その地下道は、学校への行き帰りに毎日通っているおなじみの道。出入り口の階段を下り、薄暗い角を直角に曲がったところに扉がありました。多分、ずーっとそこにあったのでしょうけど、あまり気にすることもありませんでしたので、健ちゃんは、はっきりとは覚えていませんでした。たとえ見ていたとしても、ペンキの禿げかかった鉄製の扉で、「掃除用具でもしまってあるのだろう」と、ちょっとした物入れくらいにしか思えない何の変哲もないような扉です。でも、その日健ちゃんが見たときには、扉の隙間から、太陽の光らしい明るい光がわずかに漏れていたのです。「あれっ?」と、少し気にはなったのですが、列を作って登校の途中でしたので、自分だけ立ち止まろうとはしませんでした。
その日は、一学期の最後の日。真夏の校庭では校長先生の話も聞いたし、教室に戻ってからは、成績表も渡され、夏休みの宿題もドッサリ。うんざりした気分で、あの扉のことを思い出すどころではありませんでした。
でも、学校からの帰り道、なぜか健ちゃんは一人きりで帰ることになりましたが、あの地下道まで来たときのことです。階段を一段か二段下りかかったとき、サーと涼しい風が健ちゃんを包みました。それどころか、ピーピーと数羽の小鳥がさえずりながら、頭の上を飛びすぎて行ったような気がしました。「お~っと」と、健ちゃんは頭をすくめましたが、とっさのことで何が起きたのか分かりません。
以前から地下道に入った途端、緑の匂いが広がったとか、野ウサギの親子が顔を出したという噂を聞いたことがありました。小川の流れる音が聞こえたという噂もありましたが、耳を澄ましても、上の道路を走りすぎる車のタイヤの音がうるさいだけで、そのことと、今起きていることとが結びつきません。
「どうしたの?何が起きたの?」と、健ちゃん。階段の下まで来たとき、今朝見たあの鉄の扉が、大きく開いているのが分かりました。「え~、嘘~っ!」。扉の向こうに見えたのは、何と緑いっぱいの風景でした。「ここって、どこなの?」恐る恐る、扉の向こうに、一歩足を踏み入れてみました。夏休み前の暑さをすっかり忘れてしまいそうな、緑の香りいっぱいのさわやかな風が、またまた吹きすぎました。物入れだろうと思っていた扉の向こうには、高くて青い空と緑の木々の世界が広がっていました。小鳥のさえずり、小川のせせらぎ、枝や葉のざわめき・・・まるで別世界です。「ねえ?ここはどこ?」。
さらに一歩足を踏み出しました。何と、健ちゃんが顔を出したのは、大きな木の胴にぽっかりと空いた穴でした。「どこ?森?」
健ちゃんが木の穴から出ると、そこは去年の夏、お父さんやお母さんと出かけたキャンプ場によく似た森でした。名前も知らないいろんな種類の木々がたくさん茂り、小川が流れ、小さな池が広がり、「あれあれ?魚も跳ねてる」。
小川のせせらぎの音が聞こえ、枝や葉のざわめきの音が聞こえ、そこは何処から見ても森でした。「あれっ?」でも、少しだけ変なところがあります。木々の枝も、葉っぱも、絵に描いたようにきれいでしたが、どこか変なんです。「何か違うぞ!」と、健ちゃんが気づきました。「この葉っぱって、動いていない」「この枝って、揺れていない」「手だって濡れないし、この水も流れていないぞ」「魚は空中に止まったままだ」。そうです。健ちゃんが見たのは、紙に描かれた森だったのです。誰かが描いた森の絵だったのです。本物そっくりに、いや本物以上に上手に描かれていましたが、それらは全部、絵の具で描かれたニセモノ。「誰が描いているんだろう」と健ちゃん。
その時です。大きな丸まった紙を持って、茶色の野ウサギがやってきました。健ちゃんの姿を見つけると、軽く頭を下げ、「あっ、健ちゃん!忙しいんだから、ちょっと手伝って」と、手伝いの催促です。健ちゃんも、何がなんだか分からないまま、大きな紙の反対の端を持って、広げる手伝いを始めました。この絵では蝶や小鳥が飛んでいます。青空には、真っ白な雲がぽっかりと浮かんでいます。小川の魚は、水に戻って泳いでいます。先に広げてあった紙にぴったりと重ねるように、貼り付けました。
