が語ってくれます。ぜひ、お立ち寄りください。

 ●佐久間周辺には、中央構造線による断層によって作られた…
 ●中央構造線を境に東側には三波川帯の…
 ●この「佐久間耳寄りブログ」で私が「火山」と書くと…
 ●佐久間を横切る「中央構造線」は、日本最大級の断層…
 ●緑色の岩石が薄くペラペラ剥がれて崩れ…

2008年8月 9日 (土)

「城西(しろにし)」は「若子城」の西?

Shiro1_4  昨晩「2008北京オリンピック」の開会式が開かれました。オリンピックが開かれている「北京」は「方角+京」。誰もが知っているように「北の都」の意味です。これに対して、中国の「南の都」は「南京」。「東の都」の「東京」に対して、「京都」のことを「西京」と呼んだことがあるらしく「西京味噌」や「西京漬け」はこの時代の名残りだとか。室町時代には山口を「西の京都」の意味で「西京」と呼んだこともあるらしく「西京銀行」などがその名残りとなっています。現在、「西京区」と言えば京都の西寄りの位置です。(*ちなみに、私が青春時代を過ごした金沢のことを「北の都」と呼んでいました。)

 「方角+城」の地名も各地に残っています。これらはおおむね「城」を中心としてどちらの方角にあるかを地名にしたケースです。浜松市中区の「城北(じょうほく)」は「浜松城」の北。全国には「城南(じょうなん)」「城東(じょうとう)」「城西(じょうさい)」とありますが、佐久間にある「城西」は「しろにし」と読みます。

 では、「城西(しろにし)地区」とは、何城の西に位置しているのでしょうか?

 地図で見ると「城西」は、向皆外(むかがいと)にあったとされる「若子城(わかごじょう)」の西に位置しています。浜松市生涯学習課編集の『北遠の城』によれば、「若子城」は水窪川と大洞沢に囲まれた要害の地にあり、南北朝時代の築造だと言われています。「若子城」に伝わるお話は後日に譲りますが、「城西地区」はまさに「若子城」の西。ただし「静岡県地名大辞典」によれば、「相月(あいづき)と「奥領家」が合併して「城西村」を名乗った明治36年には、すでに「若子城」は遺構が残っているだけだったはず。住民の間で、どの程度「若子城」が記憶されていたのかについては、少しばかり疑問が残ります。もしかしたら、もしかしたら、少し北にあった本城、「高根城」の西の意味だったのかも知れません。

 今日、8月9日、環境教室『民話とホウジ峠で結ぶ北遠の森林(もり)』のステージ2で佐久間に出かけます。「龍王滝」と「機織淵」に寄り、「民俗文化伝承館」で食事。城西地区を通って帰ってきます。

 ●難読地名その2です。城西地区に「向皆外(むかがいと)」という地名があります…
 ●以前、「向皆外(むかがいと)」の地名について、次のように…
 【関連記事】佐久間の民話「落城物語 若子城」
 ●佐久間町城西地区・向皆戸(むかがいと)の「若子城址」の丸太看板は…
 ●「城ブーム」の中、気軽に近づける「若子城」の人気が…
 【関連記事】「広報はままつ」(天竜区版)歴史探訪―若子城跡
 【関連記事】初版・さくま昔ばなし「若子城顛末記」より

「金的中」の奉納額

Kintekichu_2  「馬背神社」の境内には矢場も作れていて、「金的中」(きんてきちゅう)と書かれた額も奉納されていました。三河、遠江は、弓道の盛んな地域。神社で弓を射るという儀式も、江戸時代から綿々と続いているようです。「金的」とは、金色の紙を張った小さな的のこと。見事「金的」を射落とした者だけが額を奉納することができます。私の祖父も弓をやっていましたので、実家にも祖父が射た「金的」があり、自慢話を聞かされました。

 そこから転じて、「大きな目当てや目標を達成する」ことを「金的を射止める」と言うようになりました。「中」とは「中(あた)る」という意味。「命中」や「中毒」「熱中」の「中」も同じです。

 佐久間神社にも弓道場があり、やはり「金的中」の額が奉納されていましたが、数も少なく日付も昭和の後半のものでした。

 そうそう、佐久間出身の名投手・江川卓氏の弟の名前も「中(あたる)」でしたね。昨年の紅白歌合戦に出た中村中も「中(あたる)」です。

 北京オリンピックが開幕しました。さあ、最初の「金(メダル)的中」を達成できる日本選手は、誰でしょうか?ガンバレ!にっぽん!

