11月28日、「緑の募金事業」の一環として間伐材で作ったフラワースタンドを届けるため、佐久間町の浦川小学校を訪れました。校舎の廊下に「浮森の丘に咲く花」の掲示を見つけました。「浮森(うきもり)って何ですか?」。
その「浮森」に関する記述を見つけました。それは暴れ天竜と闘った「矢高濤一(やたかとういち)」に関するもの。校長先生の話の中にも、「縦横に川が流れていたので、この地区が島のように見えた」との説明がありました。以前、そば畑を訪ねた時にも、浦川の洪水の歴史について聞いたことがありました。そこで、「矢高濤一」について、「郷土の発展につくした人々」佐久間町教育委員会/「佐久間町史 下巻」より引用させていただきます。
本州のほぼ中央、海抜759メートルの諏訪湖から太平洋の遠州灘に注ぐ全長213㌔の川、それが天竜川です。その急流ゆえに「暴れ天竜」と呼ばれ、流域に暮らす人々の歴史は水害との闘いでもありました。その流域の村の一つ浦川村(現在の佐久間町)に生まれたのが矢高濤一(やたかとういち)です。人々のために暴れ天竜と闘って現在まで語り継がれてきた人の一人です。
濤一は天保9年(1838)18歳で家督を弟にゆずり、地位も財産も捨てて江戸に向かいました。そこで幕末の剣聖とうたわれた人物の道場で剣道の修行を始めたのです。その後7年間の修行で免許皆伝となり故郷に帰り、安政6年(1859)に39歳で名主(村の最高責任者)になりました。
当時、浦川村は天竜川に注ぐ大千瀬川と、さらにその支流相川が村じゅうを流れ、たびたびの洪水に村は疲弊し、村を捨てる者さえ出ていました。
そのため、濤一は名主となってすぐに水防問題に取りかかりました。藩の援助も受け、不足の分は私財を投じて、総延長520間(約946メートル)におよぶ堤防の新築、修築をしたのです。
しかし、浮森(うきもり)地区の水害だけは、まだ解決されていませんでした。これを是が非でもなくしたい。濤一は決意しました。工事準備に取りかかったのは、明治2年(1869)でした。濤一は、相川が浮森山(うきもりやま)にぶつかる高さ20間(約36メートル)、長さ50間(約91メートル)、幅10間(約18メートル)の鞍部(低くなったところ)を掘り割り、迂回する部分をなくして、川水を直流させようと計画したのです。しかも、干上がった迂回部には掘り出した土砂を埋めて、新田をつくろうという当時としては画期的な大事業です。
現在のようにダイナマイトも、ブルドーザもなく、わずかの鍬、のみ、金てこや荷車ぐらいしかない幕末のことであり、資金についても、貧しい山村の力ではどうすることもできない状態で、あまりの大工事に完成を危ぶむ村人が多かったのです。
濤一は、この計画の許可と資金の援助を願いに見付(磐田)役所に何回も往復しました。こうした奔走によって工事着工のめどが付くようになると、二の足を踏んでいた村人も進んで工事に協力するようになりました。
1年、2年の間は工事は順調に進みました。ところが、3年目に入ると、掘割り部分は次第に岩盤部に入り、工事の進み方は目に見えて遅れてきました。工事の最大の難所にぶつかったのです。
濤一を信じ、ひたすら工事の完成を願っていた村人のなかからあきらめの会話が交わされるようになりました。
濤一は村人を集め、この工事が遠い将来まで村の利益になることを熱心に説き、工事を続けるように頼みました。
また、岩盤を割るためさまざまな苦心を重ね、石を刻んで細工をする経験豊かな専門家たちの意見を取り入れました。火を燃やして岩盤を熱くし、そこに水をかけて急に冷やして割る方法を考え、工事の能率を上げるようにしたのです。
一時動揺を見せた村人も意を強くし、工事も順調にはかどって掘割りは川の形を次第に整えました。この間、濤一は施工者として監督する一方、名主としての役目を務め、暇さえあれば現場に出て、村人とともに働くため、誰からも尊敬されました。
着工以来四年の歳月を費し、浮森山の開削工事は完成しました。相川は流れを変えて、大千瀬川にまっすぐに流れるようになり、浮森地区の水害の心配は少なくなったのです。
また、干上がった旧河道には3町歩(約3ヘクタール)の新田が造成され、この新田は就役した村民70余戸に4畝(約396平方メートル)ずつ分け与えられました。濤一自身は1坪(約3.3平方メートル)も所有しませんでした。(以下略)
…と、これが「浮森」と「矢高濤一」の話。川の流れに浮いているように見えたのが「浮森」と呼ばれる所以だとか。表記は読みやすいように改めさせていただきました。
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