「あっ、健ちゃん、ありがとう」と、ウサギ。「いや、どういたしまして」と健ちゃん。「君は誰?何で僕の名前を知っているの?」と聞いてみました。ウサギは、それには答えず、いそいそと奥の方に行ったかと思うと、またまた丸めた紙を持って、やって来ました。「さあ、健ちゃん、今度はこれ」と、健ちゃんに命令です。健ちゃんは答えも聞けずに、紙の端を持って走りました。今度の絵では、入道雲がモクモクと高く高く昇っています。「そこに、電気のスイッチがあるから、少し暗くして」と、ウサギが言いました。足元に電気のコンセントがたくさん並んでいて、健ちゃんは、その中のいくつかを抜きました。「それじゃあ、暗すぎるよ。忙しいんだから、もっと考えてくれなくっちゃあ」と、丸い目をキョロキョロさせたウサギに叱られてしまいました。
ウサギは、早くも次の絵を広げ始めています。「さあ、引っ張って、引っ張って」。とうとう絵の中では、夕立が降り始め、雷も光り始めました。「そこのスイッチを入れたり切ったりして」と、言われるままにカチカチやると、電気が点いたり消えたりして、本物の稲妻のようです。「シャワーのコックも回して」。今度は雨が降り始めました。「音、音。音を忘れているよ」と、ウサギは大きな太鼓をドンドンドンドドドドドンと叩き始めました。
一体、何が起きたのでしょう。「ねえ、ちょっと待ってよ」と、健ちゃんはウサギを止めました。「うん。でも、今が一番難しいところなんだ。これを広げてからにして」と、ピシャリと言われ、素直な健ちゃんは言われるままに、手伝いました。「わ~、きれい」。今度は、空に大きな虹が架かった絵です。「電気、電気」と、言われ、一つずつコンセントを差し込みました。「そうそう、いい感じ」。空は次第に明るさをまし、七色の虹もだんだんとうすくなっていきました。森の緑は雨に濡れて、キラキラと光っています。雨上がりの森の美しさは、言葉では言い表せないほどです。
「はい、お待たせ。健ちゃんの質問は、何だったっけ?」。「君は、誰?」と、健ちゃんは、もう一度尋ねました。「それは、僕にも分からない。もう何年も前から、この仕事をしているんだ。美しい森を守る、大切な仕事さ」と、ウサギは答えました。「じゃあ、僕の名前をどうして知ってるの?」と、健ちゃん。「だって、去年の夏にキャンプを楽しみに来たじゃない」と、ウサギは答えました。「え~?だって、あれは森だよ?」。「だから、ここが森じゃん」と、ウサギ。
確かに、健ちゃんも、去年の夏に遊んだ森にそっくりだとは思いましたが、でも、キャンプを楽しんだ森へは、車で何時間か走って、やっとたどり着いたのです。こんな地下道の扉から来たわけではありません。「それに池では魚釣りも楽しんだし、夜には枝を集めてキャンプファイアーだってしたんだよ。クワガタ探しもしたし、木登りだってしたんだよ。ここは似ているけど、こんなのって本当の森なんかじゃあないよ」と、大きな声で言いました。ウサギは、ちょっと困ったような顔をして「僕だって、僕なりに一生懸命描いているんだけど、まだあまり上手くないかも知れない。でも、健ちゃんが来たのは、確かに僕の森なんだ」と、ボソボソと話し始めました。
「健ちゃんたちが考えているような本当の森なんて、もう何年も前からどこにもないんだよ。山に行っても、広い道路が作られ、車が走り、木が切り倒され、ダムができ、都会と同じような店が並び、夜も明るい電気がともり、コンビニだってあるんだよ。健ちゃんたちが美しいと感じるような森は、全部、僕の仲間が描いた森なんだ。池や川には魚がいた方がいいだろう?クワガタや蝶が棲む森の方がいいだろう?木の葉がキラキラ輝き、涼しい風が吹き、小鳥がさえずり、きれいな虹だって見たいし、真っ赤な夕焼けだって見たいんだろう?だったら、そんな森は、もうどこにもないんだよ。僕は自分が誰かも知らないけど、この美しい森を守るのが、僕たち仲間の仕事なんだ」と、一気に話しました。
健ちゃんも、ちょっと考えて話しました。「でも、こんなのって本当の森じゃあないよ。こんなことしても、本当の森や自然を守っていることにはならないよ。確かにきれいだけど、空だって雲だって虹だって、君が描いたニセモノだし、木だって魚だって生きてないじゃん。それに、ここは森じゃあなくて、地下道の中じゃん。道路の下じゃん。森なんかじゃあない!」