 ●「馬背(ませ)神社」は佐久間地区佐久間。延元年間(1336~1340)の創建…
 ●役(えん)の行者は、「修験道」の開祖…
 ●神社にある「御神木」―神社が先でしょうか?それとも…
 ●路傍に建つ「秋葉山常夜灯(燈)」も灯籠なら、神社や寺院に建つ一対…

2008年8月 8日 (金)

「トンネル」と「洞門」の違いは?

Hokidoumon  以前、「隧道(ずいどう)」と「トンネル」について書いたことがありました。さて、今度は「洞門」です。

 「洞」を辞書で調べると「うつろ、うろ」などと読ませ、「中がからになっていること。あるいは、そのようなもの。樹木にできた空洞。ほら穴」などの意味になっています。「大洞峡(おおぼらきょう)」の「洞(ほら)」もこの字。「洞門(どうもん)」となると、つまり「トンネル」のことらしいですが…。

 菊池寛の「恩讐の彼方に」で有名な大分県の「青の洞門」。箱根駅伝の名所「函嶺(かんれい)洞門」。その共通点は、「明り取り」です。ともに、がけ崩れの危険箇所に作られたトンネルで、崩れた土砂の下敷きにならないように庇屋根を付けた構造の建造物になっていますので、岩場の反対側には「明り取り」が付けられています。

 どうやら、「トンネル」と「洞門」の違いは、この「明り取り」の有無のようです。佐久間から中部(なかべ)に向う途中に「ほき洞門」がありますが、写真のような「明り取り」が付いています。この「洞門」を抜けると、道の山側でたくさんの石仏が出迎えてくれます。交通事故防止には、十分な注意を払ってください。 

 ●北遠など山間地域などをドライブしていて思うこと…
 【関連記事】「大地野隧道」を抜けると「夏冷沢」?
 ●県道389号水窪森線「小石間隧道」は、トンネルの途中に退避所が…
 【関連記事】短いトンネルランキング第4位「岩井戸隧道」
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 ●前回は2月に通った「岩井戸隧道」を、もう一度…
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クネクネと曲がっているから、「久根」?

 「道がクネクネと曲がりくねっているから、『久根』?」―佐久間に出かけるたびにいつも考えてしまいます。

 でも、道がクネクネしているのって、佐久間では取り立てて特徴的なことではありませんし、そんなことで地名が付くとは思えません。じゃあ、「くね」って何よ?

 「くね」とは「地境」の意味だそうです。そこから、農家の樹木囲いなどを「居久根(いぐね)」と呼ぶ地域もあり、「久根」の付く地名も全国にあります。佐久間の「久根」は「佐久間村」と「山香村」の「地境」を指す地名ではないでしょうか?

 「山香村」は、昭和31年(1956)佐久間町・浦川町・城西村と合併し、「佐久間町」となりましたが、「山香」の地名は平安時代にはすでに記録されており、現在の「山香地区」よりももっと広域だったようですが、「久根」は「山香地区」。隣りの集落「片和瀬(かたわせ)」は「佐久間地区」。どうやら、その「地境」がちょうど「久根」の辺りのようです。

