どんな形態重量のある材も、これらの道具によって自在に処理される ツル・大鳶・木廻し他
エンジンマンは自然と同じ場所に寄る習性か 千頭営林署の現場で 千頭貯木場にて 昭和28年
この巨大木を自信をもって伐採する技能者 天然林(ケヤキ)都沢伐採作業
多くの若者を要した山を見学に訪れた婦人会 当時他の婦人会でも同じことがあったと 都沢 19林班
従事者の誇り高き業務であった
年輪は数百年か千年か 天然桧が数分で切断される
伐採した材を一定の寸法に切断の作業 天然ヒノキ玉切り作業 都沢
これは索道架設に先立ち仮索を飛ばした砲状の特殊器具。現場では単に鉄砲と呼称されており、扱う技術者は資格を要した人格者でもあったときく
搬出された材の山 これは全部原始材。整理し並べた形状を椪(はい)という。篠原貯木場にて 昭和30年
山住神社の例大祭の折か 娘さん(門桁お住み)達と年に1・2度 ロマンもあったかも 門桁の皆さん 昭和23年頃
集材機と称した機器の巻取ドラム。これは二連式であるが三連式のさらに大型機もあった
気田川筋の欅は良質の評価。この材は1,000万円で取引されたときく このけやき材は一本で2.5屯の重量と推定される 篠原貯木場
当時宿舎は飯場と呼ばれ身近な材により簡素に建てられた。飯場は冬期めざめれば粉雪で布団は白くなる時もしばしば
食糧も極度に不足した昭和19年から同21年頃の山の寒さは並でなく異常で、宵に仕掛けた麦飯鍋も朝、石の如く氷りついていた
路線中の難所、降雨による土石流はいつも軌道を覆い森林鉄道はその都度不通に。この対策に軌道上にトンネル状の柵を設置。これをセットという
地上10~15mの高所へ、生木と樅栂を利用、鉄索を架設する 索張り作業
巨大な材もこの一丁のツルで自在に操る男
山に携わる者、山の神とのかかわりは古代から作業に先立ち安全を願い敬虔な祈り 篠原貯木場 昭和21年頃
どんな形状重量の材も彼等の経験や技により整理される 素朴な中にも頼もしい自信の顔 篠原貯木場
集材索により直接軌道車へ積み込む 都沢
当時20才前後の若者も今は80才に近い年齢 山住事業所 昭和25年頃
愛する軌道車と共に 土場の引き込み線で 山住事業所 昭和25年頃
現在、この若者も80才前後 いずこに
浜松営林署の中野町貯木場へ運搬する材で、当時、気田・水窪・浜松の各営林署の材を協同販売を行った
谷(場所)によっては軌道付近に三輪トラックを利用、飯場へ生活物資を搬入 車の名称はジャイアントと記憶 当時人気があった 篠原貯木場 昭和31年頃
自動車道のある場所近くへは自動車で苗木他を運搬 当時営業者は殆どなく自家用で 篠原貯木場
外気温はマイナス10度くらいか 材にも山肌にも粉雪 明神付近 昭和33年
森林鉄道の橋は木橋が大部分で、古い橋は適宜架け替えられた。材は近辺の立木を伐採。すべて勘と経験により架設。ここに設計の資料はなかった 都沢線 塩白沢
地名にふさわしい怖い所 落石、土石流は茶飯事のこと。付近は紅葉は美しく名所に 昭和30年
谷川でも本支流の合流点は川幅も広く、こんな立派な橋も 都沢事業所付近
これを製作出切れば評価高き従事者 この作業台より索に材を集積した 小俣 架線上部盤台
ツルと称する棒状の道具により、どんな材でも操つる自信に満ちた従事者 杉川 玄馬沢
現場の状況によっては索道より直接積み込み 能率はよかった 杉川 玄馬沢付近 積込風景
飯場で食事を担当した婦人を炊さんと呼ぶ 年に2~3回久しぶりで家人の元へ これを下山と呼ぶ 杉川傾成 熊切事業所前
この自信と使命感に満ちた面々に惜しみない拍手をおくりたい 杉川 玄馬沢 架線上部盤台
家族飯場の幼児の遊場ともなった機関車・台車 危険と思うが、さしたるトラブルもなかった 山住事業所 昭和29年頃
スターの如き容貌におどろき 山住事業所 昭和23年頃
門桁集落の東側 桟橋を渡る機関車
機関車(エンジン)の方向転換する装置 山住事業所に設備 昭和33年頃
現場に祭った氏神の例大祭 署の幹部も総参加 神への祈り
30数粁の鉄路には数々の難所 これを通過する勇気の機関車
フロントガラスに「臨時」の文字が 試運転中か
路線の中で最も風景明媚な所 谷間に架かる眼鏡の美は今も健在 機関車は撮影のために揃う
樹齢はかり知れない年月の原始林 他を圧倒する立派さ 篠原貯木場にて
椪積(はいずみ)された原始林材 この多くの材は戦中に崩壊された国土復旧に使用されたものと推定 昭和30年
椪積材に立つ自信の面々 昭和26年
愛車とともに集い 篠原土場にて 昭和23年
昭和21年、復員軍服姿でも若者は希望に輝く顔 篠原貯木場にて