「じゃあ、本当の森って、どこにあるの?誰が守るの?健ちゃんが、守るの?」ウサギは、長い耳をピクピクさせて話しました。「そ、それは」と、とっさに健ちゃんは答えました。「僕が守るよ。だから君も、自分が誰かを思い出してほしい。よければ僕の友達になってほしい。一緒に森を守ろうよ」。
ウサギは「さあ、そろそろ夕方の準備の時間だよ。健ちゃんも手伝ってくれるね。」と、大きな扇風機を持ち出しました。「そうか。さっきの涼しい風は、この扇風機の風だったんだ」。ウサギが丸めた紙を広げ始めました。健ちゃんも、手伝いました。山が燃えるような真っ赤な夕焼けの空が描かれていました。鳥がねぐらに帰ろうとしています。「それは折り紙?さっき小鳥だと思ったのは、これだったの?風の音も水の音も小鳥のさえずりも、CDなの?緑の香りって、もしかしたら、この芳香剤?やっぱり、これじゃあダメだよ。まるでTVゲームと同じじゃないか。本当の森を、僕たちで守ろう!」と、健ちゃんは決心しました。ウサギも鼻をモグモグさせて小さくうなずきました。
「今日は、これで帰るけど、明日また来るから。いろいろ教えてね」と、健ちゃんが、帰ろうとすると、ウサギが初めてニッコリと笑いました。「うん、森を守るっていうこと。約束だよ」と、ウサギは、ドングリの実を5つ、健ちゃんに渡しました。「森の恵みだね」と、健ちゃんは思いました。「じゃあ、また明日」「うん、じゃあ。ああ、それから、君は野ウサギだよ。それも、かなり可愛い野ウサギだよ。覚えておいてね」。健ちゃんはウサギの手を軽く握りました。
健ちゃんは、木の穴に戻りました。扉を開けると、そこは、いつもの地下道です。健ちゃんは、鉄の扉をきっちりと閉めました。また、いつもの蒸し暑い地下道に逆戻りです。健ちゃんは、絵の世界でもいいから、さっきの森に戻りたいと、少し思いましたが、「でも、あれは本当の森じゃあない」と、思い返しました。「僕は森を守るために、何ができるかを考えるぞ」と、つぶやきました。ふと、手の中を見ると、健ちゃんの手のひらには、ウサギに渡された5つのドングリが確かに握られていました。
その翌日の朝、健ちゃんは、あの地下道にやってきました。階段を下りて、鉄の扉を探しました。でも、どこにも見当たりませんでした。健ちゃんがそこに見つけたのは、一枚の張り紙でした。「健ちゃん、約束を忘れないでね。かなり可愛い野ウサギより」と、書いてありました。健ちゃんは、ドングリの実を握り締めました。ウサギとの約束は必ず守ろう、と思いました。
今年の夏休みも、健ちゃんの家族は、森にキャンプ遊びに出かけました。そこには、地下道にあった、森への扉の中で見たのとそっくりな景色が広がっていました。「いい天気で良かったね」と、お母さんが言いました。健ちゃんには、この後起こりそうなことが何のとなく予測できましたので、「でも、もうじき雨が降って、雷も鳴るよ」と言いました。「えっ?まさか」と、お父さんが言いました。やがて健ちゃんの言った通り、夕立が降って、雨上りにはきれいな虹も架かりました。健ちゃんは、野ウサギのことを思い出しました。「もしかしたら」と、少し不安になった健ちゃんが手を入れてみると、小川にはサラサラと冷たい水が流れていました。「本物だ」池には魚が跳ねています。森の空気を思いっきり深呼吸してみました。「全部本物だよね。まだ、間に合いそうだな」と、ウサギにもらった5個のドングリの実をそっと埋めて、丁寧に土をかけました。山は夕焼けで真っ赤に染まりました。
「約束だもんね」。健ちゃんは、野ウサギとの約束を忘れませんでした。いつか、健ちゃんが埋めたドングリが大きな木に育つでしょう。美しい森は、もっともっと美しくなるでしょう。ウサギと彼の仲間が、必死で守ろうとしていた森が、今、目の前で息づいています。健ちゃんは、画用紙を取り出して、夕焼けの森の絵を描きました。「ウサギさんみたいには、上手く描けないけどね」。絵の右下に、あのウサギも描きました。ちょっと生意気なかなり可愛い野ウサギが笑っています。「よし。僕が、森を守る!」と、健ちゃんは力強くつぶやきました。
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