 ●山香地区大井の「山香ふるさと村」に寄ってみました…
 ●明治初年まで「片和瀬鉱山」と呼ばれた「久根鉱山」の始まりは…
 ●国道473号から天竜川方面を見晴らすと、「久根鉱山」選鉱所跡が…
 ●佐久間の「大鏡山明光寺」境内で、「じん肺物故者慰霊碑」を見つけました…
 ●「久根鉱山」での、鉱石採掘は昭和45年(1970)まで続き…
 【関連記事】農業や山仕事を捨てて働く―「久根鉱山」
 ●かつて「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されて…
 ●佐久間町西渡で「久根鉱山」の沿革に関する資料と「鉱業所の全景」の写しを…
 【関連記事】「久根鉱山」の「名合支山」とは?
 【関連記事】あの頃の写真が語る「久根鉱山」
 ●久根の鉱石を満載して天竜川を下ったのは「鉱石船」と呼ばれる帆掛船…
 【関連記事】帆掛け舟の連なる壮観―「鉱石船」

2008年8月 7日 (木)

8月7日、月遅れの「七夕」に思うこと

 Tsuru 少し前までの日本では、既製服とは別に、ミシンを踏んで服に仕立てるなど、どこの家庭でも見かけたお茶の間の風景。さらにもう少しだけさかのぼれば、自分で糸を紡ぎ、布を織り、その布を縫って着物にしていたのです。製糸や紡績が産業化される前ですので、実はそんなに昔のことではありません。

 布を織る技術は、稲作の技術などともに朝鮮半島から伝えられました。それまでの日本の布と言えば、ムシロを作るように錘(おもり)を使って編んでいましたので、たいへん手間がかかりました。このように編む布には、太さや強度、長さが不揃いの糸でも布を作ることができるという利点があるのですが、太さや強さが均一な糸さえあれば、編むより織る方が、きれいに早くできます。これが「編む」と「織る」の違いであり、これが「織る」が布作りの主流になった理由です。あの「鶴の恩返し」も「機織り」ですね。

 今日は月遅れの「七夕」―私が子どもの頃には、8月7日に七夕飾りを飾ったことがありました。佐久間でも地域によっては8月に色紙や短冊が売れるとのことですので、月遅れの「七夕」が行われているようです。

Tanabata  「七夕」はお盆を迎えるための準備と言う意味から「七夕盆」とも呼ばれるそうです。着物を供えたり、着替えたり、晴着を着る習俗が各地に残っているとのこと。「七夕」と「機織り」との深い関係が彷彿されます。「帯と着物を盆の上に載せ、キュウリ・ささげ・ナスなどを祭った」(佐久間・戸口)―ネットで見つけた「七夕盆」の風習です。「縁台に赤飯と家で採れたナスやキュウリ、ショウガ等供えます。子供が丈夫に育つようにと浴衣も供えました」(「天竜川・杣人の会」ホームページ「山里のくらしと魅力」)と今村純子会員が書いているのも、同様だと思います。

 家庭での「機織り」はもとより、町工場や紡績工場での「機織り」の音さえも、いつの間にか聴くことができなくなりました。「機織り」が身近にあった時代を、私たちが今一度思い出す日―「七夕」をそんな日と考えて夜空を見上げてください。「七夕」が「星空のロマンス」「天空のラブストーリー」だけだったとしたら、こんなにも長く守られる風習にはならなかったのではないでしょうか?

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2008年8月 6日 (水)

日本サッカー協会のシンボルマーク「八咫烏」

 K_04 通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神(しゅしん)・主祭神(しゅさいじん)、それ以外の神を配神(はいしん)・配祀神(はいししん)・相殿神(あいどのしん)などと言います。

 「馬背神社」は「諏訪神社」だと聞きましたから、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を祀っているのだと思います。その脇には「熊野神社」が、奥には「天白神社」が鎮座しています。そこで、今日は、修験道ゆかりの「熊野神社」の神使(しんし)―「八咫烏(やたがらす、やたのからす)」について調べてみました。

 神武東征の時、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足の烏が「八咫烏」です。「咫(あた)」とは長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18㌢)のことですが、ここでいう「八咫」は単に「大きい」という程度の意味。三本足の鳥の話は、中国やギリシャなど世界各地に伝えられ、太陽と関連づけられていることが多いとのことで、「八咫烏」と符号します。

 やはり神武東征の場面では、金鵄(金色のトビ)も登場します。金鵄は、ナガスネヒコとの戦いで神武天皇を助けたとされ、「八咫烏」と金鵄は、しばしば同一視ないし混同されますが、もちろん、日本サッカー協会のシンボルマークに使われているのは、三本足の「八咫烏」です。

 「ガンバレ!ニッポン!」―「北京オリンピック」サッカー女子1次リーグG組初戦―日本vsニュージーランドは、今日8月6日(水)18:00、男子1次リーグB組初戦―日本vsアメリカは、明日8月7日(木)18:00キック・オフ!

2008年8月 4日 (月)

8月9日に晴れてほしいので「てるてる坊主」を吊るしましょう!

 今週の土曜日(8月9日)、環境教室「民話とホウジ峠で結ぶ北遠の森林(もり)」ステージ2で、佐久間の北条(ほうじ)峠周辺を訪れます。「雨乞い」の記事を書いてしまいましたが、ここはやはり「てるてる坊主」にご登場いただこうと思います。

 「てるてる坊主」とは、日本に昔から伝わる風習。「てるてる法師」「てれてれ坊主」「日和(ひより)坊主」など地域によってさまざまな呼び方がされてきましたが、誰もが知っている童謡『てるてる坊主』(大正10年)以来、この呼び名が定着したようです。紙や布を丸めて作り、軒下などに普通に吊るせば翌日は「晴れ」、もしも逆さに吊るしたり、黒い「てるてる坊主」にすると「雨乞い」になるのだとか。これは「雨乞い」の馬と同じですね。

 「てるてる坊主」の起源は、中国の伝説上の人物「晴娘(チンニャン)」だとか。中国では、北京オリンピックの期間中、雨を降らせない実験をしていましたが、「てるてる坊主」には頼らないのでしょうか?

Teruteru 「てるてる坊主」
作詞/浅原鐘村 作曲/中山晋平

てるてる坊主 てる坊主♪
明日 天気にしておくれ
いつかの夢の 空の様に
晴れたら 金の鈴 あげよ

てるてる坊主 てる坊主♪
明日 天気にしておくれ
私の願いを 聞いたなら
甘いお酒も たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主♪
明日 天気にしておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョンと切るぞ

 3番の歌詞が恐ろしいですね。ちなみに「てるてる坊主」は、吊すときには「へのへのもへじ」を描かず、のっぺらぼうの状態で吊し、見事に晴れれば、そのお礼に目鼻口を入れてお酒を頭からかけ、川に流してあげるのだそうです。

「鹿うち神事」とは?

Sikauchi  「さくま郷土遺産保存館」には「三信遠鹿うち神事分布図」なるものが掲げられていました。「鹿うち神事」?はてさて、これは一体何でしょう?

 昔から、天災とイノシシや鹿など野生動物による農作物の被害は、農民の生活を苦しめるものでした。「鹿うち神事」は藁や木の枝などで形どった鹿を弓矢で射て、害獣被害から逃れようとする農民の信仰から生まれたもので、よく似た神事は九州、沖縄と三遠南信に伝えられているのだそうです。いわSikaryouriゆる「照葉樹林文化」伝播ルートの関係でしょうか?

  三遠南信の中でも、多少の伝承の違いがあるらしく、分布図には8色で色分けされた印が付けられていました。佐久間では今田のところに「鹿ウチ」の印があり、引佐の川名では「シシウチ」となりイノシシを射るようです。神事の様子を記録した古いモノクロ写真が貼ってありました。

 それにしても、鹿による食害は農作物だけでなく、植えたばかりの苗木や杉やヒノキの皮も食べられてしまい、林業への影響も深刻になって来ているようです。イノシシと違って神の使いとも見られる愛くるしい鹿―佐久間には、イノシシだけでなく鹿肉料理を食べさせてくれる店もありました。

 ●さあ、またまた難読地名です。「大嵐」と書いて…
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 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階には…
 ●佐久間に限らず山間地の耕作は「焼畑」が中心…
 ●「天竜川」ですか?「天龍川」ですか?…
 ●岡谷市教育委員会は26日…
 ●少し前までの日本では、既製服とは別に、ミシンを踏んで…
 ●葛飾北斎の描く「冨嶽三十六景 遠江山中」―巨大な材木に乗って…
 ●以前、この「耳寄りブログ」の記事の中で…「さくま郷土遺産保存館」で見た…
 ●昭和8年の三信鉄道の折に発掘された「半場(はんば)遺跡」からは…
 ●あなたは、鍬(くわ)について考えてみたことがありますか?…
 ●「さくま郷土遺産保存館」の2階は「佐久間のあけぼの」コーナー…
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 ●「さくま郷土遺産保存館」の第2コーナー「天竜美林を育てた人々」には…

2008年8月 2日 (土)

「上島キャンプ場」オフシーズンはゴルフ練習場

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 見てください、この景色。こんな自然に囲まれて過ごす極上の時間―「上島(かみじま)キャンプ場」は佐久間高校のすぐ隣りに位置しています。

 浜松市天竜区佐久間町の県立佐久間高(谷野純夫校長)は3日、地元ゴルフ場やプロゴルフ選手の協力でゴルフ教室を行った。3年生対象の学校設定科目「ライフスポーツ」の授業。ゴルフを選択した生徒8人が2学期から週3時間ほどゴルフの練習に励んでいる。

 同日行われた授業では、県ゴルフ場協会の依頼を受けた村上甚プロ(ザ・フォレストカントリークラブ)=森町=が訪れ、グラウンドでスイング練習などを行い、生徒を1人ずつ細かく指導した。その後、学校と隣接する「上島キャンプ場」の中にあるショートコースを回った。

 村上プロから「周囲に気を付けて」「頭が振れないように体の軸をしっかり固定して」とアドバイスを受けた生徒は見る見る腕を上達させ、コースによっては、指定された打数と同じ打数で終えるパーを出す生徒も見られた。生徒はプロの技を間近で見学しながら、ゴルフ特有の緊張感や打った時のそう快感を楽しんだ。

 谷野校長は「生徒は、無料でコースを貸してくださった地元の人たちや、プロ選手の派遣に感謝している。けがや事故のないよう十分気を付けて」と話した。(2007年10月4日付「静岡新聞」より)

 …と言うことは、「上島キャンプ場」内に、ショートコースが…。そうですよね。この写真だって、キャンプ場と言うよりもゴルフ場ですよね。

  実は、オフシーズンはゴルフ練習場になるため、サイトは芝生のキャンプ場です。グリーン上はテントの設営不可ですが、何せ広いので問題ありません。

浦川キャンプ村 浦川 053-967-2611 600人 バンガロー
上島キャンプ場 中部 053-965-0215 150人 バンガロー・オートキャンプ場・鮎つかみ取り
せせらぎ荘バンガロー 出馬 053-967-2723 80人 バンガロー・オートキャンプ場・食堂・鮎つかみ取り
福沢オートキャンプ場 福沢 053-964-0506 15区画 オートキャンプ場・バーベキュー区画

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「屋台」と「花車」は同じですか?

 Kamiichiba 祭りの日に引き回される「屋台」―豪華に飾られていることが多く、祭りの雰囲気を一気に華やかにしてくれる出し物です。4輪のもののほか、御所車を模したような遠州地方独特とも言われる2輪のものもあります。「浜松まつり」の御殿屋台では「屋台」と呼び、私たちは「屋台」と呼ぶのに慣れていますが、「屋台」と言って「露天屋台」のことと勘違いされたことがありませんか?

 佐久間でも、夏祭りの時期を迎えていますが、引き回されるものの呼び方が